2012年3月13日火曜日

救いの確信

救いの確信
2012年3月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・

詩篇
119:144 あなたのさとしは、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。

119:152 私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。

119:160 みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。

今日は内容的に、『救いの確信』について、一緒に考えてみたいと思います。


救いの確信の土台なるものは、言うまでもなく聖書です。パウロは、今、読んでもらいましたように、『私はそれを人間からは受けなかったし、教えられもしなかった。神の啓示によって、心の目が開かれたから、確信するようになった』と、喜びをもって、証しすることができたのです。そして、ダビデは、もうすでに三千年前に、今、読んだように『みことばのすべてはまことです。』真理、そのものです。この告白でもって、ダビデは、主のみことばが、絶対的真理であると言っています。主のことばは、神ご自身と同じように、絶対的真理です。それですから、私たちは、みことばに信頼できるのです。

主のみことばは、それが語られた時、もちろん、真理でした。主のことばは、歴史の流れにおいて、真理であると判明しました。私たちが信者となった時、私たちは、みことばを真理として経験しました。そして、永遠にわたって、みことばは真理として、経験されるにちがいない。ダビデは、(言いました。)

詩篇
119:144 あなたのさとしは、とこしえに義です。(・・・一時的ではなくて、とこしえに義です。・・・)私に悟りを与えて、私を生かしてください。

119:152 私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。

イエス様によって救われた者は、誰でも、次のように告白できます。

詩篇
119:160 みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。

けれど、この言葉は聖書全体にも、あてはまるものです。というのは、聖書は、主の言葉であり、主の言葉は真理であるからです。創世記からヨハネの黙示録にいたるまで、すべては、主ご自身の啓示によって与えられたものです。ですから、間違いなく、改正される必要もなく、とこしえに大切なものであり、大切にすべきものであります。

不確実なこの世界において、聖書は、絶対的な権威をもって、私たちがどうしても知らなければならない事柄について、語っています。聖書を、永遠にあてはまる真理として受け入れなかったなら、決して、もちろん、救いの確信を持つことができなかったし、聖書を永遠に妥当する真理として受け取らなかったらば、もちろん、私も決して、日本まで来なかったし、聖書を永遠に妥当する真理として受け入れなかったならば、みことばについて喜んで、話すことができないでしょう。

聖書は、主なる神の啓示そのものです。聖書は、主がいかなるお方であるか、何をなさったか、何をなさりたいと願っておられるかを、私たちに、はっきり告げています。主の啓示がなければ、私たちは、我々の信仰の土台を持つことができなかったでしょうし、私たちの生活の基準や死後のいのちについての確信も、持つことができなかったでしょう。

神の啓示がなかったならば、私たちは、試練や攻撃にあって混乱し、ダメになってしまったことでしょう。神の啓示がなければ、もう、本当に大変です。私たちは、何の希望もなく、悩みと孤独の中にいたことでしょう。神の啓示がなければ、私たちは、多くの問題に対して、助けもなく、度を失ってしまったことでしょう。そして、私たちは、我々の死に対して、いかに準備すべきか、もちろん、聖書がなければ、解からないでしょう。けれども、神の啓示としての聖書は、私たちが確実な歩みをすることができるように、明確さと光とを私たちに与えてくれます。

パウロは、愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。テモテ第二の手紙の三章十六節、、一文章だけですけど、大切な文章です。

第二テモテ
3:16 聖書はすべて(・・・部分的だけではなく・・・)、神の霊感によるものです。

私たちは、聖書が、神のことばとして永遠に妥当する真理として信じられ、受け入れられる時に、私たちの世界がいかに違ったものに見えるかを考えたことがあるでしょう。

すべての政治家が、神のことばとして、聖書を信じ、それに従って、行動したならば、多くの問題は、すぐに解決したことでしょう。彼らは、神のみことばを守り、あらゆる知恵の神に信頼し、全能者が彼らの助けとなり、我々の世界は別のものとなったことでしょう。誰でも、神のみことばの絶対的真理を確信すると、考えてみてください。その結果、主の戒めを成就し、唯一の神の御名を崇めるという願いが、存在することになるでしょう。その結果、犯罪は減少し、確固として規範が再び、存在するようになり、人間は、何が真理で正しいかを知るようになるでしょう。したがって、神のみことばによって、ご自身の啓示なさった主と神のみことばを、人間が退け、否定するとは何という悲劇でしょう。

