2011年9月6日火曜日

なぜでしょう、何のためか

なぜでしょう、何のためか
2011年9月6日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

創世記
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


(ナオコ姉妹の賛美、日々の歌26、『小羊は勝利された』)

このイエス様の叫び、「完了した」のゆえに、私たちは、ここで集まることができたのです。もし、イエス様がそう叫ばなかったならば、単なる殉教者として犠牲になったのです。けれども、イエス様は、我々の受けるべき天罰をお受けになり、罪の問題を解決してくださったから、私たちは本当に、前向きに生活することができ、大いに喜ぶことができるのではないでしょうか。


けれども、天国へ行くまで、今日かもしれないけれども、延ばされれば、やっぱり戦いなのではないでしょうか。ですから、今日の題名は、「なぜでしょう、何のためか」という題名であります。人間は誰でも、人生において、いろいろな問題、あるいは、悩みや苦しみに出会うものです。そして、多くの場合、そのようないろいろな問題に直面した時、私たちはいかなる答えをも見出すことができません。考えられないほど多くの人々が、山のような問題の前に、成すすべを知らないで、大いに悩んでいます。

悩みがどうしてあるのか。なぜか、皆、考えています。そして、私たちは、しばしば、いろいろな状況の前に、成すすべを知らないで、また、どうしたら、そこから逃れることができるのか、逃れ道を見つけることもできないし、半ば絶望的な状態に落ちてしまうというようなことが、実際にありはしないでしょうか。創世記に、ヤコブの経験したことについて書いてありますね。

創世記
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

心からの叫びでした。このヤコブは、それまでの生涯においては、自分自身の意思や自分自身の力に頼っておこなったことが、たくさんありました。大部分がそうだったのです。彼は長い間、ずるい生き方をしてしまったのです。自分のこと、自分の利益ばかりを考えたのです。けれども、このような人を欺く者が欺かれてしまいました。

主なる神は、罪を見過ごしにされない。これは、ヤコブが学ばなければならなかった本当に厳しい教訓でした。だから彼は叫んだ、「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」すなわち、言い換えれば、すべてのものが私に反対しているということです。ヤコブの場合のように、すべてが失敗に終わりそうに思える時、いったい何が成されるべきでありましょうか。いかなる態度をとるべきなのでしょうか。まず最初に、私たちが注意すべきことは、すべてのことが失敗に終わるということは、ただそのように見えるにすぎないということです。ヤコブの場合もそうでした。なぜならば、ヨセフは確かに今はいないけど、いつかは必ず会える。シモンもまた、確かに今は、ここに居ないけど、いつか、必ず会うことができるということです。

私たちは、人間的な見方をするならば、多くのものを確かに、正しく見ることはできません。次のように言うでしょう、「すべてのものが私に反対している。すべてのものが失敗に終わる」と。けど、本当はその反対が真実です。すなわち、これらの事柄は私たちに反対しているのではなく、逆です。結局、主は支配しておられ、主の許しなしに、何も有り得ない。結局、全部、祝福とは隠されている祝福なのではないでしょうか。

考えられないほど多くの人々が、「なぜ、どうして、こんなに悩まなくちゃいけないの。こんなことを経験しなければならないのでしょうか。」このように苦しみながら、悩みながら、いくら自問しても、何の解決をも見出せないような事柄が実際に、数えきれないほどあるのではないでしょうか。「なぜか、どうしてか」という質問について、少し考えたいと思います。答えは簡単です。

第1番目、すべてを支配したもう主イエス様は、人を救われるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるのです。救われるために与えられた。2番目、すべてを支配したもう主イエス様は、信じる者、もうすでに救われた人々が変えられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。救われることだけでは充分ではない。変えられる必要がある。もうひとつ、3番目、すべてを支配したもう主イエス様は、救われた者が、本当に主に仕える者として、用いられる器として、用いられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれます。偶然ではない。ですから、全部をイエス様のせいにしましょう。今は解からなくても、解かる時が必ず来ます。

「なぜか、どうしてか、何のためか」と、考えると、今、話したように、まず、すべてを支配しておられる主は、どうしようもない人間、本当は大した価値のない人間を救われるために、それらの多くの出来事を、起こるがままにさせておかれるということです。大切なことは、人間が真理の認識に至ること、すなわち、イエス様に出会うことです。どれほど多くの人々が、暗中模索して、自分たちが真理を知らないのだということに気がつかないでいるのでしょうか。

だから、次のように言うことが、全く正当でしょう。人間は救われうる前に、一度(ひとたび)、失われた状態になければならない。すなわち、人間は、主なる神が人間を救ってくださる前に、まず、自分の失われた状態を認めなければなりません。物質的なものが満ち溢れ、目に見えるものに、がんじがらめとなってしまっているため、永遠のものや、生ける主について、深く考える時間がない。このことが、多くの現代人の特徴なのではないでしょうか。

