2011年2月15日火曜日

みからだなる教会(一)

みからだなる教会(一)
2011年2月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第1ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

エゼキエル
44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――

44:16 彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。
44:17 彼らは内庭の門にはいるときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。
44:18 頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。汗の出るような物を身に着けてはならない。

最近、いつも、同じテーマについて、話すようになったんですけど、最近、準備したメッセージではない。本当は、昔、昔、大洗(おおあらい)、那珂湊(なかみなと)の時代の時、準備したものなんです。五十何年前の話。けど、準備して使わなかったんです。けど、それにしても、やっぱり、非常に、大切なのではないかと思います。

今、歌いました歌を見ると、やっぱり、結局、主の御心、そのものが現れてくるのではないかな。『ひとつの群れ、主のみからだ。』いろいろなことについて考えると、やっぱり、悩みの種とはそれなんです。多くの人々は、確かに、イエス様を信じています。けど、からだなる教会は、イエス様にとって、何を意味しているか、全くわからない。人間を見ると、悪魔はうれしくなる。もちろん、我々の確信と希望は、イエス様は、『わたしは建てる。わたしは、わたしの教会を建てる。』悪魔は、どうすることもできない。けど、我々は、主の働きに対して、お邪魔虫であるか、同労者であるかのどちらかなのではないでしょうか。

私にとって、最も大切な、大切にされた箇所は、コリント第一の手紙、12章27節です。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

あなたがたとは、コリントにいる兄弟姉妹でした。コリント第一の手紙を読むと解かる。コリントの教会は、めちゃくちゃでしたよ。決して、模範的なものではなかったから、パウロは、こういうふうに書かなくではならなかった。『』がた、コリントにいる人々は、キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官です。』上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を、心の目で見るようになれば、本当にありがたい。

イエス様は、もちろん、失礼のように見えるんですけど、頭(かしら)にすぎないよ。頭だって、からだなしでは何もできないよ。何もやりたくない。教会を通して、働こうと思っておられます。ですから、五十何年前に、今日のメッセージも、準備したんです。使わなかっただけなんです。今日のテーマは、「聖なる主の宮であるからだなる教会」です。

ヘブル
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし(・・・『もし』となっているんです。『もし・・・なら』・・・そうでなければ、ダメなんですって・・・)私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

そうでなければ、神の家ではない。宗教的なクラブ、仲良しクラブにすぎないということです。この教会、すなわち、イエス様のからだ、主なる神の霊的な宮は、いろいろな方面を持っています。一番、大切な面というのは、昇天された、高く引き上げられたイエス様です。それから、父なる神に、教会により、また、イエス様によって、栄光が、世々限りなくあるように。そして、主なる神が、『聖なる神の宮』である私たちによって、栄光をお受けになるようにということです。

今日は、世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕について、少しだけ、一緒に考えてたいと思います。五つの点に分けて考えましょうか。第一番目、主なる神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的です。第二番目、父なる神の御子の偉大さ。第三番目、衝突の成り行き。第四番目、教会の任命。そして、第五番目、教会と御座の力についてです。

もう一回、前に読んでもらいました箇所を読みます。

第1ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です(・・・死んだものではない・・・)
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

また、エゼキエル書の箇所も、もちろん、同じ内容のものであります。

主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的(まと)です。霊なる神の住まいである、まことの教会の目的は、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。選ばれた者というのは、天地の創られる前から、主イエス様にあって選ばれたのであり、父なる神の選ばれた、からだなる教会です。そして、この霊なる神の住まいである、からだなる教会の目的は、この選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。これは、主を信じる者の大きな使命です。

初代教会が建て始められた時、地獄全体が、この選ばれた者を滅ぼそうと努めました。主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的です。悪魔の働き、方法は、一方は、詭弁(きべん)的な、内面的な働きであり、他方では、暴行によって、行動によって、なんです。

初代教会に対する悪魔の初めの攻撃とは、アナニヤとサッピラによってでした。悪魔は、秘密な、詭弁的な、内面的な働きによって、主なる、からだなる教会を妨害しようと努力していました。けど、当時のペテロは、すぐ、『これは悪魔の攻撃だ』と、わかりました。彼は、何と言ったかといいますと、「アナニヤよ。どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われたのか」と、ペテロは言いました。すぐ後で、悪魔は、暴行、行動によって、主のからだなる教会を滅ぼそうと努めました。悪魔と、主のからだなる教会は、いっしょに進むことはできません。主なる神の教会は、結局、悪魔の敵対の的であります。

