2011年2月1日火曜日

比類なき救い(2011年、吉祥寺学び会)

比類なき救い
2011年2月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック


使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

手があるからありがたいね。手がなければ立てない。普通の人にはちょっと、考えられないけど、本当なんです。

「比類なき救い」という題名について、少し、いっしょに考えてみたいと思います。

一人の銀行の主人と、商人が、その商人の事務所で向かい合って座っていました。この商人は、体を前に乗り出して、非常に熱心に、まじめに、話しをしましたけど、その話の間に銀行の主人が、突然、さえぎりました。「ばからしい!」と言って、傲慢な銀行の主人は、むっとして腹を立てました。「どうしてばからしいの?」と、商人が尋ねました。「どうしてだって、あなたは私のように、何事もよく、考えている者に、どうしてなんだと尋ねるの。何とばからしいことだ」と言って、銀行の主人は、皮肉に笑いました。「そうなんです。私はあなたに、なぜですかと尋ねているのです」と、商人はそれに答えました。


銀行の主人は、腹立たしそうに見えました。そして、彼の声は、抑え付けた怒りにふるえていました。「あなたは、本当に、イエス・キリストの十字架、また、イエス様の死が、私の代わりになされて、それを、神様が満足されるということを、私に教えようとでもいうの?その理論は、止めてくれ。もし、私を救いたいなら、私自身の努力で、それは起こるはずだよ」と、銀行の主人は、腹立たしげに言いました。「はい、私はよく解かりました。私はあなたの悩みがどこにあるか、今、解かった。あなたは、自分自身の道を歩く権利を持っていると考えているでしょう。ですから、あなたは、神の救いの御計画を退け、軽蔑しているのです」と、商人は答えました。

「それは、どういう意味なの?」と、銀行の主人は、いぶかって、尋ねました。すると、商人は、「どうぞ、聞いてください。今、誰かが、あなたのところにやって来て、『私は今、たいへん困っています。どうぞ、少し、お金を貸していただけませんか』と言った場合を、想像してください。このような場合に、お金を貸せるための条件を作り、それを指図するのは誰でしょうか?銀行の主人で、金持ちであるあなたですか。それとも、困っている人ですか?どちらなのでしょうか。」

「それは、もちろん私だよ。その男は、金を受け取る前に私の条件を承認しなければならないでしょう」と、銀行の主人は答えました。「その通りです。けど、あなたは今、同じ状態にあるのです。あなたは、哀れな、救いがたい罪人であり、滅びゆく者なのです。けど、主なる神は、大金持ちの銀行家なのです。あなたは、主なる神のところへ行って、恵みと赦しをお願いするのです。このような場合に、あなたが主なる神の救いを得るための条件や指図を定める権利を持っているのは、誰でしょうか。あなたが、哀れな男であり、主なる神が、銀行家であるということを考えてごらんなさい」と、商人が言いました。

「私は、そのことを以前、考えたことがありませんでした」と、銀行の主人は答えました。彼の声には、驚きがありました。そして、「もちろん、私はその場合、指図する権利を持っていません。権利を持っているのは、主なる神だけです」と、言いました。「あなたは、あなた自身の救いの道を作っていたのです。あなたは、口では命令することはできず、ただ受け取るだけだということを忘れていたのです。大きな銀行の主人である主なる神は、あなたに、主の計画による救いを、いつも、提供しておられるのです。あなたは、自分の道を行くことを止めて、主なる神の道を行こうと思いませんか。主なる神は、ご自分の道で、あなたに会う。その用意を、あなたはもうしていますか。」

「はい、主なる神は、私を助けてくださいます」と、この新しい光が、彼を照らした時、この銀行の主人は、小さな声で答えました。

主なる神の御計画とは、いったい、どういうものなのでしょうか。もし、私たちが、主なる神の救いの計画を考えますと、ただちに、次の箇所を思うでしょう。

イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

ルカ
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

また、使徒行伝16章、有名な箇所です。

使徒行伝
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

また、パウロの告白も、すばらしいものです。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

聖書の中で、「救われる」という言葉ほど、人々の考えを、まちまちにしている言葉は、他に、聖書にはありません。いったい、どこに救いの本質があるのでしょうか。ある者は、これだと言い、他の者は、あれだと言います。けど、主なる神は、どう言っているのでしょうか。

