2015年10月20日火曜日

果たされた救いの計画(八)

果たされた救いの計画(八)
2015年10月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。

今、最後にお読みになりました箇所の中で、神の御心は、もちろん、我々の救いだけではなく、聖くなることです。イエス様の当時の呼びかけの一つは、誰でもわたしについてきたいと思うなら――来たくなければけっこう、わたしは強制しません――けれども、ついて来たいと思うなら、自分を捨て――たまにではなくて――日々、十字架を負い、わたしについて来なさい。

バプテスマのヨハネとは、当時、非常に用いられた器でした。どうしてでしょうか。彼の告白を見るとわかります。あの方は盛んになり、私は衰えなければならない。私は別に、無視されてもいい。イエス様が中心になれば、私は嬉しい。彼は、この態度をとったからこそ、用いられる器となったのです。パウロは、エペソにいる人々に書いたのです。御霊に満たされなさい。

このあいだ、私たちは、『我々のものとされ得る救い』というテーマについて考えてまいりました。そこで、三つの疑問について、考えました。

第一番目、何を自分のものとしたら良いのでしょうか・・・・という質問を設けましたが、答えは、イエス様にある永遠のいのちです。第二番目、いかにして、それを自分のものとすることができるのでしょうかという問いだったのですが、これに対する答えは、新生によって、イエス様との出会いによって、新しく生まれ変わることによってです。第三番目の質問とは、どれくらい多くを自分のものとしなければいけないのかという問題があったけれども、我々は、次の四つのことがらを自分のもの、自分の体験としなければいけません。第一番目、新生。第二番目、成長。第三番目、成熟。第四番目、完成。この四つを体験しなければなりません。

私たちは、この前、新生について考えてまいりました。今日は、この第二の点、すなわち、成長について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

この成長は、聖化、または、変化という言葉に言いかえることもできるでしょう。聖化の秘密とは、いったい、何なのでしょうか。救われる秘訣とは、イエス様を心の目で見ることです。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

こう、イエス様は約束してくださったのです。けれども、救われるということだけでは、充分ではありません。イエス様をより良く知ること、イエス様とひとつに結びつくこと、イエス様に用いられることが、どうしても必要です。

今の激動と混乱と堕落の時代にあって、悩み、苦しみを超越した信者は、本当に必要な者であり、探し求められているのです。

第一テサロニケ
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。

主なる神の御心は、救われた人々が、イエス様の似姿と同じようになることです。私たちは、イエス様の栄光のからだと、同じかたちに変えられなければなりません。

ピリピ
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

3:20 私たちの国籍は天にあります。(・・・・いつか、そうなるかもしれないのではない。私たちの国籍は天国にある・・・・)そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

『何をするの?』と聞かれれば、『待ち望んでいる!』と言うべきなのではないでしょうか。来るべき日に、私たちがイエス様を見る時、私たちは、イエス様の似姿に変えられるとあります。

このヨハネ第一の手紙の三章は、本当にすばらしい箇所ですね。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

これこそが、主なる神の御心です。すなわち、イエス様のいのちが、人間の霊に入り、その人が生まれ変わることによってのみ、可能です。この新しいいのちは、最初、人の霊にだけ宿ります。この新しいいのちを受けるように、聖霊は我々の霊と共に働きます。この人の霊に住む新しいいのちは、その人の魂、肉体にまで、浸透しなければいけません。全く新しくならなければなりません。そのために、パウロは、信じる人々のために、ずっと祈り続けました。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

結局、苦しくて苦しくて、仕方がない。もう一箇所、次のように、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書くことができたのです。

第二コリント
3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

私たちは、『キリストの手紙』のようにならなければいけません。

3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

私たちは、栄光から栄光へと、主イエス様と同じ姿に変えられていかなければならない。この箇所を通しても、はっきり、知ることができます。主なる神の御心は、私たちが、イエス様と同じ姿に変えられることです。この神の目的に達する道は、聖化、成長、変化です。私たちの毎日の生活において、この成長と変化が、あるかないかが問題ではないでしょうか。

コロサイ
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

新しく生まれ変わった人に宿っている聖霊は、その人の全部を支配しようと思っています。聖霊は、我々を、イエス様ご自身の姿に変えようと思っておられます。そのための手段として、聖霊は、十字架を用います。

