2016年4月5日火曜日

神の近くにいる幸い

神の近くにいる幸い
2016年4月5日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一列王記
3:1 ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとって、彼女をダビデの町に連れて来、自分の家と主の宮、および、エルサレムの回りの城壁を建て終わるまで、そこにおらせた。
3:2 当時はまだ、主の名のための宮が建てられていなかったので、民はただ、高き所でいけにえをささげていた。
3:3 ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。

ソロモンという男は、もしかすると世界一の金持ちだったかもしれないし、世界一、頭の良い男であったかもしれない。けれども、それは別にどうでもいい。この3章の3節に書いてあることはすごい。「ソロモンは主を愛した。」もし、私たち一人ひとりについて、同じことを言えれば、ありがたいと思います。

まず、詩篇から、お読みいたします。もちろん、全部、ダビデの告白であります。

詩篇
16:11 あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。

こういうふうに、御心にかなうダビデは、告白することができたのです。イエス様の切なる願いとは、いったい何でしょうか。ヨハネ伝15章1節を見ると、分かります

ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

これこそ、主の願いであります。私たちにとって大切なのは、新しく生かされることであり、また、主に対する愛によって、動かされることなのではないでしょうか。

もう、十何年か前でしょうかね、天に召された兄弟がいました。アキオ兄弟です。彼は、次のように歌ったのです。「兄弟姉妹、喜びに満ちて、イエス様、大好き、イエス様、大好きよ」と、よく歌ったのです。

大切なのは、私たちがいろいろな信仰的な内容を信じているということではなくて、実際に、イエス様と交わりを持っているかどうかということだけが大切です。イエス様を信じるようになり、イエス様を愛するようになった人々に、主は、次のように言わざるを得なくなったのです。大変な箇所です。

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知っていれば、まだ良いほうですけど、知らなければ、悲劇そのものなのではないでしょうか。何も分からないのは、大変ですけど、わからないことでさえも、わからなければ、悲劇的です。ソロモンは、今、言ったように、どういう男であったか、いろいろなことを言えますけれども、彼は主を愛したと、聖書は、簡単に言っているのです。ペテロも、当時の信じる者に向かって、似ていることを言うことができたのです。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

こういうふうにペテロは、当時の信じる者について、書くことができたのです。

主なる神は、愛そのものです。私たちは、この事実について考えると、確かに感謝し、礼拝せざるを得ません。この愛の証拠なるものは、この罪にまみれた世界に送られた、また、死に渡されたイエス様であります。この愛を経験した人々は、確かに、大いに感謝することができ、礼拝することができ、よろこぶことができます。

今日、ここまで来られたお一人、お一人についても、彼は、彼女は主を愛していると言えるかどうかが問題なのではないでしょうか。いちばん大切なのはいったい何でしょうか?言うまでもなく、いちばん大切なことを知ること、また大切にすることなのではないでしょうか。イエス様の教えたことは、ひとつの教えというよりも、イエス様の呼びかけとは何だったでしょうか。

皆さん覚えているでしょう。マタイ伝、11章28節。わたしの所へ来なさい。おいで!待ってるよ。イエス様のところへ行くと、愛されていることを知り、解放され、大いによろこぶことができます。みことばの中で、「あなたの神である主を、愛せよ」と、あります。

これは最大の、そして、いちばん大切な戒めです。主なる神は、我々の二心なき愛を求めておられます。主は、真心からの愛を望んでおられます。真の愛は、主からのものです。主なき真の愛は存在しません。真の愛と主なる神は、不可分のものです。

第一ヨハネ
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

主は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。

サウロという男は、長いあいだ、イエス様を憎み、信じる者を迫害しました。いかなる人も、彼を、間違った道から引き戻そうと納得させることが、もちろん、できなかった。彼は、どのようにして、イエス様を紹介するいちばん熱心な伝道者、証し人となったのでしょうか?そのことを、彼は、ひとつの文章で短く語っています。有名なガラテヤ書、2章20節です。「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリスト」と。彼は、何を瞬間的にわかったかと言いますと、この愛が、パウロを圧倒しました。この愛は、パウロの人生を根底から変えました。この愛は、パウロに迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求しました。

十字架は、何を語っているのでしょうか。「わたしは、あなたの創造主であり、また、あなたの救い主でもある。愛そのものであります。わたしは、自分自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を支払った」と。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」これが、大切な第一の戒めであると、イエス様は、はっきり言われました。けれども、正直な人々は、みな、わかるでしょう。すなわち、自分の力では、主の律法を、主の戒めを守ろうと思っても、うまく行かない。主イエス様の御許(みもと)に近づき、言うべきです。「私は、守りたい!けど無理。できません。私は、敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、全く不可能です。私の内には。何ひとつ良いものがない。自分の力によっては、全く自己中心的な生活を送ることしかできません。」

イザヤ書の中で、また、次のような、すばらしいみことばが書き記されています。

イザヤ
57:15 ・・・・「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

『私は、初めの愛から離れているのではないでしょうか?』と、私たちも考えるべきなのではないでしょうか。

黙示録
2:4 ・・・・あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

『初めの愛』というのは、イエス様との交わりです。イエス様なしに、何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、毎日毎日、聖書が我々の力の泉、また、慰めの元となり、よろこびの源となっているならば、そして、私たちの考えと行いの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそ、我々の初めの愛が保たれていることの証拠です。これが、燭台がその場に置かれていることの大切な条件です。

初めの愛の特長は、何でしょうか?主の足元に静まることです。すべてを主に明け渡すことです。徹頭徹尾、主にだけ、より頼むことです。また、主の御心に従うことです。そして、主と主の導きに信頼することなのではないでしょうか。

私たちも、ソロモンのように、真心から主を愛することができれば、本当にありがたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