2011年2月22日火曜日

みからだなる教会(二)

みからだなる教会(二)
2011年2月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

マタイ
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。


18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

第一ヨハネ
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

最近、よく、212番の歌を歌われます。もっとも大切な歌のひとつなのではないかと思いますね。『ひとつの群れ、主のみからだ。』主のみからだとは、結局、すべての兄弟、姉妹を意味するのです。

いつも言いますけど、私の悩みのひとつの種は、イエス様にとって、からだなる教会、信者一人ひとりが、いかに大切なのかと。大切にしない人もいます。イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる」と、約束してくださいました。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信じる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように、昼、夜、攻撃します。今、読んでもらいました、コリント第一の手紙、12章27節は、本当に、大切な箇所ではないかなと思います。『あなたがたはキリストのからだであって・・・、』なるべきではないよ。なってしまった。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

こう、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。コリント第一の手紙を読むと解かります。模範的な集会ではなかった。めちゃくちゃな集会でしたよ。あの手紙を読むと、もちろん、もう恥ずかしくなる。けども、それにしても、あなたがたは、キリストのからだであって、一人ひとりは各器官である。なるべきなのではない。結局、上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を、心の目で見ることができれば、本当に幸いだと思います。それによって、多くの疑問ですか・・・疑いが飛んでしまいます。

五十五年前には、まだ、東京に居なかったんですね。茨城県の那珂湊(なかみなと)に住んでいた時、私は、今日のメッセージを準備したんです。けど、使わなかった。今日まで。五十年前に準備したけど、使わなかったのは、ちょっと不思議ではないかな・・・と思います。ですから、最近のものではない。

その時、ずっと、聖なる神の宮である教会について、準備しました。霊なる神の住まいである、イエス様のからだなる教会の目的は、全世界のどこでも、イエス様の代表、あるいは、イエス様の代理であるべきです。教会とは、イエス様であるということです。教会とは、イエス様ご自身です。イエス様は、聖霊の宮であり、主なる神の住まいです。けど、イエス様だけではなく、あなたの内に住んでいる、私に住んでいるイエス様です。教会とは、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みであると、コロサイ書1章27節に、書きしるされています。

【参考】コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

教会である霊なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、また、イエス様と結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。これが教会です。教会とは、百万の教派、グループ、交わりの分かれているキリストではないのです。

パウロは、コリントに住んでいる兄弟姉妹のあいだで起こった争いのことを聞いた時、憤激して、次の質問を設けた、「キリストはいくつにも分けられたのか?」そして、パウロは、この信者たちに、書いたのです。

第一コリント(口語訳)
1:10 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。

教会である聖なる神の住まいとは、イエス様ご自身であり、また、イエス様と結びついている兄弟姉妹の分かれていない統一です。これが、からだなる教会です。分かれていない統一とは、言い表すことのできない価値であり、勝利と信仰の秘密です。したがって、ここから独立している他の考え、他の声、他の意思によって、悪魔は分離させようと努めています。これを考えると、私たちは、からだなる教会がいかに大切であるかが解かります。どこの場所でも、イエス様は、信者たちによって、共同的に表すべきです。よく知られているマタイ伝18章20節に、次のように書かれています。

マタイ(口語訳)
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである

これは、何を意味しているのでしょうか?このふたり、または、三人の信者は、イエス様のからだを意味しています。けど、イエス様が、ご自分のからだの頭(あたま)、かしらですから、ご自分と参列しなければならないのです。それとも、これを言い換えると、イエス様は、ご自分の満たしを現すために、ご自分のからだなる教会である兄弟姉妹を必要とします。

コリント第一の手紙、十二章十四節のように、実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものから、できていると書いてあります。これは、全世界の信者たち、全部を意味しています。けど、27節に、同じパウロは、次のように述べ伝えています。『あなたがたは、』すなわち、コリントにいる神の教会である兄弟姉妹は、『キリストのからだである』と、言っています。

【参考】第一コリント
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

しかし、ここでパウロは、コリントにある兄弟姉妹に述べ伝えています。すなわち、からだなる教会に、述べ伝えているのです。イエス様は、からだなる教会なしに、ご自分を現すことができません。

もし、私たちが、本当に新しく生まれた者であるならば、イエス様は、聖霊によって、私たちの内に住んでおられます。また、私たちは、聖霊の支配のもとに、主を現すことができるのです。イエス様が、個人個人の信者によって、ご自分の栄光を現されます。けど、ご自分の満たしを現すことができないのです。信じる者、全部が、共同的にイエス様の満たしを現すことができるということを、本当に、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。

