2016年2月2日火曜日

近づく再臨

近づく再臨
2016年2月2日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
4:4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
4:6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
4:10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

マタイ
24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。

24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

今日は、このあいだに引き続いて、このテサロニケ第一の手紙について考えたいと思います。パウロの初めて書いた手紙です。どうして書いたかな?時間をつぶすためではない。祈った時、やはり、こういうふうに書かないと、主は中心にならない。人間が、相変わらず、がんばるようになるのではないか。がんばることを止めて、降参して、何でもできるお方に委ねたら、いかに楽になるか・・・・と、パウロは、もちろん、はっきり分かったのです。

この手紙を書いたのは、多分、五十年だったのです。書いたところは、コリントだったのです。

もちろん、パウロは、この手紙を書くことによって、いろいろなことを教えるというよりも、彼の心からの願いは、イエス様を紹介することです。イエス様だけが紹介されれば、御霊は働くようになり、一人ひとりに与えられる必要なものを、必ず与えてくださると確信したのです。

パウロは、多分、一月(ひとつき)くらい―三つの安息日と書いているから一月くらいテサロニケまで導かれたのです。その時、幸いにもキリスト教という宗教はなかった。イエス様だけで充分だと、パウロは感謝しながら、述べ伝えたのです。そして、結果として、いろいろな人々の心の目が開かれるようになり、『ありがたい、それこそ欲しかった』と思うようになり、イエス様を体験して、よろこぶことができるのです。

この1節から12節までの前半を見ると、テーマとして言えるのは、「イエス様の再臨に対する備え」、「教会の大切な、どうしても必要な準備」と、付けることができるのではないかと思います。

イエス様のご再臨こそが、復活や昇天の場合と同じように、はっきりともちろん、示されています。

使徒行伝
1:11 あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは(・・・・別のイエスではない、このイエスは・・・・)、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。

イエス様の再臨は、ニつの場面に分けて考えることができるでしょう。

まず、第一に、イエス様に属する人々――主の憐れみによって罪の赦しを、また、永遠のいのちを自分のものにするようになった人々――のために、イエス様は、空中までお出でに来られ、その次に、イエス様に属する者たちと共に、地上まで下りて来られます。

我々の信仰は、すでに成就された救いの御業に基づき、他方、我々の希望は、イエス様ご自身が、再び出現なさることによって行われる、救いの完成に基づいています。

簡単に、三つの質問について、考えてみたと思います。第一に、イエス様は、本当に再び来られるのでしょうか。ニ番目、いつ、イエス様は来られるのでしょうか。三番目、何のために来られるのでしょうか。

第一の質問、すなわち、イエス様は、再び来られるのでしょうか・・・・という問いは、今日、いわゆる現代の神学、また、多くの教会も否定されています。けれども、大切なことは、人間の考えていること、人間の思っていることではない。大切なのは、聖書は何と言っているか。どういう問題があっても、自分で考えたり思ったりすることよりも、聖書は何と言っているかと、考えるべきなのではないでしょうか。

旧約聖書の預言者たちは、すべて救い主の生誕、受難と最後の死だけではなくて、それと同時に、再臨をもはっきりと預言していたのです。もうすでに、ダニエル書に、一文章だけですけど、次のように書いてあります。『見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られる』と、預言されたのです。

【参考】ダニエル
7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

旧約聖書全体は、ニつの意味において主の来臨を預言しています。すなわち、まず第一に、小羊として、低くなられた形で、この世に来られ、第ニに、王として、栄光をもって現れるということです。新約聖書においては、どのページを見ても、主の再臨が記されています。新約聖書全体には、260の書別がなされていますが、その内、318回、主の再臨について、書き記されています。

イエス様ご自身が再臨のことについて、もちろん、はっきり言われました。そして、『行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう』と、イエス様は、当時の弟子たちに約束してくださいました。

【参考】ヨハネ
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

そして、マタイ伝24章の中で、ずっといろいろな将来のことについて、預言されていますけれども。

マタイ(口語訳)
24:27 ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。

24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

黙示録
3:11 わたしは、すぐに来る。

これは、高められ、昇天されたイエス様ご自身のことばです。

黙示録
22:12 見よ。わたしはすぐに来る。

けれども、イエス様ご自身のみならず、天の御使いたちも、イエス様の再臨について、はっきりと告げ知らせていたのであります。

使徒行伝
1:11 あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。

イエス様が来られる。けれども、イエス様ご自身のみならず、天の御使いたちも、今、話したように、はっきり、再臨について、言ったのであります。もちろん、使徒たちも、すべてイエス様の再臨について語ったのです。パウロはピリピ人たちに書いたのです。

