2012年3月25日日曜日

信頼するとは?

信頼するとは?
2012年3月25日、バンクーバーよろこびの集い
ゴットホルド・ベック

マタイ
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいたきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

まず、このバンクーバーに住んでいる一人の姉妹の手紙を紹介します。ヒロミ姉妹は次のように書いたことがあります。まず詩篇19編12節を引用してくださいました。


『「だれが自分の数々の過ちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」

昨日このみ言葉を読んだとき、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と、今日もまた犯している罪を思うと、心が重くなりました。そして、自分の感情で接してしまうこの主が与えてくださった子供たちは、こんな罪人の私と一緒にいて、まっすぐ主の道を歩んでいけるのかと考えたりもしました。でも今日テープを聞いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡して、主にゆだねたからです。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト記15章26節

このごろはできるだけたくさんイエス様からの言葉をいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るとき開いてみ言葉を食べています。

「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる。」申命記4章7節。

「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」コリント第二の手紙4章11節。

私はイエス様が大好きです。』

こういう手紙でした。今読んでくださった箇所の最後の節をもう一回読みます。

マタイ
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

悲しむ者は幸いであるとイエス様は約束してくださいました。悲しむ者は祈ります。悩みの種であった娘こそが、結局救われるきっかけとなりました。

この女性はイスラエルの民に属していなかった者でした。いわゆるユダヤ人の軽蔑した異邦人、ギリシャ人でした。イスラエルの外にあるツロの地方に住んでいました。おそらく彼女の夫はもうすでに死んでしまい、幼子、娘と二人だけ生活していました。けれどこの娘は母親の喜びではなかったでしょう。言葉に言い表せないほどの悲しみの懸念でした。なぜならば、この娘は病気、重病人だけではなく汚れた霊、結局悪霊に憑かれていたものでした。

マタイ
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」

いかなる医者も彼女を助けることはできなかったのです。そのためこの母親は必ず、人間によって作られた偶像の前に拝んだり、祈ったりしたのではないでしょうか。その結果とは何であったかと言いますと、望みなく、まったく絶望的な状態に陥ったでしょう。すなわち、彼女の母親は喜びもなく、生きがいもなくなってしまいました。彼女はそれらの運命をになって、恐らくあきらめの中に生活していたのではないでしょうか。

けれど彼女はある日、イエス様のことについて、誰からかわからないけど、聞いたのです。何を聞いたかといいますと、一般に言われたことです。たとえばルカ伝7章をみると、次のように書かれています。

ルカ
7:22 そして、答え、こう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が述べ伝えられています。

彼女は、盲人が見え、足なえが歩き、らい病人はきよめられ、耳しいは聞こえ、死人が生き返ったことを、必ず聞いたんです。そのために彼女は、イエス様だったら汚れた霊を追い出すことができると思ったに違いない。彼女はこのイエス様のみもとに行くことができたらと思ったでしょう。

けれど、まず第一に、彼女はイスラエルの外に住んでいたこと。第二に、イエス様がイスラエルの外に出ることはまず考えられないことでした。第三に、彼女が娘を一人だけ残して外出することができないということなどの理由のため、イエス様にお会いすることはまったく不可能と思われました。けれど、それにもかかわらず、イエス様はあとにも先にもただ一度だけ国境までおいでになられたのです。なぜイエス様は国境まで来られたのでしょうか。

一つ考えられることとは、大勢の群集から離れたい、弟子たちだけと静かな交わりの時を持ちたいと思われたかもしれない。イスラエルの中ではイエス様が静かな時を持つことは絶対に不可能でした。なぜなら多くの悩んでる人々、苦しんでる人々、毎日、恐らく朝から晩までイエス様のところに会おうとしたからです。病人たち、あらゆる人々が絶え間なく、イエス様のところに押し寄せたのです。けれども主な理由は、この女に会うためであったことは言うまでもない。この女は娘のために喜びもなかったし、望みもなかったし、もうあきらめてしまったでしょう。運命だ、仕方ないじゃないかと思ったでしょう。

