2011年9月20日火曜日

共に走っていきましょう

共に走っていきましょう
2011年9月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。
8:32 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

昨日、祭日だったし、マサフミ兄弟とケイコ姉妹の家で、若者の集いがありまして、だいたい、中高生が多かったのですけど、ちょっと数えなかったけど、70人か80人くらい来られました。非常に、良い雰囲気だったと言うよりも、やっぱり、主が働いたと感じました。その時、今日の今、読んでもらいました箇所についても、少し、学んだのであります。題名は、「共に走っていきましょう」と言えるのではないかと思います。

読んでもらいました箇所の中で、ピリポという男について、いろいろなことを書いたのです。彼は、我々の模範のような者になるべきではないかと思います。

彼は、サマリヤ地方で、大勢の群衆に福音を宣べ伝えました。福音とは、もちろん、イエス様です。イエス様を紹介した結果、多くの人々が、心を開いて救われ、彼らの生活が根本的に変わりました。けど、それから珍しいことが起こってしまった。ピリポが、イエス様の弟子として、主の御手にある器として、大いに用いられ、サマリヤの至るところで、主の働きに関する大きな喜びが支配的になったのです。この大いなる祝福の働きの最中(さいちゅう)、ピリポは全く違った命令を受け取りました。

彼は、福音をこの大群衆にではなく、一人の男の人に運ぶことになったのです。30節ですね。『そこでピリポが走って行きました』とあります。主の弟子であるピリポは、非常に急ぐようになりました。『走った』とあります。主の霊に導かれ、主の命令に従って、彼は、だいたい、吉祥寺から、御代田までの距離を歩いたんです。159キロ、歩いたけれども、疲れたはずです。けど、最後の1キロ、彼は走るようになったんです。『走った』と書いてあります。

結局、彼は一種の秘密命令を受けました。というのは、主がいったい何を意図しておられるかは、全く知りませんでした。彼は何が起こるのか解からないで、多くの心開いた人々から引き離されました。その人たちから離れることとは、人間的に考えればおかしい。もったいないことだったのではないでしょうか。けども、イエス様の考えは、我々人間の考えとは、ちょっと違うだけではなくて、根本的に違います。

ピリポの経験は、昔のアブラハムの経験のようなものだったのではないでしょうか。アブラハムの経験について、聖書は言っています。

ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

出た。けれども、どこへ行くのかは解からないで従った。けれども、ピリポは、イエス様が何を考えておられるのか、初めは、わかりませんでした。けれども、従ううちに、少しずつ、解かったようです。突然、目の前に、アフリカから、エチオピアからの馬車を見た。そして、その時、命令が来ました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」そこで、ピリポは、命令に従いました。ゆっくり、のんびり、歩いたのではなくて、「走った」とあります。160キロの後で、一種のラスト・スパートが行われなければならなかったのです。ピリポは急いで、どうしたでしょうか。

ある人は言った。そうでしょう。すなわち、ピリポは急がないとエチオピア人が、イザヤ書53章を読み終わって、54章、55章に移ってしまったのではないかということでしょう。ピリポが、ゆっくり歩いていたならば、結局、必ず、もう53章が終わって、別のところを読んだに違いない。彼は走った。よけいな力があったからではなくて、命令されたからです。 

私たちも、走るべきではないでしょうか。多くの魂をイエス様に導きたいと思う者は、誰でも走るべきです。ぐずぐずしないで。さもないと、周りの人々は、死んでしまう。初代教会の人々とは、結局、みな、そういう考えを持っていました。質問は、なぜ、ピリポは、そんなに急いだのか。今、話したように、何があっても、金メダルを得るためではない。イエス様が何かをするように、ピリポに命令をお与えになったから、彼は走ったのです。結局、彼は、主の命令を果たす覚悟でした。

主が、何かをするように、ピリポに命令をお与えになりましたので、彼は走ったのです。彼は、今、話したように、主の命令を果たす覚悟でした。彼の覚悟は26節、27節に、はっきりと表現されています。

