2022年11月13日日曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】3.御座におられる神と小羊

3.御座におられる神と小羊

黙示録5章1節から14節まで

神の計画を実現されるイエス様
1.封印された巻物
[1絶対的な支配の印
・神の行なう手
・勝利を得る手
・天に引き上げられたイエス様
2絶望的な悲しみ
・天にもいない
・地上にもいない
・地の下にもいない
3大いなる勝利者を指し示すもの
・ユダ族の獅子
・ダビデの根
・ほふられたと見える小羊
2.小羊の死の意味と与えられた権威
1力を得る手段
2終わりにいたるまでの愛
3全世界に対する裁き
3.小羊への礼拝
1四つの生き物と二十四人の長老たちの礼拝
・新しい歌の根拠
・新しい歌の内容
・新しい歌のテキスト
2多くの御使いたちの礼拝
3あらゆる造られたものたちの礼拝

(1)また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。(2)また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
(3)しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。(4)巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。(5)すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
(6)さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
(7)小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。(8)彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
(9)彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、(10)私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
(11)また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。(12)彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
(13)また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
(14)また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示5・1~14)

ここから黙示録第5章の学びがはじまりますが、まず5章と4章が密接に関連していることに注目しなければなりません。4章は5章の序論のようなもので、4章では御座におれらるのは「父なる神」お一人だけのような印象を受けますが、5章に入ると御座には「父なる神」だけでなく、「子なる神、主イエス・キリスト」もいっしょにおられることがわかります。父なる神は御子イエス・キリストによって世界を創造され、御子イエス・キリストによって救いをもたらし、そしてきょうも、御子イエス・キリストによって世界を支配しておられます。ですからこの4章と5章の表題は「御座におられる小羊」というのが最も適切だといえます。また、「世界史の転換をもたらしたキリストの犠牲」、「神のご計画を実現するキリスト」ということもできるでしょう。

これから、5章を「封印された巻物」、「小羊の死の意味と与えられた権威」、「小羊への礼拝」の三つに分けて見ていきましょう。

1.封印された巻物


はじめに、「封印された巻物」(1~5節)が何を意味しているのかを考えましょう。この巻物は絶対的な支配の印であり、ヨハネの激しい嘆きを招いたもとであり、大きな勝利者を指し示すものだと言えます。

黙示録4章で最も重要な言葉は「御座」でしたが、5章では「巻物」という言葉が大切です。エゼキエル書1、2章でも、はじめの1章では「御座」のことが述べられ、2章で「巻物」のことが書かれていて、ここと似たような書き方がされています。

この「封印された巻物」とは、この地の所有権が悪魔の手から主イエス・キリストの手に移ったことを証明する法律的文書のようなものです。

アダムの堕落以来、悪魔はこの地の所有権を握り、自分のものにし、「この世の君」と呼ばれています。

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4・8、9)

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12・31)

「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16・11)

そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(第二コリント4・4)

しかし、イエス様は十字架上の死によってその代価を支払われ、この世を贖ってくださいました。イエス様はご自身の死を通して、悪魔の手から、人間だけではなくこの地も買い取り、贖われたのです。そしていまや、信じる者たちには聖霊という「証印」が押され、御国を受け継ぐことが保証されています。

またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1・13、14)

そして、地に造られたもの全体が、主なる神のものとされるのを待ち望んでいると、聖書に記されています。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8・22、23)

エレミヤ書32章を見ると、「封印された巻物」がどのように使われていたのかがわかります。エルサレムがバビロンの軍勢に包囲されていたときのことです。その中にあってエレミヤは、敵の手に渡っていた畑を買い戻すよう主に命じられました。エレミヤはその畑の相続権を持っていたので、代価を払って畑を買い戻すことができたのです。このときエレミヤは、封印されたものと封印されないものと、二枚の購入証書に署名しなければなりませんでした。「封印された購入証書」はその畑の所有権を証明するもので、畑を買った人が受け取りました。そして、封印を破るとき、その「封印された購入証書」の持ち主が実際に畑を使うことができました。

創世記のはじめ、この地はアダムに与えられ、アダムによって耕され、アダムに治められるようになっていました。この地はアダムを通して神の御支配が明らかにされるはずの所でした。地は美しく、秩序があり、全てが目的にかなっていました。あらゆるものが一つの目標に向かって努力し、力の釣り合いがとれていて、お互いに助け合うことができました。ところが、アダムが悪魔の奴隷となったために、この地は悪魔に支配されるようになってしまったのです。動物や植物や人間の病気、虚しさ、死、生活のための闘い、地震、噴火、洪水など、これらはすべて悪魔がこの地を支配するようになった結果なのです。

イエス様は、悪魔からその支配権を奪い返すためにこの地上に来られました。イエス様はご自身の貴い血潮によって、この世を贖われたのです。イエス様は、偉大な救い主であり、この地の相続権を持つ唯一のお方です。次の聖句はイエス様に対して言われたみことばです。

「わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2・8)

このみことばが言おうとしているのは、神が神の国をイエス・キリストを通してこの地上に打ち建てられるということです。ダニエルもすでに「終わりの時」、「神の国の実現」を預言していました。そして彼もまたその書物を終わりの時まで封じておくことが命じられていました。

「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」・・・・
私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」(ダニエル12・4、8、9)

1.絶対的な支配の印


黙示録5章では、巻物は神の御手の中におかれています。御座におられる方の手の中にあるのです。これは神のご支配を意味しています。巻物が神の御手の中にあるということは、予言者を通して人々に与えられていた神の約束がご自身の手によって成就する時、つまり「終わりの時」がきたことを意味しています。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ11・1~10)

