2011年9月13日火曜日

望みの神

望みの神
2011年9月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

15:33 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

今、読んでもらいました十三節の中で、「望みの神」という表現が出てきます。イエス様だけが、望みのみなもとです。今日の話をとおして、私たちが、新しく主にお会いし、我々の神だけが望みの神であられることを、新たに知ることができれば、本当に感謝だと思います。


望みの神は、望みなく、失望している人々の神です。自分の願いが、自分の望みが満たされ、成就されないと、多くの人々は、がっかりして、ひどく失望します。けど、主の側には、失望ということがありません。誰も、イエス様に失望し、主を失望させることはできません。望みの神だからです。

イエス様は、ご自身の目的を、初めから終わりまで、完全に成就されるということを確信できます。イエス様は、我々の望みの神です。イエス様は、疑うことを知りません。イエス様は、ご自身の成そうとするご目的が、必ず完全に成し遂げられることを確信しておられるお方です。

どうしてでしょうか。イエス様の確信は、周りの環境から生まれたものではないし、人間から生まれたものではありません。イエス様の確信と望みは、ご自身のうちにあるからです。イエス様ご自身が、とりもなおさず、望みの神であられます。たとえ、どんなことが起こっても、私たちがどんなに不完全で、失敗に失敗を重ねても、イエス様は、永遠に変わらない望みの神です。だから私たちは、誇りを持って、「我々の主は望みの神である」と、喜んで証しすることができるのではないでしょうか。

けど、望みの神とは、いったいどうしたら、我々の心を、絶えざる喜びと平安と希望で満たすことができるのでしょうか。どうしたら、望みに溢れることができるのでしょうか。この十三節に、その答えがあります。すなわち、信仰によって。もちろん、『信仰によって』の代わりに、『望みの神に信頼することによって』、喜び、平安、望みにあふれさせられるのです。

自分を見ないで、望みの神を見つめることによってのみ、喜びと平安と望みが湧き上がってきます。と言いますのは、喜びと平安と望みのみなもとは、我々のうちにあるのではない。主イエス様ご自身のうちだけにあるのです。

今、読んできてもらいました三節を見ると、主はひとつの名前ではなくて、三つの違った名前を持っています。第一番目、忍耐と慰めの神です。二番目、平和の神です。三番目、望みの神と呼ばれています。すなわち、苦しみの中にある忍耐と慰めの神、戦いの中にある平和の神、また、失望の中にある望みの神と呼ばれています。

まず、五節を見ると、主は、「忍耐と慰めの神」という名で呼ばれています。少し前にさかのぼって、三節を見ると、どんな悩みの中にあっても、苦しみの中にあっても、はたまた、そしりの真っ只中にあっても、主は忍耐と慰めの神であるということがわかります。悩みやそしりは、分かたれない心を持ち、イエス様に対する単一な、ひたすらなる心を持って主に仕える者に、必ずやってきます。

イエス様の歩まれた道は、どういう道だったでしょうか。すなわち、イエス様の歩まれた道とは、悩みの道でした。苦しみの道でした。否定される道でした。

今日においてもなお、イエス様に従う道は、そしりの道、悩みの道なのではないでしょうか。もし、このそしりや悩みや苦しみを知らないで、また、信仰生活において、それらのものがないと否定する人がいるならば、その人のうちに主が住んでおられ、主のかたちをその人のうちに、だんだん現していかれるかどうか、たいへん疑問と言わなければならないでしょう。もし、私たちが主と関係を結んでいるなら、主と同じ経験を持たなくてはならないのではないでしょうか。

私たちは悩み、苦しみ、そしりの中にありますけど、あきらめ、絶望しないために、どうしても、忍耐と慰めの神を必要としています。もし、そのような時に、忍耐と慰めの神がいなければ、失望、落胆の泥沼に落ち込んでしまうでしょう。