イエス様は、『ふたり、または、三人が、わたしの名によって集まるところには、わたしも、その中にいるのである』と約束しておられます。イエス様は、ひとりがわたしの名によって集まっているところには、わたしもそこにいるなどと、別に言わなかったのです。もちろん、イエス様が、聖霊によって、個人個人の信者の内に住んでいることは事実ですけど、ここで、イエス様は、意識して、ご自分の最高の御心を現すために、『ふたり、また、三人が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのである』と、言われました。

イエス様が、教会について、すなわち、からだなる教会について話された時、『イエス様の共同的な現しは、非常に大切である』と。イエス様は、ご自分の満たしと栄光を教会全体によって、現されなければいけません。

主の御心に対する二、三の致命的な妨げについて、ちょっと、考えたいと思います。

ひとつは、個人主義について、一言(いちごん)、述べなければならない。何と多くのクリスチャンたちは、共同的ではなく、個別的、個性的な生活をするでしょう。これは、致命的な妨げです。と言いますのは、個性は、霊的な満たしや、霊的な成長や、霊的な光と力と、霊的な生活が、個人主義によって、妨げられるからです。多くの人は、個人のために、一生懸命、働いてからだなる教会全体を見ないのです。ところが、主のご目的は、個人個人の改心、成長と成熟だけばかりでなく、ご自分のからだなる教会が御心なんです。

イエス様は、十字架に架かった時、個人個人の救いのためばかりでなく、ご自分のからだなる教会のためでした。五旬節の日から、イエス様の再臨までに、救われた何人かの男や女ばかりが、問題なのではなく、主の御心なのは、ご自分のからだである教会です。もし、私たちが、これを認めなければ、自分の霊的な生活と経験を、自ら制限することを意味します。

多くの信者は、個人個人の救いのために、力を尽くして、働いています。そして、この人、または、あの人が救われたら、彼らは、すぐに他の人を探し、彼らを救おう、すなわち、イエス様の方へ導こうと、努めています。もちろん、これは決して悪いことではない、大切ですけど、もし、これが全部であったら、致命的な妨げを意味しています。したがって、多くのクリスチャンは、自分の救いの確信を得、主なる神との平和を得ると、前進しなくなってしまいます。彼らは、初めの簡単な救いの事実だけを、自分のものとし、他の霊的な事実を認めることができません。彼らは、無力になったからです。

パウロは、このことをコリントの信者たちに、言わなければなりませんでした。

第一コリント
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

ヘブル書の著者は、多分、パウロだったでしょうけども、同じような言葉が出てきます。

ヘブル
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

パウロの時代でさえも、この致命的な妨げがあったんです。パウロは、啓示によって、上からの光に照らされて、からだなる教会の秘密を知るようになりました。けど、この時代の多くの信者は、主なる神の最高の御心を知らなかったのです。残念ながら、今日の時代の信者たちは、無力になりましたから、教会の秘密を認めることができません。個人主義は、主の御心に対する致命的な妨げです。私たちは、今から、からだなる教会全体を見るべきです。なぜなら、教会全体だけが、主の最高の権威と栄光を現すことができるからです。

主の御心に対する他の致命的な妨げとは、有力な系統、おもに、教会の組織なのです。教会とは、今、話したように、百万の教派、交わりの分かれているキリストではありません。『イエス様は、いくつにも分けられたのか』とパウロは書いたのです。いえ、絶対にそうではない。したがって、今日(こんにち)の有力な教会の系統は、主なる神の御心に対する致命的な妨げを意味しているのです。今日の有力な教会の系統というのは、集まり、また、集会所、あるいは、教派や宗派を意味しています。そして、信者たちは、関係がある教会へ行って説教を聴き、話が終わった時、すぐに、家や仕事の方へ、急いで帰ります。けれども、これは、イエス様との共同的な現しではないのです。

私たちは、イエス様の代表、あるいは、イエス様の代理であるべきです。教派や宗派と、主イエス様のからだという区別は、言い表すことのできないほど、大きいのです。私たちは、イエス様のからだであり、そして、からだの使命とは、頭(あたま)の偉大さ、かしらなるイエス様の満たしを現すことなのです。そうしなければ、私たちは、霊的に前進しません。ただ教会に行き、集会に出席することは、充分ではないんです。イエス様が、私たち全体を通して、ご自分を現すことができるかが問題です。