多くの人は、救い主を持つ必要性に対してメクラですが、たとえそのことを認めざるを得なくなったとしても、依然として逃げようとするのです。その方々は、静かになって、人生の意味を考えたり、死後の世界を深く考えたりすることをしたがらないのです。このことこそ、主が、多くの不愉快なこと、困難なこと、理解することができないことを、私たちの上に来たらせることの理由です。

このような主の目的の導きは、ご自身のもとに引き寄せること、また、赦しと人生の内容を与えてくださることにほかならない。

聖書の中のひとつの実例を、ちょっと見てみましょうか。よく知られているルカ伝の15章、いわゆる、放蕩息子の例であります。放蕩息子は、自信に満ちて、親の家を去ってしまった。意識して、これは自分が選んだ道を行ったのです。彼は、何ものからも束縛されたくない。自由に自分の人生を楽しもうと思いました。そして、覚えるべきことは、自分自身の道を行きたいと思う者に対しては、主は好きなようにさせます。たとえ、最初はすべてのことが望み通り、うまく行くように見えたとしても、やがて、すべてのことが失敗に向かう時がやってまいります。

そして、その結果、突然、すべてのものが自分に反対しているように思われるでしょう。お金は、まもなく使い果たして、それまで友だちと思われた人々からは捨てられることになってしまった。すべてのものが失敗してしまったのです。

ルカ
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり・・・

主のせいだったんですけれどもね。偶然はないから。

15:14 ・・・大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

これははっきり、主のせいでした。

15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

ユダヤ人にとって一番、嫌いな仕事です。豚の肉でさえも食べてはいけないから。

15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

けれども、この導きによって、すなわち、この深みへと導かれたことによって、彼は、ただ単に自分自身に立ち返っただけでなく、そのことによって、父の住まいへ戻ることになり、本当に満ち足りた幸いな人生へ入ることができたのです。

多くの場合、人生の途中には、恐ろしくたくさんの困難が横たわっています。けど、主は常にひとつの目的を持っておられます。すなわち、私たち、どうしようもない人間をゼロの点にまで低くすること、あるいは、破産させること、これが主のとられる方法であり、その限りにおいて、すべてのものは、自分自身の助けとなるものを失い、心から悔い改めることにより、また、主を信じることにより、主のみもとに行くことが可能となるのです。

「なぜか、どうしてか、何の為か」と、考えると今まで見てきたように、支配したもう主は、人が救われるために、永遠のいのちを得るために、心の満足を得るために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。主が人間に正しい理解と悔い改めを得させるために、確かに多くの事柄を、失敗するがままにさせておかれることを見ました。

次に、「なぜ、どうしてか」という質問について、もう少し考えましょう。答えは、第2番目、すべてを支配したもう主は、もうすでに救いにあずかるようになった人々が変えられるために、それらの多くの出来事を起こるがままにさせておられるということです。けれども、救われていない者だけではなくて、信じる者も、また、いわゆる運命のなす業を経験するのです。信じる者は、また、同じように失望落胆し、なぜこんなことが起こるのか、どうしても理解することができない場合に遭遇いたします。

どうして主は、信じる者が厳しい試練に会うことを許されるのでしょうか。それは、彼らの教育のためです。彼らの清めのためです。また、彼らが主の似姿に変えられるためです。それを証明するために、聖書から一箇所、見てみましょうか。ローマ人への手紙、皆さん大好きな箇所のひとつです。毎日、読んでもいい箇所でしょうね。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

我々の人生の途中に横たわっているものすべて、また、私たちの人生の中に入り込んでくるものすべては、主によって用いられており、従って、無価値なもの、無目的なものは何一つありません。大切なことは、私たちが新しく創り変えられること、結局、主イエス様に似た者となることです。

私たちの人生の中に、偶然というものは何もありません。すべての背後にイエス様が立っておられ、主が、それぞれの場合に応じて、適切な導きを成してくださいます。すべてが益となる、このことを私たちは、常に、新たに覚えるべきなのではないでしょうか。良きこと、いや最も良きことは、私たちが創り変えられることなのではないでしょうか。創り変えられること、主の御手によって練られることは、楽しくないでしょう。痛みを伴うことでしょう。けれども、必要です。自らが砕かれることなしには、あり得ないことであるからです。人はその時、失望落胆し、力を失い、自暴自棄に陥りがちです。けど、このようなことは、自分の思い通りにならないと、目先のことしか考えない時に起こることなのです。だからこの29節は、本当に大切です。

ローマ
8:29 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子(・・・一番上のお兄さん・・・)となられるためです。

