2011年9月27日火曜日

神の宮である教会

神の宮である教会
2011年9月27日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」

18:17 「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

18:20 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」


第1コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

第1ヨハネ
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

今日の話は、最近、考えて準備したものではなくて、茨城県の那珂湊(なかみなと)で準備したもので、準備しただけで、使いませんでした。結局、ちょうど五十五年前。集会が終わってから、時代遅れだよと思ったら、知らせてください。


今日のテーマは、「神の宮である教会」であります。三つの点に分けて考えましょう。第一番目、集会ひとつひとつの必要欠くべからざる品性。二番目、主の御心に対するいくつかの致命的な妨げ。そして、三番目、各集会の目的と働きであります。

霊なる神の住まいである教会の目的とは、何であるかと言いますと、全世界のどこででも、イエス様の代表、あるいは、イエス様の代理であるべきです。教会とは、イエス様です。本当に絶えず覚えるべき事実ではないでしょうか。教会とは、イエス様ご自身です。イエス様は、父なる神の宮であり、住まいです。けれども、イエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私の内に住んでいる、イエス様です。

教会とは、コロサイ書1章27節によると、「あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである」と、あります。教会である霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、また、イエス様に結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。これが教会です。すなわち、教会とは、百万の教派、グループ、交わりの分かれているキリストではありません。

パウロは、コリントに住んでいる兄弟姉妹たちの間に起こった争いのことを聞いた時、憤激して、次の質問を設けたのです。キリストは、いくつにも分けられたのか。そして、パウロは、この信者たちに何と書いたかと言いますと、

第一コリント(口語訳)
1:10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。

教会である、聖なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、また、イエス様に結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一である。これが教会です。分かれていない統一とは、言い表すことのできない価値であり、勝利と辛抱と成長の秘訣であります。従って、ここから独立している、他の考え、他の声、他の意思は、悪魔が分離させようと努めています。これを考えると、私たちは、各集会がいかに大切であるかが解かります。

各集会の生活上、必要な特徴、必要欠くべからざる品性について、ちょっと、一緒に考えたいと思います。イエス様を各集会において、共同に現すことは、非常に大切です。どこの場所でも、イエス様は、信者たちによって、共同的に現すべきてす。前にも何回も読まれましたマタイ伝18章20節には、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(口語訳)」と、書いてあります。

【参考】マタイ
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

これは、何を意味しているのでしょうか。この二人、または、三人の信者は、イエス様のからだを意味しています。けれども、イエス様がご自分のからだの頭(あたま)、かしらですから、ご自分で参列しなければならないのです。それとも、これを言い換えると、イエス様は、ご自分の満たしを現すために、ご自分のからだである信じる者たちを必要とします。けど、第1コリント12章14節には、『実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている(口語訳)』とあります。

【参考】第1コリント
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

これは全世界の信者たち、全部を意味しています。けれども、27節に、同じパウロが次のように宣べ伝えています。「あなたがたは、すなわち、コリントにある神の教会である兄弟姉妹たちは、キリストのからだである」と、言っています。けれども、それでパウロは、コリントにある兄弟姉妹たちに宣べ伝えています。すなわち、各集会に宣べ伝えているのです。イエス様は、教会なしにご自分を現すことはできません。

もし、あなたが本当に新しく生まれた者であるならば、イエス様は、聖霊によって、あなたの内に住んでおられます。また、あなたは、聖霊の支配のもとに、主を現すことができるのです。イエス様が個人個人の信者によって、ご自分のご栄光を現されます。けれども、ご自分の満たしを現すことができません。信者たち全部が、共同的にイエス様の満たしを現すことができるということを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。

イエス様は、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(口語訳)」と、言われたのです。すなわち、一人がわたしの名によって集ったところには、わたしもそこに居るなどと言わなかったのです。もちろん、イエス様が、聖霊によって、個人個人の信者の内に住んでいることは事実です。けれども、ここでイエス様は意識して、ご自分の最高の御心を現すために、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」とおっしゃいました。

けれども、イエス様が17節に、教会について、すなわち、各集会について話しをして、20節に、この偉大なる約束を言われました。このふたり、または、三人とは、各集会を意味しています。イエス様の、共同的な現しは、非常に大切です。イエス様は、ご自分の満たしと、ご自分のご栄光を、教会全体によって現さなければならない。どこにおいても教会はイエス様の代理であるべきです。そして、集会一つ一つの必要、欠くべからざる品性について考えた。