主なる神はご自分の御座をこの地上に与えようとなさっています。悪魔の手の中にあるこの世を贖い出し、再びもとの秩序の中におこうとされているのです。

「ユダヤ人の伝承によると、エルサレムが破壊された後、神はその右の手を背中の後ろに回してもはや何もなさらないのだそうです。

なぜ、あなたは御手を、右の御手を、引っ込めておられるのですか。その手をふところから出して彼らを滅ぼし尽くしてください。(詩篇74・11)

しかし、ここでは神はその御手を前方に差し出しておられ、働こうとしておられます。大きなことが起こりつつあるのです。「終わりの時」が始まろうとしているのです。「終わりの時」は、言いかえれば「完成の時」です。

主の右の手について三つのことが言えます。

まず、主の「右の手」は、ことを行われる手です。

また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。・・・・エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。・・・・」(黙示1・16、2・1)

また、主の「右の手」は、勝利を得る手です。イエス様は十字架上で「完了した」(ヨハネ19・30)と言われました。イエス様は完全な救いを成就されました。

喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。(詩篇118・15)

さらに、主の「右の手」は、引き上げられたイエス様です。イエス様は天に引き上げられ、すべての名にまさる名を与えられておられます。

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(使徒2・33)

すべてが見えるように、主なる神の御手の中に巻物がおかれています。主なる神はいま、大きなことを行なおうとなさっておられます。そのために今、主なる神はこの巻物を誰かに与えようとしておられます。誰かにご自分の計画を成就させようとしておられるのです。

この巻物は内側にも外側にも字が書かれ、七つの封印で閉じられています。同じような「巻物」がエゼキエル書の中にもでてきます。

「人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。(エゼキエル2・8~10)

この巻物の中に書かれてあったのは、哀歌と嘆きと悲しみの言葉だったと記されています。黙示録6章以降の章でもそれと似たことが書かれていますが、巻物の扱い方には違いがあります。エゼキエル書の中では封印はそのままで破られてはいませんでした。そこでは、記すこと、認識することが重要なのであって、封印を解くことができるかどうかは問題ではなかったのです。エゼキエルは巻物を食べなければなりませんでした。それによって彼は知識を得て、預言者となったのです。

「巻物」は、昔は二種類の書き方がありました。内側には正式なテキストが細かく書かれ、外側には電報の文章のような簡単な文が書かれてあり、その文字は誰にでも読めるようになっていました。ですから「巻物」の封印が解かれることは、未知だったことが明らかにされるということではなく、巻物に書かれていることが実行に移されることを意味していました。

黙示録5章でも、巻物に書かれている内容に興味をひかれている者はありません。御座の周りにいる者たちは、巻物に書かれていることが「何であるか」ということに興味を持っていたのではなく、巻物の封印を解く者は「誰か」ということに関心をもっていたのです。ここでは新しい知識が問題なのではなく、神のご計画の成就ということが問題だったのです。

巻物には次のようなことが書かれています。悪魔が追放され、罪が贖われ、もはや誰も罪の奴隷、自我の奴隷でなくなったということ、自由を望むすべての者が自由になるということです。

きょうも私たちは、失われた罪人としてイエス様のみもとに行くことができます。自分の罪を告白し、自分の生活の支配権をイエス様に明け渡し、自由にしていただくことができます。そして、救いのみわざをなしとげてくださったイエス様に感謝を捧げるならば、イエス様は決して私たちを拒まれません。

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6・37)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8・36)

イエス様の救いのみわざにより、すべての被造物の救いが成就したのです。そして、イエス様の救いと勝利と栄光が現わされるときが近づいています。

封印が破られるということは、悪魔が滅ぼされ、イエス様が完全な勝利を得られることを意味しています。

昔、王がその位に就くときには、渡された巻物を手に持っていました。

こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、「王さま。ばんざい。」と叫んだ。(第二列王11・22)

そして封印が破られ、王の家臣がその巻物を大きな声で読み上げると、まわりで王に仕えている人々は皆いっせいにひざまづいて「万歳」を唱えました。この時、王の即位が全ての人々に正式に認められたのです。ですから中世のローマの皇帝たちは、手に巻物を持った絵を好んで描かせています。

黙示録5章1、2節では、神が巻物を誰かに与えようとしておられることがわかります。巻物を受け取る者が現われ、巻物の封印が破られるとき、「終わりの時代」の全てが始まるのです。

2.絶望的な悲しみ


さて、ここで問題なのは、「誰」が封印を解くことができるかです。「誰」が被造物を救い、解放することができるのでしょうか。「誰」が真の平和を地上にもたらすことができるのでしょうか。「誰」に神の永遠のご計画を成就する力があるのでしょうか。

「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言う御使いの呼びかけに応答できる者は一人もなく、そこには沈黙だけがありました。つまり「天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった」、「巻物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかった」のです。「だれひとりできる者はいない」、「だれひとり見ることのできる者はいない」、「だれも見つからない」と書かれています。ふさわしい人が見つからなかったということは、封印を解くことのできる人が誰もいないという意味です。そのため、ヨハネはどうしていいかわからなくなって「激しく泣いて」いたのです。

ヨハネの時代は、ローマ皇帝ドミティアヌスが人々に平和と幸せとを約束し、皇帝への崇拝を強要していました。しかし、彼は実際はどのような人物だったでしょうか。ドミティアヌスは神のご計画を成就できるような人、聖潔で、正しい、清い人だったでしょうか。神のご計画の成就は、知識や意志によるのではなく、実現できる力があるかないかが問題です。人間はあるいは、「世界はどうすればよくなるか」という知識を持っているかもしれません。しかし、誰もこれを本当に実現する力を持ってはいないのです。

ガブリエルやミカエルという天使たちでさえ、神のご計画を実現することはできませんでした。神によって地から取り去られたエノクも、神の友とされたアブラハムも、神の御心にかなったと言われたダビデのような信仰の人さえも、神のご計画を実現することはできなかったのです。