我々の主とは、忍耐と慰めの神です。打ちのめされているのでしょうか。悩みの中にあって、解決がなく、あきらめようとしているのでしょうか。それとも、私たちは、困難の状態にあり、また、自分の計画を苦にしているのでしょうか。聖書を見るとはっきり言えることとは、うちのめされてる必要はない。忍耐と慰めとを我々の神が与えるお方であるからです。

それから、前に読みました三十三節を見ると、今度は、平和の神という表現が使われています。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」とあります。その前の三十節、三十一節を見ると、「力を尽くし祈りの戦いのうちに主に祈ってほしい」と書いてありますが、我々の主は、戦いの真っただ中にあって、なお平和の神であるということです。

心を尽くし、真心をこめ、誠心誠意、主にのみ仕え、奉仕する者は、いつも戦いの真っただ中に投げ出されています。三十一節、三十二節を見ると、パウロは、これからユダヤへ行くのに際し、ユダヤの未信者の迫害を予測していました。また、エルサレムに住む兄弟姉妹たちに仕えることができるように、その奉仕に対して、霊的な戦いを予測していたのです。パウロはひと言葉で言いますと、戦いの渦の真ん中にいたわけなんです。

このようなとき、彼の支えとなったのは、何でしょうか。平和の神でした。主はいつも、我々の求めに応じて、我々の求めとなってくださるお方です。そしりと苦しみの中にあっては、忍耐と慰めの神であり、戦いの中にあっては、平和の神です。

主に与えられてる名前は本当にすばらしいものですね。忍耐と慰めの神、平和の神、望みの神と呼ばれています。すなわち、苦しみの中にある忍耐と慰めの神、戦いの中にある平和の神、失望の中にある望みの神と呼ばれています。

十三節を見ると、我々の主は望みの神と呼ばれています。パウロは、このローマ書をもうすぐ捕らわれて、有終の美となるというときに書きました。二十四節と二十八節を見ると、パウロは、まもなく、スペインに行きたいという願いを持っていたことがわかります。彼は、そういうふうに願ったし、祈ったし、けど実際には、どうだったでしょうか。彼は、少なくともその時、スペインに行くことができなかったばかりか、捕われの身となったのです。スペインではなくて、刑務所だったのです。これは、もちろん、パウロにとって、どうでもいいことではなかったのです。非常な苦しみだったに違いない。牢屋に入っているというその苦しみばかりではなくて、スペインにおけるご奉仕の道が断たれた・・・・というパウロの苦しみは、どんなに大きなものであったか、想像を絶することです。

また反面、私たちは、パウロが牢屋につながれたということは良かった。すばらしいことだと言わざるを得ないのではないでしょうか。なぜならば、もし、パウロが牢屋につながれなければ、あのように多くのすばらしい書簡、手紙は、生まれなかったのではないでしょうか。もちろん、彼の書いた手紙が聖書として残ると、彼は夢にも思ったことがなかった。けどパウロは獄にいた時、自分が祈ることができる、みことばに頼ることができると解かったから、やはり、安心して全部、主にゆだねることができたのです。

イザヤ
61:2 ・・・・主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。

イエス様が、この世に来られた目的のひとつは、あふれるばかりの喜びを与えるためではないでしょうか。

ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

初代教会の人々とは、確かに、喜びに満たされた人々でした。人間は、主にあって喜ぶことができるか、あるいは、がっかりして、絶望してしまうかのどちらかです。前向きな生活をするために、主は、自分に与えられた名前をとおして、自分自身を明らかにしてくださったのです。すなわち、主は苦しみの中にある『忍耐と慰めの神』、戦いの中にある『平和の神』、失望の中にある『望みの神』です。ちっぽけな人間が、この主とつながっていれば、悪魔はどうすることもできません。したがって、悪魔が、我々に向かってくるのにいちばん強い武器とは、絶望という武器ではないでしょうか。

