2012年3月20日火曜日

二種類のイエス様の呼びかけ

二種類のイエス様の呼びかけ
2012年3月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

このあいだ、名古屋のキャンプ前に、ある重病人を見舞いに行きました。名前は、ヒロミ姉妹です。末期のガン、歳はまだ若い四十八歳。ご主人は自殺してしまったし、けれども、このような喜んでいる人はめったに見ない。もう喜びでいっぱいです。『イエス様を知るようになったのはありがたい。もう心配もない、思い煩うこともない、幸せ』と、言えたのです。イエス様とは結局、こういうふうに人間を根本的に変えられるお方です。

今日の話のテーマは、『二種類のイエス様の呼びかけ』です。

ひとつの呼びかけは、皆さんもご存知のように、救われるため、神の子となるための呼びかけです。我々の人生にとって、いったい、何が必要なのでしょうか。いちばん、大切なことは、神の子となることです。そのために、何が必要なのでしょうか。まず、第一に、自分の救われなければならないという必要性を感じ、また、知ることです。それから、第二に、人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も宗教も、決して、自分自身を救うことはできないということを知ることです。すべての人間的な努力は、見込みなく、望みなきものです。

救い、聖書の救いとは、いったい何なんでしょうか?聖書の救いとは、もちろん、罪の問題の解決です。救われた人は、自分の過ち、わがままが赦されていると確信できる人です。罪のゆえに、聖なる神の怒りのもとにある人間は、主と平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと、聖書は言っているのです。けれど、これは人間や、あるいは、宗教によってではなくて、今日も生きておられ、我々の真ん中に臨在しておられるイエス様によってのみ与えられます。なぜならば、イエス様は、罪に対する聖なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血によって、債務を支払い、罪を赦してくださるからです。この真理の事実を心で受け入れ、信じる者は、主の平和、罪の赦し、また、永遠のいのちを持つことができるのです。

すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することができません。どうしても救ってくださる、解放してくださる救い主が必要であると、告白する状態に至らなければならないのではないでしょうか。『主よ、私は今、罪人としてあなた様の御許(みもと)にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを、心から感謝いたします。』このようにイエス様に向かって言うことのできる人は幸いです。このように、イエス様は望んでおられるから、『おいで。ありのままで、わたしのところに来なさい』と、呼びかけておられます。

もう一回、まとめましょう。創造主なる神の子供となるためには、二つのことが必要です。第一は、主なる神の言われることを認めることが必要です。

そして、第二に、主を受け入れることです。けれど、主は、いったい何を言っておられるのでしょうか。主は絶対に癒されない罪の病、それは、全く改善の望みがないと言っておられます。けれども、イエス様は、我々の身代わりになってくださいました。そして、イエス様が成してくださったことは、本当に充分です。

そして、第二は、イエス様を受け入れることです。聖書のいちばん最後の黙示録、二十二章にあります。

黙示録(口語訳)
22:17 ・・・いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。

ここで、いのちの水とは、イエス様による救いの贈り物に他ならない。ここに、『ほしい者は受けるがよい』と記されていますが、人間が本当に欲しがっているかどうかが、問題なのではないでしょうか。欲すれば、それを受けるに違いない。けれど、欲しいと思わなければ、将来は、真っ暗闇です。イエス様は永遠のいのちを与えるために、決して、強制するようなことはなさいません。欲しい者は受けると、約束されています。受ける者は持つのです。すなわち、その人は、神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子供とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。

主の呼びかけとは、ただ主の子供となるための呼びかけだけではなく、第二番目の呼びかけとは、主に従う、すなわち、主の弟子となるための呼びかけです。

『私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と、イエス様は言われました。このイエス様の呼びかけとは、いったい、何を意味しているのでしょうかね。このイエス様の呼びかけとは、信じる者のために、非常に大切な呼びかけです。意味は、救われるために、救われたのではない。仕えるために救われたからです。救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。まだ救われていない人々を救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものです。イエス様は、救いを受け入れるように、重荷をおろしてあげようと呼びかけられた後で、ご自分に仕えるようにとも、呼びかけておられるのです。

