2015年11月3日火曜日

果たされた救いの計画(十)

果たされた救いの計画(十)
2015年11月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

ローマ
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

神のみことばである聖書は、本当に、すばらしいものですね。聖書がなければ、もうおしまい。希望もないし、将来は真っ暗闇ですし、どうしたら良いか全くわからない。けれども、みことばが与えられているから、本当にありがたい。だからもう一箇所、読みましょうか。今度はヨハネ伝から、皆がよく知っている、すばらしい箇所です。

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

聖化への道とは、どういうものでしょうか。聖い生活の秘密とは、何でしょうか。実を結ぶ秘訣とは、いったい何なのでしょうか。

我々の聖められることは、主のみ心です。これは、主のみ心ですから、私たちがもっともっと聖められることは、我々の願い、また、祈りでもあります。私たちが聖い生活を送りたいと願っているこの飢え渇きは、我々の内に聖霊が働いている証拠です。

聖化、変化は、我々の内に宿っている聖霊の働きです。新しいいのちなくしては、聖化はあり得ません。生まれ変わらなければ、変化はありません。誕生なしには、成長もあり得ません。

聖化とは、古き人と古き人の働きを、絶えず否定することです。そして、主なる神から生まれた新しい人を、絶えず肯定することです。けれども、どうしたら、これらのことを行うことができるのでしょうか。これらのことが起こるのでしょうか。救われていても、それを知らない人々が多いのではないでしょうか。

何と多くの人々は、自分自身で自分を聖めようと努力しています。また、そのために、一生懸命、骨折ります。全力を入れて戦います。けれども、こういう兄弟姉妹の信仰生活は、上がったり下がったりして、安定しません。また、そこには、失望と落胆があります。聖化の道は、ヨハネ伝15章にありますね。

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

すなわち、私たちが、イエス様の内におり、そして、イエス様が我々の内にいる・・・・これが聖化への道です。

私たちが、主イエスの内にいることが、聖化への第一段階なのではないでしょうか。私たちが、イエス様の内にいるというのは、私たちの完全な立場を意味します。

これは、もちろん、過去の出来事です。「キリストにある」という表現は、新約聖書の中に、百三十回も見られます。この「キリストにある」ということは、新約聖書において、信じる者のために与えられているメッセージの中で、もっとも大切なものなのではないでしょうか。キリスト・イエスにあるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。これは、私たち信じる者が、信仰によって、主なる神から与えられた新しい立場を意味します。

私たちがイエス様を信じた時、キリストに入ったのです。コリントの信者たちとは、決して、模範的な信者ではなかったのです。けれども、それでも、パウロは、彼らに向かって、次のように書くことができたのです。

第一コリント
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。

これは、動かすことのできない事実です。私たちは、イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れた時、その時、私たちは、イエス様の肢体となったのです。すなわち、私たちは、ぶどうの木の枝のように、イエス様に結ばれたのです。もちろん、その時、私たちは、それを知らなかったし、今日まで、ピンとこないかもしれないけど、これは動かすことのできない事実です。主イエスの亡くなった時、私たちも共に死にました。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。

パウロは、こう告白したのであります。パウロは、「私は言うに足りない者となった。十字架につけられた。私の存在価値は、もはやなくなった」と、ここで告白するようになったのです。この事は、もうすでに信じる者全部にとって、過去に起こった出来事です。これは、ただ一度、歴史的に起こった事実です。これは、あらゆるキリスト者にとって、全く同じに起こった事実です。変わることのない、また、過ぎ去ることもない事実です。

私たちが救われた人々を見ると、確かに、二通りのキリスト者があるのではないかと。あるキリスト者は、毎日、よろこびにあふれ、働き、証しを立てています。あるキリスト者は、失望、落胆し、元気がありません。何故、このような違いがあるのでしょうか。

よろこびに満ちあふれているキリスト者は、古き人は、すでに十字架につけられているという事実を、利用しているのです。失望、落胆しているキリスト者は、この事実を疑い、自分自身を見つめているのです。