今日の国々の出来事は、ただ政治的、また、時間的なものではなく、この出来事は、霊的な本質を持っていることがよく解かるはずです。これは、悪魔の働きです。悪魔の最後の目的は、非キリストによる世界の支配なのです。これを考えると、私たちは、今の時代の厳しさを感じるでしょう。いろいろな聖書の教えを信じ、受け入れたとしても、悪魔の攻撃を、感じないかもしれない。また、たとえ、集会に出席しても、悪魔の敵対に、気がつかないかもしれない。けれども、いったん、よみがえりのいのち、すなわち、イエス様にある永遠のいのちを経験すると、悪魔の絶望的な攻撃と敵対を認めるのです。イエス様にある永遠のいのちは、悪魔の攻撃の的です。主のからだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、父なる神に、からだなる教会により、また、主イエス様によって、栄光を、世々限りなくあるように、これこそ、からだなる教会の使命です。

二番目、父なる神の御子の偉大さについて、ちょっと、一緒に考えましょうか。

主の目的とはいったい、何でしょう。御子イエス様が宇宙の座に引き上げられることと、からだなる教会がこの目的を達する道具として、器として、用いられることです。

これは、悪魔の力を滅ぼすことを意味しています。なぜなら、高く引き上げられたイエス様は、悪魔の敗北を意味しているから。イエス様の高く引き上げられたことは、霊的な力によって、実行された事実です。ですから、私たちは、生ける石となって、霊の家に築き上げられたのです。私たち、信じる者は、イエス様のいのちを持っています。このからだなる教会におけるイエス様のいのちの完全なる啓示によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。

選ばれた者は、あらゆる死の力に対する勝利を得なければならないのです。そうしたら、初めて、イエス様は、全宇宙の支配者となるのです。教会の勝利によって、イエス様は、栄光をお受けになるのです。悪魔の力を滅ぼすことが、問題であり、父なる神の御子の偉大さを現すことが問題です。聖書を読むと、これがよく解かります。たとえば、出エジプト記の三章を見ると次のように書かれています。

出エジプト記
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

けれども、当時のパロは、心をかたくなにしまして、イスラエルの人々を、去らせなかったんです。十回、同じ言葉が、書いてあります。すなわち、

出エジプト記(口語訳)
8:1 主はモーセに言われた、「あなたはパロのところに行って、言いなさい、『主はこう仰せられます、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。」』

主は、こう仰いました。けれども、この神の命令に対する答えは、「パロは心をかたくなにし、イスラエルの人々を去らせなかった」と、あります。ひとつの疑問が起こります。すなわち、主なる神は、なぜ、最初に、一撃のもとに、悪魔を滅ぼしてしまわなかったのでしょうか。主なる神はパロに言われた。

出エジプト
9:16 それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。

パロが心の内に持っている悪い思い、「私は、イスラエルの民を去らせたくない」という悪い思いが実現しなければ、神は、パロに対し、判決を下すことができなかったからです。悪い思いが実現され、その次に、神の判決が下されます。パロは十回、主の命令に反抗し、自分の心をかたくなにしたとあります。パロの主に対する敵対が、完全に現れた時、主の判決が下されました。

悪魔の力を滅ぼすことが、問題であり、父なる神の御子の偉大さを現すことが問題なのです。ひとつのことが、明らかです。パロたち、または、他の独裁者たちの問題のみならず、問題なのは、悪魔の力です。私たちの戦いは、結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。あなたが、改心した時、両親、または、友だちが、敵対心のある立場をとって、あなたを妨げようと努力していました。これは、両親、また、友だちのみならず、この後ろに、悪魔の力が働いていました。からだなる教会の戦いは、決して、人間に対する戦いなのではない。悪魔に対する戦いです。そして、からだなる教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。それによって、父なる神に、結局、教会により、また、イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。

イエス様を受け入れた人々の内にある永遠のいのちは、悪魔の攻撃の的です。私たち、信じる者の戦いは、悪魔の致命的、死にものぐるいの努力に対する戦いです。聖なる神の宮である、からだなる教会の使命は、主の道具として、器として、御子主イエス様の偉大さを現すことです。ですから、私たち、からだなる教会によって、悪魔の完全な力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように。これは私たちの使命です。