この世は神の御心に反した状態にあります。悪魔と悪霊とが神の御心を否定するよう働いています。誰が神のご計画を成就することができるのでしょうか。多くの人間がローマの皇帝のようにそれを約束しますが、誰も実現することはできません。

「ローマの皇帝は「あなたはそれにふさわしい者である」と国民からあいさつを受けていました。しかし、その当時のキリスト者は真実を見抜いて、ローマの皇帝がそのような者ではないことをあえて表明したのです。

古い書物に次のような言葉が残されています。「王が町に入ってくるときに、人々は次のように言ったものである。『彼は強い』と。人々はそう言うが、われわれキリスト者は『人間にすぎない彼は弱い』と言う。人々が『彼は富んでいる』と言っても、われわれは『彼は貧しい』と言い、人々が『彼は物知りである』と言えば、われわれは『彼は無知である』と言う。人々が「彼は慈悲深い」と言えば、われわれは『彼は残忍である」と言い、人々が『彼は正しく忠実である』と言えば、われわれは『それらがみな嘘で、彼は偽善者である』と言う。」

聖書には「善を行なう人はいない。」(ローマ3・12)と書いてあります。すべての人が罪人で、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・10)と述べています。誰も自分自身を救うことができず、誰も自分自身をよりよくすることができないのです。だれもこの世の中に平和と調和の国を実現することなどできません。

当時このことを知って絶望し、またノイローゼになってしまった人々がいました。ヨハネは封印を解く人がいなかったので涙を流しました。ヨハネはどうすればいいのかわからなくなって、うちのめされてしまいました。「これから先も、この地は悪魔の支配下におかれなければならないのだろうか」、「被造物のうめきは、まだ続かなければならないのだろうか」。ヨハネは深い絶望的な悲しみに捕らえられ、この世界が呪われていると思いました。多くの努力、多くの苦しみ、多くの涙にもかかわらず、この世は少しも良くはならない。この世は闘争と降伏、勝利と敗北、得ることと失うこと、抱くことと叱ること、生きることと死ぬことの、意味のない繰り返しのように思えたのです。いろいろな事が起こりますが、いつも同じ虚しい繰り返しのように思えたのです。「なぜ、こうなのだろう」。ヨハネはこの現実を見、苦悩し、激しく泣いたのです。

私たちキリスト者もまた、この世の苦しみと、この世の矛盾の下で悩んでいます。しかし、主に救われた人々は、ただ悩んでいるだけではありません。「封印を解くのにふさわしい者」が人間のうちにはいないということを知ったなら、人は主なる神のみもとに立ち返らなければなりません。真の「救い」は人間によってではなく、神であるイエス・キリストによってのみ、もたらされるものだからです。

放蕩息子はまず、本心に立ち返り、そして、父の家へ帰ってきました。悔い改めなしには、罪との断絶なしには、聖霊の働きによる回心なしには、誰も救われません。

3.大いなる勝利者を指し示すもの


神の手にある封印された巻物は、まず、神の絶対的な支配権を表わしました。次に、ヨハネを恐ろしい困惑、絶望的な悲しみの中に陥れました。なぜなら、封印をとくのにふさわしい者が全く見つからなかったからです。しかし、それに続いて、神の手にある封印された巻物は大いなる勝利者を指し示しました。黙示録の中では、イエス様に対していろいろな呼び方がされています。例えば、「忠実なる証人」、「アルファでありオメガである方」、「万物の支配者」、「死者の中から最初によみがえられた方」、「地の王」、「神の子」、「王の王」、「主の主」などです。

5章では、この大いなる勝利者に対して、「ユダ族のしし」、「ダビデの根」、「ほふられたと見える小羊」という三つの呼び名が与えられています。ヨハネは「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得た・・・」(黙示5・5)という声を聞いたのです。勝利はすでに得られました。

次に、これらの三つの呼び名について考えてみましょう。

「ユダ族のしし」という名前は、まだ見ることはできないけれど約束されている救い主に与えられた名前です(創世記49・8~10)。こう呼ばれることによって、彼がこの地を解放するように約束された者であることがわかります。ユダ族は王家の部族で、イエスの母マリヤはこの部族の出身でした。ダビデもまたユダ族の出身で、神の敵であるペリシテ人を打ち破りました。しかしここでは、ダビデよりも偉大なお方、イエス・キリストのことが示されています。イエス・キリストは「ユダ族のしし」であり、十字架上で悪魔を打ち破り、悪魔からその力を奪いとるために死なれました。イエス様の十字架の死は、この世の目からみれば「敗北」のように見えますが、真実は、悪魔に対して永遠の勝利を得るためのものでした。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2・15)

イエス・キリストの犠牲の死は、父なる神が悪魔の使いの蛇に言い渡されたこと、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼(救い主)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3・15)という約束の成就でした。これは、悪魔に対する世界史上で最大の闘いでした。イエス様がご自身のいのちを犠牲になさることによって、世界と被造物は救われたのです。

「ユダ族のしし」という呼び名は、この方が再臨なさることを指し示すものでもあります。イエス様は「王の王」として再びこの世に来られます。

その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(黙示19・16)

イエス様は再臨の後、イスラエルと全世界とを祝福し、敵を滅ぼされるのです。「ユダ族のしし」であられるイエス様が、神の国をこの地上に打ち建てられるのです。

イエス様は「ダビデの根」とも呼ばれています。これはダビデの子孫としてのイエス様を指しているのではありません。イエス様は肉から言えば、ダビデの子孫ですが、ダビデの後から来られたではなく、ダビデの前にすでにおられた方でした。

その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ11・10)

さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」(ローマ15・12)

