2022年11月15日火曜日

それはあなたです

それはあなたです
2018年1月28日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

マタイ
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

読んでいただきました過ぎ越しの食事の場面で、イエス様は突然、裏切り者がいることを言い出されました。

ここに非常に興味深いことが書かれています。イエス様が、『あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります』と言われたとき、弟子たちは、かわるがわる『まさか私のことではないでしょう』と言ったというのです。ユダだけではない。弟子たちのすべてが、自分に裏切りの心があることをイエス様に見抜かれたと思ったのであります。

弟子たちは皆、誰よりもイエス様のことを知っていたはずでした。誰よりもイエス様の言葉を聞き、イエス様が行われた奇蹟の業を見たのです。そして、このお方に従っていくことを喜んでいたはずです。けれども、彼らはイエス様に対して、次第に自分たちの思い描いていたものとは異なるものを感じていたのです。それはいったい、何だったのでしょうか?

読んでいただいたマタイの福音書を、少し前にさかのぼってみたいと思います。

マタイ
26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

ユダが、銀貨三十枚でイエス様を売った。そのユダの動機については、聖書は直接的には記しておりません。けれども、今、読んだ14節の最初に、『そのとき』とありますから、この前の出来事が、ユダの心をイエス様を裏切ろうという気持ちにさせたことは間違いないと思います。

この出来事とは、ひとりの女がイエス様の頭に香油を注いだ事件でした。

マタイ
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

イエス様は、このベタニアのマニアの行為を喜んで受け入れられ、憤慨する弟子たちに向かって、『わたしの埋葬の用意をしてくれたのです』とお語りになりました。しかし、弟子たちはその意味が分からず、『こんな無駄なことを!』と思ったのです。そして、これが、主イエス様を裏切るユダの引き金となったのではないでしょうか。この女の行いを見て、誰もが腹を立てたのです。それは、ユダだけではなく、他の弟子たちも、このような方法でイエス様を愛することに、意味を見出すことができなかったということです。

では、弟子たちは何を求めていたのでしょうか?それは、イエス様がこの世においても王となられ、自分たちもこの世において用いられることでありました。『あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。』このとき、弟子たちは誰もが思ったのです。自分の心が見抜かれていると、恐れを弟子たちは覚えたのではないでしょうか?弟子たちにとって、キリストの十字架は、つまずきでありました。

マタイ
20:20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
20:22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
20:24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。

イエス様のご生涯を考えてみますと、誰よりも深い大きな愛で人を愛し、ともに悲しまれたお方でありました。しかし、その愛を弟子たちの誰も受け取っていないということが、ここで明らかになっています。

弟子たちの中から裏切る者が出た――これは、現代に生きる私たちには関係のないことだと言うことはできません。私たちも弟子たちと同様に、『まさか私のことではないでしょう』と、おびえながら確認しなければならないものだからです。それは、私たちもまた、自分がイエス様に一方的に愛されることだけを求めるものだからです。

イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨三十枚で祭司長たちに売ってしまいました。この銀貨三十枚は、奴隷ひとりの値段であるとされています。祭司長たちはイエス様の値段を奴隷一人分と数えたということです。主の愛を受け取ることもできなかった人々の評価が、銀貨三十枚なのです。

最初に読んでいただきましたマタイの福音書の26章に戻っていただきたいと思います。

マタイ
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

この部分は、ちょっと奇妙なんですね。少し注意深く読む必要があると思います。ここでユダは、『先生』と呼びました。もはや、他の弟子たちとは違って、『主よ』ということができなくなっているのです。先生とは、ユダヤ教の教師、ラビのことです。ユダヤ人たちは、どのラビのもとで学ぶかは自分たちで選んでいました。弟子たちが先生を選んでいたようであります。

けれども十二弟子たちは、ご存知のように、自分でイエス様を選んだというよりも、イエス様の呼びかけに従ったのです。ですから、彼らにとって、イエス様は主であり、自分の全てだったはずです。しかし、ユダは、ここに至って、自分の目的達成のために、イエス様に表面的に従っていただけであることが、明らかになったのではないでしょうか?

さらに、ここで注意する必要があるのは、この『いや、そうだ』という主の言葉であります。つまり、イエス様がここで、『いや、あなたが裏切るのだ』と断定したことになります。しかし、新共同訳を見ますと、このように書いてあります。『それはあなたが言ったことだ』と訳されています。

【参考】マタイ(新共同訳)
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

英文の聖書を見ますと、『You have said it yourself』とあります。『先生、まさか私ではないでしょう』とのユダの問いに、『それはあなたが言ったことだ』と言われたんです。

これは、わたしが裏切ると言っているのではない。あなたが自分で言っていることだという意味であります。つまり、イエス様は、ユダにだけ理解できて、その心に響くように、あなた自身がその答えを知っているはずだと言っているのであります。

24節で、『人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです』と、イエス様は厳しい言葉をおっしゃいましたが、しかし、その背後には、たとえあなたがわたしを裏切らなくても、わたしは必ず十字架で死ぬだろう。しかし、あなたがわたしを裏切るなら、あなた自身が苦しみを受けることになるのだ。そのようなメッセージが込められていたのではないでしょうか?

