2016年2月23日火曜日

掟からの解放

掟からの解放
2016年2月23日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

出エジプト記
20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

マタイ
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

ローマ
7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――
7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

今日のテーマは、掟の支配からの解放です。

私たち、すなわち、イエス様を受け入れた者は、今日まで過ごしてきた時を振り返ってみると、次のように言えるのではないかと思います。

長いあいだ、神なく、望みなく、さまよって、何のために生きているのか、わけが解らなかった。心中には満足がなかった。望みはただ、地上のものに置かれ、自分の願いがかなえられたら、それを無上の幸福としていた。このような時、神の御子、イエス様が全人類のために成し遂げられた御救いを知るようになりました。驚くべき福音を聞いたのです。そのうちに、だんだん、自分は救われ難いどうしようもない者、罪の内に死んでいて、どうしても身代わりに死んでくださった神の御子であるイエス様の救いを受け入れなければならないことを知るようになりました。それから、「主よ、私は滅びなければならない。どうしようもない者です。あなたは聖なるお方です。願わくば、御子、イエス様の血潮によって、私の罪を赦し、お救いください」と祈り、イエス様を心の内にお迎えするまでのあいだ、非常な心の戦いがあったことでしょう。

けれども、イエス様を受け入れた後は、よろこびと平安に満たされ、幸いな生涯に入れられたことになったのです。けれども、そうしているうちに、私たちは、自分の罪は赦されたが、自分の内には依然として、罪が残っていて、いつも同じ罪を犯してしまうということに気づかされたのではないかと思います。

イエス様は、我々の罪のために、亡くなられたばかりでなく、我々、罪人のために、亡くなられたのです。我々の罪が消し去られたばかりではない。我々自身も、古き人は、イエス様と共に十字架につけられてしまったのです。私は、キリストと共に十字架につけられてしまったのだ。これがわかった時のことは、終生、忘れることのできないひとつの大きな経験でした。

これがわかった時、自分はイエス様と共に死に、共によみがえられたという驚くべき知識が、続いて、自分のものとなってきたのです。その時、同時に、自分は、もうすでに己のものではない、尊い血潮に贖われたがゆえに、主のものであるということを知るようになり、感謝するようになったのです。その結果、全身全霊を主に捧げ、主にお委ねするようになりました。私たちの大部分の人々は、このように信仰の道を進んでこられたのではないでしょうか。

イエス様は、こんな私たちのために、驚くべき救いの御業を成してくださった。自分は、イエス様のために尽くしたいという願いが湧いてきた。また、それから進んで、主によろこばれることとは、主のためにあれやこれを成すことではなく、主の御心を尋ね求めて、それに従うことであるということも、わかってきたでしょう。

いわゆる献身者、まことの献身者は、主の御心を成す人です。イエス様と同じように、『わたしの思いではなく、あなたの御心が成りますように』と願う人、また、イエス様の母、マリヤのように、『みことばの通りに成りますように』と願う人が、まことの献身者なのではないでしょうか。

けれども、何をするにも、主の御心にかないたいと願っているにもかかわらず、なお、自分の心のどこかに、それを止めようとする何ものかが潜んでいることに気づき始めました。それを発見した時に、今までの経験を疑い始めました。はたして、自分がイエス様と共に、十字架につけられたというあの示しは間違いだったのだろうか?いや、確かにあれは教えられたことだ。それでは、イエス様にすべてを明け渡さなかったのでしょうかと疑います。けれども、確かに、自分の生涯をイエス様に明け渡した。

そうは言っても自分の内には、違った神に反する分身が潜んでいる。ただ主にだけ仕え、主にだけよろこばれたいと願えば願うほど、そのたびに失敗してしまいます。そのような時、あれが罪だったのだろうか、これは不従順だったのだろうかと思いをめぐらし、それを主に告白し、勝利の生活に入ろうとしますけど、祈って立ち上がるや否や、また、失敗して、敗北の生活に入ってしまいます。

この前、主にこの身をお捧げしたのは、完全でなかった。今、改めて再び、この身を主にお捧げしましょう!と言います。けれども、それもやはり無駄で、前とかわりがない。今、読んでもらいましたローマ書7章18節、19節にパウロが叫んでいるのです。私たちも叫ぶようになるまで、同じことを繰り返すのではないでしょうか。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

ここまでの信者の霊的戦いが、ローマ書の7章に、全部、含まれて、書かれています。すなわち、掟(おきて)の支配からの解放について、書かれています。三つの点に分けることができるかもしれない。第一番目、掟(おきて)は、我々に何を教えるでしょうかね。ニ番目、掟の終わりである主イエス様。そして、三番目、自分を見限ることの祝福について、考えることができます。

第一番目、掟は我々に何を教えているのでしょうか。神の掟は、ご存知のように、モーセの十戒にまとめられています。イエス様は、それを、いわゆる山上の垂訓で説明しておられます。さらに、神の掟を、イエス様がまとめて、一言で言われたみことばが、マタイ伝、22章に書かれています。

マタイ
22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

イエス様は、こう言われました。私たちは、ある物がどれだけの長さがあるか、いわゆる、物差しを使います。同じように、私たちは何が正しいか、何が悪いかを知るために、主の掟を用います。今日の世界を見ると、善悪を計る尺度が、人間の頭になってしまっている。その結果、国々のあいだでは、争いがあり、また、人々のあいだにも、不和と不一致があります。