ピリピ(口語訳)
3:20 わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

そして、再臨について考えると、おそらく誰もが、テサロニケ第一の手紙、4章16節を思うでしょう。

第一テサロニケ(口語訳)
4:16 主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。

イエス様が再び来られるというこのことこそ、この地上におけるあらゆる問題に対する、ただひとつの回答なのではないでしょうか。ですから、よく言います。信じる者がお互いに会うと、挨拶として、「もうちょっと」と言うべきではないでしょうか。長くない。もうちょっとでイエス様は来られるかもしれない。今日の集会が終わらないうちに、来るかもしれない。

その時、初めてわかる。経験したいろいろなおもしろくないことが――辛かったよ!けれども、今わかった――必要だった。必要だっただけではない。良かった!今、考えられない。『良かった』と、今は考えられない。だから、人間は、「どうして、なぜ、何のため?」と考える。けれども、主は、支配者です。偶然はない。人間の考えている運命も存在していません。

イエス様は来ます。本当に、イエス様が再び来られるという、このことこそ、この地上におけるあらゆる問題に対するただひとつの回答なのではないでしょうか。イエス様が再臨なさるということこそ、我々の望みであり、また、よろこびです。イエス様の再臨を考えない者、あるいは、確信していない者には、本当のよろこびと希望がない。また、人生の支えもありません。イエス様が再び来られるということは、全く疑う余地のない確かな事実です。

ニ番目の質問は、いつ、イエス様が再臨なさるのでしょうか。

マタイ
24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

イエス様は来られます。いつでしょうか。第一に、そのしるしが自然現象の中に見られるようになると、聖書は言っています。あちこちに飢饉が起こり、また、地震があるであろうとあります。歴史上、今日ほど、多くの飢饉や地震があった時代はありませんでした。このような自然現象の破局的な出来事は、私たちに主の再臨を忘れないようにという戒めを意味しています。

それからまた、国民と国民のあいだにも変化が起こるとあります。マタイ伝24章の中でも、『戦争と戦争の噂とを聞くであろう。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう』とあります。イスラエルをめぐる中近東における動乱は、やがて、主の再臨なさることを暗黙のうちに語っています。

また、さらに宗教生活の中にも、ひとつの大きな変化を見ることができるということ。多くの教会の中で、今日ほど、聖書を批判し、聖書に反対する定めがあった時代はないでしょう。いたるところで、妥協による一致が試みられていますが、それは、もちろん、悪魔の働きによるものです。イエス様は、また来られます。けれども、至るところで、無関心、無知、怠惰などの信仰の堕落が見られます。マタイ伝24章の中で、多くのことが書き記されています。

マタイ
24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。

もちろん、その中でも、とくに大切なしるしは、イスラエルの民です。イスラエルの民が自分たちの国を持ち、そこに戻っていく時、主の再臨は近いと、聖書は言っています。前にも述べたように、イエス様の再臨は、二つの場面に分けて考えることができます。すなわち、第一に、目に見えない形で、第ニに、目に見える形で行われます。換言すれば、一方において、イエス様は盗人のように来られ、他方において、いなずまのように来られると、聖書は言っています。

盗人は、もちろん、予期しない時にやって来ます。パウロは、テサロニケにいる人々に書いたのです。「主の日は、盗人が来るように、夜、来るように来る。」ペテロも、全く同じことを書いたのであります。

第ニペテロ
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

黙示録
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

イエス様は、また来ます。近いうちに来る・・・・と考えると、やはり、考え方、価値観も変わります。けれども、また、イエス様は、いなずまのように、すべての人にわかる形でやって来られるとも書いてあります。けれどもその時、イエス様は、もちろん、救い主としてではない。裁き主としてやって来られます。いなずまのようにという意味は、悪を裁く、滅ぼすためにという意味です。

黙示録
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

イエス様は、もはや、低い形をとられないで、大いなる栄光のうちに現れます。その日、イエスが下って来られ、聖徒たちの中で崇められ、すべて信じる者たちの中で、驚嘆されるとテサロニケ第ニの手紙、1章10節に書かれています。

【参考】第ニテサロニケ
1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

マタイ(口語訳)
24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

我々の聖書を通して、もちろん、空中再臨のことを、もちろん、よろこんで受け入れることができ、信じることができる。けれども、空中再臨の後で、恵みの時は終わり。これこそ、恐ろしいことです。恵みの時とは、結局、「見よ。今は恵みの時です。今日は救いの日です。」今日、救われようと思えば、もちろん、救われます。空中再臨の後で、違う時代になります。もう恵みの時ではない。裁かれる時です。

初代教会の人々は、みなよろこんで、私たちの国籍は天国!と確信することができたのです。結局、この確信があれば、もう心配もないし、大いによろこぶことができる。

もうちょっと!長くはない。イエス様は近いうちに来られると考えると、うれしくなる。そうすると、今、持っている問題だって、別にどうでもいいんじゃない?思い煩うな。心配するな。恐れてはいかん。これこそが、最高の薬なのではないでしょうか。

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