2013年11月12日火曜日

いつも祈っていなさい

いつも祈っていなさい

2013年11月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。

第一コリント
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

今、読んできてくださいました三十六節をもう一回、お読みいたします。

ルカ
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。

絶えず、目を覚まして祈っていなさいと――提案されているのではなく――命令されています。絶えず目を覚まして、祈っていなさい。目を覚ましているためには、どうしても祈ることが必要です。そして、祈るということは、主とひとつになる交わりを持つことです。


けども、主との出会いによって、罪を赦された者だけが、主と交わりを持つことができます。したがって、私たちが主を体験的に知っているかどうか・・・・ということが、決定的な問題になります。私たちは、罪の中に死んでいるのでしょうか、それとも、目を覚ましているのでしょうか。私たちは皆、永遠のいのちを持っているのでしょうか。私たちは、御霊によって、新しく造られた者とされているのでしょうか。再臨について考えると、必ず、テサロニケ第一の手紙の四章を読むべきなのではないでしょうか。そして、再臨について考えると、いつも、聖霊、御霊ということばも出てきます。

第一テサロニケ
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

ローマ
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

大切なことばです。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」すなわち、救われていない。そして、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、また、書いたのです。

第一コリント 
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

前に話したように、テサロニケの第四章は、二つに分けて考えることができるのではないかと思います。前半、すなわち、一節から十二節まで、救われた人々の清めであり、後半、すなわち、十三節から十八節まで、救われた人々の希望です。もちろん、清めと望みとは、密接に結びついているため、切り離すことはできません。ヨハネは、当時の信じる者に、この事実について、次のように書いたのです。すなわち、清めと望みとは結びついている。

第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

すなわち、テサロニケの手紙は、清め、あるいは、聖化を呼び起こす手紙であり、また、希望を与える手紙です。今、話したように、もちろん、清めと希望とは、お互いに密接な関係を持っています。イエス様が再び来られるという希望こそ、清め、あるいは、聖化を押し進めるもっとも強い推進力です。イエス様の出現を、心から待ち望んでいる兄弟姉妹は、絶えず、罪から清められたいという強い願いを持っています。

第一テサロニケ
4:1 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
4:2 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。
4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
4:4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
4:6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
4:10 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたは、それを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。
4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

今の箇所を見ると、テサロニケに住んでいる兄弟姉妹の古い性質のことが記されています。その当時、テサロニケは非常に豊かな商業都市でした。したがって、お金に対する欲望が渦を巻き、道徳的にもずいぶん堕落していました。

信者といえども、このような悪い影響から免れることは、必ずしも、簡単なことではありませんでした。このような理由から、パウロは、テサロニケの兄弟姉妹に厳しく警告し、「不品行を避けなさい。兄弟を踏みつけたり欺いたりしないで」と、言ったのです。救われた者といえども、絶えず目を覚ましていないと、不品行に陥り、お金に対して貪欲になると、パウロは警告しました。肉の思いと欲にふけること、あるいは、金に対して貪欲になることは、イエス様を心から待ち望むことと、全く相容れないことです。この問題と関連して、いわゆる清め、あるいは、聖化と呼ばれる問題が表れてくるのです。ですから、三つの点について一緒に考えてみたいと思います。

第一番目、清めとは、いったい何でしょうかね。二番目、新しい生活の力とは、いったい何でしょう。三番目、御霊に満たされるとは、いったい何でしょうか。

まず、第一番目、清めとは、いったい何なのでしょうか。この問いに対する答えは、四章に見いだすことができます。

第一テサロニケ
4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。

清めとは、実際にはどのように見えるものなのでしょうか。九節を見ると、兄弟に対する態度、すなわち、兄弟愛について記されていますね。

第一テサロニケ
4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。

そして、十一節と十二節を見ると、外部の人々、すなわち、未信者に対する態度、すなわち、自分の仕事に身を入れることについて、記されています。

第一テサロニケ
4:11 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
4:12 外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。