悪魔のいちばん強い武器である絶望について、ちょっと考えましょうか。はじめに読んでもらいました、ローマ書十五章十三節に、「聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」と、パウロは書いたではなくて、祈ったのです。パウロは、悪魔が、主のしもべたちに対して、絶望という武器を持って、激しく攻撃してくることを知っていたから、こういうふうに祈らざるをえなかったのです。

我々の周囲にある多くの悩みや苦しみ戦いは、表面的なものである場合が多いようですけど、ここで言っている戦いは、悪魔が人の魂を主から奪い取ろうとして、絶望に引きいれることに対する激しい、深刻な、内面的な霊の戦いのことを言っているのです。けど、このような激しい戦いの真只中にあっても、なお、失望せず、落胆せず、かえって、望みをいだき、一歩一歩、前へ進むことができるのは、結局、聖霊の力による以外にない。

イエス様に対して尊い者、イエス様にとって価値のある者には悪魔の働きも、ますます激しくなってまいります。これに対して、簡単に三つの例を、旧約聖書から取り出してみましょうか。第一番目、アブラハムの絶望。二番目、ダビデの絶望。三番目、エリヤの絶望です。もちろん、三人とも、すばらしい、主によって用いられた者でした。アブラハムもダビデもエリヤも、けど、三人とも、絶望したことがある。

まず、アブラハムの絶望を見てみましょうか。主は、アブラハムに、必ず息子をお与えになることを約束されました。けど、その約束はなかなか、成就いたしません。そして、アブラハムは、だんだん歳をとり、ついに八十五歳になった。その望みは、ほとんどなくなってしまいました。アブラハムは、それまで、主とともに歩み、多くの幸いのことどもを経験してまいりました。けど今、息子を与えてくださるという主の約束は、望みがなくなってしまいました。

人が絶望すると、いろいろな違った反応を示します。ある人は、絶望状態に陥ると、もうあきらめます。また、ある人は、逃れるために、自分で何かをしようとします。アブラハムの場合がそうだった。彼は、絶望しました。妻、サラは子を産みません。そこで、妻サラは、仕え女で、名をハガルという一人の女をアブラハムに、妾として与えた。ちょっと考えられない話。そして、このハガルという女性は、まもなく、アブラハムの子を産んだんです。これは、何を意味しているのでしょうか。アブラハムは、その行いによって、『主はできない、だから自分で事を行う』といういけないアブラハムの心を表しています。

アブラハムは、神は望みの神ではない。私がやらなければ主は成しえないという気持ちになったのです。アブラハムは、絶望に陥りました。その時、アブラハムは、主により頼まないで自分でことを行いました。その結果は、どうだったのでしょうか。言うまでもなく、悪魔が勝利を得たのであります。

悪魔は、我々の状態を見て大喜びするときが、しばしばあるのではないでしょうか。私たちは、口で主はできない、主はこの状態を解決できない、だから、自分でやろう・・・・と、口でこそ、もちろん、言いませんけど、実際の生活において、それをやっている場合が、往々にしてあるのではないでしょうか。

アブラハムだけではなく、二番目、ダビデも絶望してしまいました。ダビデは、やはり主からすばらしい経験を与えられた後に、絶望したんです。一箇所、見てみましょうか。第一サムエルを見ると、彼は自分勝手な言葉を口にし、それを行った。

第一サムエル
27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるより(・・・・神の敵の手に逃れるより・・・・)ほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

絶望した結果です。これより以前、かつて、主は、ダビデを呼び、ダビデに、やがて王となることを約束されました。アブラハムは、先ほども言いましたように、主はできないと考えた。これに対して、ダビデは何と言ったのでしょうか。ダビデは、主は今はもはや成すことができない。もうすでに遅すぎる。私が王となることは、もう望みがない。あきらめた方がいい。ダビデは、それまでの長い間、主はご自分のご計画を必ず、余さず、成就されるということを確信しました、確信し続けたのですけど、今どうでしょう。周りの情勢が困難に見えます。絶望的に見えます。ダビデは、すべてがダメであると、望みを捨ててしまいました。実際には、この時、ダビデの敵であるサウルの死は真近に迫り、ダビデが王となるのが目前に近づいていたのでした。やがて、ダビデは、王となるのですが、ちょうどその寸前、今のときは、悪魔が働き、闇のときであり、絶望に引き込もうとする時期でした。