御子イエス様は、父なる神と同じように、ご自分の内に生命を持っています。この生命によって、イエス様は、死に打ち勝ちました。私たち、主のからだなる教会の内にある永遠のいのちは死より強いということを、啓示しなければならないのであり、明らかにならなければならないのです。

神の霊的な宮の存在は、悪魔の敵対の的です。この霊なる神の住まいにある、永遠のいのち、すなわち、イエス様のいのちは、悪魔の攻撃の的です。そして、教会の使命は、主の道具として、悪魔の力が疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように。これが、主のからだなる教会の使命、そのものであります。

けど、それは、恐るべき戦いです。主のからだなる教会でさえも、悪魔の大きな力を経験しなければなりません。悪魔の激動を感じるでしょう。けど、悪魔の大きな力、また、恐るべき激動は、終わりを意味していません。終わりは、御子イエス様の偉大さを現すことです。

次、三番目ですか。衝突の成り行きについて、ちょっと、考えたいと思います。世界の歴史を見ると、悪魔はいつも、悪魔のような模倣者を持っていました。ちょっとだけ考えると、カインを思い出すでしょう。このカインについて、ヨハネ第一の手紙に次のように書かれています。

第一ヨハネ
3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

また、聖書の中で、別の男が出てきます。ハマンという男です。彼は、ユダヤ人全部を殺そうと努めました。悪魔は、どんな時代にも悪魔のような模倣者を持っていて、主なる神を、からだなる教会を、滅ぼそうと努力しました。主のからだなる教会の証しによって、悪魔は、『自分の力はダメだ』と、自分の敗北を認めなければなりません。

アベルは、悪魔の力に対する勝利を得ました。なぜなら、殺されても、証ししたからです。ヘブル人への手紙に、彼の名前も出てきます。

ヘブル
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

これらの神の心を全うした人、皆が、悪魔と死の力に対する勝利を得た者でした。彼らは、見えるものによらないで、信仰によって、歩いていた者でした。こういうふうに、彼らの信仰によって、父なる神は栄光をお受けになったのです。

今日(こんにち)の世界の国々の出来事を見ると、悪魔は、何と大きな力を持っていると認めざるをえません。悪魔は、実に、言いあらわすことのできないほどの大きな力と自由を持っています。けれども、主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っている。悪魔の力は、主なる神の支配のもとにあるのです。悪魔が、心の内に持っている悪い思い、「わたしは霊なる神の住まいにいますキリストのいのちを滅ぼそう」という悪い思いが実現しなければ、主なる神は、悪魔に対し、判決を下すことができないのです。まず、悪い思いが実現されて、その次に、主の判決が下されます。

創世記
15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。

どうして悪魔は、言い表すことのできないほどの大きな力と自由を、持っているのでしょうか。悪魔の悪が、まだ、満ちないからです。悪魔の悪が満ちると、主なる神の恐ろしい判決が下されます。主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っています。けど、悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを、覚えるべきなのではないでしょうか。

聖書は、よく、子供と成人した息子の区別について、いろいろなことを言っています。聖書を読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは、子供であって、しもべと共に生活し、また、父の跡継ぎとしての資格を持っていません。成人して、初めて、息子として、父の跡継ぎになる力が与えられるのです。この子は、初めは、子供だったのですけど、成長し、成人となり、初めて、息子となったのです。これと同じように、まことの新生を経験した人は、神の子供です。この新生した子供は、聖化、変化、成長によって、息子となることができるのです。成熟したキリスト者だけが、すなわち、イエス様を主として、支配するお方として、受け入れた者だけが、イエス様と共に遺産を受け継ぎ、冠をいただき、主イエス様の座につくことができ、豊かな報いを受けるようになります。成熟したキリスト者だけが、霊なる神の住まいとして、ご自分の最高の権威と栄光を、現すことができるのです。

成熟した息子が、主なる神の目的だけではなく、悪魔は、そこまで行かないように、夜、昼、攻撃します。マタイによる福音書の中で、イエス様は、厳しいことばを言われました。聖書学者に向かってのことばです。