聖化は、すべての救われたキリスト者に対する神の御心です。主の御心は、私たちが、聖くなることです。聖化――言い換えるならば、変化――は、まず第一に、自己をだんだん、否定することにより、起こります。第二に、聖化は、だんだん聖霊に満たされることにより起こります。

以前に、罪なきアダムを、霊が支配していたことを学んだことがあります。魂と肉体は、罪なきアダムにおいては、霊の支配の下にありました。ところが、堕罪の後、霊ではなく、魂が支配者になってしまったのです。肉体は、魂の支配下に置かれ、魂の奴隷になり、霊は死んでしまいました。

けれども、新生した人の場合、霊、魂、肉体は、どんな関係になっているのでしょうか。聖霊は、新生した人の生き返った霊に宿っています。けれども、魂は、なおも非常に強いのです。肉体は、そのために、霊の支配に置かれたり、魂の支配に置かれたりします。聖化とは、聖霊が人間の霊を通して、いよいよ、その人の支配者になることを言います。霊は、だんだん、魂を支配してこなければいけません。

バプテスマのヨハネは言いました。

ヨハネ
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

また、パウロは、エペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。

エペソ
5:18 御霊に満たされなさい。

私たちが今日、切実に必要としていることは、御霊に満たされることなのではないでしょうか。御霊の満たしは、受け入れる能力の問題ではないでしょうか。すなわち、能力が小さいということは、自己が多くなっていることであり、能力が大きいということは、自己を少ししか持っていないことを意味します。

もし、私たちが、イエス様を自分の内に栄えさせようとするならば、私たちを衰えさせなければいけません。もし、私たちが、イエス様の姿に似た者となりたいと願えば、私たちは自己を、すなわち、我々の考え、欲し、志すことを否定せねばなりません。私たちが、自分で失敗し、罪にまみれた生活を悔いて、イエス様に信頼したとき、そのとき、聖霊は私たちの霊に宿り、私たちの死んだ霊は、その時生き返ったのです。

けれども、生まれ変わったばかりの人は、聖化の出発点に立っているにすぎません。神の御心は、私たちが聖められることです。主なる神は、私たちが成長し、変化して、御子イエス様の似姿に変わることを願っておられます。この変化、成長のために、我々の日々の生活が存在するのです。しかし、私たちは、この日々の生活で、霊と魂の恐るべき戦いを、しばしば経験します。

私たちが聖書を読むときにしろ、集会に出席した時にしろ、また、その他、いろいろな働きにおいて、この戦いを経験することは確かです。

へブル人への手紙の四章を見ると、この戦いについて、ちょっとだけ、ふれています。

へブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

我々の生活の状態は、いったいどうなのでしょうか。聖霊ではなく、自己が支配者となっていないでしょうか。私たちは、聖霊の力によらないで、自己の力で働いているのではないでしょうか。私たちの内には、自分を入れる余地があるけど、聖霊を通す余地がないのではないでしょうか。

私たちは、聖霊の支配、聖霊の力、聖霊の自由を必要としています。私たちは、自分を否定することにより、聖霊の支配を受けることができます。永続的な信仰により、私たちは、聖霊の力を自分のものとすることができます。私たちは、信仰によって、聖霊の自由を持っていることができます。主なる神の御心は、私たちが聖くなることですと、今、何回も言いました。

聖くなることの秘訣とは何でしょうか。もっとも大切な箇所の一つ、すばらしい答えなのではないでしょうか。

第一コリント
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

したがって、聖化とは、我々の内に、イエス様のかたちが形造られることを言います。しかし、これは、我々の自我を否定することによってのみ可能です。これを考えると、聖化におけるもっとも大切な問題は、魂の問題です。魂は、我々の生活における戦いの場所です。

我々の魂の能力とは、何でしょうか。考えること、感じること、志すことです。我々の内で、霊と自我が、激しく戦っています。信じる者の霊の内に宿っている聖霊は、ただ主なる神の御心だけを行おうとします。けれども、霊は、魂と肉体を通して、行動しなければいけません。これは霊が、魂と肉体に対し、完全な支配をしている時に初めて、可能なのです。