箴言
14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

『終わり良ければ、すべて良し』と言われますけど、もし、そうでなければ、悲劇そのものです。初代教会においても、このような悪い道が、教えられていたことがありました。そのことについて、次のように書かれています。

使徒行伝
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

この教えは、パウロに反対するものでした。パウロは、救われるためには、割礼を受けることは、必要でないばかりでなく、おきてを守ることも必要でないことを、証明しています。今日(こんにち)でも、主なる神の救いについての誤った考えを持っている人が、もちろん、いっぱいいます。私たちは、まず、この誤った見解に、ちょっと、目を向けてみたいと思います。

第1番目、宗教。多くの人は、自分の宗教が、自分たちを救うと考えています。私たちは、どういう考えでしょうか。私たちは、宗教に頼っているのでしょうか。次のことを、はっきりと言いたいものです。新教にしろ、旧教にしろ、ユダヤ教にしろ、また、マホメット教にしろ、神道にしろ、仏教にしろ、どんな宗教も人間の魂を救うことができないということを、言いたいのです。救いは、イエス様の内にのみあるのです。

マタイ
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

また、前に読みました使徒行伝4章12節ですね。

使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

あなたが救われるのであるならば、それは、あなたは、イエス様によって救われなければならないのです。そこには、他の道がありません。イエス様は、あなた一人の救い主です。宗教は、いのちを与えることはできません。救われるためには、新しいいのちを、得なければならないのです。イエス様は、次のように言われました。ヨハネ伝、三章三節、『あなたは、新しく生まれなければならない』と、言ったのです。

【参考】ヨハネ
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

聖書から、二、三の例を、ながめてみましょうか。このヨハネ伝3章の中で、ニコデモという男が出てきます。彼は、信心深い人でしたけど、彼は、救われていなかったのです。ですから、イエス様は、彼に、「あなたは、新しく生まれなければならない」と、はっきり言われました。今日、読まなくてもいいと思うんですけど、ルカ伝、7章36節から50節までにあるパリサイ人は、信心深い人でしたけど、救われていなかったのです。

【参考】ルカ
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

コルネリオは、たいへん信心深く、主なる神を恐れ、施しをし、祈り、断食もしました。また、彼は、人々に、好感を持たれていました。けど、このコルネリオもまた、救われなければならなかったのです。

パウロは、多分、当時、もっとも信心深い人間だったでしょう。彼は、子供の時から信心深く、育てられました。彼は、『自分は、主なる神に熱中している』と、言うことができたのです。彼は、割礼を受け、律法をおろそかにせず、守りました。それにもかかわらず、主なる神の目から見れば、彼は、単なる罪人だったのです。彼は、罪人であることを知らない、失われた人でした。彼も、また、救われなければならなかったのです。なぜなら、彼は、神の義を、自分のものとしていなかったからです。パウロは、本当に信心深い人でした。実際、彼は、信心深い罪人でした。彼は、自分自身を罪人のかしらと、イエス様を知るようになったから、本当に、変わりました。彼は、次のように証ししました。

ピリピ
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

このような箇所を見ると分かります。宗教は、パウロも、コルネリオも、ニコデモも、救うことができなかった。

宗教は、どうして私たちを救うことができましょうか。できません。そのことをよく考えるべきです。救われるために、また、宗教的な生活に頼っていこうというのですか?それは、悪い、望みのない希望にしがみついているというものにすぎない。もし、宗教が救うことができるとしたら、それでは、なぜ、イエス様は死んだのでしょうか。もし、私たちが宗教によって、救われることができるのなら、十字架は必要ではなかったでしょう。ただ一人の救い主があるだけです。それは宗教ではなくて、イエス様ご自身です。

