2015年11月25日水曜日

果たされた救いの計画(十三)

果たされた救いの計画(十三)
2015年11月24日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

第ニコリント
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

最近、私たちは、三つの問いについて考えてきました。第一番目、一度、生まれ変わった人は滅びることができるか。ニ番目、私たちの救いの望みとは、いったいどんなものでしょうか。そして、三番目、新しく生まれ変わった人は、いったい何を失うことができるか、ということでした。

今日は、主イエス様の褒美の座について、一緒に考えてみたいと思います。私たちは、イエス様と共に、永遠に支配するはずです。これこそ、我々の召しでありますが、私たちは聖められて実を結び、自分の全生活を明け渡して初めて、この召しを全うすることができます。

イエス様の褒美の座の前で、私たちが天の召しを全うしたかどうかが、明らかになります。教会の携挙、空中再臨の後、イエス様の褒美の座がやってまいります。その時、すべてが明らかになります。その時には、すべてが光の内に照らし出されます。その時、報いを受ける兄弟姉妹、報いを受けない兄弟姉妹が分けられます。

第二コリント
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

みことばを聞いて、自分のものにして信じる者は、永遠のいのちを持っているのであり、もうすでに、死からいのちに移されている。したがって、裁きに会うことがないと、書き記されています。イエス様を信じ、受け入れた者は、決して、裁かれることがない。したがって、このコリント第ニの手紙5章の「キリストのさばきの座」とは、いったいどういうことでしょうか。実際は、「報いの座」と言った方があてはまるでしょう。この裁きの座は、ギリシャ語では、三つの意味があります。その一つは、「君主の王座」、ニつ目は、「裁きの座」、三つ目に、「褒章の座」という意味があります。

コリント人への手紙で、パウロは、「私たちは」と複数形で書いてありますから、これは、イエス様を自分の救い主として受け入れた人々、すなわち、主イエス様にある兄弟姉妹に対するものであることが解ります。信じる者は、贈り物として、永遠のいのちを受け取りました。パウロは、ここで報いと言っています。永遠のいのちは、贈り物としてもらうものであり、人間の努力は全く必要ない。だから、この報いは、信じる者に言われたものであることが解ります。

いのち、あるいは、滅びが問題なのではありません。永遠のいのちは、報いとして受けるのではないからです。ここで言っている報いは、救われたイエス様を信じるようになった人々が受けるべきものです。

このコリント第一の手紙、三章11節から15節まで、パウロがコリントにいる人々に書いたのです。彼らは、もちろん、一度、救われていましたし、けれども、そのままではちょっと問題。「あなたがたは、成長しなければならない。主の用いられる器にならないと良くないよ」と思って書いたのです。

第一コリント
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

結局、滅びないということです。主なる神のみことばは、何とはっきりしているのでしょうか。コリントの信者たちは、本当に救われた人々でした。すなわち、彼らの土台はイエス様だったからです。イエス様は、永遠に生きておられますから、その土台も永遠に続きます。生まれ変わった者は、滅びることがありません。

まことの信者は、滅びることが絶対にありません。けれども、この土台の上に建てる金、銀、宝石、あるいは、木、草、わらのあいだには、もちろん、たいへんな違いがあります。金、銀、宝石は燃えません。けれども、木、草、わらは、たちどころに燃えてしまいます。

第一コリント
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

誰かの建てた建物が残れば――金、銀、宝石の仕事ならば――その人は報奨を受けることが、その仕事が焼ければ――自分の知恵、また、力で作り上げた木、草、わらの仕事ならば――損失を被るのです。けれども、彼自身は火の中をくぐってきた者のようではあるが、救われます。なぜなら、生まれ変わった人は滅びることが、決してないからです。

どうでしょうかね。私たちは、イエス様の褒章の座の前で、よろこぶことができるのでしょうか。その座の前で、褒美をもらいたいと思うのでしょうか。それとも、全生涯を費やして作ったものが、灰になってしまってもよいのでしょうか。

私たちは、イエス様の再臨を心から待ち望んでいるのでしょうか。私たちは、イエス様を本当に、心から愛しているのでしょうか。褒章とは、いったい何でしょうか。約束されている褒美とは王冠であると、聖書は言っています。王冠を得た者は、主イエス様と共に支配するようになります。新約聖書には、四種類の王冠があると言っています。

まず、栄光の冠という言葉が出てきます。

第一ペテロ
5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

『栄光の冠を受ける』とありますね。この栄光の冠は、信じる者、全部のために備えられているものではありません。ペテロは、長老たちに、神の羊の群れを、牧しなさいと勧めています。この長老たちとは、必ずしも、年配の方々を意味しているのではなく、霊的に成長し、イエス様のかたちに、いよいよ似た者となった人々を言います。