主は、御子の姿に似た者となるように、あらかじめ定めておられるのです。そして、主が目指しておられる目的は、何とすばらしいものでありましょうか。この目的から、常に目を離さないことは非常に大切です。主は、御自分に属しておられる者を限りなく愛してくださいますから、まさにそのために、私たちを懲らしめ、教育なさるのです。主の教育は、私たちが主の聖さにあずかるように、御自身のみもとに引き寄せたく思っておられることです。私たちの主は完全であり、主の導きも、もちろん完全です。

おそらく私たちは、すべてを理解することはできないし、挫折してしまう危険に直面し、また、自分自身を同情してしまうというような場合もあるのではないでしょうか。どうしてこんなことを経験しなくてはならないのでしょうか。どうして次から次へと、こんなことが私に起こるのでしょうか。どうして私は、こんなにたくさんの困難や理解できないことを、経験しなければならないのでしょうか。多くの人々は、こう考えます。

すべての苦しみは、その時はおもしろくない。喜ばしいものではない。かえって、悲しく思われるものであると聖書は言っています。そして、それだけではなく、後になると、後で、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせます。ここで大切なことは、その時は、一時的に悲しく思われることですけど、後になると、それが結果的に幸いになるということです。

次に、私たちは次の事柄を覚えましょう。すなわち、私たちは決して、主のための実験用のモルモットなのではない。主が常に最善のみを考えておられる、最愛の子であるということです。たとえ実際にすべてのことが失敗したとしても、私たちは、主によって愛されているということを知ることができるのです。まさに、主の試練や懲らしめこそ、主の愛の証拠です。私たちは今、そのことを理解することができなくても、しかし、後になるとそのことを、主に感謝し礼拝するでしょう。ダビデの告白は、本当にすばらしい告白です。詩篇の119篇、一番、長い詩篇です。

詩篇
119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

意味は、苦しんだのは良かったということです。

なぜか、あるいは、何のためかという問いについて、今、考えましたね。答えは3つです。第1番目、すべての背後に、主は、人の真(まこと)の救いのために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。2番目、すべての背後に支配したもう主イエス様は、信じる者が変えられるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるということです。

最後に、もう一つの答えは、すべての背後に支配しておられる主は、救われた者が、本当に主に仕える者となるため、主の用いられる器となるために、多くの出来事を起こるがままにさせておかれるのです。多くの信者は、実を結ばない木のようなものであるかもしれない。主は彼らを用いることが、もうできません。その原因は一体、何でしょうか。

彼らは、主無しでも何とかなると、考えているからです。もちろんこれは、知らず知らず、やれると考えているのです。けど、彼らは自分自身の力と、自分の知恵により頼んでいます。確かに、多くの信じる者は、主のために何かをやりたい。主のために一生懸命、何かをやりたいと思い、また、このことや、あのことをしたいのです。主に願ったりするのですけれども、結局、彼らは、このことやあのことを、自分がしたいために、主を利用しようとしてしまっているのです。けれども、実際は、主が信者をお用いになりたいと思っておられます。ご自分の器として、信じる者、一人ひとりを用いたく、思っておられます。

永遠に残る実を結ぶ奉仕は、主のための我々の努力ではない。私たちを通して、主ご自身がなさる御業(みわざ)でなければなりません。これこそ、多くの者が私たちに逆らっているように思われたり、主が私たちを厳しく取り扱わなければならなかったり、私たちが砕かれなければならないことの、原因なのではないでしょうか。

ひとつの例として、ペテロにしましょうか。ペテロとはどういう男であったかといいますと、自信に満ちた男、独立心に満ちた男でした。彼は、自分自身の能力に、自信を持っていました。彼の言っていることを、私たちが読むと、ちょっと笑います。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

私は、『けっこうです、やってもいい』と、許可しました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

すごい言葉ですね。彼は、そう言っただけではなくて、思ったのです。心から思ったのです。けれども、

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう・・・・

何時間か後ですよ。もしイエス様が、半年後と言ったならば・・・けれども、イエス様は、

22:34 ・・・・きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

一回だけでも、ちょっとひどいけれども三回。シモン、シモン。見なさい。悪魔が、あなたがた、弟子たちを麦のようにふるいにかけることを願って、そして、わたしは別に反対しませんでした。聞き届けられました。そして、わたしはそれに、これは本当に大変なことでしょう。厳しいことでしょう。辛いことでしょうけれども、あなたが破産して、本当に自分自身に絶望するためには、どうしても必要なことですよ、と。

ここで注意していただきたいことは、いろいろな人格の順番、あるいは、順序ですね。ここの聖句によると、まず、悪魔、二番目、わたし、すなわち、イエス様、そして、あなた、すなわち、シモン・ペテロ、および、あなたの兄弟たち、こういう順番になっていますね。主は、ペテロを通して、彼の兄弟たちを強めようと計画しました。けど、そのためには、ペテロは砕かれることがどうしても必要でした。そのために、悪魔がペテロを攻撃することになるのですけど、その時にも、主は絶えずペテロのために、祈ってくださいました。したがって、悪魔は自分がしたいことを何でもするということはできません。