イエス様は「根」であって、そこからダビデが生まれたのです。これによって人類誕生以前にイエス様がおられたことがわかります。「ダビデの根」であるイエス・キリストは、ダビデよりも前から存在しておられ、ダビデにとっても主なのです。

主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」(詩篇110・1)

すべてのものはイエス様を通して造られたのです。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1・16、17)

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。・・・・この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ1・3、10)

「ダビデの根」という言葉によって、私たちは「神としてのイエス様」を知ることができ、「ダビデの若枝」という呼び方によって、「人の姿となられたイエス様」を知ることができます。

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(イザヤ11・1)

「神」として、また「人の姿」となって、イエス様は悪魔を打ち破られたのです。このイエス様こそが封印を解くのにふさわしいお方であり、神のご計画を実現することができる唯一のお方です。イエス様だけが平和を、そして天国を、この地上に建てあげることがおできになるのです。

イエス様は大いなる勝利者として神のご支配を実現されるのです。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。(詩篇2・8~11)

イエス様は来るべき世の支配者です。イエス様は神のご計画を実現なさる権利と力を持っておられるお方です。

ヨハネは「ほふられたと見える小羊」が立っていたと言っています。あとでもっと詳しくこのことを学びますが、黙示録の中で二十八回、イエス様は「小羊」と呼ばれています。イエス様は私たちにとって、「過越の羊」です。つまり、イエス様は私たちの身代わりとして罪の裁きをご自身でお受けになってくださり、呪いを受けてくださったのです。イエス様は私たちと被造物とを悪魔の支配下から贖い出すために犠牲になり、血を流してくださったのです。

この「小羊」に関する三人の証しを読んで見ましょう。パウロは次のように語りました。

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(第一コリント5・7)

ペテロはこのように証ししました。

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1・18、19)

ヨハネは次のように挨拶を送りました。

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・5、6)

2.小羊の死の意味と与えられた権威


(6)さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。(7)小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。(黙示5・6、7)

彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ53・2~9)

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれたこの方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・13、14)

黙示録5章6、7節では、勝利者としての「小羊」の完全な権威を見ることができます。「四つの生き物がいる」御座と長老たちの間に、小羊であるイエス様がおられます。聖霊に満たされ、力に満たされたイエス様が中心におられ、その権威を見ることができます。ここでは何が中心であるかということが強調されているのです。

イエス様は常に中心におられました。ゴルゴダで二人の罪人といっしょに十字架につけられたときも、イエス様はその真中におられました。イエス様には罪はありませんでしたが、私たちの罪のために神の裁きと刑罰とをお受けになられたのです。そしてイエス様が復活なさったとき、弟子たちは閉めきった部屋に集まっていましたが、イエス様が突然彼らの真中に現われ、彼らに手と足とにある釘の跡をお示しになりました。彼らにご自身の愛とご自分が死んで約束のとおり復活されたことを知らされたのです。

今日もなお、イエス様は、ご自身の名によって人々が集まっている所では、その真中に立っておられます。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18・19、20)

この箇所で、ヨハネは「ユダ族から出たしし」、全世界の権威を持っておられるイエス様が勝利を得て巻物を受け取り、そして、巻物が開かれるようになったことを聞きました。ヨハネはそのユダ族のししを見ようと後ろを振り向きましたが、彼が見たのは「しし」ではなく、「小羊」でした。その小羊はほふられたと思われる傷を負っていましたが、死んではいませんでした。地に横たわっていたのではなく、しっかりと立っていたのです。

この「ほふられたと見える小羊」が意味している、三つのことを考えてみたいと思います。それは「力を得る手段」であり、また「終わりにいたるまでの愛」の表われであり、「全世界に対する裁き」です。

1.力を得る手段


捧げられた小羊がほふられることは、イエス様が力の満たしに至る道でした。イエス様は「ユダ族のしし」でしたが、イエス様に勝利が与えられたのはイエス様を「しし」にするためではなかったのです。多くの国々はその国の象徴として「しし」とか「驚」とか「熊」のようなしるしを選びます。ししのような性格をもった支配者はいつの時代にもいますが、このような性格の支配者が国を統治すれば、流血と涙が一層大きくなってしまうのです。イエス様はししのように力によってではなく、犠牲の供え物である「小羊」として、ご自身がいけにえの動物となられることによって、世界の歴史の転換をなしとげられたのです。

イエス様はご自身の犠牲の死を通して、人と神との間にある罪の壁を取り除かれました。イエス様は「小羊」として勝利を得られたのです。この世では「力」を使うことによって人は勝利を得ますが、イエス様はご自分を「犠牲」とし、「引き渡されること」を通して勝利を得られたのです。ユダ族のししが供え物の小羊のようにほふられ、いのちの君であられるイエス様が犠牲になられたのです。イエス様は死の苦しみを受け、そして死に打ち勝たれたので、世界の支配権を獲得なさったのです。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)

「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(ルカ24・26)

彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。」(使徒8・32)

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(第一ペテロ2・22~24)

新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(第一コリント5・7)

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1・18、19)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12・2)

2.終わりにいたるまでの愛


さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。(ヨハネ13・1)

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・・・(黙示1・5)

ほふられた小羊、イエス様の死は、愛の実践的な現われを示しています。イエス様は誰の血も流されませんでした。イエス様は神様だけがおできになる仕方で人間を愛されたのです。イエス様は愛のゆえに死なれ、その愛はいつまでも絶えることがありません。イエス様は愛のゆえにご自身を犠牲として引き渡され、死なれたのです。十字架につかれたときにイエス様は「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。これよりも大きな愛はほかにありません。この愛は同時に最も大きな力でもあります。

3.全世界に対する裁き


イエス様の死は、力の満たしと愛の現われであるばかりでなく、全世界に対する裁きでもありました。

イエス様は罪を知らないお方でした。聖なるお方であるイエス様が、天で所有しておられたすべての栄光と力を捨ててこの地上に下られたのです。それは人を支配するためではなく、人に仕えるためでした。このイエス様が十字架につけられたのです。