そして彼女はどうしてもイエス様にお会いしたいという願いを持っていたため、彼女のところへイエス様ご自身がやってきてくださったのです。もちろん、私たちも同じことが言えるでしょう。私たちはイエス様に会おうと思ったよりも、イエス様がわたしたちに出会ったのではないでしょうか。

ある時、彼女は、イエス様が弟子たちと共に彼女の住んでいるツロにやってこられることを聞きました。その時、彼女は自分自身に言い聞かせたのではないかと思います。今この時を逃せば、娘は死ぬまでいやされない。そのためには、彼女はすべてのものを犠牲にする決心をしていました。私はどんなことがあってもイエス様にお会いしなくちゃならない。あのギリシャ人の女は、今この時を逃せば、イエス様とお会いし、親しく交わることができる機会は決して来ない。私はイエス様に会いたい。経験的に知らなければならない。すべてのことはイエス様との出会いにかかっている。彼女はこういう風に思ったに違いない。

私たちみんなそのように考えたことがあるのでしょうか。彼女がこのように考えたのは、まったく絶望的な喜びもない状態に置かれていたことをよく知っていたからです。だれでも自分が絶望的な状態に置かれていることを知っている者は、彼女と同じ態度を取るに違いない。けれどそのとき彼女はまだ目的を達成していなかったのです。

そこで、ちょっと3つの事柄について考えて見ましょうか。第一に、何が彼女の信仰を妨げたのでしょうか。第二に、この異邦人の女に対してイエス様はどのような態度を取ったのでしょうか。第三に、まことの信仰の土台なるものとは一体なんなのでしょうか。

まず彼女の信仰の前に横たわっている障害物は何だったでしょうか。細かいことはマタイ伝15章を見るとわかります。すなわち、彼女は叫び続けたのですが、その動機は絶望的状態と娘に対する愛でした。けれどそれに対してイエス様は一言もお答えにならなかった、と聖書は言っています。

弟子たちはイエス様のみもとに来て、変な祈りをささげたんです。うるさいから早く癒して、この女を追い払ってください。これは弟子たちの変な祈りでした。結局弟子たちは彼女を静かにさせるために癒そうとしたでしょうが、それはイエス様にとってありえない、不可能なことでした。弟子たちは彼女を静かにさせるために癒そうとしただけなんです。

これと同じように、たとえば乞食などに対しても本当の愛と同情ではなく、追い払うために同じことをすることは少なくないのではないでしょうか。最近ある、乞食のように見えるんですけど、人がうちまで来たんですね。でも言ってるのは初めから終わりまで嘘。もうひどい。まあ仕方がなくて帰すために金をあげたんです。一万円あげて、出たんです。何日かあとでまた来て、仕方がなくて、また一万円あげようと思ったら、彼は断固として、2万円欲しい。どうしましょうか。帰すためにあげたんです。弟子たちの態度とは結局、癒してもらいたい、元気になってもらいたい、そういう気持ちはぜんぜんなかったのです。うるさい。早く帰ってもらいたい。

けれどイエス様がその時とられた態度は根本的に違ったものでした。そして、答えられなかった理由をはっきりと説明してくださいました。それは、決して静けさや快適な雰囲気を求めたからではなくて、ご自身がイスラエルのために、ユダヤ人のために遣わされたのであるという使命を忘れなかったからです。イエス様の心の中にはやっぱり戦いがあったと思う。一方においてイエス様はイスラエルのために遣わされた者でありながら、他方においてこの女に対して深いあわれみと愛とを感じられたに違いない。その時イエス様は決して自分の思いや考えによって行動することではなく、父なる神の指図に従うために、それを待っておられたのです。

イエス様の願いは、いつも同じ願いでした。私の思いではなく、お父様、どうしたらいいの。み心だけがなるように。23節「主イエスは一言もお答えにならなかった。」どうして?まず祈ったからです。お父様、今すぐ癒してもいいですか?どうしたらいいの、教えて、という態度を取ったからです。その意味で、イエス様とわれわれとはぜんぜん違う。私たちは何か見たり聞いたりすると、自分で考えて行動する。壁にぶつかってから初めて祈るんです。イエス様はまず祈ってから行動してくださいました。