マタイ
23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

この最後の『ゲヘナの子』、地獄の子というのは、ギリシャ語では、地獄の息子となっています。と言いますのは、地獄の成熟した息子を意味しています。何という恐ろしいことでしょう。主なる神の恐るべき判決の前に、悪魔に属している奴隷は、地獄の成熟した息子にならなければならないのです。悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを覚えるべきなのではないでしょうか。主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っているということを絶えず覚えるべきです。

悪魔の悪が満ちる時、主は、この悪魔の言い表すことのできないほどの大きな力に対して、からだなる教会を立ち向かわせます。悪魔が、主のからだなる教会によって、自分の力は疲れ果て、自分の敗北を認めなければならないように。これが、我々の使命です。そうしたら、初めて、父なる神に、からだなる教会によって、また、イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。

四番目、からだなる教会の使命について、ちょっとだけ考えたいと思います。

ここまで述べたことと、教会の任命ということの関係は何でしょうか?霊なる神の住まいである、からだなる教会の目的は、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。すなわち、とりなしの奉仕です。

第一ペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

今日の悪魔の働き、方法は、一方は、詭弁的と内面的な働きであり、他方は、暴行によってなんです。私たちは、この悪魔の攻撃に対して、はっきりとした立場を取らなければならない。すなわち、私たちは、とりなし人とならなければなりません。

ヘブル
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

恵みの御座に近づこう。

エペソ
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

私たちと、私たちの、すなわち、からだなる教会の任命(使命?)は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕ですから、大胆に、主に近づきましょう。悪魔は我々を、とりなしの奉仕から、引き抜こうと努力しています。この目的を達するために、訴えることによって、悪魔はからだなる教会の力を滅ぼそうと努めています。

多くの信じる者は、悪魔の訴えによって、そして、「自分はダメだ。あんまり、役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ」と、感じることを覚えて、主との交わりは、必ず、もう失われたと思い込んでしまいます。けれども、これは、悪魔の働きです。悪魔が、我々を、とりなしの奉仕から引き抜こうと努力しています。私たちが、主の血潮のもっとも尊い価値を、もっともっと、よく悟らなければならない。そうしたら初めて、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕をすることができるのです。

けれども、これこそ悪魔の大嫌いなことです。したがって、悪魔は、私たちに、「あなたたちは、もうダメだ。あんまり、役に立たない者だ。罪にまみれた存在だ。主との交わりは必ず失われた」という訴えを持って、とりなしの奉仕から、引きのけようと努めています。けれども、大胆に主に近づかないことには、弱さだけではなく、主の尊い血潮を否定することも含まれています。私たちの祈りの生活に対する悪魔の攻撃は、選ばれた者に対する力を持つことを意味しています。こういうふうに悪魔は、からだなる教会の任命(使命?)を滅ぼし、教会の力は失われてしまいます。けど、霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。これこそからだなる教会の任命です。悪魔の訴えに対する、我々の答えが、結局、イエス様の、小羊なるイエス様の血であるならば、幸いです。

黙示録
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に(・・・悪魔に・・・)打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

小羊の血によって、悪魔、兄弟らを訴える者は、投げ落とされたとあります。からだなる教会の権威、確信、信頼、力の源は、尊い血潮です。私たちが、新しい権威、確信、信頼、力を求める時、尊い血潮の価値を知るようになり、血潮を感謝するようになります。イエス様にあって、私たちは、神に対する信仰によって、血潮に対する信仰によって、確信を持って、大胆に、主に近づくことができるのです。もし、私たちが、本当に生きておられる主なる神の子供であるならば、私たちは、主にある聖なる宮の中で、生き生きとした石であり、イエス様のからだなる教会で、このからだの肢体なのです。したがって、私たちの使命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕であります。パウロは祈ったのです。

エペソ
3:18 すべての聖徒とともに(・・・非常に大切な表現です・・・)、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

『すべて』と書いてありますね。『すべて』は『すべて』です。我々の使命は、全世界の信じる者の解放と生活に対する奉仕、すなわち、とりなしの奉仕です。私たちは、個人個人の信者ではなく、私たちは、からだなる教会であり、主であり聖なる宮の部分です。ここには、私たちが、とりなし人とならなければならない事が含まれているだけではなく、これは悪魔に対する恐るべき戦いを意味しています。これは、本当に覚えるべきなのではないでしょうか。あなたが、イエス様を信じるようになった時、あなたは、聖徒たちの家族の一員となりました。だから、あなたは今、個性的な信者ではなく、あなたは、主である聖なる宮の部分であります。ですから、最近よく引用する箇所を、もう一回、読みます。