このことの中に、この世界の本当の姿が現われています。イエス様の十字架と死はこの世が呪われた世界であることを語っているのです。神はイエス様の十字架と死を通して、この世と悪魔とを捨て去り、勝利を得られたのです。

私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6・14)

この世には正義、自由、平和、真理などのために自分を犠牲にする人々がいますが、神の目から見るとそれらの人々は「この世に属する人々」でしかありません。神はイエス様の死を通して、悪魔によって支配されているこの世界を打ち破られました。イエス様の勝利はこの世界に対する裁きを意味しているのです。自分の罪を明かにし、これを言い表わして罪を離れる人々は、主の裁きを自分の身に受けることがなく、「過越」を経験するのです。

「私たちは始めに「小羊」が真中に立っておられるということを学びました。一人の御使いが「この巻物を解くのにふさわしい者は誰か」と叫んだのですが、それにふさわしい人は一人もいませんでした。そのため、ヨハネは泣いていました。彼はどうしていいかわからなかったのです。その時すでに、イエス様はそこにおられましたが、すぐにご自分を現わし「わたしがその者である。わたしが勝利を得た」とは言われませんでした。なぜおっしゃらなかったのでしょうか。それは、イエス様の本性に反することだったからです。小羊は決して「わたし」、「わたし」、「わたし」と、「わたし」の名誉を求めず、「あなた」の御名のために、と言われます。小羊は「わたしの願い」と言わずに、「あなたのみ旨が」、「あなたのみこころが」と言われます。小羊は「わたしの報いが」と言わずに、「あなたの報いが」と言われます。

小羊であられるイエス様がこのような態度をとられる方だからこそ、小羊は巻物をとり、これを解くのにふさわしいお方なのです。イエス様は神のご計画を成就し、神の王国をこの地上に建設するのにふさわしいお方なのです。イエス様は武器をもたずに勝利を得られ、他の人々の血を流すことをなさいませんでした。ご自身の血と死を通して、イエス様は勝利を得られたのです。

イエス様の勝利は完全なものでした。聖書には、イエス様が勝利を得るために「再び」戦うであろうとか、第二の戦いをなさるなどとはどこにも書いてありません。

「ほふられたと見える小羊」は七つの角をもっています。「角」は常に力の象徴です。七つは完全数です。ですからイエス様は全能にして完全な権威をもったお方なのです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)

そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。(詩篇132・17)

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。(ルカ1・68、69)

これは私たちにとって大きな慰めです。なぜなら私たちは、たとえどんな権力を持っている者にも、またどのようなことがあっても引き渡されることがなく、イエス様こそが私たちの主であられるからです。

小羊はまた七つの目をもっておられます。これはイエス様がこの世界に起こることを全てご存じで、知恵に満ちておられることを表わしています。

見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。――万軍の主の御告げ。(ゼカリヤ3・9)

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。(ゼカリヤ4・10)

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、・・・・(コロサイ1・19)

神の力も知恵も、すべてがイエス様の内に宿っています。それはイエス様がこの地上に神のご計画を成就なさるためです。どんな罪もイエス様の目からおおい隠されることはありません。イエス様の目は罪を見逃さず、これを明るみに引き出すばかりではなく、これらの罪を赦そうとなさっている目です。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。(エペソ5・13)

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。(民数記6・25)

神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。・・・・万軍の神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。・・・・万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(詩篇80・3、7、19)

さて、「ほふられた小羊」イエス様の手に巻物が渡されました。これは、神の知恵と力をもっておられるイエス様こそが、神のこの地上に対する裁きを神のご計画通りに行なうのにふさわしいお方だということです。悪魔は討ち滅ぼされましたが、この世はまだ悪魔の支配を受けています。将来において最後の裁きがくだされるときに、そして、悪魔が御使いによって縛りあげられるときに(黙示20・1~3)、そして神の国がこの地上に実現されるときに、はじめて平和と正義とが支配するようになるのです。

十字架につけられ復活されたイエス様、「ほふられた小羊」が、釘を刺された手で巻物を受け取られました。このとき、天に強い緊張感が走りました。「誰もできなかったことを小羊がなしとげられた」という驚きです。そしてその驚きはすぐに、喜びの声に変わりました。巻物が小羊の手にのせられました。小羊は巻物を受け取りました。この巻物といっしょに全世界がイエス様の手の中におさめられたのです。イエス様が世界の歴史の主なのです。

釘を刺されたその手が、巻物を持っていることに目を留めましょう。十字架に釘づけられた小羊こそが、偽りのない愛の方であり、絶えることのない愛の持ち主であることを意味しているからです。黙示録の6章から「世界の審判」が始まりますが、その中で、私たちは「愛のゆえにほふられた小羊の手の中に、私たちと世界がおかれている」ことを、しっかりと心に留めておきましょう。

(5)すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(6)さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。(黙示5・5、6)

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・5、6)

ヨハネは、神の御座の真中にいる小羊と、その周りに長老たち、生き物たち、御使いたちといっしょに、全ての者たちが集まっているのを見ました。全てのものが、小羊の周りに引き寄せられているのです。全てのものが小羊の周りで光を得、全てのものが小羊によって治められているのです。

私たちの場合もこれと同じように、小羊イエス様が中心におられるでしょうか。神は御座にまで小羊を引き上げられたのです。私たちもまた「ほふられた小羊」を生活の中心に置こうではありませんか。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ1・16~22)