私たちは、完全に主の御手の中にいるのであり、それは、永遠の安全を意味しています。ですから、主は、悪魔とペテロの間にお立ちになっておられるのです。ペテロは、本当にすべて失敗してしまいました。彼は、最後の土壇場に立たされたのです。そこにはもはや、一条の希望の光も差し込まないで、すべての望みが消えうせた。全く絶望的な状態が支配しました。けど、この訓練は必要でした。

ペテロはもはや、自分の力により頼むことができなくなりました。そこから初めて、主はペテロをお用いになることができたのです。その良い例が五旬節でしょう。その時、ペテロは大したことはしなかったけれども、旧約聖書からあちこちの聖書の箇所を引用しただけで、けれども、結果はすごかった。ペテロを通して、三千人以上の人々が救われたとあります。一日で三千人以上の人々が導かれた。このことを通して、ペテロは解かった。私はだめ。単なる器ですけれども、この器が用いられなければ、役に立たない存在です。

パウロも同じようなことを経験したのではないでしょうか。パウロもペテロと同じように、深みを通ってきました。すなわち、3日間、暗闇の中に生きたのです。そのことを、後になってパウロは次のように証ししました。

第2コリント
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

私たちは皆、実を結ぶ秘訣を知っています。すなわち、自分自身を否定して、自分に対して死ぬことです。この原則についてイエス様は、言われました。皆、暗記していることばでしょう。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

どこにも、多くの重荷に入っている人、いかなる逃れ道を見出せないで絶望的な状態になっている人がいます。どうして、こんなにたくさんの困難を経験しなければならないの?どうして私は失敗してしまうの?答えは、おそらく、それはまだ、はっきりとした救いの喜び、救いの確信を持たないで、イエス様こそ私のもの、かけがえのないものと言うことができないからなのではないでしょうか。あるいは、もしかすると、それは、あなたの救い主が、あなたを御自分に似た者に作り変えようとしておられるからではないでしょうか。

大切なのは、救われることだけではなくて、主をより知ることによって、清められることです。それから、今までは、主を利用しようとしていたかもしれない。主にああしてくれ、こうしてくれ。けれども、今や、主があなたを、主の御手の中で御自分の器としてお用いになろうとしておられるかもしれない。旧約聖書の中で、次のような箇所があります。

申命記
8:15 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ(る主。)

道をふさぐ岩、すなわち、障害物から、あるいは、理解できない困難や、私たちが甘受しなければならない心痛、あるいは、心の痛み、これらのものから、主は水を湧かせようとしておられるのです。このような経験を通して、私たちは主の御許(みもと)に行くのであり、このような経験を通して、私たちは祝福されうるために祝され、また、いのちをあたえられるのです。生ける水は、川となって、われらよりいずるべしとあります。旧約時代に、主は、御自信の民に向かって、次のように言わなければならなかったのです。エレミヤ2章13節です。『わたしの民は・・・、』未信者ではない、異邦人ではない。

エレミヤ
2:13 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、壊れた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

17:13 イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」

わが民、わが民は二つの罪を犯す。ひとつは、湧き水の泉であるわたしを捨てたこと、第二は、水をためることのできない壊れた水ためを、自分たちのために掘ったとあります。このようにして、主は、悔い改めて、立ち返ることを呼ばわりました。

主イエス様を知らない人は、悔い改めて、主の御許(みもと)に立ち返らなければならない。救われるためです。イエス様を知るようになった人々は、主の内にとどまるため、また、用いられる道具となるために、悔い改めて立ち返らなければならない。イエス様の内にとどまる者だけが、主と結びついているのであり、このいのちの泉の通りよき管となることによって、イエス様は、御自信を現すことがおできになるのです。

今、この時の試練は、まさに、永遠の世界に至るための準備期間のようなものです。主は、何者も御手から、失いません。主は、永久(とこしえ)にすべてを支配なさるお方です。暗闇の夜にも、困難の涙の時も、主の御手は守ってくださいます。失望落胆した心も慰められ、喜ぶことができます。なぜなら、主はとこしえに支配したもう主であられるからです。

そして、主は決して過ちを犯しません。私たちには理解できないことがたくさんあるとしても、主は、私たちにとって、もっとも益となることを考えておられます。初代教会の人々は、それを確信したから言えたのです。

ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

この確信こそが、初代教会の特徴でした。

最後にもう一箇所、読みます。ハバクク書、旧約聖書の一番、最後ですね。非常にすばらしい証しであります。悩んだ者の証しです。

ハバクク
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。もう大変だよ。けれども、それだけではない

3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

ハバククの経験したことは、私たちも経験すべきであり、経験することができるのです。


おわり

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