前に、茨城県の那珂湊に住んでいた頃の出来事ですけれども、ある時、近所の八百屋さんに新しく雇われてきた小僧さんが、買い物をした時、「これは、だいたいいくらです」と言って、品物をくれました。普通の値段より、安くだいたい見積もってくれるならありがたい――幸いでしょうけど、だいたい見積られて払ったお金の半分くらいしか、品物をもらえなかったから、もう、ちょっとおもしろくない。大変なことです。

多くの人々は、この『だいたい』という言葉で、物事を曖昧にしてしまうのではないでしょうか。罪についても、だいたいこれくらいなら良いだろうと、ごまかしてしまいます。

人が善悪を判断する時、いつも、だいたいくらいの判断しかできない。けれども、主の場合は全く違います。このゆえに、主は人に、はっきりした計りとして、掟を与えてくださったのです。掟は、主が我々のまことの姿を見られるごとく、私たちが自らのまことの姿を見ることができる唯一の鏡です。すなわち、掟によって罪が映し出されます。

ローマ
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

私たちは、自ら進んで、この鏡の前に立つのでしょうか。または、神の前から身を隠すのでしょうか。

ダビデは、自らの姿を写し出していただくために、あえて、神の鏡の前に立ちました。彼は、結果として、祈りました。「神よ、どうか私を探って、我が心を知り、私を試みて、我が諸々の思いを知ってください。私に悪しき道のあるかないかを見て、私を永久(とこしえ)の道に導いてください」と、ダビデは心から祈ったのです。

ダビデのように鏡の前に立つには、何とかして真理を知りたいという飢え渇きがなければ、できない相談です。多くの人は、半分、暗闇の中に入っていて、光に来ようとしません。裸のままの姿で、主の前に立つことをしません。

かつて、イエス様は、光に来ようとしない人々を嘆いて、ヨハネ伝3章のように言われましたが、今日、多くの人が同じでしょう。

ヨハネ
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

暗黒の中に住み続けたいと願うのは、本当に恐ろしいことです。このような人々は、やがて、主の御前に立たされる時、目が覚め、自らの滅び行く様を見て、恐れるでしょうがその時は、もうすでに遅すぎます。

癌の患者が、医者の忠告を聞かず、生活を享楽したいために、好きなことをするなら、恐ろしい結果になってしまいますが、神の掟に耳を貸さない者は、なおさら、恐ろしい結果になってしまいます。けど、掟はいつも我々の罪を、咎を暴きたてます。

掟の光に照らされると、『自分はどうしようもない者だ、自分は咎ある人間だ』と、叫ばなければなりません。

ガラテヤ
3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

掟は、主によって与えられたものですから、聖なるものであり、正しく、かつ、善なるものです。パウロは、また、ローマ書に書いたのです。

ローマ
7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。

掟、そのものは良いのですけど、掟を守らなければならない人間は、どうしようもない者です。罪を犯し、守り得なくなっているのです。

東京の全市民に、ニ千円ずつの税金を課するということは、正当な良い掟でしょうけど、たった二十円しかもっていない人であれば、もちろん、この掟を守ろうと思っても無理です。できません。

多くの人々は、一見したところ、おとなしい人のように見うけられますが、誰かに何かを言いつけられますと、すぐに不機嫌になってしまう人がいます。小さい子供たちを見ると、人々は、かわいい、かわいいと言いますが、ひとたび何か気に入らないことを言いつけますと、首を振って、言うことを聞きません。私たちも、これと全く同じではないでしょうか。

私たちの生まれながらの性質は、結局、罪です。掟は、この罪の性質があらわにされるため、主によって、我々に与えられました。すなわち、「偶像を拝むなかれ。姦淫するなかれ。偽証することなかれ。心を尽くして、汝の神を愛せよ。汝の隣人を、己を愛すると同じように愛せよ。」このように、我々の罪の性質が現れるために、掟が与えられているのです。守るためではなくて、破るため。自分の虚しさ、無力さをわからせるためなのではないでしょうか。

何とかしてこの掟を守ろうとする人は、皆、やがて、『自分が無理、でき来ません、行うことができない』ということを知るに至ります。主なる神は、私たちが足の先から、頭のてっぺんまで、罪に染まり、汚れ果てているということを、よくご存知です。けれども、この醜い己の真相を人間が知らないままでいるということが問題なのではないでしょうか。

己の真相を知るために、主なる神は、我々に掟を与えてくださいました。主なる神は、我々が掟を守ることができないことを、もちろん、知っていながら、我々に掟をお与えになりました。実は、主は、我々が掟を破るために、掟をお与えになってくださった。掟は、罪が増し加わるために与えられました。

ローマ
5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。

パウロも、このことを体験しました。

ローマ
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。

掟によって、私たちの本当の性質があらわにされます。そして、自分は徹底的に罪にまみれ、汚れ果て、このままでは、どうしても聖い神の御心にかなうことができないということを、教えてくれます。私たちはすでに、この段階に到達したでしょうか?

主なる神は、掟を人間にお与えになった時、たぶん、人間はこの掟を守ることができるかもしれないとは、お考えになりませんでした。必ず、与えるこの掟を、人間は破ると知りながら、我々に掟をお与えになったのです。私たちが、どうしても掟を守ることができない無力さを、徹底的に知らされた時、掟の役目は、それで果たされたことになります。

掟は、私たちを、キリストに導く養育係であると、パウロは言ったのですね。

ガラテヤ
3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

私たちは、掟によって、キリストに導かれる時、今まで守ることのできなかった掟を、今度は、イエス様ご自身が守らせてくださるのです。

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