今日の教会の状態は、ひどい霊的な未成年です。これは、主の御心に対する致命的な妨げとなっているのではないでしょうか。

あるいは、伝道会だけを大切にすることは、主の御心に対する、やはり、致命的な妨げなのではないでしょうか。伝道会の必要性は、誰でも解かっている。けど、伝道会だけがあっても、信者たちは、少しも前進しないのです。ですから私たちは、初めから、聖書の学びですか、また、礼拝を始めたのです。新しく生まれ変わった人は、霊的に成長しなければなりません。そうしなければ、イエス様のからだとして、主の満たしを現すことができないのです。伝道会は、大切ですけれども、問題なのは、信者たちの共同的な働きと愛情によって、からだの頭なるイエス様の満たしを現すことが問題です。私たちの礼拝や聖書の学び会とは、私たちの興味があるばかりでなく、主の御心です。なぜなら、エペソ書3章10節~11節まで、次のように書かれています。教会の使命についてでしょうね。

エペソ
3:10 これは、今(・・・明日や明後日ではなく・・・)、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

教会を通して、かしらなるイエス様は、兄弟姉妹を通して、働こうと望んでおられます。

私たちは、花束と鉢植えの花の区別が解かります。と言いますのは、花束の各々(おのおの)の花は、同じいのちを持っています。花束は、集まった花だけですが、鉢植えの花は、植物と根を持っていますから、成長します。なぜなら、鉢植えの花は、有機体であるからです。同じように、集まったクリスチャンたちは、同じいのち、すなわち、永遠のいのちを持っていますけど、もし、彼らが、ひとつの教派として、組織的に集まると、また、個人的な祝福を得ようと努めている信者は、主なる神の御心を満たすことができません。私たちの場合はどうでしょうか。

花束に似ているのではないでしょうか。私たちは、信仰によって、義とされた人たちであり、主なる神との平和を持っていますけど、霊的な生活は、あまりにも、前進しないのではないでしょうか。主の御心は、花束ではなく、鉢植えの花と植物と根、全部が御心なんです。すなわち、個人的に生活しているキリスト者、また、ばらばらになってしまった信者は、悪魔の仕事です。もし、私たちが共同的に、イエス様に奉仕したいならば、また、イエス様のからだなる教会のために祈り、忍び、戦うならば、確かに、悪魔の攻撃と恨みに気がつくでしょう。

イエス様のからだなる教会の目的と働きとは、いったい、どういうものなのでしょうか。霊なる神の住まい、主イエス様のからだなる教会の目的と働きは、何でしょうか。

旧約聖書の時代の宮は、新約聖書の時代で、霊的な事実となりました。また、からだなる教会全体の霊的な事実は、各集会にもあてはまるべきです。新約聖書を読むと、教会全体と各集会は、関係していることがわかります。したがって、パウロは、コリントにある地域集会の信者たちに、「あなたがたは、神の宮である」と書いたのです。からだなる教会と、イエス様の区別があってはいけません。主なる神の教会は、イエス様ご自身です。もし、主の御心にかなった教会に行くと、そこで、イエス様に会い、ここに神がいると言わざるをえないのです。

もし、私たちが、人間的に良い説教を聴き、親切な人だけに会えば、これは、神のからだなる教会ではない。主なる神のからだなる教会は、イエス様であり、そして、イエス様は、諸々(もろもろ)の集会のかしらです。支配者です。そうしたら初めて、イエス様は、支配することができる時、初めて、私たちは、主の声を聴き、未信者は顔を伏せ、主を拝み、まことに、主ご自身が、あなたがたの内にいますと認めざるを得なくなるのですと、みことばに書かれています。

ご存知の通りに、イエス様のご臨在によってだけ、人間は、主なる神に会うことができるのです。私たちは、イエス様から離れて、決して、他の人を主イエス様の御許に導くことができません。けど、私たちの内にいますイエス様こそが、人たちに会うことができ、主との交わりを与えることができます。もし、イエス様ではなく、私たちが自分の力で、人を導こうと努力すると、私たちは、永遠にかかっても、決して、人は主に会いません。もし、私たちが聖霊の支配のもとに、共同的にイエス様を現すと、人々は、私たちによって、主ご自身に会うことができるのです。

ちょっと、エゼキエルの宮を見て、観察したいと思います。宮の建物が、主なる神の御心に従って、完全にできた時、水が、宮の敷居の下から流れたとあります。そして、この川の流れるところでは、すべてのものが生きていると書いてあります。

