2015年10月16日金曜日

みこころを知る道[主は生きておられる38号]

みこころを知る道
主は生きておられる38号
ゴットホルド・ベック

今回は「どうすれば、主のみこころを知ることができるか」について学びたいと思います。

「みこころを知る道」についてよりよく学ぶためには、ローマ人への手紙8章12節~17節および26節~29節、ピリピ人への手紙1章9節~11節、コロサイ人への手紙1章9節~11節、エペソ人への手紙3章16節~18節を読むことが有益です。結論から言えば、神のみこころは神の霊によって、ただ聖霊の働きによってのみ知ることができるということです。ですから、御霊に導かれる生活こそみこころを知る道なのです。以下では、(1)どうしたら御霊に導かれる生活をすることができるか、(2)どうすれば御霊の導きが分かるか、(3)主の導きに対する従順とその結果はどういうものか、について順に考えたいと思います。


1.どうすれば聖霊に導かれる生活ができるか

聖霊に導かれる生活ができるために必要なのは、一つは「みことばを聞く備え」であり、もう一つは「みことばに従う備え」です。ダビデは次のように祈っています。

あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。(詩篇143:10)

ダビデは御霊の導きを求めて祈っていました。ダビデは主のみこころにかなった人でした。私たちも主に喜ばれる者になりたいなら、御霊に導かれる生涯に入ることです。新しく生まれ変わって主イエス様のものとなり、御霊を内に宿すことです。そして、ダビデと同じように「あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」と心から、今日、新たに主の御前に祈りたいものです。

ダビデは「主よ、教えてください」と、いつも主の御前に教えを乞う態度でいました。このような人々は測り知れない主の祝福にあずかります。

生まれつき盲目であった男も、主イエス様の教えを乞うたのです。彼が「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」(ヨハネ9:36)と尋ねたとき、主イエス様はそれがご自身であることを教えなさいました。「イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」(ヨハネ9:37~38)

エチオピヤの宦官もピリポに教えを乞いました。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と正直に求めたとき、宦官は救いにあずかることができ、喜びながら旅を続けました。

主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた官官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」

ピリボはロを開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、官官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。(使徒8:26~40)

このエチオピヤ人は、みことばに対して聞く耳を持っていただけではなく、みことばを受け容れ、みことばに従ったのです。

パウロも回心をしてから、「主よ。私は何をしたらよいでしょうか」と主のみ前にへりくだって尋ねました。主は、パウロが行くべき道をはっきりとお示しになられたのです。

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。(使徒16:6)

大地震によって牢の戸が開いているのを見た看守は、囚人たちがみな逃げてしまったと思い自殺しようとしたのですが、パウロとシラスに止められました。彼は「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)と震えおののきながら教えを乞いました。すると「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と素晴らしい救いのみことばを受けました。

これらの人々はみな、主のみことばを聞く備えができていました。また同時に、主に従う備えもできていました。主に従順な、柔らかい心を持っていました。

御霊に導かれること、御霊の導きがあるということは聖書の約束です。イスラエルの民もそれを経験しました。

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。(出エジプト40:34~38)

御霊の導きの約束はダビデにも与えられています。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。(詩篇32:8)

主イエス様も御霊の導きについて語っておられます。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。(ヨハネ16:13~14)

イスラエルの民が荒野を旅したとき、主なる神が雲の柱、火の柱をもって導かれたと同じように、すべての救われた兄弟姉妹は御霊の導きを受ける特権を持っています。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:14)

御霊がイスラエルの民を導いていこうとなさった目的地は、実り豊かなカナンの地でした。そのように、御霊はいつも一つの目的をもって私たちを導こうとしておられます。

彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。(詩篇78:53)

また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。(詩篇07:7)

イスラエルの民が荒野をさまよったとき、いろいろなことが起こりました。一つひとつを見ると決して「安らかな道に導かれた」とは言えませんが、御霊は「最後に」カナンの地に導き入れてくださいました。それを思うと、御霊はご自分の民を安らかにお導きになったと心から言うことができます。