もし、私たちが、事実を利用しなければ、どんなに偉大な事実でも役に立ちません。たとえ、あなたが五千万円のお金を持っていたとしても、それを、銀行から引き出さなければ、何の役にも立ちません。キリストにあるということは、あなたが自分の自我から解き放たれ、あなたの古き人が、イエス様と共に十字架につけられたよろこびを表わしています。キリストにあるということは、キリスト者、すべてが持っている新しい立場です。

すべてのキリスト者は、イエス様と共に、十字架につけられてしまった。パウロの勝利の秘訣とは、「私は、キリストとともに十字架につけられた」という事実でした。私は、立派になったのではない。私は死んだ。もう終わり。この事実は、パウロにとってすばらしい解放への道でした。

ローマ
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

イエス様にあって十字架につけられ、イエス様にあって死んだ。また、イエス様にあって葬られたと、ローマ書6章に書いてあります。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

すべてのキリスト者は、イエス様と共によみがえって、高められたのです。

エペソ
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それだけではなく、すべての救われた兄弟姉妹は、イエス様と共に、栄光を受けるのだと、書き記されています。

ローマ
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

すごい約束です。つかめません。考えられません。けれども、そうなんです。信じる者の古き人は、イエス様と共に十字架につけられ死に、葬られた。信じる者の新しき人は、イエス様と共によみがえり、高められ、栄光を受けるようになるのです。これは、過去に起こった事実です。すべてのキリスト者にとっての『キリストにある』という立場は、完全な立場です。

へブル
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです(第一コリント1:30)。主イエスを信じ、受け入れた時、あなたがたはこの新しい立場に、もうすでに入っているとパウロは書いたのです。けれども、私たちは、自分の毎日の生活は、勝利の生活ではないと、言うかもしれない。

いかなるキリスト者も、遅かれ早かれ、自分の実際生活と、この完全な立場が矛盾していることに気づくものです。立場と状態は、生まれ変わったばかりの時、非常に大きいのです。この距離が、生まれ変わってから、時を経るにしたがって、だんだん短くなるのは、これは、いわゆる聖化であります。

どうしたら、私たちの内にキリストの形ができるのでしょうか。どうしたら、私たちは、だんだんイエス様に似た者となることができるのでしょうか。どうしたら、この変化が起こるのでしょうか。どうしたら、主なる神から受けた完全な立場と、我々の実際の状態が、同じようになるのでしょうか。

これらの問いに答えるために、次の事実について考えたいと思います。すなわち、イエス様が我々の内にあるという事実こそが、聖化への第ニの段階です。イエス様は、聖霊によって、私たちをだんだん、変えていかれます。そのための手段は、何でしょうか。いうまでもなく、十字架です。もし、私たちが、我々の考えること、感じること、また、志すことすべて、聖霊の支配に委ねるならば、ますます、イエス様が我々にとって、実際のものとなり、聖書が生き生きとしてくるのです。また、それにともない、祈りの力、証しの力が、増し加えられるようになります。けれども、これは、いわゆる聖化の始めにすぎません。

聖霊は、十字架を通して、働き続けます。十字架は、我々の罪が消し去られる――罪である私たちは、そこで釘づけられたばかりでなく、私たちの自我も役に立たないものであることを教えています。多くのキリスト者は、主に対する奉仕を、生まれつきの力、結局、自分の力でやっている。すなわち、徹頭徹尾、主の力に頼って、御霊に動かされているキリスト者は、少ないのではないでしょうか。イエス様にだけ頼る者は、もちろん、他のキリスト者にあまり理解されません。

確かにすべてのキリスト者は、キリストにあって生活し、また、キリストのために生きたいと願っていますけれども、ピリピ書1章21節のように、「私にとっては、生きることはキリストです」と、言える兄弟姉妹は、そう多くありません。私たちの魂は、主に奉仕したいと思っています。魂は、いろいろなことをする力を持っています。主なる神は、そういう人々を、しばらく祝福するかもしれないが、突然、その祝福が途絶えてしまいます。どうしてでしょうか。

主なる神は、霊的な結果をもたらす、霊的な人を求めておられるからです。主なる神は、霊的な結果をもたらす、霊的な人を用いようと望んでおられます。魂の力、すなわち、生まれつきの能力で働いた結果は、決して、御霊で働いた結果を結びません。