神の羊の群れを、牧しなさい。この使命は、宣教師、牧師、伝道者の使命であるばかりではなくて、栄光の冠を得ようと欲する人々、全部に課せられている使命です。

牧会するとは、どういう意味でしょうか。ある人をイエス様に導き、イエス様に会わせることを意味します。魂を獲得する人は、永遠の栄光の冠を自分のものとすることができます。

ダニエル
12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

前の聖書には、「多くの人を義に導く者」という表現が使われていたのです。イエス様を紹介することこそが要求されています。「神の羊の群れを牧しなさい。」ギリシャ語では、この群れは、「小さな群れ」となっています。イエス様に頼る人々、主イエス様を愛する人々は、非常に少ないのではないでしょうか。もし、私たちが一人ひとりを、イエス様の愛をもって愛したら幸いです。そうしたら、栄光の冠は我々のものとなります。

パウロは、当時、信じる者に書いたのです。『わたしが死んだのは、あなたがたが、もはや自分のためにではなく、わたしのために生きるためである』と。

【参考】第ニコリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

キリストのために生きる特権について、聖書は多くのことを言っているのです。もし、私たちが一人ひとり、イエス様の愛をもって愛したら、本当に幸いです。そうしたら、栄光の冠が我々のものとなります。兄弟姉妹を裁くと、牧会していないことになります。群れを壊していることになります。私たちがイエス様の、「神の羊の群れを牧しなさい」という命令に従順であったかどうかは、褒章の座の前で明らかになります。

もう一つの冠について、すなわち、いのちの冠であります。このいのちの冠についても、聖書はいろいろなことを言っています。

黙示録
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

ヤコブも、同じことを強調して書いたのです。

ヤコブ
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

このいのちの冠もまた、全部のキリスト者に備えられているものではないようです。試練を耐え忍ぶ人、死に至るまで忠実な人、主イエス様を心から愛する人々だけが、このいのちの冠を受けるのです。

三番目の冠は、朽ちない冠と呼ばれているものです。この朽ちない冠について、パウロはコリントにいる人々に書き記したのです。

第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

失格者になる可能性があると、パウロは、もちろん、思ったのです。彼は、「私は走っている。自分のからだを打ちたたいている。服従させる」と、言っています。自分が救われるために、このようなことをしているのではない。パウロの求めている目標は、今、話したように朽ちない冠です。

パウロは、朽ちない冠を得るために、節制をしなければいけないと言っています。パウロは、自分のからだをたたく。自分のからだを奴隷にし、服従させると言っています。パウロは、「私は、自分を聖霊の支配に全部、明け渡します。聖霊は、私の上に支配権を持っている」と、言っているのです。

ドイツで起こったことですが、あるおばあさんの水道の栓が壊れ、水が漏れましたので、おばあちゃんは、すぐに専門家を呼びました。来た人は若い人だったのですが、すぐ直してくれましたので、おばあちゃんは、お礼にタバコを差し出しましたが、その若者は、「私は吸いません」と答えます。おばあちゃんは、驚いてしまいました。その顔を見て、その若者は、「私はスポーツマンです。競技をする人は、酒もタバコも飲みません!」と、言ったそうです。

あるオリンピックの時、一人の婦人が、馬術で優勝しました。けれども、その婦人は、からだの不自由な人でした。小さい時からの小児麻痺で、手足を使えなかったのです。思うようにならなかったのです。自分で馬に乗ることができなかったのです。人に乗せてもらったのですけど、見事に優勝したのです。彼女は、自分のからだを打ちたたいて、服従させたのだから。結果は、金メダルだったのです。

私は、どういう態度を取るのでしょうか。イエス様を信じ、受け入れた人々は、もちろん、神の子供です。天の召しを持っています。冠は、信じる者、一人ひとりのために備えられています。あなたは、自分は天の召しを持っているから、あれとこれを止めます。確かに、あれとこれは、別に悪い事ではない。けれども、時間泥棒です。朽ちない冠を得るために、節制をしなければなりません。イエス様との交わりこそが、もっと大切ですから、そのために、今から時間を作りますという態度を取るようになれば、本当に幸いです。

パウロは、目標のはっきりしないような走り方をしないと告白しています。もし、私たちが、イエス様なしに何かをするならば、目標のない走り方をしていることになってしまいます。もし、私たちが、自分の力で証しするなら、それは、目標のない走り方をすることになります。目標のはっきりしないような走り方をする者は、放浪者です。このような人は、決して、目標、すなわち、いのちの冠を自分のものにすることはできません。