二番目、イエス様の御心に対するいくつかの致命的な妨げについて考えたいと思います。まず、個人主義について、一言、述べなければならないのではないかと思います。何と多くのクリスチャンたちは、共同的ではなくて、個性的に生活します。これは致命的な妨げです。といいますのは、霊的な満たしや、霊的な成長や、霊的な力と光と霊的な生活が、個人主義によって妨げられます。多くの人は、一個人のために一生懸命、働いて、教会全体を見ないのです。

ところで主の目的は、個人個人の成長と成熟だけばかりではなく、ご自分の教会である、ご自分のからだである教会が御心です。イエス様は十字架に架かった時、(それは)個人個人の救いのためばかりではなく、ご自分の教会のためでした。五旬節の日から、イエス様の再臨までに、救われた何人かの男や女は問題ではなく、主の御心なのは、ご自分のからだである教会です。もし、私たちがこれを認めなければ、自分の霊的な生活と経験を制限することを意味します。

多くの信者は、個人個人の救いのために、力を尽くして働いています。そして、この人、また、あの人が救われたら、彼らは、すぐに他の人を探し、彼らを救おう、すなわち、イエス様の方に導こうと努めています。もちろん、これは、決して、決して、悪いことではありません。けど、もし、これが全部だったら、致命的な妨げを意味します。したがって、多くの兄弟姉妹は、自分の救いの確信を得、神との平和を得てから、前進しなくなっています。

彼らは、始めの簡単な救いの事実だけを、自分のものとし、他の霊的な事実を認めることができません。これは、彼らが結局、無力となったからです。パウロは、このことをコリントの兄弟姉妹に言わなければならなかったのです。

第1コリント
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ヘブル書の著者も、似たことばを書いたのです。

ヘブル
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

パウロの時代でさえも、この致命的な妨げがありました。パウロは、上からの光によって、上からの啓示によって、教会の秘密を知るようになったのです。けれども、この時代の多くの信者たちは、主なる神の最高の御心を知らなかったのです。残念ながら、今日(こんにち)の時代の信者たちも、無力になりましたから、教会の秘密を認めることができません。イエス様を信じる者に、『イエス様の最後の御心は何でしょうかね』と聞くと、非常に困る人々は少ないのではないでしょうか。個人主義は、主の御心に対する致命的な妨げです。

私たちは今から、教会全体を見てみましょう。なぜなら教会全体だけが、イエス様の最高の権威と栄光を現すことができるからです。

次に、主の御心に対する他の致命的な妨げとは、有力な系統、主な教会の組織なのではないでしょうか。私たちは、一度、言いたいのです。教会とは百万の教派、グループ、交わりの分かれているクリスチャンたちではありません。キリストはいくつにも分けられたのか。もちろん、絶対にそうではありません。したがって、今日(こんにち)の有力な教会の系統は、イエス様の御心に対する致命的な妨げを意味します。今日(こんにち)の有力な教会の系統というのは、集り、また、集会所、あるいは、教派や宗派を意味しています。そして、信者たちは、関係ある教会へ行って、説教を聴いて、話を終わった時、すぐ家へ帰ります。

これは、主イエス様との共同的な現しではないでしょう。各集会の兄弟姉妹は、イエス様の代表、あるいは、イエス様の代理であるべきです。私たちは、イエス様のからだであり、そして、からだの使命とは、頭(あたま)、かしらの偉大さと満たしを現すことです。そうしなければ、私たちは霊的に前進しないのです。ただ教会へ行くこと、集会へ出席することとは充分ではありません。イエス様が私たち全体を通して、ご自分を現すことができるかが問題です。

今日、多くの教会の状態は、ひどい、霊的な未成年です。これは、主の御心に対する致命的な妨げとなってしまいました。

もうひとつ、伝道会だけを大切にすることは、御心に対する致命的な妨げであります。伝道会の必要さは、誰でも解かっていると思いますけど、伝道会だけがあれば信者たちは、少しも前進しないのです。ですから、私たちは、初めから、聖書の学び、また、礼拝を始めたのです。