二番目の誤った見解は、道徳です。

多くの人は、良い生活を送っているならば、救われているものと信じています。その人たちは、救われるために、自分たちの道徳に頼っています。もし、道徳的で、誠実な生活が、私たちを救うことができるのであるなら、どうしてイエス様は、死なれたのでしょうか?もし、私たちが、自分自身で救うことができるなら、私たちは、イエス様を必要としない。もし、私たちが自分自身の努力で、天国に入ることができるとしたら、私たちは、天国で次のように言うことができるでしょう。『私を見なさいよ。私は、自分のすばらしい生活によって、ここに来たのだよ。私は、非常に良い、非常に道徳的な、また、真実だったので、神は、私をここに入れてくださったのだ。私は、救い主を必要としませんでした。私は、イエス・キリストなしで、それを成したのだ。私は、自分で自分を救ったのです』と、言うでしょう。

もちろん、そうではないです。絶対にそうではありません。先ほどのように言うことのできる人は、誰もいないでしょう。なぜなら、主なる神が満足するような良い生活を送れる人は、誰もいないからです。

イザヤ
64:6 私たちはみな(・・・大部分ではない、みな・・・)、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

ローマ
3:10 義人はいない。ひとりもいない。

すべての人は、罪人であると書いてあります。ですから、すべての人が救い主を必要とします。もし、私たちが、正しく、己(おのれ)の義を持っているなら、イエス様は、そのような場合には、決して、私たちのために、この世に来なかったでしょう。

ルカ
5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。

こう、イエス様は言われました。

マタイ
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」

私たちは、完全でしょうか?正しいでしょうか?もし、そうであるならば、私たちは、イエス様を必要としません。ルカ伝18章から、よく知られている箇所ですけど、もう一回、読みます。

ルカ
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ(・・・神様ではなく、神よ・・・)。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『(・・神よ!ではなくて・・・)神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人は、「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」私は正しいのです!と。けど、取税人は目を伏せ、胸を打って言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」イエス様は、取税人を義とされ、パリサイ人を裁かれたのです。私たちは、自分が正しくないということを知っているでしょう。友だちが、自分の考えを知るのを欲していないかもしれない。私たちは、聖なる神のご臨在の内に立つことができると思うのでしょうか。

私たちは、自分の部屋に、ほこりがないと言うかもしれないけど、一度、太陽を入れてごらんなさい。そして、この光線を見ましょう。ほこりがありませんか?いや、いたるところ、たくさんのほこりがあります。私たちは、自分が正しいと言われるかもしれないけど、もし、主なる神の栄光の光が、自分の心に入ったなら、どうでしょう?そこには、滅亡、不純と汚いしみがあります。一言で言って、罪があるのです。

ペテロは、「主よ。私は罪人です」と、叫んだのです。イザヤは、「わざわいなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だから。」ヨブは、「私は、不純です」と、叫んだのです。この男たちは、その各々の時代において、もっとも善良な、道徳的な、そして、正直な人々でした。けど、彼らは、主を見た時、自分自身をも、見たのです。私たちの場合も、同じことです。自分の生活は、パウロや、ニコデモや、コルネリオの生活と同じように、正しいでしょうか。自分の生活が、正しくないことを、もちろん、私たちは、みな知っています。彼らの道徳が、彼らを救われなかったと同じように、私たちは、道徳によっては、救われないのです。新しく生まれなければならない。

私たちは、自分が正しくないということを知っているでしょう。もし、私たちが、自分を他の人と比べるならば、自分は、たぶん、大丈夫かもしれないけど、もし、自分が、主なる神の戒めで、自分を計るならば、自分は、何と足らないことでしょうか。

主なる神は、完全な義を求めておられます。そして、この完全な義を持っている者は、ただ一人です。そのただ一人の人とは、イエス様です。もし、私たちが、イエス様の義を身につけるならば、自分は、主なる神に受け入れられます。もし、そうでなければ、自分は、永遠に滅び去るにちがいない。自分の義は役に立たないものです。自分の義は、決して充分ではありません。私たちは、最善を尽くすことはできますが、けど、自分の最善は絶対に、主なる神を満足させないのです。ただ、イエス様の正義のみが、自分を救うことができるのです。放蕩息子と同じような、汚い着物を脱ぎ捨て、主の赦しを請わなければなりません。心から言うべきです。すなわち、「私は罪人であり、その他のなにものでもない。イエス様は、私のすべてです」と。