瞬間、瞬間、一分の中で一秒一秒、一時間の中の一分一分が非常に大切です。祈りながら、主に頼りながら、一瞬一瞬を主との交わりの内に過ごすことこそが、考えられないほど大切です。私は、目標のはっきりしないような走り方はしないと、パウロは告白しています。

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

もうひとつの冠とは、義の冠と呼ばれているものです。パウロは、この表現を使ったのであります。愛弟子であるテモテに、彼は、次のように書いたのであります。

第ニテモテ
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

この義の栄冠が、イエス様の再臨を待ち望み、もうすでにその用意のできている者に与えられる冠です。イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身を犠牲として捧げ、戦いを立派に戦いぬき、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通した者です。

主の再臨を毎日、意識して待ち望むことこそが、考えられないほど大切です。すなわち、イエス様を心から愛することを意味しているからです。

前に言いましたように、成熟が問題です。赤ん坊が、いのちを持っているのと同様に、新しく生まれ変わった信者も、永遠のいのちを持っています。小さい子供は、まだ報いをもらえません。父の遺産もまだ、もらっていません。成熟した息子だけが、父の遺産を受け継ぎ、父の名誉と責任を取ることができるのです。同じように、成熟したキリスト者だけが、イエス様と共に遺産を受け継ぎ、冠をいただき、イエス様の座に着くことができ、豊かな報いを受けます。

聖められた生活を送っているキリスト者だけが、イエス様と共に遺産を受け継ぎます。実を結ぶキリスト者だけが、冠をさずけられます。イエス様のために苦しみを受けた人たちだけが、イエス様と共に御座に着きます。良い行いを行うキリスト者だけが、豊かな実を、豊かな報いを受けます。天の召しを全うするためには、必要条件を満たさなければなりません。次の聖句を読んだら、よくわかります。

へブル
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

「ならば」と書かれています。そうしなければ、もちろん、だめ。テモテ第ニの手紙、同じように、「もし」、「なら」という表現がでてきます。

第ニテモテ
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。

「もし」、「なら」・・・・条件つきです。黙示録三章にも、内容的に同じことが書かれています。

黙示録
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

条件を満たさなければ、冠を得ることはできません。へブル書の中でも、同じ事実について強調されています。

へブル
12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
12:15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
12:16 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

このエサウは、イサクの子供でした。エサウは長子の権利を持っていました。彼は、この長子の権利を軽んじ、パンとレンズ豆で、これを売ってしまったのです。後になって、長子の権利を求めましたが、長子の権利を失ってしまいました。

イエス様を信じ、受け入れた者は、永遠のいのちを持っています。したがって滅びることはない。永遠のいのちは、永遠のいのちであるからです。けれども、キリスト者の長子の権利、すなわち、天の召しは、失うことはあります。エサウは、あくまでイサクの子供でしたが、長子の権利を失ってしまったのです。主の救いに与かった者が、みな例外なく、キリストと共に支配するはずです。これが与えられている天の召しです。

ぶどうの木の枝で、実を結ばない者は投げ捨てられます。すなわち、報いをもらえません。

ヨハネ
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

いばらやあざみは、ついには焼かれてしまいます。

へブル
6:8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

成熟、天の召し、冠が問題です。私たちは、主にすべてを明け渡そうと思うのでしょうか。けれども、私たちはただ、何かを得ようと思って、主に明け渡しても良くない。商人の計算からではなくて、イエス様の愛を感じて、自分のすべてを、聖霊の支配に委ねるべきです。

主の御心とは、いったい何なのでしょうか。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

主なる神の御心は、一人ひとりが救われて、イエス様によって永遠のいのちを持つことです。しかし、これがすべてではありません。これで、終わりではありません。パウロは、テサロニケにいる人々に書いたのです。

第一テサロニケ
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。

私たちは、聖化、変化、成長によって、だんだん主なる神をよろこばせる者とならなければいけません。けれども、この聖化は終わりではなく、主イエス様と同じになる道です。

ローマ
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂(・・・・罪の赦しのようなもの・・・・)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

ここで書かれているように私たちは、息子の立場におかれなければいけません。そうなって初めて、私たちは、イエス様と共に遺産にあずかり、支配者となることができるのです。そうなって初めて、私たちは、報いとして冠を得ることができるのです。けれども、『王冠を受けて・・・・』ということは、終わりを意味しているのではない。終わりは何でしょうか。まことの礼拝です。

黙示録
4:10 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

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