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。・・・

出なさい。彼は、立って出かけた。29節、30節でも、私たちは、同じように従順に従おう(という)彼の覚悟を見ることができるのではないかと思うんですね。

使徒行伝
8:29 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

そこで、ピリポは走って行った。ぐずぐずためらったり、尋ねたりすることをしないで、ピリポは従いました。すぐ、ただちに、従うことが、このピリポという弟子の特徴でした。彼は、主イエス様によって用いられることができた。どうしてでしょうか。なぜならば、彼は、主の声に耳を傾け、すぐに、従う覚悟ができたからです。イエス様が、サマリヤにおける祝福された仕事から離れるようにと、ピリポに命令した時、彼は、どうなるのか、解からずに従った。どうして、なぜと彼は考えようとしなかった。解かっても解からなくても、従うと必ず祝福になると、彼は確信しました。

彼は、詩篇の作者とともに、次のように言うことができたのではないかと思います。ダビデという詩篇の作者、119編、一番、長い詩篇ですけれども、119編の32節に次のように書かれています。

詩篇
119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

ピリポの内心の態度は、次のようなものでした。すなわち、「私は主のために生き、無条件に主に従うつもりです。」ピリポのような人は、今日でも、必要なのではないでしょうか。主がお用いになることのできる人たちが、どうしても、必要です。今日(こんにち)、必要とされているのは、主の側に立つ兄弟姉妹です。今日、必要なのは、「主の御声を聞いて主によって導いてもらいたい」と思う兄弟姉妹です。今日、必要とされているのは、次のような確信を持っている兄弟姉妹なのではないかと思います。すなわち、「イエス様は、ご自分のなさるすべてのことをご存知でいらっしゃる」という確信。そして、「イエス様は、ご自分の許したもうすべてのことをもご存知である」という確信。それから、「主イエス様は、ご自分の意図し、追及なさるすべてのことをご存知でいらっしゃる」という確信、これです。

イエス様は、人間のどうしようもない、ダメな人間を用いたいと願っておられます。それが、多くの人に福音を宣べ伝えることであれ、一人の人と語ることであれ、日曜学校で教えることであれ、一人の病人を見舞うことであれ、イエス様によって用いられる最も大切な前提は、喜んで、主にだけ従うという心がまえです。

ピリポは喜んで、主の御声に聞き従う覚悟でした。ですから、彼は走ったのです。彼は、イエス様に従いたかったから急いだのです。福音が委ねられたから、彼は走りました。ピリポは、福音を宣べ伝える覚悟でした。この出来事から、だいたい20年が経って、ピリポは、主を紹介する者として描かれるようになりました。使徒行伝の21章8節です。次のように書かれています。それは、だいたい20年あとだったのです。

使徒行伝
21:8 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言する(・・・みととばを宣べ伝える・・・)四人の未婚の娘がいた。

伝道者とは、他の人にイエス様を宣べ伝えるように召されている者です。ピリポは、『私に福音が宣べ伝えられただけではなくて、私はそれを通して、信仰に導かれましたけれども、私が救われることだけが大切なのではない。福音を、さらに宣べ伝えるために、私に福音が委ねられた』ということを、知っていました。

実際、このことは、ピリポにおいては、単なる頭の知識ではなかったのです。彼は、それを実際に行いました。ピリポは、イエス様についての喜びの訪れを、さらに宣べ伝えました。けれども、私たちも、また、ピリポと全く同じように、救い主イエス様についての知らせを、さらに宣べ伝えるように召されているということを、忘れてはなりません。私たちは、救い、逃れ道、望みが存在するということを、失われた魂に告げ知らせるように召されました。ただ、救われるために救われただけではない。

テサロニケ第一の手紙、2章4節に、一文章だけですけど、次のように書かれています、「私たちは福音をゆだねられた者です」とあります。生けるまことの神は、私たちにすばらしい賜物、すなわち、イエス様を委ねてくださいました。有名なローマ書に、次のように書かれています。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

