2016年4月19日火曜日

知るべき知識

知るべき知識
2016年4月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一ヨハネ
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

今日は、あらゆる人間がどうしても知っていなければならない事柄について、一緒に考えてみたいと思います。すなわち、主なる神、お一人が与えることがおできになる知識についてです。今、読んでもらいました箇所の一節 を、もう一回、読みます。

第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていること(・・・・持つようになることではなくて、現在、持っていること・・・・)を、あなたがたによくわからせるためです。

原語を見ると、『はっきり確信するため』であるとあります。今日、確かに知識のことについて、非常に強調されています。一定の学校教育が終わっていなければ、ひとつの職業、職場を見つけるのはちょっと難しくなっているのではないでしょうか。

けれども、人間だけではなく、生ける真の神も、知識を大切にします――強調されています。ただ、主の要求されている知識と、人間の考えている知識とは、もちろん、同じものではない。真(まこと)の知識、すなわち、どうしても必要な知識とは何なのでしょうか。確かに、繰り返し繰り返し、神のみことばである聖書の中に、知識という言葉が出てきます。

イエス様の弟子の一人であるヨハネは、彼の書いた手紙の中で、次のように言っていますね。今、読んだ箇所です。

第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

真の知識は、安全と静けさ、それから、よろこび、力、そして、忍耐を与えてくれます。確かに現代は、知識を強調しますが、現代は、たいへんな動揺によって、特長付けられています。すべての過ぎ行くもの、また、物質的なものは、不安定です。その結果として、多くの人は恐れているし、恐れに満たされているだけではなくて、支配されている。多くの人は非常に心配して、うちのめされた気持ちになっています。終末の時代について、聖書は何と言っているかと言いますと、ルカ伝21章を見ると、次のように書かれています。

ルカ
21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

地のことだけではなく、熊本のことだけではなく、ここでは、天の万象が揺り動かされる――想像できないことです。けれども、生ける真の主なる神は、保証と安全を与える真の知識を与えたいと思っておられます。しかし、動かされない真の確信の土台は、いったい何でしょうか。それは言うまでもなく、主のみことばです。聖書です。主なる神は、ご自身を現してくださいました。主なる神は語ってくださり、主のみことばは、真理です。イエス様は、次のように言われたことがあります。

マタイ
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

真理そのものであるイエス様は、嘘を知らない方です。そのとおりです。「わたしのことばは決して滅びることがない。」ペテロというイエス様の弟子の一人も、同じようなことを書いたのです。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:25 主のことばは、とこしえに変わることがない。

主は、お語りになられました。そして、この主の語られたみことばを、我々は、聖書の中で持っているのです。どうして主は、お語りになったのでしょうか。それは、私たちに真の知識を与えるため、私たちにはっきりとした確信を与えるためです。

けれども、私たちはいったい、何を知るべきでしょうか。次のことです。

まず、第一番目、私たちは、イエス様が今日も生きておられ、私たち一人ひとりを愛していてくださる――結局、我々の個人的な救い主だけではなく、友であられます。この確信を持つべきです。すなわち、主なる神は、私たちが一人の人格、すなわち、イエス様を知るに至ることを望んでおられます。そこでは、教えや宗教、あるいは、道徳が問題なのではなく、一人の人格、すなわち、イエス様が大切です。

長いあいだ、タルソのサウロにとって、ナザレ人イエス様ほど、憎んだ人はありませんでした。なぜなら、サウロは次のように信じ込んでしまったからです。すなわち、イエスという男は、今までで、いちばんひどい大嘘つきであり、いちばんひどい冒涜者であり、十字架の死は、主イエスに対する真の罰であった、そのように、サウロは信じ込んだのであります。

けれども、十字架につけられ、よみがえられ、そして、天にまで引き上げられた主イエス様は、このサウロに出会ったのです。その瞬間、彼は、自分が長いあいだ、思っていたこと、そのものが間違っており、間違った方向に進んでいたことを知るようになりました。彼は、自分の罪のもとに伏しました。そして、それから後で、信仰の後継者になったのです。すなわち、よろこびをもって、殉教の死を遂げるようになったのです。このかつてのサウロ、今やパウロとなった男は、次のように言いました。一文章だけですけど、大切な告白です。