第1コリント
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

信じる者は、イエス様のからだのひとつの肢体です。私たちは、皆が、主イエス様のからだであり、一人ひとりは、その肢体であると、聖書は、はっきり言っています。からだの肢体のひとつだけでも、病気であったら、からだ全部が病気なんです。すなわち、一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部が、それを感じるでしょう。一人の信者が失敗したら、からだなる教会、全部が前進しません。

ご存知のように、幾人かの兄弟姉妹が、イエス様のからだである教会から離れました。彼らは、喜びを持っていないはずです。平安もない。私たちは、兄弟姉妹に対して、無関心なのでしょうか。あるいは、彼らのために、本当に悩み、真剣に祈るのでしょうか。我々の無関心によって、悪魔は勝利を得ます。

孤独な、個性的なキリスト者は、ありえないことです。ばかげたことです。私たち全部は、キリストのからだであり、一人ひとりは、その肢体です。からだの肢体のひとつだけでも病気であったら、からだ全部が病気なんです。決して、前進しないのです。

エペソ(口語訳)
6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

『祈りなさい』だけではなくて、『祈り続けなさい。』いかにして、すべての聖徒のために祈ることができるのでしょうか?この質問に答えるために、パウロの祈りを読みます。

ピリピ
1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

このパウロの確信は、すばらしい確信です。この確信こそが、すべての聖徒のための祈りの秘訣です。ピリピに住んでいる兄弟姉妹たちは皆、すばらしい信者ではなかったのです。争い、妬みなどがあったんです。けれども、パウロは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じている」と、言えたのです。私たちは、幾人かの兄弟姉妹を思い出すと、確かに悲しくなるかもしれない。けど、この兄弟姉妹のうちに良い業を始められた方が、イエス様の日までに、それを完成してくださるに違いないと確信しているのでしょうか。

イエス様は、必ず完成されます。私たちは、皆が、イエス様と似た者になります。この偉大なる日を、大きな喜びを持って、待ちましょう。その時、今、離れた兄弟姉妹も、イエス様の義の衣を着るのです。その時、彼らは、小羊の血を崇め、感謝するのです。その時、今、離れている兄弟姉妹は、自分たちの救い主を崇拝するのです。妨げているものは、その時、全部、見えなくなるのです。そして、今、離れている兄弟姉妹は、主イエス様を、もっともっとよく知ることが、彼らのただひとつの願いになります。この瞬間を想像して、大喜びで待ちましょう。その時、私たちも皆、イエス様を見ることができます。何という瞬間でしょう。

その時、私たちは、他の人を見て判断すること、あるいは、妬みと傲慢は、全く知らなくなります。私たち皆が、イエス様だけを見て、父なる神を礼拝するのです。私たちは、永遠に渡り、小羊によって、主イエス様によって行われた救いを褒め称えるのです。全国の兄弟姉妹のうちに、良いわざを初められた方が、主イエス様の日までに、それを完成してくださるに違いないと確信しましょう。これこそが、高価なとりなしへの道です。

あなたは、救霊者になりたいのでしょうか。そうしたら、毎日、あなたの家族の人々、あるいは、友だちのために祈って、感謝してください。「イエス様よ、あなたは、私の家族の一人ひとりを救われましたことを感謝いたします。友だちを救われましたことを感謝いたします」と、感謝してください。イエス様は、あなたを、決して決して、失望させません。これは、厚かましいことではない。感謝することは、決して、破廉恥(はれんち)ではない。信仰なんです。このような信仰だけが、奇跡を経験することができます。主なる神の全能を信じる信仰だけが、主に喜ばれる信仰です。エペソ6章18節は、非常に大切な箇所であります。

エペソ(口語訳)
6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

主の目的を達するために、これは、絶対に必要です。霊なる神の住まいとは、主のからだなる教会とは、生命のない死んだ家ではなく、生き生きとした、能動的、霊的な宮なのです。したがって、私たちも、どんな時でも、すべての聖徒のために祈らなくてはいけません。