イギリスの昔の話ですけど、ビクトリア女王は、かつて、はっきりとしたしるしがあれば、すべての逃亡兵を赦しました。彼らは自分自身で、逃亡兵であることを認めなければならなかったのです。すなわち、彼らは自分の罪を認めなければならなかったのです。同じように、私たちは、赦してもらいたいならば、自分の罪を、認めなければなりません。

3番目の誤った見解は、働きです。

多くの人は、働きや良い行いによって、救われると信じています。それらの人々は、悔い改めと節制の働きをやり、施しをしたり、いけにえを捧げたり、祈ったりします。また、彼らは、病人や囚人を訪ねます。そして、非常に長くかかる巡礼を企てたり、自分の身をむち打ったりします。この人たちは、そうすることによって、天国へ入るものと信じています。

イエス様といっしょに十字架につけられた強盗は、救われるために、何をやったでしょうかね。その強盗は、良い働きをすることができませんでした。なぜなら、彼の両手は、十字架に釘付けになっていたからです。彼は、何ひとつ、やらなかったのですけど、それにもかかわらず、イエス様は、彼を救いました。人間の救いの計画は、「する」という言葉を強調しますけど、主なる神は、「する」ではなくて、「した」と言われます。人間は、どうしても、何かをやりたいのであり、何かを支払いたいのです。人間は救いを、働いて自分のものにしたいのです。けど、主なる神は、「終わった」と、おっしゃっています。

もう、そこには何かやるものは、少しも残っていません。イエス様は、すべてをなされたのですから。まことの救いは、贈り物です。プレゼントのようなものです。

ローマ
6:23 神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

贈り物を働いて取るためには、何か、できますか?贈り物に支払うなら、それは、贈り物ではありません。贈り物のために働くなら、それを受け取る権利を持っていますから、それは、同じく贈り物ではありません。贈り物は、完全に無料(ただ)なんです。それと、ちょうど同じように、救いについても言えます。

いったい、放蕩息子は、何を支払ったのでしょうか?あなたが、放蕩息子がいくら支払ったか、私に言うことができれば、私もあなたにいくら支払わなければならないかと言いましょう。放蕩息子は、なんにも支払わなかったんです。なぜなら、放蕩息子は何も持っていなかったから。彼は破産したのです。それと、同じことが、私たちに言えます。救いを自分は、お金なしに、値段なしに受け取ることができるのです。救いを買うことはできません。主なる神のみことばを聞きましょう。それは、何とはっきりとしたことでしょう。また、何と意味深いことでしょう。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です(・・・プレゼントです・・・)。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

行いによるのではない。それは、何とはっきりしていることでしょう。いかなる行いも手柄も、私たちのできること、みんなも、少しも、それらは勘定に入れることはできないのです。イエス様だけが救うのです。もし、私たちがイエス様のところに行くならば、そして、自分をイエス様が十字架の上で完成された働きに任せるならば、そして、また、自分がその瞬間にイエス様に頼るならば、もちろん、救われます。

もうひとつの誤った見解は、4番目になりますけれど、戒めです。

多くの人は、聖書の中の神の戒めを守っているならば、救われると信じています。けど、イエス様は、「汝(なんじ)らのうちで、おきてを守っている者は、一人もいない」と、言われました。私たちも、また、戒めを守らなかったので、それどころか、それ以上なのです。私たちは、自分が戒めを守っていないということを、もちろん、知っています。私たちは、時々、自分の生活において、戒めのひとつを破っていました。そして、ヤコブは次のように書いたのです。

ヤコブ
2:10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

一つの点、一つの罪、一つの破れた戒めがあれば、すべての掟(おきて)を犯したことになると、聖書は言っています。もし、そうだったら、自分は、判決を下され、滅ぼされるのです。人間はみな、例外なく、わがままで、過ちを犯す者です。なぜなら、主なる神の律法を犯したのですから。