別のことばで言うならば、汚れた肉の欲ではなく、清い兄弟愛を持ち、貪欲な守銭奴ではなく、勤勉な働き人であるようにと勧められています。

兄弟愛は、決して、私たちの努力によるものではなく、主なる神の賜物です。与えられなければ無理。もともと人間は、自分のことばっかり考えて、他の人のことを考えない性質を皆、持っています。テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様のからだなる教会、すなわち、組織ではなく、有機体としての教会を見、他の地方に住んでいる兄弟姉妹とも、心からなる一致を持っており、麗しい兄弟愛を持っていたのです。しかし、それと同時に、彼らといえども、肉の欲に溺れる危険性に直面していました。汚れた欲の虜になるか、あるいは、清い兄弟愛を持つかのどちらか・・・・という二者択一の問題に、直面していたわけです。御霊が我々を満たし、導くことができるかどうかという、非常に重大な問題が存在していたわけです。

主のからだなる教会には、怠け者が入る余地はないと、はっきりパウロは言い切っています。信じる者が、自分の仕事に身を入れ、一生懸命に働くということと、心からイエス様を証ししたいと切望することとは、切り離すことのできない関係にあります。

パウロが書いたような新しい生活の力とは、いったい、いかなるものかといる問いが、これの関連において別のことばとして現れてきます。一言で要約すれば、清い生活をするためには、聖いお方が必要であるということです。この聖い人格は、ただ聖霊によってのみ可能となるのです。この世には、人間の力で清い心を持ち、清い生活をすることができると考えている人が、数えきれないほどいます。多かれ少なかれ、未信者は、誰でもそのように考えています。しかし、彼らは自分自身の本当の姿に対しては、全くメクラです。彼らは、聖なる主に対しては、ほとんど注意しないのです。

イエス様を体験的に知らなければ、人間は、誰でも自分自身のエゴ、そして、悪魔の虜になっています。この事実を知らないこと、また、知りたくないことこそ、最大の悲劇です。生まれつきの人間ができることは、すべて罪を犯すことだけです。

これこそ、主なる神の判断であります。清い生活は、ただ聖い御霊、すなわち、聖霊だけが導き、いとなみ得るのです。したがって、主の再臨に対して、聖霊を受け入れるか、否か、聖霊の導きに従うか、否かということが、重大な問題となります。

私たちは、聖霊の働きに対して、三つの異なった態度を取ることができます。

まず、第一に、聖霊を全く無視することができます。救われた人々ならば、誰でも、聖霊の宮であるか、あるいは、聖霊の牢屋であるかということです。多くの信者は、みとこばに正しく向かい、聖霊の働きと導きに正しく従うことをしていない。すなわち、実際問題として、自分が決定権を持ち、聖霊は全く無視されているわけです。

二番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れるということ、すなわち、言葉を変えて言うならば、聖霊が信じる者の全支配権を持つのではなく、部分的な支配権を持つということです。そのような場合には、聖霊は、単なるお客様として、よそよそしく取り扱われるのです。おもに自分が支配し、決定し、時々、御心は何かと尋ねるにすぎないような信者が、少なくないのではないでしょうか。そのような生活の結果は、決して、幸福な生活ではない。みじめな生活です。

聖霊を受ける第三の態度は、聖霊にすべてを明け渡し、聖霊がすべての支配権を持つという態度です。パウロが聖霊に対して取った態度は、まさに、この三番目の態度でした。その結果は、皆さんよくご存知のように、「生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちにいる」という告白であります。

今まで、私たちは二つの点について考えてきましたね。まず、清めとは、いったい何でしょうか。二番目、新しい生活の力とは、いったい何なのでしょうか。

今度は、三番目の点、すなわち、聖霊に満たされるとは、いったい何なのでしょうかという大切な要求について、最後に考えてみたいと思います。しかし、それはいかにして可能となるのでしょうか。第一番目、全く献身することによって。第二番目、主が全く支配権を取ってくださることに対して、感謝することによって。そして、三番目、主が導いてくださること、ご自身のご栄光を現してくださることを、心から期待することによって、御霊が我々を満たし、導くことが可能となることができるのです。