新しく生まれ変わった人は、霊的に成長しなければならない。そうしなければ、イエス様のからだとして、主の満たしを現すことができないのです。伝道することは大切ですけれど、問題なのは、信者たちの共同的な働きと愛情によって、からだの頭(かしら)であるイエス様の満たしを現すことが問題です。私たちの礼拝や学びがあることは、我々の興味ばかりでなく、主の御心です。なぜなら、今、天上にある諸々の支配や権威が教会を通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、我々の主イエス様にあって、実現された神の永遠の目的に沿うものであると、エペソ書に書いてあります。

私たちは、花束と鉢植えの花の区別が解かります。と言いますのは、花束の各々の花は、同じ命を持っています。花束は集った花だけですが、鉢植えの花は、植物と根を持っていますから、成長します。なぜなら、鉢植えの花は、有機体だからです。同じように集った兄弟姉妹たちは、同じいのち、すなわち、永遠のいのちを持っていますけど、もし彼らが、ひとつの教派として組織的に集ると、また、個人的な祝福を得ようと努めている信者たちは、主の御心を満たすことができません。

私たちの場合はどうでしょう。花束に似ているでしょうか。私たちは、信仰によって義とされた人たちであり、神の平和を持っていますけど、霊的な生活は、あまりにも前進しないかもしれない。主の御心は、花束ではなく、鉢植えの花と植物と根、全部が御心なのです。すなわち、個人的に生活しているキリスト者は、また、バラバラになってしまった信者はかわいそう、用いられない。もし、私たちが共同的にイエス様に奉仕したいならば、また、イエス様のからだである地域集会のために祈り、忍び、戦うならば、悪魔の攻撃と恨みに気がつくでしょう。

最後に、イエス様のからだである教会の目的と働きについて、ちょっとだけ最後に考えたいと思うのです。霊なる神の住まい、イエス様のからだである教会の目的と働きとは、いったい何なのでしょうか。

旧約聖書の時代の宮は、新約聖書の時代で、霊的な事実となりました。また、教会全体の霊的な事実は、地域の各集会にもあてはまるべきです。新約聖書を読むと、教会全体と地域集会は、関係していることが解かります。

したがって、パウロは、コリントにある地域教会の信者たちに、「あなたがたは、神の宮である」と書きました。もし、コリントのクリスチャンたちが、「ああ、私たち、コリントの信者は神の宮である。私たちだけが、神の宮である。あなたがた、コロサイの信者たち、また、ピリピに住んでいる信者たちは、神の宮ではない」などと言うと、これはいけないこと、嘘だということが解かるはずです。なぜならば、新しく生まれ変わった人、全部が、神の宮だからです。けど、どうしてパウロは、コリントの人たちに、「あなたがたは、神の宮である」と、書いたのでしょうか。からだ、教会全体の霊的な事実は、各集会にも当てはまりますから、地域集会と集会全体の使命と目的は同じだからです。

聖書を見ると、はっきり解かります。すなわち、主なる神と人間との会合の場所とは、結局、イエス様のからだなる教会です。からだなる教会の目的と働きとは何でしょう。旧約聖書の宮の目的は、いったい何だったのでしょう。

始めに、宮は、主なる神と人間との会合の場所でした。同じように、これは霊なる神の住まいである教会の第一の使命と目的です。私たちの愛する主イエス様は、神と人間との会合の場所、そのものです。イエス様が、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、人の子を誰と言っているか。」その時、シモン・ペテロは答えました。「あなたこそ。生ける神のキリストです。」人々は、人の子と言った。ペテロは神の子と言ったのです。これこそが、ペテロに与えられた啓示でした。イエス様は、神と人間との会合の場所でした。

イエス様は後に、「わたしは神の宮を打ち壊し、3日の後に建てることができる」と、言われました。言うまでもなく、イエス様は、石と木でできた宮を思わないで、ご自分のからだの宮を思われました。イエス様こそ、神と人間との会合の場所です。

さて、新約聖書によると、イエス様を現す動機は教会です。したがって、生き生きとした教会は、イエス様の代理であるべきです。共同的にイエス様を現す教会で、人間は神に会います。このような教会によって、人間は主なる神との尊い交わりを得ます。私たちは、初めてこのような生き生きとした教会を、イギリスのロンドンで、その後でマニラで、最後に香港で経験しました。その時、ただ一つのことを言わざるを得なかったのです。と言いますのは、「主はそこにいます」と、言わざるを得ませんでした。