けれど、イエス様に仕えるということは、イエス様に従っていくとは、どういうことなのでしょうか。主について行くとは、まず、自分自身を否定すること。自分自身を捨てることを意味しています。また、主についていくこととは、第二番目、自分自身を憎むことを意味しているのです。

自分を憎むこととは、自分自身に対して信用を置かないということが、どうしても必要です。自信に満ちた態度が、ダメにならないと、主に従うことはできません。イエス様なしには、一歩も進むことができないというふうにならなければなりません。すべてのことにおいて、『私の思いではなく、主の御旨(みむね)が行なわれますように』という思いをもって、行動しなければならないのです。自分の思いを捨てて、主の御心だけを大切にすることが、どうしても必要です。イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と思いとをイエス様に明け渡すことを意味します。

イエス様についていくこととは、三番目、すべてを捨ておくことをも、意味しているのです。

ルカ
5:27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
5:28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

このレビは、後で違う名前を持つようになったのです。マタイ――マタイ伝を書いた男です。

マルコ
10:28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

絶対に損をしない。後悔しない。イエス様の弟子たちは、確かに、すべてを捨てました。

マタイ(口語訳)
4:19 ・・・「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
4:20 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

マルコ(口語訳)
2:14 ・・・「わたしに従ってきなさい」・・・すると彼は立ちあがって、イエスに従った。

ルカ(口語訳)
5:27 ・・・「わたしに従ってきなさい」・・・
5:28 すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。

外面的には、イエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。イエス様はまた、マタイ伝、十九章の二十一節に言いました、『あなたの持ち物を売り払って、わたしに従って来なさい。』

マルコ伝一章の中でも、同じ文章が出てきます。一章、十八節と二十節、アンデレとペテロはすぐ、網を捨てて、イエスに従いました。ヤコブとヨハネは主イエス様が、彼らをお招きになると、父を雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行ったとあります。

【参考】マルコ
1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエス について行った。

また、今、話したように、ルカ伝、五章二十八節、『レビは、一切を捨てて立ち上がり、イエスに従った』と、あります。今まで大切にしたものは、急に大切ではなくなった。もっと大切なことがあると解かりました。

今日のイエス様の弟子も、当時と同じように、すべてを捨てて、イエス様に従う決意を常に持っていなければならないのではないでしょうか。少なくても、内面的には、そのような態度がどうしても必要です。イエス様の当時は、多くの人々が確かにイエス様に従いました。福音書を見ると、何回も同じことが出てきます。例えば、マタイ伝、四章二十五節、『おびただしい群衆がきて、イエスに従いました。』マルコ伝にも、同じことが書いてあります。三章七節、おびただしい群衆がついて来ました。五章二十四節、『大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて』行きました。

イエス様は、これらの群衆に対して、多くの御業と奇跡とを行ないました。けれど、彼らは、本当にイエス様に従って行く心の備えが、まだ、充分には、できていなかったようです。この前に読んでもらいました箇所をもう一回、見てみますか。

ルカ
9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(・・・・わたし・・・・)には枕する所もありません。」

本当の意味でのホームレスなのがイエス様でした。

ルカ
9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

父は、死ぬまで面倒をみなくてはいけないから。

ルカ
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

イエス様は、確かに、たいへんなことを言われた。

ヨハネ
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が(・・・・大部分でしょう・・・・)離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様について行くとは、今、話したように、一番目、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味します。イエス様について行くことは、第二番目、自分自身を憎むことを意味します。イエス様について行くことは、第三番目ですけど、すべてを捨ておくことです。『わたしに従ってきなさい。』すると、彼は一切を捨てて立ち上がり、イエスに従っていった。レビは、一切を捨てて、立ち上がり、イエスに従っていったのです。もちろん、ペテロは、後で同じことを告白しました。