3.小羊への礼拝


私たちは今まで、どのようにして御座におられる小羊に権威が与えられたかということを見てきました。

小羊が巻物を手に取ってからは、礼拝がはじまります。神の書物といっしょに世界の運命がイエス様の手の中におかれたのです。今や神のご計画が実現される時がきました。ご自身の血を流された小羊こそが救い主であり、死を克服したお方であり、そして世界の支配者なのです。このお方に対して礼拝が捧げられるのです。今やすべてのものがこのお方の足元にひれ伏し、このお方を賛美するのです。

ヨハネの時代に黙示録を読んだ人々は、ここを読んだ時きっと、皇帝が王位につくときのありさまを思い浮かべたことでしょう。当時の即位式では、最初に皇帝に直接に仕える人々が礼拝を捧げ、次にそれらを守る人々が礼拝を捧げ、そのあとで帝国に住むすべての人々が礼拝を捧げまこの黙示録の箇所でも、はじめに御座の最も近くにいた者たち、つまり、四つの生き物と二十四人の長老たちが主に礼拝を捧げました。二番目に天の軍勢たちが、三番目にすべての造られたものたちが礼拝を捧げたのです。

これらの三つの群れの間には、はっきりとした違いがあります。つまり、第一の群れが少なく、第二の群れがそれよりも多く、第三の群れが最も多数です。第一の群れの人々を、ヨハネはよく見ることができ、その声もまたよく聞こえました。第二の群れの人々の姿はよく見ることができなくなりましたが、声はよく聞こえたのです。第三の群れの人々の礼拝になると、ヨハネはもはや全く見ることができませんでしたが、それでもその声はよく聞くことができたのです。

第一の群れの人々が礼拝をリードし、第二の群れの人々がこれをくり返し、第三の群れの人々がこれに賛同したのです。さらに、これらの三つの群れが小羊に呼びかけたその呼びかけ方にも違いがあります。第一の人々は「あなたがふさわしい方です」、第二と第三の人々は「彼がふさわしい方です」と呼びかけています。私たちはこれらの三つの群れについてさらに詳しく見てみましょう。

1.四つの生き物と二十四人の長老たちの礼拝


四つの生き物と二十四人の長老たちは、御座の一番近くにいました。「四つの生き物」とは、4章に記された神の御座の中央と回りにいた御使いの頭たちです。これらの御使いの頭たちは、神の支配と栄光と聖さを表わす者たちでした。「二十四人の長老たち」は、天に引き上げられ、ほうびを与えられた教会を示しています。彼らは白い衣を着ています。それは彼らが小羊の血で着物を洗われたばかりでなく、彼らが祭司だからです。彼らはさらに「王」でもあります。なぜならば、二十四人の長老たちは、神の御座の回りの座につき、冠をかぶっていたからです(黙示3・21、4・4)。彼らは王としての、また裁くための権威をもって、イエス様と共に支配することになるのです。

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。(第一コリント6・2、3)

また祭司としての彼らは、「香」のいっぱい入った金の香炉を持って、小羊の前にひれ伏しています。この香は、地にいる聖徒たちの祈りです。

私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。(詩篇141・2)

天国においては、すべての必要が満たされているので祈る必要がなく、ただ礼拝のみが捧げられます。ですから二十四人の長老たちが持っている金の香炉の中の「香」というのは、地上にあって大きな患難を通っている信者たちの祈りです。患難の時代にも、まことの信仰を持ち続ける人々はいるのです。

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18・7、8)

私たちがこの地上にあってしなければならない最も重要なご奉仕とは、「祈りと礼拝」です。主の願いは、私たちが祈りを通して主と一つになって支配することです。金の香炉が火の炉を通して作られたと同じように、苦しみと悩みとを通ってきた人々の祈りだけが、世界の歴史を変えることができるのです。自己中心的な祈りは何の役にも立ちません。祈りによって、私たちは神のご計画が成就するよう、共に力を合わせることができるのです。

二十四人の長老たちは歌う人々でもあります。彼らは立琴を鳴らして歌っています。

かつて、旧約の時代に、ネブカデネザル王が造った金の像を拝むときにも立琴が奏でられました。(ダニエル3・5)ローマの皇帝もまた立琴を奏でて崇拝され、彼の前には香さえも焚かれました。「香のいっぱい入った金の鉢」や「立琴」、「歌」という言葉は、このような時代背景があるのです。

さて、これから、「第一の群れが捧げた新しい歌」について考えてみましょう。

「新しい歌」については聖書の中に非常に多く書かれています。(詩篇33・3、40・3、96・1、98・1、144・9、149・1、イザヤ42・10など)私たちは、新しい歌が生まれた根拠、歌の内容、歌詞という三つの点について見てみましょう。

はじめに、なぜ、この歌が「新しい歌」と呼ばれるのでしょうか。それは、この歌が新しく作られたからではなく、「神が新しいことをなさるので」歌われたからです。新しい歌の根拠は神のなさる奇跡です。

黙示録15章3節では、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とが歌われています。それはこの二つの歌の間に共通性があるからです。神はその敵に打ち勝たれました。つまり、モーセはエジプトに対して、イエス様は悪魔に対して打ち勝たれました。また、神は絶対的な王です。モーセの時代には神はご自身が買い取られたイスラエルの民の王であり、現代では、イエス様が、信者たち、つまりイエス様の血をもって買い取られた民の王です。そして、モーセの時代も、今日も、イエス様に買い取られた者は、神から離れている人々のために生きた証人として奉仕しなければならないのです。

「新しい歌」で大切なのは、人間が何を経験したかではなく、神がなされた奇跡です。「新しい歌」が生まれたのは、神の勝利と神の支配が成就し、救われた民が神への奉仕をするためです。

次に、この「新しい歌」の内容で大切なことは何でしょうか。それは、歴史上の一点における神の一時的な勝利ではなく、「最終的な神の勝利」が歌われていることです。新しい歌では、神の最終的な支配と最終的な栄光が主題です。小羊は罪と死と悪魔とに打ち勝たれ、今や、支配しようとしておられます。そしてすべてのものは終わりに近づき、神はご栄光を現わそうとしておられます。

