2022年11月20日日曜日

私たちの格闘

私たちの格闘
2022年11月20日、吉祥寺福音集会
岡本雅文兄

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

本日は、先週、兄弟がメッセージしてくださったことを受けて、『私たちの格闘』というタイトルでお話したいと思います。先ほど、ご一緒に賛美いたしました、エペソの手紙の言葉を歌にした、そのとおりに導いていただきたいと思っています。

今も、複数の方々から、数年前に集会に起こされた出来事に対する暗い思いが、解決されずに残っていると聞いています。このことについて、信仰者として、また、集会に集う兄弟の一人として、私自身の心の内に与えられた事実をお話したいと思います。

兄弟がたの中には、おそらく私と異なる思いを持っておられる方もあるはずです。ですから、今日、お話しする御言葉以外は、すべて私の自分自身の責任による個人的な証しであります。実際に起こった問題の外から見えることだけではなく、この問題を聖書がどのように語っているかということに視点をおいて、お話できれば幸いです。

先週の兄弟のメッセージをお聞きしたすぐ後で、黙示録の学びの中で、次の言葉をお聞きいたしました。そして、今日、このことをお話したいという思いを与えられたのであります。その言葉とは、『信仰生活は、主イエス様の血の価値を心の目で見、そして、それに対して感謝することから始まります。血によって、贖われたものだけが、このことに感謝することができます。まず初めに、自分の罪を認め、それを告白することが必要です。』この言葉は、第一ヨハネの1章の8節からの御心に通じるものであると思います。

第一ヨハネ
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら(・・・・告白するなら・・・・)、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

まず、私たちのうちに起きた出来事によって、私自身が聖書によって指摘されたことは、集会に集う兄弟の一人である私が有罪であり、主なる神イエス様と兄弟姉妹がたの前に悔い改めなければならないということでした。

それは、かしらなるイエス様が真ん中におられる集会のただ中で、しかも、礼拝が捧げられたすぐ後のことでした。一人の方が不特定の会衆の中で、集会に対するある訴えをされたときに、兄弟としてここにおりました、そして、兄弟として、御言葉どおりに対処できなかった罪であります。

確たる証拠のない訴えという火種は、聖書が警告していたとおりに見えないところで燃え広がりました。第二テモテの2章の17節に、『彼らの話は癌のように広がるのです。』その結果、何もご存知でない兄弟姉妹がた、とくに、遠く離れた各地の集会の主を心から信じる人々に、つまずきを与えてしまいました。マルコの9章に、次のようにあります。

マルコ
9:42 ・・・・わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

死刑を意味するほどの厳しい言葉です。このみことばが示す私の罪は、今、お読みした御言葉のごとく、弁解の余地がないほど重いということを認めざるをえません。福音をお伝えしたいと願いながら、それに反して、聖書が警告していたように、つまずきを与えてしまいました。

この出来事によって、私自身のうちに、本当の信仰、からし種ほどの信仰も、みじんもないということが明らかになりました。たとえ、聖書に書かれた文字(もんじ)や文章をある程度、覚えている、蓄えているとしても、現場で、私たちのこの信仰生活や日常生活の場で、御言葉を適用することができませんでした。先ほどの第一ヨハネの1章の9節の御心に、心から従いたいと思ったのであります。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わす(・・・・告白する・・・・)なら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し(・・・・てくださる・・・・)、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

そう書かれているからであります。ですから、どんな問題に対しても、主イエス様の血の価値を、十字架で流された主の血潮の価値を、この目で、また、心の目で見て、その血によって贖われたものだけが感謝する恵みに、目を留めることから始めたいと思います。

次に、すべての事柄に関する聖書の大切な回答は、私たちがすでによく知っているはずのローマ書の8章の28節ではないかと思います。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

このみことばを知っているはずでしたけれども、知らなかった・・・・ということではないでしょうか?この言葉のとおり、神がこの出来事でさえも働かせて、益としてくださるに違いありません。そうでなければ、私たちは神を信じる根拠を失ってしまいます。この御言葉をいかに信頼しているかどうかだけが、問われているのではないでしょうか?