私たちに、一つの教えというより、むしろ、一人の人格者、すなわち、イエス様が委ねられているのです。しかし、私たちに次のことが、明言されています。他の人たちも、また、イエス様の豊かさに預かることができるように、一生懸命になりなさい。他の人々が、イエス様の中に、本当の満足を見出す(ために)すべてのことを行いなさい。また、他の人たちが、罪の奴隷から、また、自我の束縛から解放されるように、励みなさい。マルコ伝16章15節、すべての人に与えられている命令でしょう。

マルコ
16:15 全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

福音とは、もちろん、一つの教えではない。イエス様です。イエス様を紹介しなさい。紹介してから、早く手を引いて、全部、イエス様に任せたら。福音とは、今、話したように、決して、一つの教えではない。イエス様ご自身です。イエス様を述べ伝えなさい。イエス様こそ、あらゆる問題に対する解決です。

私たちは福音を宣べ伝えているのでしょうか。あるいは、自分が救われていることに満足しているのでしょうか。イエス様を紹介することこそが、あらゆる救われた人々の使命です。すばらしい特権であり、また、恵みです。罪から救ってくださるイエス様の福音を宣べ伝えない者は、わざわいです。

ピリポは、非常に急いでいました。どうしてでしょう。ピリポは、喜びの訪れを述べ伝えることを、急いだのです。彼は、それを宣べ伝えないで、自分だけのものとすることができなかったし、また、そうしたいとは思わなかったようです。ピリポは走った。どうして?緊急を要すること、すなわち、生死にかかわることが問題となっていたので、彼は走ったのです。イエス様が、ピリポを、女王の財産全部を管理していた宦官とともに出会わせたことは、比類なきことです。しかも、一方の者が他方の者にとって、助けとなりえた瞬間に、二人を結びつけられたのです。

ピリポが、即座に従わなかったならば、この出会いは実現しなかったでしょう。イエス様は、心の備えのできた財産管理者が、イエス様の福音を知らせるようになることを、お望みになったのです。そして、ピリポは、同じ思いに満たされました。だから、彼は急いだのです。

私たちは、次のことを忘れてはなりません。イエス様の福音を宣べ伝えることほど、緊急に要することは、何ひとつないということです。失われた魂をイエス様と出会うようにさせるために、いかなる時間も失われることは、許されません。イエス様を持っていない多くの人々、したがって、救いもなく、平安もなく、望みもなく、罪の赦しもない多くの人々が、私たちから、あらゆる安けさを奪い取ってしまい、動揺させるはずです。イエス様の態度は、我々の態度であるべきです。イエス様の態度とは、どういうものであったかと言いますと、ヨハネ伝の9章4節を見ると、次のように書かれています。イエス様の言われたことばです。

ヨハネ
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

パウロも、同じ気持ちだったから、証ししました。

第一コリント
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

今の我々の時代は、恵みの時であります。すなわち、誰に対しても、成就された救いの知らせが、提供されなければなりません。けれども、この恵みの時は、大変な勢いで終末に向かっています。やがて、最後の審判の時が始まります。だから、急がなければならない。パウロの心からの叫びは、小羊なるイエス様のために、多くの魂を獲得することでした。血潮によって買い取られた魂は、イエス様と接触すべきです。パウロは、エペソの長老たちを呼んで、次のように告白をしたのです。

使徒行伝
20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロと同じように、ピリポも、また、喜びの訪れを宣べ伝えること、彼の責任を果たすことを急ぎました。ピリポは、黙っていることができませんでした。ピリポは、自分が経験したイエス様の恵みと愛について、宣べ伝えなければいけなかったのです。彼は急いだ・・・というのは、不滅の人間の魂が、永遠に救われるか、滅びるかという大きな問題がかかっていたからです。

私はその人を通して、多くの人々がイエス様に導かれた、一人の伝道者のことについて読んだことがあります。ある晩、彼は何千人の人々に向かって、話したのです。そして、多くの人々が、その晩、『これ欲しい』と決心しました。夜は遅くなってしまったのですけれども、その晩、伝道者はタクシーで帰宅しましたが、家に着く前に、タクシーの運転手は、イエス様を信じる信仰に導かれました。この伝道者のおもな特徴は、彼が、使命の緊急性を確信し、イエス様について宣べ伝える機会を、何一つ過ぎ去らせなかったということでした。