聖霊に満たされることは、もちろん、人間の感情の問題ではなく、意思の問題です。すべてを主に明け渡した時に初めて、私たちは、聖霊に満たされるようになります。したがって、聖霊に満たされるための前提条件は、まず、第一に献身、第二に、主が支配権を取ってくださったという確信に他ならない。そして、これは、我々の決断にかかっています。

私たちは、聖霊に満たされるまで、待つ必要はない。私たちが心を開いて、すべてを主に明け渡しさえすれば、満たすことを常に望んでいる聖霊は、ただちに、私たちを満たしてくださるのです。

ガラテヤ
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

もし、聖霊だけが支配できるならば、御霊の実は啓示されるのです。これは決して、敬虔ぶった宗教家、あるいは、宗教的な人の努力の結果ではない。ここで書かれているように、御霊の実です。御霊は、私たちが過去に犯した罪のみならず、罪そのものの本当の恐ろしさをも、明らかに示してくれます。そして、罪は我々の内に宿っているのです。御霊は、イエス様による罪の贖い、あるいは、救いが我々にとって、ますます、本当のものとなり、ますます、深くなるようにと、導き助けてくれるのです。

テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様が再び来られるという喜ばしい訪れを聞きました。それは単に、情報、あるいは、ニュースのみならず、聖霊に対する用意ができているか、否かという呼びかけでもありました。私たちにとっても、イエス様が再臨なさるという真理は、まさに、清めに対する呼びかけではないでしょうか。

第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

私たちは、聖霊に対して、いかなる態度を取るのでしょうか。全く無視するのでしょうか。一部だけ、支配権を明け渡すのでしょうか。それとも、全支配権を主イエス様に明け渡すのでしょうか。

終わりにもう一回考えましょう。すなわち、私たちは、聖霊に満たされるために何をしたらいいのでしょうか。御霊に満たされた生活の秘訣とは、いったい何でしょうか。

疑いなく、私たちの主イエス様は、絶えず、御霊に満たされていたのです。この主イエス様は、父の御心に完全に従いました。「わたしの思いではなく、あなたの御心が成るように」とイエス様は、父の御手にある従順な器でした。

その態度は、常に、次のようなものでした。「お父様、わたしはここにいます。どうか、あなたのご自由になさってください。わたしは、この地上で、ただあなたの御心だけが行なわれますように、何でもいたします。」イエス様が、この態度をお取りになられたので、聖霊は高いところからの力として、イエス様の内に宿り、絶えず満たされたのです。

祈りこそ、聖霊に満たされるための前提です。五旬節の時、百二十人の兄弟姉妹が、祈っているあいだに聖霊に満たされました。その少し後で、祈りの答えとして、弟子たちが新しく聖霊に満たされました。私たちが聖霊に満たされたいと願うなら、我々の人生が、すべてイエス様に明け渡されなければなりません。また、イエス様の御心だけを行なうということが、我々の願いとならなければならない。そして、また、我々の祈りは、「主よ、私は、ただあなたの名誉だけを望みます」というものでなければなりません。イエス様の切なる願いは、いつも、絶えず同じものでした。すなわち、「わたしは、ここにいます。お父様、あなたの御心だけが、わたしを通して、行なわれますように」と。

このイエス様は、今日、我々に次のように言っておられます。

『父がわたしを遣わしたように、わたしはあなたがたを遣わします。父はわたしを遣わしました。しかし、父はわたしを一人にされず、聖霊がわたしの上にくだり、わたしの中に留まりました。わたしを通して、父は聖霊の力によって、贖いの御業を成就してくださいました。そして、今、わたしはあなたがたを遣わします。あなたがたを通して、誰でも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをただでいただくことができるということが、宣べ伝えられるべきです。けれども、わたしは、あなたがたを一人では行かせません。わたしにあなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたを用いることができるようになります。わたしの霊は、あなたがたを満たし、器として用いるようになります。』

聖霊に満たされること、また、イエス様の御手にある器となることに勝る大いなるものは何ひとつありません。

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