2013年11月19日火曜日

主を待ち望め

主を待ち望め
2013年11月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
16:21 パウロが、自分の手であいさつを書きます。
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。


黙示録

22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。


22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

今日は、テサロニケ第一の手紙、五章の全般について、一緒に考えてみたいと思います。

このところの中心テーマは、主イエス様が再び来られるということです。題名として、テーマとして、『主を待ち望め』とも、つけることができるのではないかと思います。

三つの質問について考えましょうか。第一番目、主の出現とは、いつになるのでしょうか。どなたが来るのでしょうか。どのように来られるのでしょうか。それから、いつになるのでしょうか。そして、二番目、『夜の者』とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち、眠っている者であり、酔う者であり、また、無防備の者です。そして、三番目、『昼の子』とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち、目を覚ましている者、慎んでいる者、また、完全装備している者です。

本当の改心のしるしは、意識して、主の再臨を待ち望んでいるということです。そのことについて、パウロは、私たちが主を待つために改心する恵みを与えられたということです(と書いています)。確かに、どうして信じることができたか、イエス様があわれんでくださったからです。けども、救われるためにだけではない。主を待つために救われたと、聖書も、はっきり言っています。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

結局、周りの人々は、「あの連中たちはね、再臨を待っている者だ!」と、言えるようになりました。当時、イエス様が再び来られるということを知ることは、信者たちに対して、大きな慰めと勇気と喜びを与えたのです。それに比べて、今日、我々の場合は、いったいどうでしょうか。主の再臨を知って、我々の慰めと勇気とを与えられているのでしょうか。主のみことばの真理を、本当に自分のものにすると必ず、慰めと希望と勇気を与えられるのです。

このテサロニケ第一の手紙の中心なるテーマとは、主の再臨です。そして、信じる者は、この再臨に対して、どのような態度を取るべきかについて、五章からちょっと読みましょうか。

第一テサロニケ
5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

パウロは、このようにテサロニケにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

始めの質問は、主の出現とは、いったいいつになるのでしょうか。どなたが来るのでしょうか。どのように来られるのでしょうか。それから、いつになるのでしょうか。

イエス様ご自身が、再び来られると、全く明確に記されています。

今日、青少年犯罪の問題、あるいは、さらに戦争の問題が、将来、いったいどのようになるのかということを、非常に心配し、憂いている人が大勢います。しかし、これらの問いに対しては、いかなる人間も、いかなる宗教も、答えを与えることができません。ただ、聖書だけが、答えを与えることができるのです。イエス様は、末の世について、次のように言われました。

マタイ
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

すなわち、別の言葉で表現すれば、将来、さらにひどい状態になり、そして、それは今まで、かつて、一度もなかったような恐ろしいものであると、聖書は言っています。そして、この世に対する神の裁きが、今までなかったほどのものとして現れると、いうのです。未信者にとっては、患難と不安、恐れに満たされた時が来るのですけれど、主の恵みによって救われた人々にとっては、言い表すことのできないほどの、喜びと救いがやって来るのです。

いつ、イエス様が再臨なさるかということは、そんなに大切なことではなく、大切なのは、イエス様ご自身が来られるということです。そして、このことで充分です。テサロニケの兄弟姉妹は、この確信を持って、生活したのです。これこそ、本当の喜びの土台そのものです。

戦争が終わった後、ドイツのひとつの都市では、爆弾によって廃墟となったところを浚渫(しゅんせつ)機が、後片付けをしていました。そして、浚渫機が集めた瓦礫を、その後ろにいる労働者が、スコップで傍らに放り投げていました。ところが、そうしている最中に、どこからともなく、時計がカチカチと、時を刻む音が聞こえてきました。それを聞いた時、労働者たちは一瞬、びっくりしました。なぜなら、その時計の音は、時限爆弾に取り付けられる時計の音に間違いなかったから。そこで、その労働者は仕事を止めて、そのことを警察に通報し、そのあたり一帯の人々や住民を、遠く離れたところに避難させたのです。はたせるかな、その後で、時限爆弾が大きな音をたてて爆発したのです。その労働者たちは、時限爆弾が取り付けられた時計が時を刻むのを聞いて、それから、いつ爆発するかはわかりませんでした。けれども、必ずいつかは爆発するということを、よく知っていました。

ちょうど、それと同じように、イエス様の再臨がいつであるか、確かに今は、わかりませんが必ず、いつか成就されます。なぜならば、主なる神の時計は、正確に、その時を刻んでいるからです。