ダビデは絶望してしまいました。もし、私たちが、望みの神を見失いますと、それは、悪魔の勝利です。

今まで、アブラハムの絶望、ダビデの絶望について考えました。最後に短く、エリヤの絶望について考えましょうか。彼は、実に神の人でした。主とともに歩んだ男でした。主なる神とともに歩み、主より限りない祝福を受け、主の力を充分に味わい知った男でした。けど、彼も絶望しました。彼は、絶望した時、神のすばらしい力を知っていましたので、アブラハムのように、神はできないと考えなかったし、また、ダビデのように、今もうすでに遅すぎるとも言いませんでした。

彼は、いったい何に絶望したのでしょうか。自分自身に絶望しました。「主よ、私は汚れた者です。役に立たない者です。弱い者です。力のない者です。他の人をお探しになり、他の人をお遣わしください。私はもうダメです。」エリヤは、おのれに絶望し、このように思うようになりました。

ここに、ひとつの疑問が浮かんでこないでしょうか。アブラハムやダビデ、エリヤは、なぜこのように想像に絶する絶望状態に、落ち込んでしまったのでしょうか。アブラハムにしても、ダビデにしても、エリヤにしても、心から全力をあげて、主に仕えた人々でした。主が彼ら、三人を見る時、三人は主に愛される者であり、非常に、主のために価値ある者に見えたはずです。ですから、主は、この三人を通して、ご自身の永遠の目的を達成しようといたしました。

悪魔が、主の御心にかなうこの三人に全力あげて、激しい攻撃を加えないはずはない。彼らは、悪魔の憎しみを感じました。三人が絶望に陥った原因は、このようにひとつは悪魔の攻撃だったでしょうが、その裏に、もうひとつの見逃すことのできない理由が横たわっています。主は、三人を通して、ご自分の目的を、ご自分で成し遂げようと思われたのです。三人を道具として、器として、用いたかったんです。この主のご目的にかなうためには、絶望の中に沈み込むことが必要でした。

主は必要のない悩みや苦しみを与えられません。けど、望みの神は、全く望みを失ったアブラハム、ダビデ、エリヤの神です。私たちは、もうすでに、言い知れないこの激しい絶望に追い込まれたことがあるのでしょうか。私たちが、ことを成す場合、私たちの生まれながらの性質を持ってするなら、それは、主の邪魔をすることであることを知らなければならない。

私たちは、自分の持っている感情、考え、意思が役に立たない、それらに信頼を持てなくなっているのでしょうか。私たちは、自分自身に絶望をしているのでしょうか。そのような状態にあって、主を見上げているのでしょうか。主を望みなき者の望みの神として知っているのでしょうか。

今まで、二つの点について考えたね。第一番目、主の三つの違った名前についてでした。二番目、悪魔のいちばん強い武器である絶望についてでした。最後に短く、イエス様の勝利の望みについて、考えてみたいと思います。

イエス様が、この地上で過ごされた、あの最後の頃のことを思い浮かべてみましょう。イエス様が、そのご生涯を通して成されたご奉仕は、目に見えた結果が現れていたでしょうか。そうではない。すべてが、絶望的に見えました。すべてが無駄であったかのように見えたのです。