イエス様はお答えにならなかったと書いてあるでしょう。女はなんとがっかりしたでしょうか。このような状態で、さらにこの位置を求め続けるのは役に立つのでしょうか。価値があるのでしょうか。イエス様はイスラエルの民のために遣わされましたが、この女はユダヤ人ではなかった。ギリシャ人だった。結局イエス様はギリシャ人のためではなく、その意味で彼女は結局大切にされていない。彼女はだからあきらめて家に帰ったほうがよかったのではないでしょうか。けれど彼女は違う態度を取りました。彼女の信仰は何によっても妨げられることなく、ほとばしり出たのです。

この女はイエス様が、イエス様だけが自分の娘を、悪霊につかれた娘を癒すことができると確信したんです。そしてこの信仰は決して失望に終わることはない。けれどそれにもかかわらず、彼女の信仰にはもう一つの別の試練が待っていました。イエス様は次のように言われました。まず子供たちに与えるべきであり、それを子犬にやるのはよろしくない。

その当時ユダヤ人は、異邦人、どういう国の人々であっても、異邦人を軽蔑しました。イスラエルの民に属していないもの、異邦人の人々とは、結局汚れた者である。したがって決して天国に入ることはありえない、と思ったのです。

このようにしてユダヤ人が異邦人を軽蔑したため、当然の結果ですけど、異邦人はユダヤ人を憎む関係になってしまいました。そしてイエス様も、ご自身が子供たちのために、すなわちイスラエルの民のために来られた、遣わされたものであると言われました。犬、すなわち異邦人のために遣わされたのではないと言われました。

このイエス様の言葉は、彼女にちょっと考えられない大きなショックを与えたのではないでしょうか。確かにこの言葉はそのような響きを持っていましたけど、彼女はイエス様が自分を憎んでそのように言われたのではないことを思ったでしょう。彼女の信仰はしっかりとしていました。イエス様が癒そうとしておられ、いやすことができるようになるという彼女の確信は少しも変わらなかったのです。

弟子たちは彼女に対して決して喜んだ態度を取りませんでした。イエス様も彼女に対して一言もお答えにならなかった。それにもかかわらず彼女は、『もういやです、あきためたほうがいい』と思って帰ろうとはしなかったのです。彼女の信仰はそれにもかかわらず、すべての妨げにもかかわらず、どんなことがあっても決して変わらなかったのです。彼女は、『主よ。お言葉どおりです。でも・・・・』こういう風に、でも、したらいいよ。『あなたの言っているとおり。けれど』と言ったのです。『私は異邦人の女であり、犬のように汚れたものであり、イスラエルの民に属していません。』

彼女は、そのようなイエス様を、こういう風にイエス様を信頼して、み言葉に従いそれを受け入れましたが、その時でさえもイエス様が娘の救い主であり、娘のいやし主であるという確信に変わりがなかったのです。彼女はなんとはっきりその時の状況を理解したのでしょうか。彼女は自分が異邦人のため、イエス様に対して何の権利も持っていないことを素直に認めました。彼女は食卓の下にいる子犬と同じように、子どもたちのパンくずをいただきたいと、謙遜に答えました。

この女にとっては、与えられる権利も資格もない者として、まったく低くされた者として、恵みを受け取る以外に何も残されていなかったのです。それこそまさに一番、確実で最善の土台なのではないでしょうか。聖書から、二、三箇所読みます。

イザヤ
49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

イザヤ
54:8 怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。

イザヤ
60:10 外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。

新約聖書の中にも似ている箇所はたくさんあります。

マタイ
9.27 イエスがそこを出て、道を通りかかると、二人の盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

彼らはいやされたんですね。

マタイ
17.15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんでたいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。」

この祈りも聞かれ、息子はいやされました。

マルコ
10.7 ところがナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子。イエス様。私をあわれんでください」と叫び始めた。

こういう風に叫んだ、盲人でありまたこじきであったバルテマイの祈りが聞かれ、いやされました。

ルカ
17.13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。

イエス様はこの十人のらい病人の祈りを聞いて彼らを癒してくださったのです。前に読みましたマタイ伝15章21節以下を見ると、異邦人の女が「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、悪霊に取りつかれて苦しんでます」と叫び続け、主は応えてくださいました。「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った」とあります。

