2015年10月13日火曜日

果たされた救いの計画(七)

果たされた救いの計画(七)
2015年10月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
8:1 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。
8:2 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、

ヨハネ
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

聖書の中のいちばん大切な呼びかけ、戒めのひとつは、「主イエスから目を離さないでいなさい。」離した瞬間に、おかしくなる。どうしたらいいか、解らなくなってしまいます。イエス様を仰ぎ見ることこそが、したがって、もっとも大切なのではないでしょうか。

もう一箇所、読みます。今度は、ヨハネ第一の手紙の三章、もちろん、ここで、普通のように複数形で書いているのです。だいたいそうですね。聖書の中で、時々、自分勝手に単数形で読むことができたら、自分の証しとして、告白として、非常にありがたいのではないでしょうか。この箇所もそうです。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

ここで、「キリストのありのままの姿を見る。」将来、何と何と何が起こるのか、別に解らないけど、確信できるのは、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。もう最高です。結果として、もちろん、礼拝せざるを得ない。

これまで私たちは、二つの疑問について、考えてまいりました。そのひとつは、何を自分のものとしたら良いのでしょうか。答えは、主イエス様にある永遠のいのちでした。イエス様は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と、言われたのです。

二つ目の疑問は、いかにして、それを自分のものとすることができるか。この答えは、新生によって、回心によってです。回心することなしには、救いも解放も希望も与えられません。回心が必要であるだけでなく、可能でもあるということを聖書は言っているのです。これこそ、真に喜ばしい訪れです。

肉体的な生命は、もう一度、始めからやり直すということはできません。けれども、イエス様にあっての主にある交わりを持つことによって与えられる回心こそ、問題です。この世に生まれてきたという、生まれながらにして与えられた生命は、この世に属するものですけど、新しいいのちとは、我々の中に、イエス様が入ってくださることによって、与えられるものです。

新しいいのちの証明は、イエス様との交わりです。聖書は、新しいいのちを得ることができる可能性を、はっきりと告げ知らせています。

前に読んでもらいました箇所によると、マグダラのマリヤという女性は、本当にたいへんだった。七つの悪霊に縛られてしまった人です。けれども、イエス様との出会いによって、彼女は、全く自由な女となることができたのです。かつては、救われたクリスチャンたちを迫害し続けたサウロという男も、復活したイエス様に出会ったことによって、彼の人生は百八十度の転回をしたとあります。彼は、次のように告白しました。

第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

新しい創造とは、主イエス様との交わりによってのみ可能です。イエス様との交わりを得ることによって、見方、また、考え方、そして、価値観は変わります。イエス様は、束縛されていた者を解放してくださり、貪欲な者を心豊かな者に変えてくださり、姦淫の罪を犯した者を平安を持った者に変え、自己主張をしてばかりいた者を謙遜な者に変えてくださるのです。イエス様しかできない。

神の御霊である聖霊が、霊的に死んでいる人間の霊に入りますと、その人は、霊的に生き、聖霊の宮となります。イエス様の成し遂げられた救いの御業に基づいて、罪人は、主の贈り物、すなわち、永遠のいのちを聖霊の働きによって受け取ります。

新生とはいったい何でしょうか。新生とは、主なる神との誕生の関係です。この関係は、決して、壊れることはありません。子供が、父親の命令に聞き従わないということはあり得ます。子供は、父を悲しませ、家出することもできます。けれども、子供は、いつまでも、その父の子供です。

その他のいろいろな関係は、断ち切られることはあります。契約は破棄され、離婚もあり、また、友も離れ去ります。新生したことは、罪を犯し、聖霊を悲しませ、主なる神との交わりを捨てることはできますけど、いつまでも神の子であることは変わりがありません。新生は、決して、破られることのない主なる神との誕生関係です。

ある信者は、自分は罪を犯したから、永遠のいのちを失ったと言います。これは、とんでもない話です。大いなる誤りです。あなたが新生されたのなら、あなたは永遠のいのちを持っており、この永遠のいのちは、あくまで、永遠に続くいのちです。なぜならば、神のいのちは造られざる、絶えることのない永遠のいのちであるからです。