もし、未信者が我々の集会に参りますと、その人は顔を伏せ、神を拝み、真に神があなたがたの内にいると、認めざるを得ないのではないでしょうか。初代教会はそうでした。

第1コリント
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

また、あなたは、他の兄弟姉妹との交わりによって、主に会いますか。もしそうしたら、この集会は、御心にかなったものです。

多分、アメリカ人だったと思うのですけれども、ゴートン博士という男は、小さい本を書きました。題名は、「主イエスは、いかに私の教会へ来ましたか」という本です。

彼は、ある土曜日に、次の朝のメッセージのために準備しました。途中で居眠りしてしまったのですけど、夢を見ました。彼が自分の教会で説教しました。教会は、とても立派な建物でしたし、そして、この日曜日は教会はいっぱいでした。突然、戸を開けて、知らない人が入ってきました。この人はとても目立った人でしたから、説教者はすぐに気がつきました。空いている席があまりなかったので、よその人がしばらくの間、場所を探したのです。このゴートン博士は、説教のうちに、いつもこの知らない人が目に映りました。博士は、どこを見ても、不思議にこの人の目を見ました。説教の後に、彼は、どなただろうと考えながら、知らない人を追いかけ始めましたが、追いつきませんでした。そして、教会の門番に尋ねて、「あの知らない人をあなたは知っているの。」その人は、ナザレのイエスだった」と聞いた時、博士は大変、びっくりしてしまいました。彼は、この出来事について、よく考えました。

イエス様は、私の教会を訪ねたのです。私は、何について説教したのでしょうか。イエス様は、何を考えたのでしょうか。イエス様は、私の話を聞いた時、本当に喜んだのでしょうか。私は、イエス様がここにいると、確信しながら証したのでしょうか。イエス様は、我々の歌について、何を考えたのでしょうか。イエス様は、本当に喜んだのでしょうか。この集いは、イエス様のために、伝える集いだったのでしょうか。イエス様が、本当に心から喜ぶことができるのでしょうか。ご自分の御心にかなった集りだったのでしょうか・・・などと、博士は考えたのです。

ここまでが、その小さな本の内容です。けど、私たちの言いたいことは、我々の教会に対する考えは、主のからだなる教会に対する考えは、いかがなのでしょうか。ゴートン博士の本の中では、教会とイエス様との区別があったのです。けど、このような教会は、神の教会ではありません。これは人間の作った教派、あるいは、宗派にすぎないのです。主なる神の教会は、主イエス様こそなのです。もし、私たちが神の御心にかなった教会へ行くと、あなたはそこで、主イエス様に会い、『ここに神がいる』と言わざるを得ないでしょう。

もし、私たちが人間的に、良い説教を聴いて、親切な人にだけ会えば、これは神の教会ではない。主なる神の教会は、イエス様であり、そして、イエス様は、諸々の集会の支配者であるべきです。そうしたら、初めて、私たちは、神の声を聞き、未信者は顔を伏せ、神を拝み、『まことに、神があなた方のうちにいます』と認めざるを得ません。ご存知の通り、主イエス様のご臨在によってだけ、人間は、主なる神に会うことができるのです。私たちは、イエス様から離れて、決して、他の人をイエス様の御許に導くことはできません。けど、我々のうちにいるイエス様こそが、人々に会うことができ、主との交わりを与えることができるのです。

もし、イエス様ではなく、私たち自身、自分の力で人を導こうと努力すると、永遠にかかっても、決して、人は主に会いません。もし、私たちが、聖霊の支配のもとに、共同的にイエス様を現すと、人々は我々によって、主なる神に会うことができます。

ちょっと、エゼキエルの宮を見て観察しましょう。宮の建物は、主の御心にしたがって、完全にできた時、水が宮の敷居の下から流れたと書いてあります。そして、この川を流れる所では、すべてのものが生きていると書いてあります。皆さん、同じように、主なる神の教会から生きている水が流れます。