私たちは、罪があるのです。そうしたら、今、なにをやろうと思うのでしょうか。イエス様は、身代わりとなり、罪滅ぼしのために死なれました。イエス様は、十字架にかかって、我々の罪を、ご自分の身に負われたのです。イエス様は、私たちの罪を贖うために、ご自身を犠牲として、捧げられたのです。私たち人間が、成さねばならないことは、簡単です。自分の救い主としてのイエス様を受け入れることです。救われるということは、私たちにとって、何と簡単なことでありましょうか。誰でも自分がどこにいようと、どんな状態であろうと、イエス様を受け入れることができます。そして、三分間で救われることができるのです。

今、病院にいる患者さんに、『健康の法則』という本を提供するということは、全くばかげたことでしょう。その患者は、ガンなんです。ですから、彼の必要とするものは、病気を治す手当てなのです。同様に、救われたいと思っている誰かに、あなたは律法を守るべきだと言うことは、本当にばかげたことです。人間は、罪のガン病を持っています。人間は自分の病を身に背負い、健康を与えてくれる人を必要としているのですけど、掟の本から、始まることはできません。ここで、福音が入ります。イエス様は、自分の罪を、ご自分の身に背負いました。イエス様は、罪をご自身のからだで、十字架に運びました。そして、イエス様は今、ご自身のいのち、永遠のいのちを差し出しておられます。ガラテヤ書の2章16節をお読みいまします。非常にすばらしい、良き訪れ、福音そのものです。

ガラテヤ
2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

最後の誤った見解は、もうひとつですけど、5番目になります。いわゆる、規則です。

多くの人は、教会の秩序を守ることによって、すなわち、洗礼とか、聖餐式を守ることによって、救われると思っています。イエス様と共に、十字架につけられた強盗は、洗礼を受けたでしょうか。もし、強盗が、洗礼なし、聖餐式をすることなしで、救われたなら、もちろん、誰でも簡単に救われるのではないでしょうか。あの強盗は、間違いなく、救われました。どうして?なぜなら、イエス様は、「今日、あなたはわたしと共に天国にいる」と、言われたのですから。

一人の者が洗礼なしに、救われたのですから、洗礼を受けなくても、すべての人が救われることができるわけです。それゆえに、洗礼、すなわち、水のバプテスマは、救いの秩序ではありません。イエス様によって、罪の赦しを受けた者は救われているのであり、洗礼を受けたのであって、救われたいために、洗礼を受けたのではない。それと同時に、もうすでに、救われたから、聖餐式にあずかるのであって、救われたいために、聖餐式にあずかるのではありません。救われたから、聖餐式を受けるのです。救われた者が、洗礼を受けたことになるのです。主なる神から遠く離れている罪人が、恵みによって、救われた者だから、主の聖餐式にあずかるのです。教会の規則が救うことはできません。イエス様によってのみ、人間は救われるのです。ただ一人の救い主は、イエス様ご自身です。

今まで、私たちは、人間の道、すなわち、宗教、道徳、働き、戒め、規則について、考えてまいりました。そして、最後に、私たちは、それが誤った道であるということを、もちろん、見ました。

最後に、主の救う道とは、何でしょうか。主なる神の救いの道とは、いったい、どういうものでしょうか。ただ一人の方が、救うことができるのです。この一人の方は、イエス様です。ヨハネ伝、14章6節は皆、暗記している言葉です。

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、(・・・道しるべではないよ・・・)真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

この『わたし』とは、イエス様なのであり、他のものではなく、宗教でも、道徳でもなく、また、良い行いでもないのです。神の御子であるイエス様が、唯一の救い主です。イエス様は、道なのです。今、話したように、単なる道しるべではありません。誰も、イエス様を通らなければ、まことの神の御元に行くことはできません。モーセによっても、ダメであり、お釈迦様によっても、ダメなのであり、また、モハメッドや、孔子もダメなのです。坊さんや牧師、また、ローマ法王によっても、生けるまことの神の御元に行くことはできません。ただ、イエス様によってのみ、御元に行くことができます。