マルコ
10:28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

イエス様の弟子たちは、確かに、すべてを捨てました。彼らは、網を捨てて、自分の職業を放棄しました。彼らは、父親一人を残して、家族からも離れました。イエス様に従おうとする者は、結局、すべてを捨てる覚悟ができていることが必要です。このマルコ伝、十章三十節に、『迫害』ということばが使われています。事実、イエス様に従うことは、散歩ではなく、戦いです。自分の考え、感情、あるいは、意思を否定するということは、決して、簡単なことではありません。しかしながら、注意したいことは、ここで、弟子たちがすべてを捨ておいたことが、決して、大きな苦しみや犠牲に終わったのではない。むしろ、その百倍を受けることができたということです。

倍を受けるのはすごいけれど、百倍だったら、ちょっと想像できない祝福なのではないでしょうか。もしも、ペテロが百パーセント、イエス様に従わなかったならば、彼の姑は、決して癒されないで死んだでしょう。表面的には、家族を捨てたように見えますが、実際は、反対に得たのです。

イエス様のために捨てる者は決して損をしません。今、この世においても、大きな利益を受けることができ、しかも、死んでからは、大いなる報いを得ると記されています。パウロは、それを経験したから証ししました。すばらしい証しです。ピリピ書3章です。彼は、イエス様だけしか拝むべきお方ではないから、刑務所に入れられるようになりました。そして、刑務所の中で、たいへんなことになった。後悔したのではない。喜びに満たされて、告白しましたね。

ピリピ
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

だから、イエス様は言いました。『そういうわけで、あなたがたは、誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできない。』絶対的な放棄こそ、主に従うことの土台です。そのために、すべてのものから離れるという断固たる態度、また、決断が必要です。すべてのものを捨てて、主に従うと、その結果、自ずから、前よりもはるかに多くのものを得るようになります。

イエス様について行くこととは、今、話したように、まず、自分自身を否定すること、自分自信を捨てることを意味します。イエス様について行くこととは、第二番目、自分自身を憎むことを意味します。イエス様について行くことは、三番目になりますけど、すべてを捨ておくことです。四番目、イエス様について行くこととは、主のことばに留まることです。イエス様は言われました。

ヨハネ
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」

15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

イエス様に従うということは、多くの実を結ぶために、主のことばに留まるということです。主のことばに留まるということは、主のことばを、そのまま――主のことば、そのものとして――、受け取ることを意味します。聖書は、実際の生活、および、信仰の実際の問題に対して、最高の権威を持つべきものです。そのように絶対的な権威を持ったものとして、主のことばを認める者は、主のことばに留まるのみならず、主ご自身の内にとどまっているのです。すなわち、イエス様につながっており、より頼んでいる者です。そして、イエス様とつながって、イエス様により頼んでいると、自ずから実を結ぶ結果になります。

イエス様に従う者は、自ずから実を結ぶのです。すなわち、我々の小さな奉仕を通して、多くの人々が救われるのです。もちろん、そのことを通して、多くの人が救われないとしたならば、私たちが本当に主に従っているかどうかは疑わしいと言えましょう。イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。イエス様は、自分のものについて、次のように言われました。有名なヨハネ伝、十章四節、『羊は、その声を知っているので、羊飼いについて行きます。』羊は、確かに愚かなものです。どうしようもないものです。けれども、どういう愚かな羊でさえも、羊飼いについていくのです。イエス様はそう言われました。

ヨハネ(口語訳)
10:27 わたしの羊はわたしの声に聞き従う。・・・・彼らはわたしについて来る。

イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではありません。イエス様の声に聞き従う者は、決して、道に迷うことがない。けれど、イエス様の声に聞き従わない者は、闇の中をさまようのです。そして、いつも波のように揺れ動いて、定まることがないということです。