イエス様のからだである教会は、天の器であり、この器から、主のいのちが流れてきます。そして、この川の流れるところでは、すべてのものが生きている、と。ですから、いつの時代でも、悪魔はこの教会を、共同的な働きを  壊そうと努めてきました。教会の不一致は、悪魔の大きな喜びです。今日の百万の教派や宗派は、悪魔の仕事です。血がちょっとだけ止まると、からだ全部が、それをすぐ感じるでしょう。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感じるでしょう。二人の信者だけでも、統一を持っていなかったら、教会全部が前進しません。

旧約聖書に書いてあるアカンという男は、確かに罪を犯した。罪によって、イスラエルの民、全部が前進しなかったと聖書は言っているのです。同じように、新約聖書のアナニヤとサッピラの罪によって、初代教会は妨げられました。

からだの肢体のひとつだけでも病気だったら、からだ全部が病気です。教会、すなわち、信者たちがみな、ひとつになったら初めて、イエス様のいのちが絶え間なく、無尽蔵に流れます。そうしたら、初めて教会は、イエス様の満たしを、現すことができるのです。主の御心の具体化と表現とは、どういうものでしょうか。どうあるべきなのでしょうか。

旧約聖書の時代の宮は、主の御心の具体化と表現、そのものでした。なぜなら、主は、材料や材木の長さ、太さなどをはっきりと命じられました。ですから、各々(おのおの)の石、各々の柱は、主の御心の具体化と表現だったのであります。同じように、教会は主なる神の御心の具体化と表現であるべきです。ペテロ第一の手紙、二章の九節、よく知られた箇所です。

第1ペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

霊なる神の住まいである教会は、主のみわざを、語り伝えなければならないのであります。主の力あるわざを伝えることは、からだなる教会の目的であり、与えられている使命です。旧約時代の宮は、主なる神のみわざを伝えました。私たちも、神のからだなる教会として、主の御心の具体化と表現であるべきです。

我々の場合はどうでしょうか。主の御心の具体化と表現なのでしょうか。あらゆる各集会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。あらゆる地域集会は、主なる神のみわざを伝えなければなりません。けど、言葉によってだけではなく、共同的な生活によって、宣べ伝えなければなりません。

説教やメッセージばかりでなく、開かれた天国、聖霊の支配のもとに現された、からだなる教会の秘密が問題です。けど、そのために生き生きとした教会が必要です。もし、信者が霊的に疲れていて興味もなく、半死半生なものとして集会へ行くと、主は制限されます。主は備えられた祝福を与えることができません。私たちは、御霊によって集会に出席しましょう。そうしたら初めて私たちは、主の御心の具体化と表現があるのです。

私たちは、この時代に対する主の御心を解かったでしょうか。そうしなければ、我々の祈りは、結果のない祈りです。からだなる教会の使命と目的は、主の御心の具体化と表現であるべきです。

最後に、主の支配と権威について考えて終わります。旧約時代の宮は、主なる神の支配の場所でした。もし、イスラエルの民に何か起こった場合、そのための裁判をする場所は宮でした。同じように、新約の時代も裁判する場所は教会です。

第1ペテロ
4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

マタイ
18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

17節に、教会に申しなさいとあります。なぜなら、教会は、裁きの場所であるから、教会は、神の支配と権威の場所だからです。共同的にイエス様を現している教会は、神の目の前にとっても価値あるものだということを絶えず覚えるべきです。ですから、私たちはこの地方で、主なる神の代表であるように、いのちのため、光のため、力のために、これは絶対、必要なのです。

私たちは、主なる神の御心にかなった、からだなる教会に属しなければいけません。私たちは、主なる神のからだなる教会の真ん中に置かれなければなりません。私たち、皆このような教会は必要です。主のからだなる教会は、人間が組織的に作ったものではなく、御霊から創られた霊なる神の住まいです。このようなものは、主にとって考えられないほど大切です。

イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と言われたから、本当に感謝でいっぱいです。もし、私たちが神の御心の具体化と表現の使命を満たしたいと思うと、私たちは、主の心にかなった教会であるべきです。このことについて、真剣に考えましょう。もちろん、結論から言えます。祈りによって、ただ祈りによってだけ、私たちは、主なる神の代表、主の代理となることができます。主の永遠からの定められた目的が、実際になることができ、現実になることができるのです。


おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