すべての人から非常に評価され、尊敬され、立派な生活を送っていた老夫婦が、一人のイエス様を信じる者に出会って、集会に招待されました。彼らは初めて聖書の福音を、はっきりと聞き、非常に驚きましたので、夫は、家に帰ると妻に言いました。『私たちは、今まで、一度も聖書に取り組まなかったということは間違いだったと思う。今から、毎晩、聖書を読みましょう。』老夫婦は、規則正しく、お互いに聖書を読みました。二、三日してから、夫は妻に言いました。『私は、聖書が真理であるとすれば、私たちは罪人である』という確信に至りました。彼の妻は、うなずいて、『私もそう思う』と言いました。彼らは、聖書を互いに読み続け、二、三日あとで、夫は、また言いました。『私は、聖書が真理を言っているならば、私たちは、ただ単に、罪人であるだけではなくて、失われている者です』と。妻は、答えました。『私も、私たちは失われた者であると確信します。聖書がそう言っているからです』と。彼らは、心に動揺を覚え、みじめな思いでいました。けれど、彼らは、聖書を読み続け、二日あとに、夫は大声で言いました。『聖書が真理であるならば、私たちが、イエス様を、私たちの救い主として受け入れれば、救われる可能性があります。』妻は、喜んで言いました。『あなたが、そう言ってくれるのは何という感謝でしょう。というのは、私も、また、私が救っていただけると信じたからです。』そうして、二人はお互いにひざまずき、イエス様に、自分たちの不信仰を告白し、主が心の中に入ってくださり、罪を赦してくださるようにと、主に頼みました。すぐに翌日、彼らが、再び、聖書を読んだあとで、夫は顔を輝かせながら言いました、『聖書が真理であるなら、私たちは、救われています。』妻は喜んで、夫に同意し、次のように言いました、『その通りです。聖書が真理であるならば、私たちは救われている』と。

この夫婦の経験は、誰でもどこでも、救いの確信に至ることができることを、私たちに示しています。そこで、私たちは、これから、これらの四つの発見を、もう少し詳しく、見てみたいと思います。

第一番目、聖書が真理であるなら、私たち、皆、罪人です。

夫婦のこの最初の発見は、大変なものでした。それ以来、彼らは、立派な生活をしようとしました。しかし、今や彼らは、『私たちは罪人である』という発見をしたのです。多くの人々は、まじめで、何ひとひとつ、悪口を言わず生活しています。彼らは、神が本来、自分たちに満足していらっしゃるだろうと、確信して、生活しています。けれど、神のことばの鏡によって、人間は誰でも、神の聖なる目から見るならば、罪人であり、救い主をどうしても必要としていることが解かる。聖書が真理であるならば、人間は誰でも罪人なのです。ローマ書三章は、よく知られている箇所です。

ローマ
3:10 義人はいない。ひとりもいない。

3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ(ません。)

問題になっているのが、大統領であろうが、こじきであろうが、金持ちであろうが、貧乏人であろうが、若者であろうが、年寄りであろうが、教養のある人であろうが、教養のない人であろうがかまわない。神のことばは、次のように言っています。

伝道者
7:20 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないからです。

聖書は、我々が、罪の中に生まれたと言っています。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

ダビデという王様は、もうすでに、三千年前に詩篇五十一篇五節を通して、告白したのです。

詩篇
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

エレミヤは、同じことを書いたのであります。

エレミヤ
17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

私たちは、自分の心を知っているのでしょうか。それは、主の目から見れば、陰険で、直らないものです。私たちは皆、ペテロとともに、次のように叫ばざるを得ないのではないでしょうか。

ルカ
5:8 主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。

あるいは、私たちも、また、次のように告白すべき放蕩息子なのです。

ルカ
15:21 私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。

聖書が真理であるならば、私たちは罪人です。このことを私たちは今、見てまいりましたが、次に、第二番目の点に移ることにしましょうか。

第二番目とは、聖書が真理であるならば、私たちは失われています。私たちは、罪人であるだけではなく、助けも望みもなく、失われています。というのは、罪は、私たちを生ける神から、隔ててしまうからです。この隔ての壁について、イザヤは、次のように書いたのです。

イザヤ
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

生ける主は、聖なるお方です。同じく、イザヤ書の五十三章の六節を見ると、次のように書かれています。

イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

『罪とは何でしょうか』と尋ねるならば、ここでは、次のようにはっきりと表現されています。自分の道を行くこと、自分の意思を持ちたいと思うこと、神の道と神の御心を尋ね求めたくないと思うこと、これこそ罪です。これは、聖なる神に対する反逆です。主なる神の判断は、すべての人間が自分の道を行き、したがって、すべての人間は罪人であり、しかも、失われた罪人なのです。というのは、罪と神とは、お互いに並存できないからです。これこそ、ローマ書、六章の二十三節におけるみことばの意味でしょう。

ローマ(口語訳)
6:23 罪の支払う報酬は死である。

死とは、主からの分離を意味します。罪は、人間を神から分離します。そして、神から離れてしまった人間は、失われています。生ける神との交わりを持たない人、聖なる神とひとつになって生活しない人、喜んで主のご臨在の中に入っていくことができない人は、失われていると聖書は、はっきり言っているのです。

ある時、小さな子供が迷子になったんです。警官が、その子を交番に連れていきました。その子は、あんまり疲れていたので、すぐに眠り込んでしまいました。他の警官が、その眠っている子を見て、きいたんです。『この子はどこで何をしてるの?』すると、もう一人の警官は、『静かに。起こしてはいかん。この子は迷子になってしまったけれど、それをまだ知らない』と、答えたそうです。