同じように、主なる神のからだなる教会は、生きている水が流れます。イエス様のからだなる教会は、天の器(うつわ)であり、この器から主のいのちが流れてきます。そして、この川の流れるところでは、すべてのものが、生きていると。ですから、いつの時代でも、悪魔は、この教会の共同的な働きを壊そうと努めていました。主なる教会の不一致は、悪魔の大きな喜びです。今日の百万の教派や宗派は、悪魔の仕事です。

血が、ちょっとだけ止まるとからだ全部が、それをすぐ感じるでしょう。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部が、それを感じるでしょう。二人の信者だけでも、統一を持っていなかったら、教会全部が前進しません。旧約聖書の中で、アカンという男について、書いてあります。この一人の男であるアカンの罪によって、イスラエルの民全部が、前進しなくなってしまいました。新約聖書の中で、アナニヤとサッピラについて、同じことだったのです。この二人の罪によって、初代教会は、妨げられました。からだの肢体のひとつだけでも病気だったら、からだ全部が病気なんです。からだなる教会、すなわち、信者たちが皆、ひとつになったら、初めて、イエス様のいのちが、絶え間なく、無尽蔵に流れます。そうしたら、初めて、教会は、イエス様の満たしを現すことができるのです。

主の御心の具体化と表現について、ちょっと、考えたいと思います。旧約聖書の時代の宮は、主の御心の具体化と表現でした。なぜなら、神は、材料や材木の長さ、太さなどを、はっきりと命じられました。ですから、各々の石、各々の柱は、主の御心の具体化と表現だったのです。同じように、からだなる教会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。

第一ペテロ(口語訳)
2:9 ・・・暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

霊なる神の住まいである教会は、主の御業(みわざ)を、語り伝えなければならないのです。主の力ある業(わざ)を伝えることは、からだなる教会の目的であり、また、使命です。旧約時代の宮は、主の御業を伝えました。私たちも、からだなる教会として、主の御心の具体化と表現であるべきです。

私たちの場合はどうでしょうか。私たちは、主の御心の具体化と表現なのでしょうか?あらゆる集会は、主の御心の具体化と表現であるべきです。あらゆる集会は、主の御業を伝えなければならないのです。けれども、言葉によってだけではなく、共同的な生活によって、述べ伝えなければならないのであります。

メッセージばかりでなく、開かれた天国、聖霊の支配のもとにある、現された教会の秘密が問題なのです。けれども、そのために、生き生きとした教会が必要です。もし、信者が霊的に疲れていて、興味もなく、半死半生の者として、集会に行くと、主は制限されます。主は、備えられた祝福を与えることができません。私たちは、御霊によって、集会に出席しましょう。そしたら、初めて、私たちは、主の御心の具体化と表現があるのです。私たちは、この時代に対する、主の御心を解かったのでしょうか。そうしなければ、私たちの祈りは、結果のない祈りです。私たちの使命と目的は、主の御心の具体化と表現であるべきです。

結局、主の支配こそが大切です。旧約時代の宮は、主の支配の場所でした。もし、イスラエルの民に、何か起こった場合、そのための裁判する場所は、宮でした。同じように新約時代の裁判する場所は教会です。ペテロ第一の手紙4章17節に、「さばきが神の家から始まる時が来た」とあります。

【参考】第一ペテロ
4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

よく知られている箇所をもう一回、読みます。

マタイ
18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

『教会に申し出なさい』とあります。なぜなら、教会は裁判する場所であるから。教会は、主の支配と権威の場所ですから、共同的に、主を現している教会は、主の目の前に、とても、価値あるものだということを知るべきです。だから、私たちは、この世で、主の代表となるように、いのちのため、光のため、力のために、これは絶対に必要であるからです。私たちは、主の御心にかなった教会に属しなければいけない。私たちは、主が教会の真ん中におられなければいけません。私たちの後ろでこのような教会はどうしても必要です。この教会は、人間が組織的に作ったものではなく、御霊から創られた霊なる神の住まいです。

この両方は、言い表すことのできないほど、大きな違いなのです。もし、私たちが主の御心の具体化と表現の使命を満たしたいと思うなら、私たちは、主の心にかなった教会であるべきです。このことについて、真剣に考えるべきなのではないでしょうか。

祈りによって、ただ、祈りによってだけ、私たちは、主の代表、主の代理となることができます。主の永遠からの定められた目的が、実際になることができ、現実になることができるのです。

おわり

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