第二テモテ
1:12 私は、自分の信じて来た方をよく知っております

すなわち、彼は次のように言っているのです。「私は、私が個人的に知った方、すなわち、主イエス様をよく知っているのです。」まさにこれこそ、すべての主を信じる者の告白です。すなわち、私は長いあいだ、真理に対して、メクラでした。自分自身についても、全く何も知りませんでした。けれども、私は、イエス様が私を愛してくれただけではなく、私のためにご自身のいのちを捨ててくださったことを知っている。そして、その主イエス様が、日夜、私のことを思っていてくださることを知っている。イエス様は、私の個人的な救い主であり、私の主であり、また、友であられます。

この確信の土台となっているものは、ただ神のみことばだけです。イエス様は、言っておられます。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てません。」ですから、祈りによって、イエス様のみもとに来た者は、イエス様がお捨てにならないで、私をも受け入れてくださったということを知っていたのです。結局、パウロは、よろこんでこのイエス様は、私の救い主です(と言いました)。

次に私たちが知らなければならない二番目のことは、いったい何でしょうか。すなわち、自分の罪が全部、赦されているということです。

第一ヨハネ
2:12 私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

自分の罪をイエス様に告白する者には、誰に対しても、イエス様は、「あなたの罪は、赦されています」と言ってくださいます。マルコ伝、2章5節、その通りに書かれています。

マルコ
2:5 あなたの罪は赦されました。

罪は、人間と主なる神との間にある隔ての壁です。イエス様を通して、生ける真の神との交わりを、まだ持っていない人は、いちばん大切な知識、すなわち、人間と主なる神との隔ての壁が取り去られたということ、そして、主の流された血潮によって、すべての罪が赦されているという確信を、まだ、持っていないのです。

イエス様が十字架で死んでくださった時、イエス様は、私たちの代わりに死なれました。聖書の中心なるテーマとは、それなのです。

聖書は、次のように言っています。罪を犯す者は、罪の奴隷です。罪を犯した者は、死ななければならない。しかし、父なる神は、罪人の死を望んでおられるのではなく、罪人が悔い改めて生きる者となることを望んでおられます。イエス様は、我々の罪を赦してくださるために死んでくださったのです。神のみことばは、次のように言っています。

イザヤ
53:5 彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

バプテスマのヨハネが、初めてイエス様を紹介した時、どういう言葉で紹介したかと言いますと、ヨハネ伝、1章29節、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」また、イエス様の弟子であるペテロも、同じように告白したのであります。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

父なる神が言われたことを信じ、そして、イエス様を受け入れる者は、もちろん、救われています。すなわち、自分の罪は赦されており、父なる神との平和と、永遠のいのちを持っているのです。

使徒行伝
13:38 あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

ダビデ王は、三千年前に、このことをつぶさに体験しました。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

彼は、自分の体験談として、証しとして、こう言ったのです。

詩篇
103:12 東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

父なる神が我々に与えたいと思っておられる三番目の知識、あるいは、確信は、私たちは、死からいのちに移されているという知識です。生まれつきの人間は、霊的には、死んでいます。すなわち、生ける真の神との結びつきを持っていません。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

それだけではなく、パウロは当時のエペソに住んでいる兄弟姉妹に書いたのです。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であっ(た。)

これらの言葉は、我々に、この状態を示しております。自分自身の力で天に行きたいと思っている人々に対しては、イエス様は、次のように言われました。

ヨハネ
5:40 ・・・・あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

主の御許(みもと)に来ること、それから、イエス様を信じること、さらに、イエス様を受け入れるということは、いのちを見出すこと、永遠のいのちを得ること、新たに生まれることを意味しています。そして、このことは、永久(とこしえ)の安全を意味しています。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

第一ヨハネ
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。

どうでしょうか。今日、来られたお一人おひとりは、新たに生まれ変わっているということ、そして、新しいいのちを持っているということ、そして、霊的な死から救われているということを、確信しているのでしょうか。

もう一箇所、読んで終わります。良いニュース、そのものです。毎日、新聞、テレビを通して、皆、ニュースを見たり、聞いたりするのですけど、大したニュースではない。ニュースを見てうれしくなる、感謝せざるを得なくなるニュースはない。けれども、ヨハネ伝5章24節を見ると、これこそ良いニュース、そのものです。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

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