私たちは、主に用いられる人になりたいと願い続けるべきなのではないでしょうか。私たちは、自分の悪い自我が、イエス様と共に十字架につけられた事実を認めますけど、良い自我も十字架につけられた事実を、なかなか認めようとしません。良い自我も十字架につけられたことを私たちが悟るために、もっともっと、深いところまで、聖霊の働きがなければなりません。この聖霊の働きは、数年を費やすことがあるかもしれない。

傲慢と、主に依存する気持ちのないことが、我々の信仰生活を、いちばん大きく妨げています。私たちは、この自分の傲慢を認め、その傲慢は、主の嫌われる事であることを知り、また、主は、我々の傲慢と共に、十字架につけられたことを悟るならば、感謝せざるを得ません。

イエス様は、父なる神に完全に頼っていました。自分で考えて行動したことがない。まず祈って、きいてから。ヨハネ伝5章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネ
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

私たちは、すでに自分に頼ることを止めましたでしょうか。イエス様は、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と、はっきり言われました。

イエス様がこれを言われたのですから、このことばは、真実です。だから、私たちは、他に、何かを試みる必要はない。もし、私たちが、何とかなるのではないかと思い、試みるならば、これは、もちろん、とんでもないことであり、罪です。もし、イエス様の十字架が、我々の生活で現実となるならば、その時、私たちが、何かことが起こった場合、「私はやることができない。主よ、あなたがやってください」というふうに、祈るようになります。この点まで到達したら、本当に幸いです。私たちは、自分の傲慢と主に依存しない心を持っていることに気づいても、落胆するにはおよびません。それは、キリスト者の正常な成長を意味するからです。

コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

主イエス様は、聖霊によって、我々の霊に住んでおられます。けれども、このイエス様が、我々の内にどれくらい多くの余地を持っておられるかが問題です。イエス様が我々の心を完全に満たすこと――それが、主の御心です。これは一つの過程です。あなたが聖霊に自分を明け渡すことは、瞬間的な出来事でしょう。これに対して、「聖霊に満たされなさい」ということばは、瞬間的に起こる事を言っているのではなく、一連の過程を意味しているのです。

聖霊の満たしとは、決して、絶えることのない泉に結ばれている樋(とい)にたとえられます。したがって、水はその樋を通って、絶えず流れています。多くのキリスト者は、聖霊の満たしとは、蓋をしっかり閉めた井戸の中の水のようなものだと考えています。けれども、聖霊に満たされるということは、一連の過程です。実際的に言えば、主は絶えず、臨在されており、そして、自分は絶えず、イエス様に頼っていることを意味します。イエス様は、我々を絶えず聖め、絶えず満たされなければなりません。

私たちが頼っているあいだ、イエス様は、我々を満たしてくださいます。私たちがイエス様を信じた瞬間に、聖霊を自分のものとします。そして、私たちは、信じているあいだ、満たされているのです。これこそ、勝利への秘密ですから、決して、これを忘れてはいけません。十字架は、聖霊が握っているナイフのようなものであり、このナイフは、自分の生活を押さえつけているようなものです。これも、絶えず覚えるべき事実です。

また、栄光を受けられた主のよみがえられたいのちは、例えるならば、汲んでも汲んでも尽きることのない泉のようなもので、聖霊は必要に応じて、我々の肉体、魂、霊のために、そこから汲んで与えてくれます。イエス様を信じ、受け入れた兄弟姉妹は、イエス様とひとつになって、罪に対して死んだ者です。

彼らはもはや、罪をよろこばなくなりました。イエス様を信じ、受け入れた人々は、イエス様とひとつになり、自我の支配に苦しむ必要はなくなりました。しかし、それだけではなく、イエス様を信じ受け入れた兄弟姉妹は、イエス様ひと一つになることによって、悪魔に対する勝利の力を持っているのです。どうでしょうか。私たちは、悪魔に対する勝利の道を知っているでしょうか。大切なのは、イエス様がもうすでに、悪魔に対する勝利をおさめられたという事実を知ることです。これは、もうすでに過去に行われた事実です。

イエス様が高められたことは、イエス様が悪魔に完全に勝ったことを意味しているのです。次の聖句を読むと、イエス様の勝利が完全なものであり、イエス様は、日々、悪魔の頭を粉々に砕いた事実がわかります。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

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