私たちの場合も、恵み深い御霊は、私たちが主イエス様の似姿に変えられるという目標に向かって導いておられます。

イスラエルの民の場合と同じように私たちも、一つひとつの問題や苦しみや悩みを見ると、主は私たちを棄てたのではないか、と疑ってしまうことがあります。しかし、先へ導かれてから振り返ってみると、過去に起きた病や悩み苦しみ、ありとあらゆる問題は御霊の導きだったと認めざるを得ません。

御霊が導こうとなさる目標に行きつくまでには、いろいろな問題が私たちの身に起こってくるでしょう。

問題が起こると祈ります。けれども結果が現われない場合があります。祈り会においても同じです。聖書を開いてみことばを学んで祈りますが、結果が現われません。なぜでしょうか。その理由は、これから祈ろうとすることが主のみこころであるということを確信していないからです。そのために祈りの中に「みこころならば、このようにしてください、あのようにしてください」ということばが出てくるのです。このような状態では、祈った後にも確信が持てません。誰かに「祈りは聞き届けられただろうか」と尋ねられると「それを願っています」としか答えられません。

しかし、主は、このような態度を求めてはおられません。聖書はまず、主のみこころが何であるかを教えていただいてそれを確信し、信仰による祈りを捧げなさい、と教えています。

エリヤは主のみこころを確信して立ち、権威をもって次のように言いました。

私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。(1列王記17:1)

エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(ヤコブ5:17~18)

エリヤの祈りは、聖霊に導かれた祈りだったからこそ聞き届けられました。私たちも御座にまで届く祈りをしたいなら、御霊に導かれる祈りを捧げなければいけません。

大切なのは「祈り」そのものではなく、祈る前に主のみこころを確信して立つことです。この確信を私たちに与えてくださるために、御霊がおいでになったのです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8:26-27)

真の祈りは、私たちを通して祈られる御霊の祈りです。御霊が主のみこころを教えてくださるとき、私たちは主イエス様の信仰をもって(ガラテヤ2:20)祈ることができ、祈りが必ず聞き届けられるという確信を持つことができます。信仰と確信の欠乏は主のみこころを知らないところからきます。そのために、多くの祈りが聞き届けられないのです。

私たちは主のみこころをはっきり知るまで待ち望み、みこころを知った後に行動すべきです。モーセの場合がそうでした。まず主が語られ、次にモーセは主の言われたとおりに行動しました。パウロもまず主の御声を聞き、次にその御声に聞き従いました。主イエス様はいつも心の内にささやかれる父の御声に聞き従っておられました。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。(ヨハネ14:10)

主イエス様は実際に耳に聞こえる声、また周りに起こることがらによって導きを受けられたのではありません。大切なのは御霊が私たちの霊にお語りになり、私たちはそれを聞いて主のみこころを知って、確信して立つことです。

私たちを導くことのできるお方は聖霊だけであり、また御霊と聖書のみことばの間にいつも一致があります。御霊は「みことば」を用いて語りかけてくださいます。私たちが何か問題にぶつかっているとき、御霊は聖書のみことばを取り上げ、それを生かし、私たちの心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が聖書のみことばを生かして語りかけてくださるのです。私たちを導くことができるのは御霊だけです。

私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

このみことばは信仰生活の始めだけでなく、信仰生活を送っていく間にも当てはまるみことばです。神の子どもであることを証してくださった御霊は、さらに私たちのうちに語りかけながら導いてくださいます。導きは内に住まれる御霊によってだけなされるのです。内住の主の導きは、主に救われたすべての兄弟姉妹に与えられている特権です。

2. どうすれば聖霊の導きが分かるか

次に実際に何かの問題にぶつかった場合、どのようにして御霊の導きを知っていくか、五つの点に分けて考えてみましょう。

第一に、御霊の導きを求める場合、すべてのことは主の栄光のためであるということを知らなければなりません。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31)

もしこれを深く心に留めているなら、自分の思いや願いは問題ではなくなるはずです。まことの献身とは自分の意志をまったく主に明け渡し、日々その明け渡しを新たにすることです。この自らの意志を主に捧げた人だけが、御霊に導かれることができるのです。