どうでしょうかね。自分が救われることを、イエス様に許すのでしょうか。

使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

これは、何という言葉なのでしょう。聖書の中で、これほどはっきりしたことばは、他にありません。他の救いにないのです。他の宗教、他の人、それらの中にも、他の救いは、どこにもないのです。このことを信じるでしょうか?他の名前はないのです。その名をイエスとつけなさい。彼は救う者となるから。私たちは、すべての他の道から、向きを変え、イエス様だけに頼るのでしょうか。イエス様だけが、自分を救うことができるのです。けど、イエス様は、本当に救うのでしょうか?ヨハネ伝の6章37節を見ると書いてあります。すばらしい言葉です。

ヨハネ
6:37 わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

決しては、決してです。永久的に、受け入れます。イエス様は、そう、約束しておられます。イエス様は、拒むはずは、ない。イエス様は、それでは、どうするでしょうか。イエス様は、受け入れるはずです。主なる神に、このような救い主を賜ったことを感謝しようではないでしょうか。

多分、主なる神が自分の救いのために、すべてをおやりになったので、もはや、自分のやることは、何もないと考えておられるかもしれない。何といういけないことでしょう!人間は、主の差し出してくださっているものを、受け取らなければならないということを、ご存知でしょうか?聖書は、言っています。選び、そして、受け取りなさい。救いは、イエス様によって、完成されましたが、けど、人間は、それを受け取らなければなりません。私は、あなたに一杯の水を差し出すことができます。そして、あなたは、それを受け取らなければならない。医者は、あなたに、薬を与えることができますが、けど、あなたは、それを飲まなければ、何の役にもたちません。救われたいと思うならば、イエス様を受け入れなければなりません。イエス様を受け入れることですね。聖書は言っています。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を、受け入れた人々だけが救われます。自分の意思なしで、救われた者は、誰もいません。私たちは、意志の決定なしには、少しも、受け入れることはできないのです。同様に、私たちは、決定なしに、救われることはできません。選らばねばならないのです。ですから、イエス様を自分の救い主として受け入れなさい。今日、今、受け入れなさい。これこそ、聖書の呼びかけです。

頭の信仰と、心の信仰のあいだには、大きな違いがあります。

たとえば、エレベーターが、あなたを上に導いてくれるものと信じていますけど、その信じていることを、実行に移さなければ、すなわち、エレベーターの中に入らなければ、上へ連れていかれないでしょう。汽車が、目的地に運んでくれると思っていますけれど、思ったことをやらなければ、すなわち、汽車に乗らなければ、目的は達せられません。

イエス様は、自分を救うことができると思っていますけど、あなたが、その信仰を実行に移さなければならない。すなわち、イエス様に頼らなければ、救われません。誰でも、イエス様を選び、受け入れ、イエス様に身をまかせ、自分自身を捧げなければなりません。この信仰が、救うのです。なぜ、今日、今、イエス様に頼ろうとしないのでしょうか。それは、本当に、今でなければなりません。

自分がまだ、救われていないことを知っているかもしれない。それを、他の時に延ばしているのです。主なる神は、このような遅い適当な時期をご存知ないのです。イエス様は言われます。

第2コリント(口語訳)
6:2 「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。

主なる神の時は今です。今が決定の時です。もっとも大切な時は、来ています。今、決定する絶好の時です。明日では遅すぎるかもしれない。ひとつのことだけはやらないで下さい。長くためらわないことです。イエス様を、受け入れなさい。イエス様を今、受け入れなさい。この瞬間に、永遠のいのちがあなたのものとなるのです。この瞬間にあなたは、救われることができるのです。悪魔が再び、あなたをためらわせたなら、あなたは、永遠に失われるかもしれない。ですから、来なさい。そしてイエス様を今、受け入れなさい。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

イエス様を、もはや見出すことのできない時が来ます。ですから、イエス様を受け入れなさい。今、受け入れなさい。


おわり

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