2022年11月19日土曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】5.白い馬に乗っている者とそれに続く者

5.白い馬に乗っている者とそれに続く者

黙示録6章3節から8節まで

1.小羊が第二の封印を解いたとき、赤い馬に乗っている者が出てきた
2.小羊が第三の封印を解いたとき、黒い馬に乗っている者が出てきた
3.小羊が第四の封印を解いたとき、青ざめた馬に乗っている者が出てきた

(3)小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。(4)すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
(5)小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。(6)すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」
(7)小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。(8)私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。(黙示6・3~8)

黙示録6章の全体をとおして、私たちは小羊イエス様を見失わないようにすることがたいへん大事だということを学びました。今回学ぶ箇所でもまた、3、5、7節に「小羊」という言葉が出てきます。

前に学んだ1、2節で、白い馬に乗っている者が、実は3章に出てくる獣、反キリストであることを学びました。この反キリストは、あざむく者であり、盲にするものであり、与えられた役目に限って勝利することを許されたのです。

このことは、もちろん、御座についておられる小羊イエス様の命令によるものであり、イエス様は悪いものを明らかにするために、それをなさいます。つまり、反キリストのあとに続く者たちによって、反キリストの正体がどのようなものであるかが明らかにされるのです。それは、羊の毛皮をかぶった狼の正体が暴露されるようなものです。

このこと自体は問題の解決ではありませんが、これが「解決の始まり」となります。狼がその正体を暴露されることは、狼が正体を知られないままで人々の間を自由に歩き回り、まちがって誉めたたえられているよりもいいのです。

私たちは、次に、「白い馬に乗っている者」に続く者たちについて考えてみましょう。それは次の三人の乗り手です。

・小羊が第二の封印を解いたとき、赤い馬に乗っている者が出てきた。
・小羊が第三の封印を解いたとき、黒い馬に乗っている者が出てきた。
・小羊が第四の封印を解いたとき、青ざめた馬に乗っている者が出てきた。

私たちは、主なる神がはじめに地を創造されたとき、それが「非常によかった。」(創世記1・31)ということを知っています。しかし、罪をとおして、人が神から離れることをとおして、この地は呪われました。しかし、イエス様が、人間と全ての造られたものを悪魔の支配から買い戻すために十字架につかれ、全てを成就してくださったのです。

教会の携挙のあとで、この地上に与えられる裁きこそが、この地上に神の国を完成するためのただ一つの道です。次に出てくる三人の乗り手は多くの力を持っていますが、もちろん彼らの力は小羊イエス様によって操られているに過ぎないのです。

1.小羊が第二の封印を解いたとき、赤い馬に乗っている者が出てきた


小羊が第二の封印を解いたとき、「赤い馬に乗っている者」が裁きを行ない始めました。

第一の乗り手、「白い馬に乗っている者」は、大きな働きをしましたが、しかしその平和は長くは続きませんでした。全ての人々が、彼に対して喜びの声をあげました。しかし間もなく戦争が起こり、その戦争は世界に広がりました。「赤い馬に乗っている者」の赤という色は、血を流すことを意味しています。黙示録12章3節に、悪魔は「赤い竜」として示されています。

第二の乗り手、「赤い馬に乗っている者」の目的は、地上から平和を奪い去ることです。反キリストはかりそめの平和を約束しましたが、しかしその結果はおそるべき戦争だったのです。

第一の乗り手、「白い馬に乗る者」の目的は、世界の力を一つにすることによって、世界の平和を確保することでした。しかしその働きによって、世界の北と東に大きな勢力が形成され、これらがイスラエルの近くで戦うことになります。これが、人が自分の力で全ての平和を造り出そうとする努力の結果です。

まことの平和の君であるイエス様なくして、平和を造り出すことは不可能です。

「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。(イザヤ48・22)

本来、平和を持っていない者が平和をもたらすことはできません。反キリストの本質は争う者、悪者であるのは言うまでもありません。彼らの策謀の結果は、互いの殺し合い、戦争です。

その当時においても、王や皇帝たちは、国民に対して教育や福祉を約束し、平和をも約束しました。しかしヨハネは当時の教会に対して、「彼らは平和、平和といっているが、平和は来ない。」とはっきりと書き送ったのです。

「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。」と言っている。」(エレミヤ6・13、14)

「実に、彼らは、平安がないのに「平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。」(エゼキエル13・10)

「エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。」(エゼキエル13・16)

私たちは、人々が反キリストによってだまされることを見てきました。反キリストは、平和と清さの姿をよそおっていますが、その結果は戦争と流血です。もっともひどくだまされるのは、この反キリストを、喜びをもって迎えるユダヤ人たちです。しかも、この反キリストによってもっともひどい迫害を受けるのもまた、ユダヤ人です。イエス様は、すでにこのことについて預言しておられます。

「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。」(ヨハネ5・41)

ユダヤ人以外の全ての国民も、反キリストによってだまされます。

人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(第一テサロニケ5・3)

これが、全ての地上にのぞむ試みのときなのです。

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(黙示3・10)

2.小羊が第三の封印を解いたとき、黒い馬に乗っている者が出てきた


赤い色は、戦争と血を流すことを意味しました。しかし黒い色は、ききんと憎しみを意味します。ききんと憎しみは、つねに戦争の結果です。戦争は貧しさとおそるべき苦難をもたらします。

黒はまた悲しみの色であります。この「黒い馬に乗っている者」が持っている量りは、分配を意味しています。パンが量られるということは、主食の欠乏を意味しています。「小麦一枡は一デナリ」とは、小麦の値段が15~20倍に値上がりすることを示しています。一デナリは、当時一人の労働者の一日分の給料です。一デナリで、一人の人間の生命を維持することはできるかもしれません。しかし家族と、家と、着る物と、その他の必要を満たすには十分ではありません。