けれども、それは、イエス様が復活なさったときから、正確な時を刻みはじめたのです。そして、復活祭の時に、全人類にとっての最後の敵である死が、打ち負かされたのです。そのすべての権威を持っておられるお方、主イエス様が、ご自身を啓示なされたのです。

ちょうどイエス様が、この世では貧しく、人々に侮られたことが真理であると同じように、やがて、栄光のうちに再び来られるということも、同じく真理です。また、ちょうど、イエス様が、受難の時、全く力なく、十字架で血を流されたように、やがて、絶大なる力をもって現れることも真理です。また、復活祭の時、イエス様が死を打ち負かされたように、やがて、天と地、また、死者と生者に対する主として、主は、来られるのです。これも真理です。

先ほどのお話で、時限爆弾が仕掛けられてから、一定の時が経つと正確に爆発するのと全く同じように、復活された主イエス様が、ある時に、必ず再臨なさることも確かです。なぜならば、復活という事実が取りも直さず、再臨を証明する事実であるからです。もし、私たちが、この再臨について本当の確信を持っていなかったとしたら、それは、本当に悲しむべきことであると言わざるを得ない。

それから、どのようにして、イエス様が再臨なさるかについて、パウロは、はっきりと書き記したのです。すなわち、イエス様は予期しない時に、突然、盗人が喜ぶように来ると言っているのです。盗人は、自分が泥棒に入ろうとする時間を、予め知らせるような愚かなことはいたしません。イエス様が今日、再臨なさるということは、たとえ、考えられないとしても、それが実現される可能性はあるのです。そのことを考える時、私たちは、本当に喜ぶことができ、また、力づけられるのです。

しかし、信者の中には、そのことを考えても、本当に喜ぶことができないような人もいることも事実です。我々の場合はどうでしょうか。また、いつ、イエス様が再臨なさるかについて、パウロは、はっきりと答えています。すなわち、人々が、「平和だ、無事だ」と言っている、その時に主が来られるのですというのです。

今日、どこでも、平和という言葉が聞かれ、また、大抵の人は、それだから安心だ、無事だと思っていますけど、聖書は、そのように思い込むことが誤りですと、はっきり言っています。三節に書いてありますように、イエス様が再び来られることを確信して、心から待ち望むことをしていない人々にとっては、主の再臨が取りも直さず滅びを意味しているのです。

二番目の質問は、『夜の者』とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち、眠っている者であり、酔う者であり、また、無防備の者です。すなわち、彼らは、イエス様など来ないと言うか、あるいは、当分、来ないと言うかのどちらかですけども、彼らが取る態度の結果、あるいは、終わりは、恐れ、患難、そして、滅びなのです。それですから、彼らは、希望なく、望みなき者です。

聖書のことばによると、彼らは、眠った者であり、酔う者です。私たちは、酔う者がどういう者であるかよく知っています。酔う者は、責任能力がなく、信心の状態が正常ではない者です。酔っ払い運転が見つかれば、すぐに、免許証は取りあげられてしまいます。

聖書の中では、未信者は、酔う者にたとえられています。すなわち、酔う者は自分が何をしているか、わからずにいるわけですが、未信者も提供された救いを拒むという全く愚かなことをしている。自分の状態に気がつかないでいるわけです。なぜならば、イエス様を拒むことの結果が、滅びに至るということを、知らないでいるからです。

また、聖書は、未信者のことを、眠っている者とも呼んでいます。すなわち、未信者は、イエス様を待つことをせず、主の御心を真剣に受け取ろうとせず、愚かにも、自分勝手な道を行こうとしているのです。イエス様をまだ、体験的に知っていない人は、当然、次のような問いが起こってきます。『光の子』になるために、どうしたらいいのでしょうか。

ローマ(口語訳)
3:23 すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって(いる。)

同じ事実が旧約聖書にも書かれています。よく、引用される箇所です。

イザヤ
64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

また、聖書は言っています。光の子となるためには、自分自身の罪だらけの状態――失われた状態――を認め、告白し、それから、離れることも必要であると、聖書の中で、何回も何回も書き記されています。『自分の背きの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。』聖書全体の言わんとしていることはそういうものです。隠しても無駄。へりくだればオーケー。主のみことばを信じることですね。

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

主があわれんでくださらなければ、恵んでくださらなければ、本当におしまいです。旧約聖書の中でも、同じようなことばが、書きしるされています。私は何十年か前に、このことばによって、確信を持つようになり、救われました。