主イエス様は完全に御霊に導かれたお方でした。主イエス様が間断なく、御霊に導かれた秘密は詩篇に書かれています。

わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。(詩篇40:8)

この主イエス様の心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣です。だからこそ主イエス様は次のように証しされたのです。

わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。(ヨハネ8:29)

御霊に導かれるということは、ときには自分のいわゆる「良い意志」を捨て、主のみこころだけに従うことを意味します。これは決して簡単なことではありません。一つも罪を犯されなかった主イエス様でさえ難しく思われたほどです。主イエス様は十字架を前にしてゲツセマネの園で祈られました。

わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。…わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:38、39)

主イエス様はこの苦しい祈りを父のみこころを行うためになさったのです。

マリヤも同じ態度をとりました。

ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。…そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方のカがあなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:31、34~35、38)

マリヤは主イエス様の母親になる心の備えがありました。もし結婚する前に身ごもるなら、(掟では)石で打ち殺されなけれぱなりませんでした。その危険もかえりみず、ただ「主のみこころがなりますように!」と主にすべてを明け渡したのです。

霊の導きを受けるには、主の栄光を第一に求めるべきです。私たちも主イエス様やマリヤのような献身者になり、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない」(エペソ6:6)たい、とパウロのように言うことができれば幸いです。主なる神に聞き従い、自分を捨てる備えのある人は、御霊の導きを受ける資格のある人です。この人々に与えられる祝福は豊かです。

若い兄弟姉妹は、結婚の相手を考えるときにも「主よ。私はあの兄弟(姉妹)を愛していますが、みこころでなけれぱ思いを断ち切ります」という態度が必要です。私たちの心の態度が主の御栄えを第一にしているならば、主は私たちを豊かに導いてくださいます。御霊の導きを求めるには、すべてのものごとは主の栄光のためであるということを最初に知らなければなりません。

第二に、主の導きはいつもみことばにのっとっていることを知る必要があります。

御霊の導きは必ず神のみことばである聖書にもとづいています。したがって聖書知識は大切です。言うまでもなくこれは、救われるためではなく、成長のため、導かれるため、用いられるためです。主は「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」(ホセア4:6)と嘆いておられます。また、「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」(歳言19:2)とも書かれています。

主イエス様はパリサイ人を叱って「読んだことがないのですか」と彼らの聖書知識を批判されました。

イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。(マタイ12:3)

イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」(マタイ19:4~5)

また、主イエス様は言われました。

イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神のカも知らないからです。」(マタイ22:29)

神のみことばに逆らう人には、御霊の導きはありません。もしただ一つのみことばでも、それと知りながら従わないなら、どんなに祈っても導きは与えられません。みことばに逆らうことは、御霊に逆らうことです。ですから、導きが与えられないのです。主は私たちにみことばを学ぷようにすすめておられます。

このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。(申命記17:18~19)

主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。(イザヤ34:16)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11)

もしみことばが私たちの喜びとなり、楽しみとなり、いのちとなるなら大丈夫です。

あなたの御ロのおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。(詩篇19:72、97、140)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15:16)

私たちの信仰生活はみことばを食べる程度に従って成長します。主イエス様をよりよく知り理解するのは、みことばによるのです。イエス様ご自身が私たちの心の奥底に入ることを願っておられます。主イエス様ご自身が、私たちのいのちのパンとならなけれぱいけません。

聖書は、教理、学説ではなく、主のみことば、つまり主ご自身を啓示する書物です。ですから聖書を読むことは大切ですが、それは聖書を研究し、いわゆるキリスト教の教えを知るためではありません。主イエス様ご自身を知らせていただき、主イエス様との親しい交わりを得るためです。

主イエス様はパリサイ人に向かって、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。そ加なのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39~40)と叱責されました。聖書を読むことといのちを得ることは決して別のものではありません。主はみことばをもってご自身を現わされます。主はいのちのパンです。主のみことばは、私たちにとっていのちのパンとならなければなりません。