では、「新しい歌」の歌詞はどうでしょうか。その歌詞の中で、三つの小羊の尊厳が歌われています。「あなたは巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です」。そして、「あなたはほふられて、その血により・・・・人々を贖い」、「この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」というものです。

巻物を受け取り、そして、封印を解くことは、何を意味しているのでしょうか。それは、今まであったいかなる宗教、いかなる文化、いかなる政治形態もそれをなしとげることができなかったことをイエス様がなしとげられるということです。つまり、イエス様は「全く新しいことをなしとげられる」のです。

この新しいこととは、「罪からの贖い」であり、「神と人との和解」です。すべてのこの世の悩みは、神との分離から起こります。聖なる神と人との間には、罪という壁ができています。罪と咎とが人を神から引き離しているのです。イエス様は、反抗と闇と不安の国から、平和と安息と光の国へと橋を架けられたのです。イエス様はこのことをご自身の血をもって、ご自身がほふられることを通して、なしとげられました。さらにイエス様は、ただ単に橋を架けられただけではなく、悪魔の奴隷となっていた私たちを贖って、買い取ってくださったのです。罪を通して、悪魔は私たちの上に力を振るいます。しかし、イエス様は、ご自身の血の代価を払って、私たちを死と罪と悪魔の奴隷の状態から贖い出してくださったのです。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6・20)

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1・18、19)

このことを信じ自分の罪を悔い改めて感謝を捧げるときに、私たちは解放を体験することができます。イエス様によって解放された人は、本当に自由になれます。しかしこの自由とは、自分自身の生活のための自由ではなく、イエス様のために生きる自由です。

信仰生活は、主イエス様の血の価値を心の眼で見、そして、それに対して感謝をすることから始まります。血によって贖われた者だけが、このことに感謝することができます。ですから、まず初めに、自分の罪を認め、それを告白することが必要です。

あらゆる部族、民族、国民の中にイエス様によって贖われた人々がいます。イエス様の教会は、あらゆる民族の中の救われた人々で構成されていますが、人々の間には真の一致があります。これは将来、すべての国民がイエス様の足元に一つになってひれ伏すときの一つの象徴です。そしてイエス様は、私たちを王とし、祭司としてくださったのです。

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。(黙示1・5、6)

黙示録5章10節に「彼らは地上を治めるのです。」とあるのは、未来における支配を意味するだけではなく、現在においても私たちが祈りを通して主と共に支配していることを意味しています。私たちがイエス様の御手に全てをゆだねるときに、イエス様は奇跡を行なわれます。「イエス様と共に支配する」とは、「イエス様の支配が私たちを通して現わされる」ということです。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8・37)

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4・13)

このように、新しい歌は「贖いの歌」です。ですからこの歌は、贖われた者だけが歌います。しかも彼らは歌うだけでは満足せず、立琴やいろいろな楽器を奏でて小羊を讃えているのです。イエス様は贖いの死を通して神の御座の中心につかれましたから、新しい歌は、イエス様が中心です。ですから、「あなた」、「あなた」、「あなた」と書かれているのです。では、反対に「古い歌」とはどのようなものでしょうか。古い歌の歌詞は、古い人のつぶやきと、「私」、「私」、「私」という言葉で満ちています。その結果は「私は何という惨めな人間だろうか」ということにしかなりません。

イエス様こそがあらゆる思いと喜びの中心です。

イエス様こそがすべての被造物の中心です。「新しい歌」において大切なことは、贖われた者が何かを受け取るのではなく、小羊に礼拝を捧げるということです。そして、彼らがただ「歌った」というだけではなく、「今なお歌っている」ということ、つまり、彼らの礼拝が永久的なものであることが大切です。

神はすべての誉れがご自身に帰せられ、同時にそのことによって人間が祝福を受けることを望んでおられます。それに反して悪魔の目的は、神の誉れを奪い取り、人から祝福を奪い取ることです。そして、悪魔はアダムをそそのかしてその目的を果たしました。悪魔は人に、「あなたは神のようになれる」と語りかけました。アダムとエバはこの悪魔の嘘を信じたのです。その結果、彼らはエデンの園を追われ、神の祝福を失いました。人が悪魔の奴隷となってしまったために、神の誉れもまた失われてしまったのです。

しかし、イエス様が失われた者を救い出し、罪の問題を解決し、悪魔を討ち滅ぼすために、この地上に来てくださいました。イエス様は神の誉れと人の救いのために死んでくださった、永久に崇められるべきお方なのです。

イエス様は今もなお、失われている人々にそのことをわからせるために眼を開かせ、ご自分のものとし、救いの確信を与え、そして、永遠のいのちを与えようとしておられます。永遠のいのちを与えられた人は、直ちに新しい歌が歌えるようになるのです。「忘れてはならないのは、新しい歌が、個人的な救いだけを歌うものではなく、悪魔がその支配の座から追い落とされ、神と人との間に新しい創造が行なわれたことに対する賛美だ、ということです。

2.多くの御使いたちの礼拝


今まで四つの生き物と二十四人の長老の礼拝について考えてきましたが、次に、11、12節に出てくる、さらに大ぜいの御使いたちの礼拝について考えて見たいと思います。

御使いたちは二十四人の長老たち、つまり、引き上げられた教会のように、小羊に向かって親しみのこもった「あなた」という呼びかけはしていません。彼らは「救いの歌」を歌っているのではありません。なぜなら、彼らは救いを必要としなかったからです。これらの天使たと関わりがありませんから、イエス様に贖われる必要はないのです。

主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。(ヘブル2・16)