イエス様の弟子とされることの必要不可欠な状況は、徹頭徹尾、主に信頼し、すべてを明け渡す献身です。『主よ、主よ』と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主の御心を行なう者だけが、本当の弟子であるとあります。イエス様の弟子となると、その結果、必然的に、憎しみや迫害をともなうものです。『弟子は師にまさることはない』と、聖書に書かれているように、イエス様は、死の受難を受けられたわけですが、イエス様の弟子とされた者も、迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことは、いわば、当然であるといえましょう。マタイ伝の有名な山上の垂訓の中です。

マタイ
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは(・・・・同情すべきなのではない・・・・)幸いです。

ペテロも、同じ事実について書いたのであります。ペテロ第一の手紙、四章を見ると、ペテロは、経験者として、人を励ますために書いたのです。

第一ペテロ
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

弟子は、あれこれと思い煩う必要はありません。師が、すべてを良いように配慮してくださるからです。もう一回、山上の垂訓に戻りまして、マタイ伝、六章の二十五節から――よく知られている箇所ですけれども、大切なことばです。おもに、現代人にとって必要なことばです。

マタイ
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

主の弟子、すなわち、主に従う者は、祈りにおいて、自由と権威とを持っています。イエス様は、こういうふうに、祈りの大切さを強調したのであります。

ヨハネ
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

嘘を知らないイエス様は、こう約束してくださいました。

主の弟子、すなわち、主に従う者は、蛇のように賢く、鳩のように素直であるべきとあります。

マタイ
10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

『わたしはあなたがたを人をとる漁師にしよう』と、イエス様は言われます。『わたしは、してあげよう』と、主は呼びかけておられます。すなわち、私たちは、自分の力では、人間をとることだってあり得ない。絶対にならない。それは、すべて主のなさることです。私たちは、ただ、主に忠実に従いさえすれば充分です。あとは、主ご自身がすべてを成してくださるのです。仕える能力、仕える力は、全部、上から与えられるものです。

イエス様が、弟子たちをお招きになられた目的は、人間をとる漁師にすることでした。イエス様が今日、我々一人ひとりを招いておられる目的も同じ、人間をとる漁師にすることです。

職業はお金を儲けるためです。そして、私たちは真心から自分の仕事に従事すべきです。けれども、イエス様は、お金を儲けるために、私をお救いになったのではない。主は、『わたしはあなたがたを証し人にしよう、人間をとる漁師にしよう』と、言われました。それこそ、まさに主の招きの目的です。もちろん、イエス様に仕えることを第一とする者は、職業を行なうことはありません。そして、決して、損をすることはありません。けれど、その反対に、職業を第一にする者は、自分に与えられている使命を忘れ、損する結果になってしまうのです。

『わたしについてきなさい』とイエス様は言われます。イエス様について行くということは、従順に従うことです。イエス様の呼びかけは、非常にはっきりとしており、イエス様の考えておられることは、誰にでも、解かるのではないでしょうか。本当にイエス様にだけ従うことによって、すべては根本的に変わってしまいます。

今まで、私たちは二つの点について考えてまいりました。すなわち、呼びかけておられる方とは誰でしょうか。その呼びかけは、いかなるものなのでしょうか。最後にまた、二つの点について簡単に、考えて終わります。

三番目、呼びかけられている者は、誰なのでしょうか。私たちは、呼びかけられた人々の名前、また、職業も知っています。すなわち、漁師であり、取税人でした。それは、決して、簡単な軽い仕事ではなく、全力を尽くさなければできない仕事でした。呼ばれた人々は、決して、怠け者ではなく、大地にしっかりと根を下ろしていた人々でした。そのように、本当に忠実で、役に立つ者だけを主は用いることができるのです。人間をとる漁師にするためには、そのような人材が、どうしても必要です。そして、また、肝心な時に迷ったり、ためらったりすることなく、直ちに、行動を開始できることが大切です。また、彼らは、空理空論家や理想主義者ではなく、実践家でした。イエス様に従った人々は、主に従順でした。イエス様に従いたいと思う者は、結局、すべてを捨てなければならない。私たちがそのような決断をする時に、一見、大きな犠牲をもたらすかのように見えますけれど、実際は、そうではなく、むしろ、反対に、後で大いなる喜びと感謝と誉れが、もたらされるのです。