みことばは私たちにとって何なのでしょうか。死んだ冷たい文字でしょうか。重荷でしょうか。それともいのちでしょうか。もし、生けるみことばが私たちの内に入るなら、必然的にいのちが与えられます。もし、聖書が私たちにとってただの掟であり、真理であるだけなら、それは私たちにとって重荷であり、不自由なものです。しかしいのちなら自由と喜びをもたらすものとなります。

聖霊の導きが分かるために、第一にすべては主の栄光のためにあるということを知らなければなりません。第二に、主の導きはいつもみことばにのっとっており、みことばにもとづいているので、みことばを食ぺなければなりません。

第三に、御霊の導きは「良心」、「理性」とも関係があることを知る必要があります。

私たちの良心は、主によって与えられたものです。もし、ある問題について良心が「これは良くない」と判断したら、御霊の導きを待つ必要はありません。また行くべき道が分からず迷っている場合、片方の道に行くのに平安がなけれぱ、それ以上導きを求める必要もないでしょう。

良心とともに理性も主がくださったものです。多くのキリスト者が迷いのある信仰生活を送っているのは、自分の考えと主のみこころを混同しているからです。つまり自分の理性に頼って、主の導きを仰がないからです。かつてアブラハムは飢えを恐れて、自らの考えでエジプトへ逃れ、そこで罪を犯してしまいました。このことを通して聖書は、自分の理性で勝手に行動することの危険を教えています。

ある人々は、「理性は何の役にも立たない」、「理性は肉に属するものだ」と言いますが、これは間違いです。もし、理性が信者の内でしもべとしての位置をとるなら、理性は用いられる存在となります。しかし、理性が信者の内で支配者の立場をとるなら、間違った道へ導いてしまうでしょう。しかし、私たちの内に住んでおられる御霊によって理性が支配されるなら、私たちは理性によって聖書を学び、真理を秩序だて、みことばを暗記することができます。導きは御霊だけがなされることであり、理性は御霊の導きを実現する道具のようなものです。

もし何か大きな問題にぶつかったなら、理性をもってあらゆる面から考える必要があります。前に述べた二つのこと、「どうしたら主の御栄えがあらわれるだろうか」、「この間題に当てはまるみことばがないだろうか」と理性をもって考えてみる必要があります。

しかし時には理性を抜きにして、御霊が直接「今、祈りなさい!」、「今、あの人に手紙を書きなさい」、「今、あの兄弟、姉妹を訪ねなさい!」と教えてくださることもあります。ピリポの場合がそのよい例です。ピリポはサマリヤの町々でみことばを宜べ伝え、非常に祝福されていましたが、あるとき御霊が「荒野へ行きなさい」、と導かれました。これはピリポの理性には逆らうことでした。サマリヤには求める人々が大勢いるのに、どうして人もいない荒野に行かなければならないのだろうと考えたに違いありません。しかし、ピリポは御霊の声に聞き従って荒野へ出て行き、エジプトの宦官に会って救いに導き、主の御栄えを拝することができました。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22)

ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5:29)

これらのみことばの中には、理性に従うよりは主なる神に従うべきである、という意味が含まれているに違いありません。パウロは御子、主イエス様の啓示にあったとき、血肉に相談せず、つまり人の理性に従わず、啓示に従ったと聖書は記しています。

異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。(ガラテヤ1:16~17)

こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず…(使徒26:19)

主の導きを求めるとき、兄弟姉妹の忠告も助けになります。しかしそのためには集会に欠かさず集うことが大切です。その場合、集会に出る構えが大事です。もし、主のみことばを聞き、導きを求めたいという深い飢え渇きがないなら、何の役にも立ちません。

見よ。その日が来る。―――神である主の御告げ。―――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。(アモス8:11)

主の御告げ。―――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ66:2)

主のみことばを畏れおののいて聞く者には、主は豊かな導きを与えてくださるのです。

第四に、聖霊の導きを知るには、主のご目的と御霊の導きは深く結びついていて、切り離すことができないということを知る必要があります。御霊に導かれて、主の目的に向かって歩んで行くことが大切です。もし、主のご目的が分かり、それが生涯の目標となるなら、私たちの身辺に起こるすべてのものごとは、益となって働くことが分かるはずです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:28~29)