黙示録の二章の七節で、イエス様がエペソの集会に言われた『耳のあるものは、御霊が諸教会に言われることを聞きなさい』という言葉は、誰かほかの人に言われているのではなく、私自身に、また、あの群れではなく、私たちが集うこの群れ自身に告げられていると考えます。ヨハネの福音書21章でイエス様は、ペトロに次のように言われました。

ヨハネ
21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った(・・・・ヨハネを見て、イエス様に言ったのでありましょう・・・・)。「主よ。この人はどうですか。」
21:22 イエスはペテロに言われた。「・・・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

ここにも、聖書の回答の本質が示されています。悔い改めは、どこまでも私自身の問題、個人の、一人ひとりの問題であります。

三つ目に、なぜ、この出来事が起こされたかの理由を告げる大切なみことばは、エペソの6章、先ほど読んでいただいたエベソの6章の10節から12節であると考えます。

エベソ
6:10 終わりに言います。・・・・
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉(・・・・すなわち、人間・・・・)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

今回ほど、この問題をとおしてほど、このみことばが恐ろしいと思わされたことはありませんでした。この御言葉によると、エペソの集会の問題、さらには、コリントの集会や私たちの集会の問題の真の原因は、悪魔であると告げられています。人間ではありませんでした。ましてや、イエス様を信じる人、兄弟、姉妹でもありませんでした。ですから、私たち自身も、いつも悪魔の策略の危険に、今も、さらされています。

この御言葉が告げる悪魔の策略に焦点を合わせ、的を外すことなく、人にではなく、悪魔とその悪霊たちに対して、私たちが心を合わせて、神のすべての武具を取るようにと、このエペソの手紙の6章10節以降は、命令しておられるのではないかと、私は考えます。

エベソ
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

『神のすべての武具』とは、聖書の御言葉でありましょう。そしてさらに、私たちの心を合わせた祈りと願いを用いた御霊による祈りであると告げられているように思います。私は、この御言葉を何度も何度も読みながら、あの時、ふさわしく適用することができませんでした。パウロは、この悪魔の誘惑に、誰でも陥る可能性があるということを告げています。

私たちの群れの中で起きた出来事は、この御言葉どおり、悪魔の、サタンの策略であると、今も私は確信しています。そして、すべて聖書の言葉どおり、私たちが主の御言葉を正確に理解して、本当のひとつの体となるようにと、主なる神が、私たちの益となるために与えられた出来事であると思います。すなわち、恵みの時である――今も続いている恵みの時であると考えます。

ここで集会、すなわち、キリストをかしらとする一つの体そのものについてのイエス様の御心を考えてみたいと思います。ルカの15章4節から7節の、私たちがこれもよく知っているはずの御言葉であります。一匹のいなくなった羊と、九十九匹の羊に対して、イエス様がなさった箇所であります。

ルカ
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たち(・・・・ここでは九十九匹の羊ではなく、友だちや近所の人たち・・・・)を呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

この例えは、野原にとどまっていた九十九匹の羊以上に、いなくなった一匹の羊に焦点が当てられているように見えます。そして、九十九匹は、あたかも無視されているようにさえ思われます。一匹の羊が行方不明になったこの出来事が起こったとき、百匹の群れの中からたった一人いなくなった一匹の羊を、心血を注いで探されたイエス様の御愛の尊さには、心からの感謝しかありません。しかし、それは九十九匹に対するえこひいきではありませんでした。

いなくならずに、野原にとどまった九十九匹の羊に対して、七節では、『悔い改める必要のない九十九人の正しい人』と書かれています。悔い改める必要のない人など、いるはずがありません。しかし、ここにはそう書いてあります。長いあいだ、この言葉には、私自身は違和感がありました。

敵意のあるパリサイ人に対する時にイエス様が言われる、そのような含みのある言葉のように感じられたからであります。しかし、私たちの群れに起こった出来事をとおして、この箇所は、失われていたものが回復した喜びだけを告げているのではないと思うようになりました。イエス様は、群れ全体の回復も願っておられたのではないか?