またこの値上がりは、生きていく上でもっとも必要なパンと小麦だけに起こるのです。油とぶどう酒はまだ十分に残っています。油とぶどう酒は、黙示録ではつねに否定的な意味で使われる言葉です。これらはぜいたくや乱れた生活の象徴です。油も、ぶどう酒も、その当時のローマ帝国では支配階級が用いる贅沢品でした。

つまり、支配階級である金持ちたちはたくさんのものを持ち続け、一般の人々は食べるにもこと欠く非常な生活の苦しみを味わうのです。ここに見られるのは、利己主義、無関心、冷酷です。このような社会的な不公平の結果が憎しみを生み出します。しかしこの金持ちたちの幸せは長くは続きません。なぜなら第六の封印が解かれたとき、彼らは裁かれるからです。

人間は、真のふるさとである神を失い、神から離れてからというもの、心の平安を失っただけでなく、思い煩いと心配で心が休まらないようになってしまいました。生活を守るという、私たちの日々の闘いは、一つの呪いです。多かれ少なかれ、全ての人々がこのような闘争の中に引き込まれています。この闘争に敗れ、破滅しないためには、あらゆる努力をしなければなりません。悪魔は、私たちがこの世の闘いに巻き込まれることをとおして、イエス様から目を離すようにと望み、しむけています。そしてこの大きな力が私たちを毎日毎日捕えているのです。

かつて天から下ってきたマナが、荒野のイスラエルの民を四十年間養いました。イエス様も、天からのパンです。イエス様につき従い、いのちを持つものは、いつも満たされている者になります。

しかし、ここに見る、「黒い馬に乗っている者」は、マナでもなく、いのちのパンでもなく、ききんをもたらす許しを得ているのです。「黒い馬に乗っている者」は、パンを奪い取る許しを与えられているのです。そして、小麦一枡が一デナリという価格は、天において定められた価格です。これは人々によって勝手に決められたものではなく、神の裁きなのです。

3.小羊が第四の封印を解いたとき、青ざめた馬に乗っている者が出てきた


「青ざめた色」というのは、病気と死を意味しています。

戦争とききんの結果は、病気です。戦争のあとで、人々は伝染病にかかりやすくなります。8節に出てくる「地上の獣」とは、病気の原因となる生物、微生物やビールスではないかと考えられます。今日、細菌爆弾が人為的、計画的に準備されています。「青ざめた馬に乗っている者」は、このような恐るべき兵器を使おうとしているのです。

この第四の「青ざめた馬に乗っている者」は、特に恐ろしい力を持っています。なぜなら、この者といっしょに、前の「三つの馬に乗っている者たち」が働くからです。「彼ら」には地上の四分の一を殺す権威が与えられます。8節の中ほどでは特に「彼ら」と複数形で書かれています。ですからこの中には全ての馬の乗り手が含まれていることになります。この結果は、人類の四分の一が殺されるのです。これは非常に恐ろしい裁きです。

最後に、イエス様が私たちに与えようとしておられる真の平和、私たちが神の裁きに耐えるために持たねばならない真の平和のことについて、考えてみましょう。

「平和」は、ヘブライ語で「シャロム」といいます。シャロムという言葉は神と人との間のよい関係を意味しています。そして、人間同士の間の関係がよいことも意味しています。これはイエス様がくださる賜物であり、イエス様から離れている者には決して与えられないものです。

「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。(イザヤ48・22)

創世記にあるように、この世界のはじめには、人は神との交わりを持っていました。しかし、罪をとおしてこの関係は破壊されました。そして「赦し」をとおして、神は元の関係を回復しようとしておられます。

「赦し」のあるところに、平和があります。

聖書は、平和の君であるイエス様の十字架によって、神と人との対立の中に「赦し」が与えられたことをはっきりと告げています。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2・14、15)

私たち罪人が、イエス様の前にその罪を告白して、私たちの生活の支配権をイエス様に明け渡すなら、私たちは「神との平和」をいただけるのです。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5・1)

イエス様を受け入れる人には、「平和」が現実のものになるのです。神との交わりを正しくしようとしない人、つまり自分の罪を告白しようとしない人は、神との平和を知ることができません。罪の問題が解決されていない人には、赦しも与えられず、平和も与えられません。そして神との平和を持っていない人々の間にあっては、平和は保たれず、お互いの間に争いと戦争とが起こるのです。

イエス様は、ご自身の平和をあなたに提供しておられます。いま、あなたの罪を明るみに出して、イエス様の平和があらゆる障害に打ち勝ってあなたに与えられることを体験しようではありませんか。

神の目的は、人類の間に平和を与えられるだけでなく、動物や植物までも含んだ全宇宙の被造物に平和を造り出されることです。しかし神の国がこの地上に建設されるに先だって、四頭の馬に乗った者たちが、この地上に恐ろしい裁きを行なわなければなりません。

ヨハネは御座におられる小羊イエス様を見ました。小羊イエス様は「赤い馬に乗っている者」よりも強力なお方です。小羊イエス様は平和の君です。小羊イエス様は私たち全てを平和で満たそうとしておられます。

小羊イエス様はまた、「黒い馬に乗っている者」よりも強力なお方です。小羊イエス様は全てのものの上に高く引き上げられたお方です。それゆえ、小羊イエス様は、私たちを全てのものの上に引き上げ、私たちを満たそうとしておられるのです。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10・10)

小羊イエス様は、「青ざめた馬に乗っている者」よりも強力なお方です。小羊イエス様は、死に打ち勝たれたお方です。そして私たちを、全てのことにおいて、イエス様にあって圧倒的な勝利者にしようとなさっておられます。私たちはこのことを覚えて、心からこの小羊イエス様に礼拝をささげようではありませんか。

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