主イエス様のキリスト者に対するご計画は、実に素晴らしいものではないでしょうか。主のみ旨が「コロサイ人への手紙」に要約されているので見てみましょう。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」(コロサイ1:19)とあります。また「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)と書かれています。

大切なことは、御霊の導きは「教会」つまり主イエス様に属する人々の群れに向けられていることです。教会を通して主なる神のご目的が現わされ達成されていくからです。

旧約時代のイスラエルの民に対しては、主の導きは「幕屋」において現されました。エジプトを脱出した後、主はモーセに幕屋の構造を詳しくお教えになったので、御霊に満たされた人々の手によって、主の指図通りに幕屋ができあがりました。このとき主は見える幕屋の裏に霊的な意味を持たせ、それを私たちに教えようとなさったのです。この見える幕屋になぞらえられる霊的な幕屋とは、主イエス様とこ自分のからだである教会のことにほかなりません。

イスラエルの民の場合、幕屋と主の導きは密接な関係がありました。御霊を象徴する雲の柱、火の柱が上がると民は出発し、雲の柱が下るとそこにとどまり、導きのままにイスラエルの民は歩んだのです。幕屋の上に雲の柱、火の柱が降り立ったように、主イエス様のからだなる教会に御霊がお下りになりました。私たちが主のみこころにかなった教会であるならば、主は私たちを思いのままに導くことができるのです。

もし雲の柱によって導かれた幕屋がなかったなら、イスラエルの民は約束のカナンの地に入ることができなかったでしょう。それと同じように、教会なしには主の満たしに入ることはできません。他の兄弟姉妹との交わりなしに、霊の満たしに達することはできません。私たちに対する主の個人的な導きは、多かれ少なかれいつも主の目的と教会に関係があるのです。主のご目的である「御子の内に満ち満ちた徳を宿らせる」という事実に心の目が開かれ、またこの目的を達成するために教会が道具として存在しているのだ、ということを知ることができたら幸いです。だいぶ難しくなってきましたが、これを分かりやすく言っているみことばをいくつか読んでみましょう。

こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。(コロサイ1:9)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロサイ2:9~10)

そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ3:11)

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:22~23)

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:13)

このようなみことばから、主のみこころが何であるかが分かります。どのようなことでも御霊の導きは神の目的に深いつながりがあるのです。主の関心は、私たちの病や問題がたちどころに解決されることではなく、それらを通して、主のみこころが私たちの内になされていくことです。主が望んでおられることは、私たちが今、幸福であるということではなく、主のみこころが私たちの内に完成されることです。この目的のために御霊が遣わされ、私たちを導こうと望んでおられるのです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の恩いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:26~29)

ここまで御霊の導きについて四つのことがらを述べてきました。もし何かの問題にぶつかったらこれらのことを思い浮かべ、御霊の導きを求めましょう。そのときに大切なのは、第五番目、「こころの静けさをもつ」ということです。

リーダーズ・ダイジェストに一つの絵が載っていました。それは一人の信仰者が部屋の中を往ったり来たりしている絵で、まるで檻に閉じ込められたライオンが暴れているようでした。絵の中で、誰かが「どうしてそんなに忙しくしているのですか」と尋ねているのですが、それに答えて「私にはどうしても解決しなければならない問題があるので、休む暇がないんです。でも、神様はノンビリしていてちっとも急がないらしい」とありました。

もし主の導きがはっきり分からなかったら、主の前に静まり、「わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8)と言われる主のみことばを、信じて待ち望むことです。悪魔はいつもせかせます。けれど主はいつも余裕をもっておられます。主の御前に問題のすべてをありのままに広げて、静かに主の御声を待ち望むことが大切です。

問題があるとき、そのことだけを考えていろいろと思い煩うと、主の御手が働かれるゆとりができません。私たちが問題すべてを主におゆだねして解決を求めるとき、主は豊かにお応えになるのです。同時に御霊は私たちの霊に確信を与え、「これがあなたの行くべき道だ」と教えてくださるはずです。