今まで学んだところをまとめてみると、恵みとあわれみを求める叫びに対して、イエス様はその人を助けざるをえなかったことがわかります。このようにしてイエス様と出会い、救いの確信を体験的に知り、罪からの開放の喜びと感謝を持つために、最善の道は、イエス様に対して真剣に恵みとあわれみを請い願うことです。

そこで次の二番目の問い、すなわちイエス様はこの女に対してどのような態度を取られたのかについて、ちょっと考えたいと思います。最初イエス様が彼女を厳しく拒む態度をとったことについては、恐らくだれでも驚くことでしょう。その時この女は、イエス様がイスラエルの民、ユダヤ人のものであることを知らなければなりませんでした。けれどイエス様のみ言葉は彼女を失望させるものではなく、反対に勇気付け、望みを与える力を持っていました。イエス様は彼女を見て、うれしかったでしょう。いかに喜んだことでしょう。

イエス様にとって最大の喜びは、自己正当化せずにみ前にひれ伏して、すべてを捧げる信仰です。イエス様は非常に喜んで、「あなたの信仰は見上げたものです。あなたの願いどおりになるように」と言われました。なぜイエス様は初めは黙っていて、後で彼女にこのようなすばらしいみ言葉を与えたのでしょうか。イエス様は彼女を見たとき非常にあわれみ、愛を持って助けようと思ったに違いないけれど、まだ、まず祈らなくちゃいけない。時が来ていなかった。彼女はイエス様に向かって、「主よ。私は異邦人の女であり、汚れた子犬であり、なんらの権利も持っていません。どうかあわれんでください」と叫んだのです。この告白は、自分が作り上げたものではなくて、まさに神の霊、聖霊の働きによるものです。

誰でも彼女と同じような態度をとる時には、主があわれんでくださり、その時がやってくるのです。誰でも悩みや苦しみを隠さないで、すべてありのままを主に明け渡す時、主はあわれんでくださり、恵みを与えてくださるに違いない。イエス様が彼女に対してとった態度は、ほんとうに厳しかったのでしょうか。イエス様が異邦人の女を汚れた犬のようなものにたとえ、神の国にふさわしくないと言った言葉は本当なんです。ただ一つの逃れ道、一つの可能性は、それを受けるに値しないほどの大いなる恵みに他ならない。

けれど、われわれ一人一人に対しても主は同じく厳しいことを言ってるのではないでしょうか。

ローマ
3:9 すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みなともに無益なものとなった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

旧約聖書の中で内容的にまったく同じことが書いてあります。ちょっと見てみましょうか。

イザヤ
1.5 ・・・・頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。

われわれにとっても、ただ一つの逃れ道は、私たちが受けるに値しない主の恵みであります。だからパウロはローマ書の中で書いたのです。

ローマ
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは私たちの罪のために死に渡されれ、私たちが義と認められるためによみがえられたからです。

われわれ一人一人を救うためにイエス様は人間になりました。イエス様は自分の持っていた栄光を全部捨てたのです。自分自身を無にして、全部捨てました。イエス様は罪の国、悪魔の国に、すなわち、この地上に下ってくださいました。もしもイエス様がそのようにして十字架に死んでくださらなかったとしても、おのれをむなしくして人間の姿になられたことは、なんという大きな犠牲だったことでしょう。

ただイエス様によって、イエス様のために、全宇宙は創造されました。そしてイエス様はご自分を無にしてくださいました。それはほかならぬ、われわれ一人一人を救うために必要でした。イエス様は人間になっただけではなく、福音書によるとイエス様はしもべの形を取られたとあります。イエス様は弟子の足を洗ってくださいましたが、それはまさに当時の奴隷の仕事でした。けれどイエス様はそれを喜んでやってくださったのです。天の軍勢はイエス様を恐れかしこんで礼拝しましたが、いまやわれわれ一人一人のためにしもべの形を取られたのです。

けれど、それだけではない。イエス様は犬のように取り扱われました。ここでわかるように、その当時異邦人は汚れた犬のように考えられていたことがわかりますけど、聖書は、イエス様が犬のような異邦人のためにも血を流し、身代わりとなって命を捨ててくださったのです。イエス様はもし一つの目的、あるいは一つの考えを持っていなかったならば、決して犬などという言葉を使わなかったはずです。