イエス様は、父なる神の御心を成就されるために遣わされました。この世においでになり、三十三年間のご生涯を送られました。そのご生涯の終わりのとき、どうだったでしょうか。すべてが空しく、絶望的に見えたのです。イエス様は、エルサレムに向かい、涙を流されたのです。イエス様は、救うために、癒すために、立ち上がらせるためにしもべとして、この世においでになりました。けど、どうでしょうか。人々は、みな主を侮り、冷たくあしらいました。イエス様のご生涯の最後は、十字架でした。十字架にかかられるとき、ご自分を取り巻く、愛していた弟子たちはみな、逃げ去り、全くの孤独でした。

しかし、そのような主でありましたが、なおかつ、溢れる望みに満ちていたのではないでしょうか。今日は時間がないんですけど、ヨハネ伝、十四章から十七章までを見ると、イエス様が将来を望み見て、限りなく深い平安と、静けさをお持ちになっていたことがよく解かる。

ヨハネ伝、十四章から十七章は、イエス様のいわゆるお別れのことばです。弟子たちは、このイエス様のことばを聞いた時、奇妙に思ったに違いない。イエス様は、この別れのことばの中で、弟子たちに、「今後、わたしの名によって願い求めることは、すべてかなえられる」と約束しましたが、それまで願い求めたことがみな、失敗に終わっている弟子たちにとって、イエス様のことばは、本当に不思議に響いたにちがいない。

また、イエス様は後ほど、御霊を送り、あなたがたは多くの実を結ぶようになるということを、弟子たちに約束されました。けど、弟子たちは、その時、自らをかえりみて、それは全くありえない、不可能なことであると考えたに違いない。

聖霊の力によって、望みに満ち溢れている、これこそイエス様のお姿でした。ヨハネ伝、十四章から十七章までを読むと、周囲の状態がいかに絶望的であったかがよくわかる。それとともに、その中にあって、イエス様が、いかに望みに満ちておられたかを見ると、我々の主は、限りなく望みに満ち溢れた方であったことがよくわかります。

すなわち、イエス様は、アブラハムのように、神はできないと思うことをなさいませんでした。

イエス様は、ダビデのように、もう遅すぎるということもいたしませんでした。むしろ、わたしは喜んで、生き生きとした望みを持って、墓にまいります。これは、決して、遅すぎるということではなくして、決められた主のときなのですと言われ、死に向かって行かれたのです。

イエス様は、エリヤのように、「神はわたしを用いられない」とは言われなかったのです。イエス様は、聖霊により、主は自分を用いることを成したもうと確信しておられたのです。そして、イエス様のよみがえりは、希望は失望に終わることがないことを証明しています。私たちは、望みの神を信じている者として、喜びと平安と望みに満ちているのでしょうか。

この末の世にあって、かかる喜びと平安と望みに満ちている人々が、どうしても必要です。イエス様は、いたるところで、ご自身の御心にかなった教会を、すなわち、天的な霊的な、霊的な、世界的な教会を打ち立てられることができるのでしょうか。私たちが、まことに、主を頭(かしら)として、主の御姿を現すこととなっていくのでしょうか。

人と環境に目をとめると、望みなく、絶望的に見えるかもしれないけど、今日、私たちは、望みに満ちておられたイエス様を仰ぎ見ましょう。至るところにいる兄弟姉妹は、やがて、傷もしみもない教会となり、主に喜ばれる器となり、絶えず主の御栄光のうちに住み続けることとなると確信いたしましょう。

アブラハムは、神はできないと思った。ダビデは、主は今となってはもう無理、遅すぎると言ったのです。エリヤは、主はできるけど、私を用いられないと思い込んでしまったのです。私たちは何と考えるのでしょうか?

私たちは、困難があり、苦しみがあり、悩みがあります。そのゆえに、絶望に陥ってしまうのでしょうか。もし、絶望に陥っているのなら、これは、全くひどいです。必要ない。落ち込む必要はない。主は、望みの神であられるからです。だから、パウロは、本当に心から、もうすでに救いにあずかった人々に書いたのです。

ローマ
15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

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