ピリポは急いだ。走った。どうして?救われなければならない魂を見たので、彼は、走りました。そして、彼は、この魂を主に導きたいと、切に望んだのです。イエス様は、財産管理者が救われるという恵みを与えてくださいました。ピリポは、いかに導いたのでしょうか。非常に恐れて、よく考え、勇気をだして、断固たる態度で行動しました。なぜ、ピリポは、求道者の財産管理者を、イエス様の御許に導くことができたのでしょうか。なぜなら、彼自身、イエス様を体験したからです。彼は、主のみことばが、救うことがおできになることを、確信したからです。なぜなら、ピリポは、ただ単に宦官が求めており、イエス様を必要としているということを知っていただけではなくて、イエス様ご自身が、宦官を探し求めておられる方であるということを、知っていたからです。もちろん、宦官に近づくことは、そんなに簡単ではなかったでしょう。そのために、勇気が必要です。というのは、宦官は、ただ一人で車にいるということは、絶対になかったからです。そのような有名人は、疑いもなく、大勢の部下を連れていたはずです。急いでいるピリポは、あらゆる人間の魂のために、イエス様が死んでくださったのですから、どうしても救われなければならないということを、よく知っていました。

多くの人々が、我々を通して、イエス様の御許に導かれ、それを通して、贖いを見出すということは、我々の関心でもあるのでしょうか。ピリポは、荒れ野で、車のあとを走っていた時、次のように言うこともできたでしょう。『このいまわしい車め。こんなにほこりを巻き上げて、ほこりがひどくて、もう、まともには見られない。目に、鼻、口に入ってひどいもんだ。ねがわくば、早く、ほこりが消えてなくなりますように。』ピリポは、口や目や耳や鼻に入ってくるほこりには、無頓着でした。馬車の中にいるこの人は、重要人物であるにちがいないと、彼は、ひとりごとで言いました。「私はどうしても、彼に、この地上に来られた救い主のことについて、宣べ伝えなければなりません。」

私たちが出会う人、そして、私たちが知っている人は、誰でも、イエス様が、ご自身のいのちを捧げてくださる。それゆえに、救われなければならない魂です。そして、生けるまことの神は、このご奉仕のために、私たち一人ひとりを用いたいと願っておられます。福音は、あらゆる人間の最も深い苦悩を、鎮めてくださる唯一の喜びの訪れです。どうして、ピリポは急いだのでしょうか。なぜならば、キリストの愛が迫ったからです。ピリポは、この人を、イエス様の御許に導びこうと急いでいました。そして、この努力は、いかに、報いられたことでしょう。ピリポは、ただひとつの魂のために一生懸命、走ったのです。ひとつの魂、どれでもが、イエス様にとって、全世界の富よりも価値があるのです。主なる神は、いかなる魂に対しても、決して、無関心ではありません。

エチオピアの財務長官は、見知らぬピリポに、車の中に座るように頼みました。それは、彼の霊的な飢え渇き、満たされない状態、救いに対する熱望の現われでした。財務長官が、ちょうど読んでいた聖書の箇所は、イザヤ書53章でした。私たちは、この箇所が預言された救い主が、いかにして、身代わりの苦しみを通して、ご自分の身を無になさるか、また、救いの代価として、ご自分のいのちを捨ててくださるかについて、もっとも、よく書きしるされているところであることを、私たちは知っています。彼は、読んだでしょう。

使徒行伝
8:32 ・・・「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

ピリポは、彼に、ユダヤ教について語ったり、初代教会について語ったり、信者について語ったりすることはしなかった。何の関心も持っていなかったようです。ピリポは、財務長官に、イエスの福音を宣べ伝えたのです。すなわち、福音として、イエス様ご自身を宣べ伝えたのです。大切なのは、イエス様であり、しかも、ただイエス様お一人であるということを、決して忘れてはなりません。そして、本当にイエス様だけを、大切にする人はイエス様によって用いられます。なぜなら、その人は、いかなる自己名誉をも追求しないからです。たしかに、ピリポは、財務長官をイエス様の御許に導いたあとで、イエス様を証しする大切さを知ったはずです。なぜなら、自分が救われることだけが大切なのではなく、主が、あらゆる信者をご自分の代わりに、使徒として用いたいと願っておられるからです。