主の御前に静まることは、自分のもっている問題をすべて主に明け渡すために必要です。主の御前に静まることは、人混みの中であっても、混んでいる電車の中であってもできることです。このとき大切なのは、「幼子のように」ということです。素直に主にゆだねたら、主の答えを強制しないことです。

私たちは主のしもべとして主の御声を聞く特権をもっています。人間の使用人でさえ、主人の言いつけを聞く権利を持っていることを考えれぱ、当然のことです。

待ち望むときにも、与えられた務めを忠実にまっとうすることが必要です。またそれまでの導きに従順に従っていなければ、主はさらなる道へ導くことはできません。

主のみこころを知る方法として、「これだ」と言えるものはありません。あるときは目に見えることによってお導きになります。しかし、急に状況が変わり、行くべき道を見失ってしまい、思いがけない所に道が開ける場合があります。パウロがそうでした。彼は小アジヤの伝道を禁じられ、ヨーロッパに遺わされました。

それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、卜ロアスに下った。

ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。(使徒16:6~10)

あるときには友人の便りにより、またあるときには本により、御霊が働いて私たちを導いてくださる場合もあるでしょう。また御霊が一つのみことばを取り上げ、これこそ主の御栄えを表す道であり、この道を行くべきだと示してくださることもあるでしょう。いずれにしろ、御霊は私たちについには確信を与えてくださいます。そのとき、主ご自身の平安が私たちの魂を支配し、不安と恐れはすっかり消えてなくなってしまいます。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)

確実に言えることは、導きの方法が何であれ、御霊だけが私たちを導くことがおできになるということです。御霊の導きによって主のみこころを知ることができるなら、私たちは確信をもってそのみこころをなすことができます。

私たちはもうすでに主イエス様にあって勝利を得ているのですから、これから勝利を得るために努力する必要はありません。勝利を得ている者として、主の勝利を伝えていきたいものです。アブラハムはそうしました。

彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によつて神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就するカがあることを堅く信じました。(ローマ4:18~21)

また、主イエス様は言われたのです。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ。」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

3.主の導きに対する従順とその従順の結果について

御霊はただ一つの目的をもって私たちを導いてくださいます。その目的は私たちにとって、主イエス様がすべてのすべてとなられ、私たちが「主と同じかたちに姿を変えられて」(2コリント3:18)いくことです。

私たちとは違い、御霊はすべてを知って導いておられます。霊的な成長は、御霊の導きに従順であることによってなされます。従順であるなら、さらに豊かに御霊に満たされていきます。しかし、従順であることによって、私たちが特別な賜物を受け、いわゆる幸福な生涯へ導かれるとは限りません。従順に従う者には御霊が与えられると約束されていますが、聖い御霊の存在は、「古い人」つまり、私たちの生まれつきの性質にとってはありがたくないことだからです。ヨハネは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言いましたが、古い性質が消え、自分を無視し、謙遜の谷に下るということは決して楽ではありません。御霊に導かれるということは、私たちの本来の性質に反することです。御霊に導かれていくとき、自分の醜い性質、つまり「自分を義とすること」、「悪に染まりやすいこと」、「赦せない心」、「人目につきたがる性質」というたものがあらわにされてきます。

主イエス様は、父なる神に従順に従った結果、孤独になり、誤解され、ついには十字架にかかられるというものでした。もし御霊に導かれるままに従順に歩むなら、主イエス様、使徒たち、また多くの聖徒たちが経験したように、私たちも苦しみに会うことでしょう。

主イエス様は十字架にかかられる前に次のように祈られました。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。(ヨハネ17:14、24)

また、昇天された後、主イエス様は天より御声をかけて、次のようにおっしゃいました。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示録3:21)

御霊が導いてくださり、パウロが証ししたように「キリストの心がある」と、心から言えるようにしてくださったら幸いです。

いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。(1コリント2:16)

このように言えるようになったら、御霊はさらに私たちを導いて、御座におられる主イエス様のもとに導いてくださるのです。

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