私たちが、これを好きかどうかは問題ではなく、霊なる神の住まい、主イエス様のからだなる教会の際立っている特徴は、とりなしであります。信じる者の性質は、とりなしによって現れます。からだなる教会の際立っている特徴は、霊的な祈りです。生命は自動的です。そして、とりなしは、生命の部分です。したがって、聖霊が、私たちの生命の支配を持てば、私たちは、とりなし人となるはずです。そしたら、祈りも、自発的なのです。イエス様にあって、私たちは、彼に対する信仰によって、確信を持って、大胆に、主に近づくことができるのであると、聖書は言っていますから、『とりなし人』になりましょう。

悪魔の訴えと告訴に耳を貸さなくてもいい。「耳のある者は、御霊が諸教会の言うことを聞くがよい。」私たちは、御霊の声を聞きましょう。

ヘブル(口語訳)
10:19 こういうわけで、わたしたちは(主)イエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ(るのです。)

イエス様の御名によって、近づきましょう。イエス様の血によって、大胆に、主に近づきましょう。イエス様の流された血は、救いのために必要なものだけではなく、最高の勝利のために、とっても大切なものです。聖書は言っています。黙示録に書いていますけど、『兄弟たちは、小羊の血によって、悪魔に打ち勝った。』小羊の血によって、悪魔、兄弟姉妹を訴える者は、投げ落とされたとあります。

【参考】黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

霊なる神の住まい、主のからだなる教会の目的は、結局、救われた人々の解放と生活に対する奉仕なのです。すなわち、とりなしの奉仕です。もし、私たちが、この目的を達しないと、悪魔は、大いに喜ぶ。私たちは、すべての聖徒たちのために、責任を持っています。私たちが、この任命を認めなければ、本当に災いです。今日、天上にある諸々(もろもろ)の支配や権威が、からだなる教会を通して、とりなし人を通して、主の達したような知恵を知るに至るためであって、私たちの主イエス様にあって、実現された神の永遠の目的に添うものです。

最後に、ちょっと、からだなる教会と御座の力について、考えて終わります。

イエス様にあって、私たちは、彼に対する信仰によって、確信を持って、大胆に、主に近づくことができるのです。神の御座は、我々、すなわち、罪の赦しを受けた罪人、また、言葉を言いかえると、恵みを受けた聖徒たちにとっては、恵みの座です。けれども、この恵みの座は、我々の敵にとっては、裁きの座なのです。これを覚えるべきではないでしょうか。我々、信者にとっての、恵みの座は、悪魔にとって破壊の座であります。私たちは、憐れみを受け、また、恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、はばかることなく、恵みの御座に近づこうではないかと、ヘブル書4章16節に書いてあります。

【参考】ヘブル
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

憐れみを受け、また、恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、私たちは、恵みの御座に近づかなければならない。そして、すべての聖徒のために、私たちは、イエス様に対する信仰によって、確信を持って、大胆に、神に近づかなければならない。また、悪魔の軍勢を滅ぼすために、私たちは、大胆に、主に近づかなければならないのです。

主なる神の御座は、恵みの御座であり、裁きの座です。この主の御座は、血潮によって、我々の恵みの座です。悪魔にとっては、裁きの座です。短い本ですけど、エステル記を読むと、これがよく解かります。ここで、王様の座は、ユダヤ人にとっては、恵みの座であって、ユダヤ人を皆、滅ぼそう、殺そうと思ったハマンにとっては、裁きの座でした。主なる神の大いなる恵みの御業は、からだなる教会の中にあるはずです。

私たちは、両方の点を認めなければならない。私たちの中で、この御座があらなければなりません。そうしたら、初めて、我々の生活は、救われた人々の解放と生活に対する奉仕なのです。選ばれた者の解放と生活に対する奉仕は、我々のからだなる教会の使命です。何という責任でしょう。私たちは、主と共に働く者であるべきです。イエス様は、すぐ来たりたもう。「その日に、イエス様は、語って来られ、聖徒たちの中で崇められ、すべて、信じる者のあいだで、驚嘆される」と、テサロニケ第二の手紙1章10節にあります。

【参考】第二テサロニケ
1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

イエス様の崇められることは、すべて、信じる者たちのあいだになります。ですから、私たちの今日の任命は、すべての聖徒たちの解放と生活に対する奉仕です。祈りととりなしによってだけ、これが可能です。世界中のすべての聖徒の解放と生活に対する奉仕は、我々の責任です。もし、私たちの際立っている特徴が、とりなしと祈りの霊であるならば、本当に幸いと思います。


おわり

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