イエス様の中に救いを見出した人は、このことを水のバプテスマによって証しする特権を持っています。財務長官が途中で、水のあるところを見ると、洗礼を受けるのに、何か差し支えがあるかと、心から聞いたのです。

使徒行伝
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

二人は水の中へ降りて行ったのですから、これは、全身が水の中に潜る浸礼であったことが解かります。

疑いもなく、ピリポは、従者たち全員に対して、彼らが今、自分の目で見ていることが何であるかを、なぜ、財務長官が洗礼を受けるのか、それは、どのような理由から成されるのかを、説明したはずです。このようにして、すべての人が、福音として、イエス様の成し遂げられた救いの御業を聞きました。私たちは、さらに、財務長官が喜んで進んでいったことを読むことができます。私たちは、彼が、なぜ喜ぶことができたかを知っています。すなわち、彼は、救い主に出会ったからです。彼は罪の債務が消し去られたことを知りました。また、彼は洗礼によって、自分が救われていることを公に証ししたのです。

なぜ、こういうことが起こったのでしょうか。なぜならば、ピリポが急いで、彼を、主の御許に導いたからです。彼は、従順に従ったからです。

最後にもう一つ。イエス様のご計画が実現されるために、あらゆる救われた魂が、一つの鎖の環と同じような働きをすることが解かったので、ピリポは走りました。

ここの箇所では、ひとつの魂がいかにして、主の御許に来て救われたかということだけが、我々に報告されています。けれども、このただ一人の人は、大切な人物でした。現代であれば、そのようなことが起これば、早速、「財務長官がエルサレムからの帰途、キリスト者になった」という見出しで、新聞、雑誌、テレビで報道されたことでしょう。実は、この人を通して、初めて、福音がアフリカに伝えられたのです。ここでも、また、私たちは、イエス様にとっては、この一人の人の救いだけではなくて、彼によって影響され、福音を聞くであろう多くの人たちが、大切であったということを知ることができます。

財務長官は、鎖の中で、ひとつの大切な環だったのです。彼は、アフリカがイエス様の福音を聞くようになる、救い主の器(うつわ)となる特権が与えられました。私たちは、主に忠実でなければならない。たいへんな緊急性を持って、福音が宣べ伝えられなければなりません。

私たちは、私たちを通して救われる人々を、イエス様が後で、いかにお用いになるかを知ることができません。日曜学校の青年、私たちが電車の中で会った人、私たちがもう何年も会っていない同級生、その人たちが救われて聖霊に満たされるならば、その人たちを主がどのようにお用いになり、祝福なさるのか、誰が知っているのでしょうか。注目に値することは、最後まで、ピリポが、相変わらず、急いでいるということです。急いでいるだけではなく、彼は、急に見えなくなってしまったのです。

使徒行伝
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

ピリポは、いつも、福音を宣べ伝えました・・・急いで、走りながら。ピリポは、確かに急いでいる伝道者でした。彼は、主が用いることのおできる人でした。どうしてでしょうか?答えは、おそらく、使徒行伝6章3節に、書いてあるのではないかと思います。

【参照】使徒行伝
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

ピリポは御霊に満ちた男でした。御霊に満たされた者でした。御霊に満たされている人は、急いで福音を宣べ伝えざるをえません。御霊に満たされている人にとって、大切なのは、イエス様だけであり、イエス様お一人だけです。それですから、御霊は、ピリポをも連れ去られました。御霊に満たされた人は、視界から消えて見えなくなりたい、目立ちたくないという切なる願いを持っています。ピリポは、すべての名誉と誉れが、ただ、イエス様お一人だけに、与えられるべきであると願ったのです。すなわち、バプテスマのヨハネのように、『イエス様だけが盛んになり、私は衰えなければならない』という切なる願いを持っていたのです。


おわり

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