主なる神は、生まれ変わった人に対して、自分の子と言われます。主なる神は、自分の子を遠ざけることは、決して、いたしません。罪人が自分の罪のために、流されたイエス様の十字架の血潮を感謝するならば、その瞬間に、その人は神の子となります。そして、その人は、永遠のいのちの世界に住んでいるのですから、永遠に神の子です。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ローマ
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

新しく生まれた人は、主なる神に、義と認められています。義認は、主なる神の御前における新しい立場を言います。新生する前は、主なる神の御前に、罪人であり、新生したら、神の子とされるのです。義認は、私たちの良い行いにかかっているのではなく、私たちの主なる神に対する態度にかかっています。義認は、私たちの良い行いの結果ではなく、私たちがイエス様を受け入れた――選んだ結果です。

ひとつの詩があります。この詩で、ある王様は、はだしの乞食の娘と結婚したと言っています。この乞食の娘は、結婚する前、貧しい貧しい乞食でした。けれども、結婚するや、いっぺんに王妃になりました。

乞食の娘は、王と結婚することを選びました。もちろん、拒みませんでした。選んで王妃になったのです。この乞食の娘は、王妃になって立派な着物を着、真珠の首輪を首にかけ、立派な暮らしをしました。これは、ただ乞食の娘が、王妃になった結果でした。たとえ、結婚前に良い着物を着たとしても、乞食の娘は乞食の娘です。王妃ではありません。

義認は、私たちの良い行いにかかっているのではなく、我々の主なる神に対する態度にかかっています。義認は、我々の良い行いの結果ではなく、私たちがイエス様を選んだ結果なのです。ただ今、自分は滅び行く罪人だと悲しんでいる人は、乱舞したあとで、自分は王の子、神の子供だ!と歓喜の声を上げることができるのです。

もし、私たちがまだ新生を経験していないならば、今なお、罪の中に死んでいるのであり、主なる神との交わりを少しも持っていません。十字架は、新しいいのちを得る唯一の道です。十字架の血潮によって、自分の罪は拭い去られ、赦されます。十字架で、私たちは、イエス様と共に死んだと書いてあります。

イエス様が十字架で亡くなられた時、私たちの古き人も一緒に死んだのです。イエス様が墓に横たわられた時、私たちもまた、墓に入ったのです。私たちは、自分の生活が失敗だらけで、罪にまみれているのを見たことがあるでしょうか。あるいは、今日、新しいいのちを得たいと望むのでしょうか。

イエス様は、生きておられます。すばらしい約束です。

イザヤ
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

すばらしい主の呼びかけ、また、約束です。今日、自分が罪人であることを、イエス様に、声を出して、あえて告白したらありがたい。イエス様、私は罪にまみれた内容のない人生を送って、今日(こんにち)に至りましたけど、どうかこの私にも、新しいいのちをお与えになってください。このようになさるなら、本当に、イエス様が自分を新しく造り変えてくださることを、身をもって体験することができます。

私たちと主、また、イエス様との関係は変わります。すなわち、主なる神は、我々の父となり、イエス様は私たちの救い主、そして、主となるのです。私たちは、イエス様の流された血潮によって、罪が赦されていることを知るようになり、内住のイエス様によって、永遠のいのちを与えられていることを確信するようになります。人生の目的は、自分自身ではなく、栄光の主イエス様となります。

生ける主なる神の約束は、次のようなものです。よく言われることばです。聖書全体の言わんとしていることが、ここでまとめられているのではないでしょうか。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

イエス様の弟子の一人であるヨハネも、結局、同じことを言ったのです。言葉は違うけど、内容としては同じです。

第一ヨハネ
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

自分の罪を告白した後ですぐ、流されたイエス様の血潮を感謝してください。あなたが感謝した瞬間に、聖霊は、あなたの死んだ霊を生き返らせ、あなたの霊に宿るのです。あなたは、その時、全く新しいいのちを持って、イエス様と共に、死からよみがえったのです。

もし、私たちが今日、自分の罪の生活を全部、イエス様に明け渡すと、イエス様は、すぐ救いの衣を着せてくださいます。誰が今日、霊的な死の生活から永遠のいのちに移ろうとしているのでしょうか。闇の力から、御子の支配下に移されるのは、信仰によります。これは、知識や感情の問題ではなく、信仰の問題です。

もう一回、初めの文章を読みます。非常にすばらしい告白です。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

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