たとえば、あなたのお父さんや友だちが、あなたに何かを言います。あなたの耳は、それを聞いて、魂が働き始めます。そして、あなたの魂は、言われた言葉に対する答えを通して、考え、感じ、欲します。あなたが聖書を読んだり、みことばを聞いたりすると、あなたの目、耳がそれを受け入れます。すると、あなたの魂は、働き始めます。考えたり、感じたりします。これと同時に、あなたの意思も働き、言われたことがらを拒むか、受け入れるかのどちらかです。あなたがイエス様のものであるならば、読んだり、聞いたりしたみことばを、あなたの霊は受け入れようとするはずですけど、しかし、時折、あなたの自我が働いて、みことばを拒もうとします。

したがって、解決されなければならないのは、我々の魂の問題なのではないでしょうか。もし、この問題をまだ解決していないならば、聖霊の支配、聖霊の力、聖霊の自由を持っていないことになります。魂は、滅ぼされるべきではなく、救われねばならない。魂は、聖霊により、救われ、解放され、支配されなければいけません。

けれども、救いへの道は、どこにあるのでしょうか。救いは、十字架にあるのであり、聖霊の声に聞き従うところにあるのです。新しく生まれ変わった人はみな、勝利の生活は自分は無理だ、試みがあれば、すべてはダメになってしまう・・・・と、経験したのではないでしょうか。パウロでさえも、それを経験しました。有名なローマ書、七章を見ると、彼は次のように告白したのです。イエス様に出会った男として、イエス様に心から仕えようと望んだ男としての証しです。

ローマ
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

これは、パウロの正直な告白、また、証しでした。これは、我々の経験でもないでしょうか。しかし、私たちは、悲しんでいる必要はありません。聖霊は、私たちに、自分の力では、勝利に満ちた生活はできないことを示そうと、望んでおられます。もし、聖霊が、我々にそれを、もうすでに示したのなら、よろこぶべきなのではないでしょうか。なぜなら、多くの救われた人々は、まだ、それをわかっていないからです。

ですから、この事実をまだ知らない人々は、これをやらなければいけない、あれをしなければいけない、これをやってはいかん!というようなことを言います。これは、律法であって、福音ではありません。聖霊のことばを聞くべきです。『十字架を見よ。イエス様は、汝の罪のみならず、汝の古き人とともに、十字架につけられたことを知りなさい。かつ、あなたの古き人を、キリストとともに、墓に葬られたのです。また、イエス様のみ、墓からよみがえられたのであります。あなたは、イエス様の勝利とよみがえりのいのちを、自分の内に受けようとしないのか。』

この聖霊の声に対する、我々の答えはいかがなものでしょうか。私たちは、「はい、よみがえりの力が、私の内に支配していてもらいたい。自分の支配権を、よろこんでイエス様に明け渡します」と言うことができれば、心から望めば、本当にありがたいと思います。もし、私たちがこのように言うことができるならば、聖霊の支配、聖霊の力、聖霊の自由を、味わい知ることができます。

今まで、聖霊は、我々の霊の内に宿っていることを考えてまいりました。けれども、もしかすると、それは、あたかも、牢獄の中のようだったかもしれない。けれども、私たちが今日、自分のすべてを主に捧げるならば、聖霊は、私たちを、ますます、イエス様ご自身の姿に変えて行きます。すなわち、私たちの霊に宿っている聖霊は、だんだん、私たちの考えること、感じること、志すことに支配を及ぼし、さらに、あなたの肉体にまで、その支配が行き渡らなければなりません。

あなたは新生した時、聖霊を受け取りました。けれども、私たちは聖霊に満たされなければなりません。「聖霊に満たされなさい!」と、提案したのではなく、命令されています。主なる神は、信じる者にイエス様のいのちを満たそうとしておられます。けれども、それは、強制的ではありません。したがって、私たちが、もう一度、新しく、自分のすべてを主に捧げることが、大切なのではないでしょうか。もし、私たちが、主にすべてを捧げるならば、主は、我々の心に働きかけ、救いの達成の願いを起こさせ、また、これを実現に至らせてくださることを、確信します。

ピリピ
2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

また、聖霊が、私たちを、栄光から栄光へと、御子の姿に変えて行かれることを、確信すべきなのではないでしょうか。そして、また、聖霊の働きによって、我々の内に、イエス様の姿が、完全に形造られることを確信しています。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

パウロは、信じる者の成長のために、こういうふうに、心から祈って、祈り続けたのです。

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