百匹のうちの一匹でも失われたなら、すなわち、一つの器官、一つの部分でも欠けたなら、健全な体、健全な集会ではなくなると考えておられる主が、ここにもおられると、思うようになったのであります。そして、イエス様は、体がどのようなものであるかを、この例えに隠してくださったのではないか、そのようにも思いました。

地において、誰が見ても悔い改める必要があると分かる一匹の羊が見つけられるだけでなく、悔い改める必要がなく、正しいと考えていた九十九匹の――九十九人の罪人が、悔い改める恵みにあずかるなら、さらにさらに、大きな喜びが、天でも地でも沸き起こるのではないでしょうか?この箇所は、私個人には、そのように与えられました。私たちも九十九匹の羊であると認めることができるなら、新しい歩みへと導かれるのではないかという希望がわいてまいりました。

イエス様は、私たちの集会に、この大きな恵みを与えようと願っておられるのではないでしょうか?イエス様の御心は、一つの器官、一つの部分が苦しむ時、他の器官、他の部分もともに苦しむ一つの体であるだけではなく、苦しみの当事者ではない、あるいは、正常であると考えていた九十九の器官も共に、彼ら自身が気が付かなかった――私たち自身が気が付かなかった――初めの愛から落ちた、その悔い改めに、私たち自身が導かれる――そのような新たな初めの愛の行いをするようにと時を備え、忍耐の限りを尽くしてくださっておられたのではないでしょうか?

私たちの群れにあの問題が起きてしばらくして、コロナが蔓延いたしました。主の御手が私たちの集会に、また、私たち自身に及んできたのではないかと思わされます。そしてまだ、その主の手は、私たちのうちにあると言わざるを得ません。

私たちは、悔い改める必要がないと考えている信者、正しいと思っている信者には、悪魔の策略は必要ないこと、悪魔も見向きもしないことを、幾度も幾度も聖書から学んでまいりました。悪魔の策略は、人の目では決して分からず、主の血潮の門をくぐって、主の内側から見なければ気づかない――それほど巧妙な策略であると、今回のことをとおして、本当に心の底から与えられました。

確かな根拠のない小さな言葉、小さな火から、大きな火災に広がりました。私たち全員が、人ではなく、ただ悪魔とその手下の悪霊たちに焦点を合わせて、彼らの策略から逃れるただ一つの道であるイエス様から、目を離さないことだけが、すべての問題の解決策であることを、このことをとおしても考えさせられました。

こうして十字架につけられた方の他には、何も知らないことに決心した、そのような者たちの群れこそ、野原からいなくなった羊と、そして、野原にとどまった羊が、ともに落ちたところから――初めの愛から――、悔い改めて帰ってきた、一プラス九十九イコール百匹の羊と、ひとりの牧者、イエス様からなる新しい集会が与えられるのではないかと思わされています。

イエス様は、私たち放蕩息子と放蕩娘があらゆる方向から、ひとり残らず、自発的に帰ってくるのを、遠くから首を長くして、待っておられると思うのであります。私は、この出来事が何もなかったように、このまま過ぎ去っていくとすれば、大きな損失を私たち自身が負うのではないかと考えます。なぜなら、主なる神は、意味のないことを私たちに与えられるはずがないからであります。悪魔は、これからも手を変え、品を変えて、襲ってくることが確実であるからです。

パウロは、使徒の働きの24章17節から、また、29節から、はっきりとエペソの長老たちに告げています。二箇所をお読みして終わりにしたいと思います。この箇所と、もう一箇所、同じエペソ書の4章の16節から続けてお読みいたします。

使徒
20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。

20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも(・・・・ただ、外からだけではなく、あなたがた自身の中からも・・・・)、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

そして、最後に、エペソ書4章の16節と25節であります。

エペソ
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。

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