最後に、四番目ですね、その呼びかけは、我々に対して、いかなるものなのでしょうか。イエス様の呼びかけは、今日、我々にとっても、もちろん、当てはまるものです。私たちの周囲には、主なる神なく、生ける望みなき人々がおおぜいいます。そのような人々の救いのためには、イエス様に従い、すべてをイエス様に明け渡すという断固たる決断が必要です。『わたしはしてあげよう』と、主は言っておられます。イエス様は、我々のお金や時間や力や能力を望んでおられるのではなく、私たち自身を望んでおられるのです。『わたしについて来なさい。』そのことが、私たちを、主イエス様としっかりと結びつけるのです。主に従いたいと思う人々は、以前の状態に留まることはできません。イエス様に従うということは、まさに百パーセント、従うことであり、そうでなければ、本当にイエス様に従うことにはならないのです。

イエス様のなさることは、呼びかけることであり、我々のすることは従うことです。わたしは、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。『わたしは、学校において、台所において、会社において、あなたを証し人として用いたい』と、主は言われます。『弟子になりなさい。従う者になりなさい。人間をとる漁師になりなさい』というイエス様の呼びかけは、もちろん、一人ひとりにも当てはまるものです。イエス様の後ろについて行くということは、我々の人生に対して、主のご計画を認め、受け入れることです。

イエス様の呼びかけは、直ちに従うことを要求します。そして、イエス様が我々に呼びかけておられることの理由は、まだ救われていない人々を、救いに導くということです。失われた者のためには、全き献身が必要です。網を手にした人にとって、網それ自体は、決して、悪いものではなく、むしろ、必要不可欠なものですけど、彼らは、その網をいつまでも手にしていることはせず、それを捨て置いて、直ちにイエス様に従ったのです。彼らは、網を持ち続けるか、あるいは、イエス様について行くかの二者択一を迫られたのです。彼らは、イエス様との交わりは、自分の職業や家族よりも大切なものであることを、よく知っていました。

もう一箇所、読んで終わります。主の呼びかけです。

エゼキエル
22:30 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

主は、用いられる器を、必死になって探したけど、誰もいなかった。

主は従う者を探し求めておられます。『わたしについて来なさい。わたしは、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう』と、イエス様は当時だけではなく、もちろん、今日も呼びかけておられます。私たちは、主の呼びかけに従い、主について行くでしょうか。それとも、エゼキエルの時代と同じように、主は捜し求めたが、見つからなかったということになるのでしょうか。

イエス様は、私たち一人ひとりを見ておられ、呼びかけておられます。主は、私たちが価値ある者であるからではなくて、恵みによって変えられ得る者であることをご存知であられるがゆえに、呼びかけておられます。私たちは、本当の意味で主に従う者なのでしょうか。罪の赦しを得て、神の子供とされた後で、主は、ご自分に従うことを、すなわち、弟子となることを望んでおられます。今日、この世が必要としている者は、主に従う者、すなわち、イエス様の弟子になることと聖書ははっきりと言うのです。イエス様の弟子だけが、この世の光であり、地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落していた時代にあって、主のみことばをしっかりと受け止め、主の御声に聞き従う者です。

毎日、考えるべきなのではないでしょうか。私たちは、自己決定と自己支配とを続けていきたいのか、それとも、献身と本当の自由との新しい人生を送りたいのかのどちらかです。自分自身を否定することなしに、主に従い得ないのです。自分の考え、思いや気持ちは正しいと思う人も、決して、主の弟子となることはできませんし、用いられないのです。自分勝手な道を歩むか、主についていくかのどちらかなのではないでしょうか。

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