イザヤ書、五十三章の六節に、『私たちはみなさまよった』とあります。あなたは、自分がさまよい、失われていることをご存知でしょうか。イエス様を、まだ、ご自分の救い主として、受けていないならば、間違った道を歩んでいるのであり、失われているのです。真理である主のことばは、このことを、誤解のないほど、はっきりと言っています。失われているということは、さまよっていることであり、天国に入る可能性を持たないこと、生ける神にとって無価値であること、また、人間の社会のためにも、役に立たないことを意味しているのです。

失われている人とは、救われておらず、きわめて危険な状態に置かれています。もしも、この状態に留まるならば、永遠に失われていることになります。神のことばがはっきりと言っていることは、人間は誰でも、罪人であるだけではなく、霊的に見ると、失われた状態に置かれているということです。主なる神のみことばによって、私は失われているということを認識する人は、本当に幸せです。というのは、このことを認識し、告白する人だけが救われ得るからです。

三番目、聖書が真理であるならば、私は救われることができるという点について、ちょっと、考えたいと思います。

これは、神の恵みの喜ばしい訪れです。これは、神の愛の福音です。失われた者が救われ得るのです。聖書全体は、失われた罪人が救われ得るという約束を、何度もしておられます。救われたいと思う人は、救われ得るのです。聖書全体は、はっきり、何回も何回も、そう言っているのです。有名なイザヤ書、四十五書の二十二節を見ると、次のように書かれています。

イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

わたしを仰ぎ見て救われよ。マタイ伝の九章、十三節に、イエス様は、また、次のように言われました。

マタイ
9:13 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

聖書の中で一番、知られているヨハネ伝、三章十六節を見ても、結局、同じことを書いています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

5:24 わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

また、パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に言いました。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

救いを得させる力とは、福音、そのものです。ペテロも、同じことを書いたのであります。

第二ペテロ
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

すべての人が悔い改めに進むことこそが、主の導きの目的です。聖書の一番、後ろの黙示録、二十二章十七節、『ただで受けなさいよ』とあります。

黙示録
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

いのちの水とは、もちろん、救いの確信、罪の赦し、神との平和、永遠のいのちです。この聖書の箇所がはっきりと言っていることは、誰でも、どこでも、いつでも、どんな状態でも、救われ得るということです。自分が失われた者であることを認識している者も、誰でも、イエス様に信頼をおく瞬間に、救われ得るのです。

これこそ、なぜ私たちが日本に来た理由です。というのは、誰でもが生ける神によって愛されているということを述べ伝えることほど、偉大なことはないからです。慰めようのない、絶望的な状態からも、ひとつの逃れ道があるのです。誰でも、救われ得るのです。誰のためにも、もはや、孤独に人生を歩むのではなく、日々、全能なる神のご臨在を経験する可能性は存在しています。誰でも、主イエス様と永遠の時を過ごすことができるようになります。私たちも、もはや、失われた罪人ではなく、救われた罪人であるということを知るために、誰でも、今日、イエス様に信頼をおくことができるとは何というすばらしい福音でしょうか。まだ、この確信を持っていらっしゃらないならば、今日、それにあずかることができます。

最後に、ひとつのことを申しあげたいと思います。どこにでも、主を自分の個人的な救い主として受け入れはしない者、イエス様が本当に自分を受け入れてくださった確信を持っていない人たちがいます。そのような状態は、主の栄光に貢献しません。ですから、最後の点は、とても大切です。

四番目、聖書が真理であるなら、私たちは救われています。

あなたが、前に読まれた聖書のみことばを、もう一度、思いおこすならば、明確な確信が常にその響きとなっていることを、認識するでしょう。生ける神は、失われた罪人を主の御許(みもと)に導き、主のみことばを信じるように招いておられます。生ける神は、次のように約束しておられます、『あなたは、わたしに信頼をおくならば救われ、聖められ、赦され、いつも、安全にわたしのものとなります。』したがって、失われた罪人として、イエス様の御許に来て、イエス様を個人的な救い主として受け入れる者は、次のことを知ることができます。すなわち、聖書が真理であるならば、私は救われているのです。そして、聖書は、真理そのものです。そのことを、捕まえることも、捉えることもできませんし、決して、それに値しない者です。けれど、聖書が真理であるならば、私たちは救われており、我々の罪は赦されており、私は、天国への道を歩んでいるのです。そこに至るまで主は、私たちに日々、主のために生き、働く力を与えてくださいます。『私は救われていて、赦されている』と言うことは、決して、不遜(ふそん)なことではありません。

私たちは、単純にみことばによって、生ける神を受け入れるのです。私たちは、主が我々に約束なさったことを信じるのです。私たちは、主が約束なさったことを守ってくださるということを知って、喜んでいます。主が約束してくださったことを疑うことは不遜なことです。聖書は、絶対の真理です。というのは、聖書は神の偽りなきみことばであるからです。だから、ダビデは喜んでいたのです。『みことばのすべてはまことです。』私たちは、そのために、心から主に感謝しようではないでしょうか。

おわり

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