しかし小羊が巻物を手にしたときには、やはりこれらの御使いたちも黙っていることができずに、賛美の声をあげたのです。御使いたちは、小羊の尊厳をほめたたえて次のように言いました。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」と。ここには神の力あるみわざを表す七つの言葉が続いています。七は完全数ですから、イエス様は、全ての力と栄光と富を持っておられるのです。

ところで、小羊をほめたたえている御使いたちは非常に大ぜいでした。「その数は万の幾万倍、千の幾千倍」でした。この時代、ローマ皇帝を崇拝するめに集まった群集など、小羊をほめたたえるために集まった天の御使いたちに比べれば、ほんのとるに足りない数でした。今日生きているすべての人々でさえも、この天の軍勢に比べれば、ほんの少数だと言えます。そして御使いたちは、罪を犯さず、清い者であり、神を離れたことのない者たちでした。したがって、神様は人間がいなくても決して孤独なわけではないのです。それにもかかわらず、神が人間を召しだして、神の子としてくださるとは、真に驚くべきことです。しかも、神の御前ではこのような御使いたちよりも、二十四人の長老たち、つまり天に引き上げられた教会の方が神により近い所に立っているのです。神に恵みを求める者は、救いを見いだすのです。恵みを求める者は神の子となり、そして、キリストの花嫁となるのです。何という恵み、何という特権でしょうか。聖書には、このような証しがあります。

人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。(ヘプル2・6)

3.あらゆる造られたものたちの礼拝


黙示録5章の3節では、御使いたちよりもさらに大ぜいの、すべての造られたものたちが賛美と礼拝を捧げています。天に引き上げられた教会と天の御使いたちを除いた、すべての残りの生き物たち、人や魚や鳥や獣などあらゆる被造物が、第三の群れとなって礼拝しているのです。

天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。(詩篇96・11、12)

海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。(詩篇98・7)

地において主をほめたたえよ。海の巨獣よ。すべての淵よ。火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。(詩篇148・7~10)

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。(詩篇150・6)

今日、すべての生き物は、悪魔の支配の下でため息をついています。すべての造られたものが解放を望んでいます。まもなくこの希望は叶えられることでしょう。私たちイエス様を信じる者の希望は、言い表すことのできないほどの大きな広がりをもっています。個人の救いだけが問題なのではなく、すべての造られたものの解放が問題なのです。小羊の血を通して、あらゆる造られたものの夜の時が過ぎ去るのです。つまり、植物や動物たちの生存競争や病と死、地震や噴火などの天災もなくなります。ローマ人への手紙にある、次のみことばが成就されるのです。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(ローマ8・19~21)

造られたものの定めは、神をほめ賛えるということです。イエス様を通して神のご支配がこの地上に実現されるときに、すべての造られたものが、ひとりのこらず、神をほめ賛えるのです。

13節で「地の下」とありますが、これはピリピ人への手紙2章10節にある「地の下」とは意味が違います。黙示録の場合は「地上」を意味し、ピリピ人への手紙の場合は「地獄」を意味しています。黙示録は、地上に住んでいるすべての生物が神を礼拝するようになる、と言っているのであり、ピリピ人への手紙は、地獄へ落ちた者、神なき者たちがキリストの足元にひざまずいて「イエス・キリストは主である」と告白すると書かれているのです。黙示録によれば、空にいるものも、水の中にいるものも、地の上、地の中にいるものも、その全てがキリストの救いを自発的に賛美するようになります。全ての生きているものは、このような賛美を捧げることができ、また捧げることがふさわしいのです。「あらゆる造られたもの」とは、全ての目に見える生物を意味しているのです。悪魔や悪霊のことではありません。

しかし、ひざまずいている者がすべて救われているとは限りません。なぜなら旧約においては、屈服させられた者もひざまずくことがあったからです。

パウロの福音は、「キリストにいます神」でした。同じことをヨハネは「御座にいます方と小羊」という言葉で表現しています。「御座にいます方と小羊」という表現は、黙示録の中にくり返して用いられています。

山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。」(黙示6・16)

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示7・9、10)

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」(黙示7・17)

また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。(黙示14・1)

彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。(黙示14・4)

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(黙示21・22、23)

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、・・・・もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え・・・・(黙示22・1、3)

終わりの14節を見ると、四つの生き物、つまり天使の頭と、長老たちとの間にも違いがあることがわかります。四つの生き物たちは「アーメン」と言い、世界の支配者であり、救い主である方をほめ賛えているのに対して、長老たちは小羊に対する愛と感謝に満たされていたので、小羊を「ひれ伏して」礼拝したのです。

神から離れた人々は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美とを自分のものにしようと努力し、それらを誇って自分自身の名をあげようとします。しかし、イエス様は、これらのものを永遠のはじめから持っておられたにもかかわらず、すべてを捨て去ってしもべのかたちをとり、かえって辱めと貧しさとを身に負われました。なぜでしょうか。それは、神の栄光が現わされるためと、私たちの救いのためでした。イエス様はご自分から地上においてこれらの富を捨て去って、悪魔に打ち勝ち、人間を救い、そして神の栄光を現わされたのです。

しかし今では、イエス様はそのときに捨て去られたこれらすべての力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、賛美を持っておられるのです。

世界の支配者であり救い主であるイエス様は、聖霊によって私たちの真中におられます。もしイエス様に、私たちの内にある不信仰と疑い、ごうまんと汚れ、自我や不真実、ねたみなどの封印を破っていただくならば、私たちの目は、主ご自身の偉大さと力と愛とに向かって開かれるでしょう。

私たちはイエス様のみもとに来て、赦しを求め、自分の支配権をイエス様に明け渡そうではありませんか。そうすれば、私たちの中にイエス様への喜びが起こり、新しい歌をもってイエス様をほめ賛えるようになることでしょう。

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