イエス様は、ギリギリの時までチャンスを与え、今なら、まだ間に合う――すぐに悔い改めなさいと、ユダに訴え続けておられたのです。しかし、ユダは滅びの道を選びました。夜が明けたとき、彼は後悔の念に襲われます。しかし、悔い改めることなく、自分のしたことを自分で始末したのです。ユダは神の赦しを仰ぐことなしに、自分で人生の幕をひきました。

マタイ
27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。
27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
27:3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
27:4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。
27:5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

このように記されています。ユダは、ガリラヤの田舎出身の弟子たちの中で唯一、ユダヤの都会生まれで、特別に優れた才能があったようであります。ですから、取税人マタイを差し置いて、会計係となりました。彼はどうして愛するイエス様を裏切り、敵に売り渡すようなことをしたのでありましょうか?

ヨハネ
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

マリヤが、高価なナルドの香油を主に注いだ時、ユダは激怒しました。けれども、ヨハネは、ユダは貪欲な男で、預かっていたとお金をいつも盗んでいたと述べています。いつの頃か、分かりませんけれども、ユダの良心は麻痺し、金を盗むようになったのでありましょう。

第一テモテ
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

直接的には、ユダだけが裏切り行為をしました。けれども、実は、今まで見てきましたように、十二弟子全員が主を裏切ったのです。だから、ただ主の愛のまなざしに、例えば、ペテロは自分の犯した罪を悲しみ、泣いて悔い改めたのであります。ユダと他の弟子たちの違いは、実はここにあるのであります。

ルカ
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

旧約聖書のダビデも、主を裏切った者でした。ダビデが罪を犯し、ひた隠しにしていたところに、預言者ナタンが遣わされてきます。ナタンはダビデにこのような話をしたんですね。自分の持ち物を惜しみ、貧しい人のものを取り上げて、旅人をもてなしていた富んでいる人の話であります。そのやったこと、その哀れみのない、心のない行為を聞いた時、ダビデは自分のことを棚に上げて、激しい怒りを燃やし、言いました。『そんなことをした男は死刑だ!』その時、ナタンはダビデに言ったのであります。

第二サムエル
12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。
12:8 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。』」

『あなたがその男です。』それはまぎれもなく、私たちのことです。そして、イエス様が、ユダにおっしゃったのと同じことば、『それはあなたです』が、今、私たちにも突きつけられています。

けれども、神がナタンをダビデのところに遣わして、『あなたがその男です』と言わせたのは、ダビデに対する哀れみでした。なぜなら、ダビデは真実を突きつけられ、心を刺されて、言ったからであります。『私は主に対して罪を犯した。』彼は悔い改めて、赦され、そして、主の祝福を受けたからです。

最後に、先ほど読みました香油を注いだ女の行為を、イエス様は立派なこととおっしゃいました。これはどういう意味でしょうか?そのことを短く考えてみたいと思います。イエス様は、このようにおっしゃいました。

マタイ
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

世界中に伝えられるほど大きなことを、彼女は行いました。この女は弟子たちとは違って、イエス様が十字架につけられて殺されるという事実を、しっかりと受け取っていたからです。弟子たちは誰も、主の十字架を受け入れることができなかったのに、彼女は、まだそれを見る前から、しっかりと受け止めていたのです。御言葉にしっかりととどまっていたからではないでしょうか。

たとえ、私たちがイエス様をどんなに尊んでも、もしその十字架を受け入れることができなければ、いずれ弟子たちのように、イエス様を裏切るようになるかもしれません。十字架は、私たちがイエス様を愛するかどうかの分かれ目になるのではないでしょうか?

マリアは、十字架によって自分の罪が赦されることを受け入れていたのです。その結果、彼女はイエス様に高価な香油をかけました。これは、自分の罪が赦されたことから出てくる行いではなかったかと思われます。ルカの7章に、このようなみことばがあります。

ルカ
7:47 ・・・・『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』

私たちは、本当に罪赦されたということを知って、初めてイエス様を愛することができるのです。そして、この香油をかける行為は、礼拝の姿です。自分自身と自分のものすべてを、主に捧げるというのが礼拝であるからです。

主イエス様を裏切ったのはユダです。けれども、そのユダの背後には、神の時がありました。ユダが裏切らなくても、イエス様は捕えられ、十字架で死ぬことを、神のご計画として受け止め、従っておられました。ですから、イエス様は最後まで、ユダを悔い改めへと導こうとされたのであります。

ユダが主を引き渡す前に、実は、主がご自身を引き渡されたと言えると思います。主なる神の愛は、人間の裏切りを覆ってあまりあるのであります。

ダビデの悔い改めの聖書の箇所を読んで終わりにしたいと思います。

詩篇
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

私たちは、受けることばかりを願い、主を愛することのできないものであります。イエス様でさえ裏切るような弱さがあることを、私たちは認めざるを得ません。けれども、そのような、私たちの弱さの背後に、主なる神が働いておられます。主イエス様は、ユダのために十字架にかけられました。そして、私たちのためにも、十字架にかかられたのです。

裏切った私たちには、もう救いは与えないというのではありません。もっと、大きな神のご計画が、その背後にあるのだと、主は語っておられます。それこそが、絶望に終わることのない希望の言葉ではないでしょうか?

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