イエス様は私たちを救うためにいかに低くなられたかを示そうとなさいました。ある犬は自分の住むところもなく、愛されることもなく、絶えず追い払われていたのです。イエス様にも心の休まるふるさとはなく、ゆっくりと寝ることのできるところさえもありませんでした。イエス様も人々から侮られ、ののしられ、あげくのはてに十字架に付けられ、犯罪人のように殺されてしまったのです。

しかし、イエス様はわれわれのようなものを救うために、さらに大いなることをしてくださいました。すなわち、単に人の姿を取られ、しもべの形をお取りになり、汚れた犬のようになられただけではなくて、罪そのものとなった、と聖書は言っています。コリント第二の手紙5章21節、よく読まれる箇所です。毎日覚えるべき言葉じゃないかなと思います。

第二コリント
5.:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

十字架の上では、イエス様は神の愛されているひとり子としてではなく、罪そのものとして取り扱われたのです。常に父なる神のみ心から生まれたイエス様は、あたかも全然父のみ心を行わなかったもののように取り扱われました。全人類に対する主なる神の裁きは、イエス様の上に下されたのです。そしてそれはすべて、私たち一人一人のためになされたことです。自分自身にまったく絶望して、次のように祈るものは幸いではないでしょうか。「イエス様。私をあわれんでください。私の罪を赦してください。私を解放してください。」

最後に、まことの救いの土台、救いにいたる信仰の土台とは一体なんでしょうか。信仰を支えようとするあらゆる人間的な努力の結果は、実際は信仰を強めるのではなく弱めることになってしまう。すなわち、信仰の土台は決して、目に見えるもの、人間の理解、応用、関心はない。正しい信仰の土台は、イエス様ご自身とイエス様のみわざ以外にありません。このことについて聖書は忠実に告げ知らせています。

主のみ言葉はいかなる場合でも絶対に変わることのない真実なものです。自分の悩み、自分の苦しみ、いろいろな問題をすべてありのまま告白し言い表せる者は、罪の赦しがあげられる、と聖書は言っています。へりくだれば大丈夫。なぜならば、イエス様は代わりに死なれた。債務は死の血によって支払われたからです。イエス様は次のように言いました。「あなたの願いどおりになるように。あなたの罪は赦されたのだ。私はあなたの罪を心に留めない。」

信仰の土台、確信の土台が、私たちが理解したことや感じたことではない、いつわりのない真実のみ言葉です。信仰とは、主のみ言葉に支えられていることであり、そのような信仰があれば私たちの心の中に、そしてその他の人々の心の中に、奇跡が行われるのです。前の女は後で振り返って、その時叫び続けたことはよかったと思ったでしょう。もしも黙っていたならば、がっかりして帰ったならば、損したに違いない。もし黙っていたならば、そのようなことは起こらなかったし、いやしもなされなかったでしょう。

彼女は自分の思いや考え、感情によらず、また、弟子たちや多くの人々の言うことを大切にしようとしなかったのです。ただ、イエス様だけを大切にしましたが、それこそ信仰の土台です。もちろんイエス様はわれわれにも「求めよ。さらば与えられん」と言われます。さらば与えられんと主は約束しておられます。そのような場合、もちろんわれわれの家族も親戚も、知り合いの人々も含まれています。私たちもこの女のように、家族のために、知り合いの人々のために叫び、祈り続けているでしょうか。もしもこの女と同じように真剣に求め祈り続けるならば、今日もイエス様は答えてくださり、救い、開放してくださるに違いない。

結局大切なのは、信じること、信頼することです。『信頼する』とは、何も見えなくても主は近くにおられる事実を確信することです。『信頼する』とは、何も聞こえなくても主は語っておられる事実を経験することです。『信頼する』とは、何も感じられなくても主に愛されている事実を味わい知ることです。『信頼する』とは、何もわからなくても主は最善をなすお方であり、また主の導きは完全であると知ることです。『信頼する』とは、真っ暗闇の中にいても主のみ言葉は真理であり決して滅びることはないという事実を確信することです。

信じれば、信頼すれば、奇跡を経験する。

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