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

こういう約束を自分のものにすれば、やはり幸せになります。

マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

ここでアンダーラインすべきことばは、「彼ら」・・・・「彼」ではないよ。結局、運んだ人々の信仰を見て、イエス様は、中風の者に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」とあります。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

それから、次の一歩は、あなたの罪のために尊い血潮を流して、贖ってくださったイエス様に、感謝をすることです。しかも、感傷的にそうするのではなく、聖書に書かれている主のみことばの上に、感謝することが大切です。わかったからではない。約束されているから。

最後の一歩は、主を隠さずに、どこででも、公に告白し、証しをすることです。

ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

最後に、第三番目の質問は、『昼の子』とは、いかなる者なのでしょうか。すなわち、目を覚ましている者、慎んでいる者、また、完全装備している者です。

第一テサロニケ
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。

光の子とは、目を覚ましている人であり、また、慎んでいる人です。すなわち、待っている者です。彼らは、望みと喜びに満たされています。

第一テサロニケ
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

胸当てとかぶとを身につけている者は、すなわち、光の子です。すなわち、非常によく装備している者です。ここで、胸当てとは、イエス様を信じる信仰と、イエス様に対する愛との胸当てです。自分に拠り頼むことをしなくなり、すべてを主に委ね、何ものにも増して、主を第一にし、誰よりもイエス様を愛する者だけが、完全な装備をしている者であり、いかなる敵に対しても、立つことができる者です。

また、かぶととは、イエス様が必ず来られるという、確信と喜びのかぶとです。イエス様が今日、来られるかもしれないという待ち望みを持っていない者、すなわち、そのようなかぶとを身につけていない者は、弓矢で射られたり、刀や槍で傷つけられやすい、非常に危険な状態にあるわけです。

これらの武具、すなわち、胸当てとかぶととは、まさに、主の賜物以外の何ものでもありません。けども、あらゆる賜物は、同時に、その中に一つの課題、あるいは、使命を宿しているのです。賜物は、いつも、目的を持って与えられるものです。

目を覚ましていなさい。慎んでいなさい。眠っている者は、意識がありません。したがって、近づく危険を感じ取ることができず、戦いを放棄してしまっているのです。

目を覚ましていなさい。慎んでいなさい。眠っている者は、意識がありません。したがって、近づく危険を感じ取ることができないし、戦いを、今、言いましたように、放棄してしまっているのです。酔っ払っている者は、全く無防備の状態に置かれているのではないでしょうか。

私たちは、絶えず目を覚まして、慎んでおり、互いに助け合うようになるのです。私たちは、いったい光の子なのでしょうか。それとも、夜の者なのでしょうか。眠っている者なのか、それとも、目を覚ましている者か。酔う者でしょうか。慎んでいる者でしょうか。望みのない者、生き生きとした望みを持っている者なのでしょうか。不安に満たされている者でしょうか、それとも、喜びに満たされている者なのでしょうか。全く無防備な者でしょうか、それとも、よく装備した者なのでしょうか。

私たちは、イエス様の再臨という確実な真理について考えてきました。それは、我々にとって、何を意味しているのでしょうか。

まず、イエス様が再臨なさると――イエス様が再臨なさるというこの事実は――我々に決断を迫るということです。すなわち、イエス様は、我々との出会いを望んでおられますが、私たちは、この主を今、受け入れるのか、それとも拒むのでしょうか。今日こそ、その決断をする絶好の機会なのです。さもなければ、たいへんなことになるかもしれない。主なる神の時限爆弾が、爆発する時まで待つことは、全く遅すぎることであり、また、愚かなことです。

イエス様が再臨なさるというこの事実は、私たちが主イエス様に仕えることを迫る。自分だけのことを考えて、のんびりと楽な生活を楽しむための時間は、もはや、なくなりつつあるのです。私たちは、イエス様のために実を結ぶように召されているのです。イエス様のために実を結ぶとは、他の人が永遠のいのちを持つことができるよう、そのきっかけを与えることです。

イエス様が再臨なさるというこの事実は、我々を、不安から引き出すのです。多くの人は、心配や不安のため、将来のことを考えようとはしません。私たちが将来のことで思い煩い、心配するならば、それは、主に対する不信頼の現われなのではないでしょうか。私たちは、思い煩ったり、恐れたりする必要はないとイエス様は言っておられます。

最後に、もう一箇所読んで終わります。

黙示録
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデス(・・・・死者の国・・・・)とのかぎを持っている。」

そして生きている者、すなわち、イエス様は再び来られるのです。もし、私たちが今日、すべてを主に明け渡し委ねるならば、主の再臨という真理を、心から喜ぶことができます。

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