2026年5月3日日曜日

畑に隠された宝

畑に隠された宝
2026年5月3日、秋田福音集会
翻訳虫

マタイ
13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

マタイによる福音書13章では、天の御国とはどのようなところか、イエス様が浜に集まってきた群衆に向かって教えられました。

マタイ
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。

イエス様は、さまざまなたとえで話されました。その中で、最初の種をまく人のたとえがもっとも有名です。その後は、畑にまかれた毒麦のたとえがあり、また、その次には、ベックさんもよく取り上げられた天の御国は、からし種のようなもの、パン種のようなものというたとえが続きます。

マタイ
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。

主は、天の御国について、まずたとえで話され、その後で弟子たちに対してはその意味を分かりやすく解説してくださいました。

この後、イエス様は今一度、天の御国について、三つのたとえを用いて語られています。それが、はじめにお読みしたマタイ伝13章の44節から50節に渡る部分です。ここで主は、天の御国を三つのものに例えられています。畑に隠された宝、真珠を捜す商人、そして、魚を集める網です。しかし、この三つのたとえについて、イエス様は説明はされませんでした。

これからしばらくのあいだ、この三つのたとえのひとつひとつを細かく見ながら、そこに主が込められた御心を考えてみたいと思います。

畑に隠された宝

初めに、三つのたとえ簡単に振り返ってみます。

マタイ
13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

ここではまず、天の御国そのものが、なによりも大きな宝であることが語られています。この人は、畑で偶然、この宝を見つけたように書かれています。私たちにも、天の御国は、私たちがふさわしい者だから、または、努力してふさわしく成長したからではなく、ただ一方的な神の恵みとして与えられています。

見つけた人は、全財産を売り払って畑を買います。信仰生活には犠牲や苦しみがあり、この世的に言えば多くのものを失いますが、それを上回るよろこびが備えられています。天の御国は、この世で得たすべてのものを売り払ってでも追い求める価値ある宝として私たちに与えられているということが、はじめのたとえで示されております。

真珠を捜す商人

次に天の御国は真珠を捜す商人にたとえられています。

マタイ
13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

真珠を探していた商人は、長いあいだ、本物の宝を探していましたが、ついに本当に値打ちのあるものに出会います。信仰者に重ね合わせますと、これは、人生の中でさまさまな試練や苦しみを受けながら、最終的に本物の救いに出会えた状況が表されているのではないかと思います。

世の中には偽物の教えがあふれています。イエス様を信じた私たちに与えられたのは、まがい物ではない真理、すなわち、良い真珠を見極める目なのではないでしょうか。

そして、この商人もまた、救いを受け取る代わりに持ち物のすべてを売り払うことを決断しています。それまで、しがみついていたこの世の助けから解放され、本当に価値のあるただ一粒の真珠、すなわち、主の真理のために、自分の全てを捧げることができたのであります。

ふたつのたとえを比較しますと、はじめの人は畑で宝を偶然、掘り当ててその価値に気づきます。次のたとえでは、真珠を探してきた商人がついに本物を見つけています。この世の試練の中、偶然のように見える出会いによって御国が与えられる人があり、一方では、ひたすら真理を追い求めて、探し続けてきた人がついに御国に至ることもあります。

パウロは、かつては信者を迫害する者でしたが、ダマスコへ向かう途中、天からの声を聴きました。一方、使徒の働きに出てくるエチオピヤの宦官は、エルサレムに礼拝に来るほど熱心な求道者でありましたが、ピリポの助けではじめてイエス様の教えを理解したのであります。

イエス様は、救いの入り口は一つではなく、どのような道を通っても最後には、御国に至ることを説明されたのではないでしょうか?

魚を集める網

そして三つ目のたとえは、魚を集める網であります。

マタイ
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

選んだ魚だけを釣り竿で釣り上げるのではなく、大き網であたりにいる『あらゆる種類の魚』を集めるとあります。天の御国は、限られた人ではなく、救いを求めるすべての人たちを包み込むように投げかけられるのであります。しかし、このたとえには厳しい面も含まれています。

マタイ
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

『良いものだけが受け入れられる。』選別をされるのは主であり、御心にかなわないものは捨てられるとあります。これもやはり天の御国の一面であり、これは非常に厳しい言葉のようにも思えます。しかし、これは大きな希望でもあります。

この世にあっては、人間はさまざまなものでさばかれます。能力、財産とか容姿などによって人間は選別を受けます。そこには競争があり、不公平があり、人間自身が作り出した尺度で人間はより分けられます。しかし、天の御国では主に対する純粋な信仰を持っているという、主ご自身の基準だけで私たちはさばかれるのであります。

第一コリント
4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。

48節では、天の御国では、最終的な正しさは神にゆだねられていることが示されているのではないかと思います。

私たちはどう応えるべきか――宝

ここからは、この三つのたとえで主が示された御心に対して、私たちは日々の生活の中でどのように応えるべきかを考えてみたいと思います。

マタイ
13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

映画の中で宝を探すというと、ジャングルの奥地とか、砂漠の中の神殿とか、大変なところまで探しに行きます。しかし、主が天の御国という宝を隠された場所は、どこにでもある畑であり、日常的に私たちが生きる場所であります。旧約聖書の中に、このような神からの呼びかけがあります。

申命記
30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

神の宝は、とてもたどり着けないほど遠い場所ではなく、近所の畑に埋められているのです。私たちにとっても、何気ない日常や日々の出来事の中に、神との出会いが隠されています。私たちは、救いを得るために必死の努力をする必要はなく、日々の生活こそが神が働かれる場であると覚えながら、毎日を生きるべきではないかと思います。

そして、この宝を見つけた人は、直ちに行動しています。主の真理をを見つけたと思ったら、そのうちやろうという気持ちを持たず、迷うことなくすぐに一歩を踏み出すことが大切であると教えています。

詩篇
119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。

先延ばしや様子見をしているあいだに、初めの感謝が薄れ、心が鈍くなっていく危険が常にあります。天の御国、すなわち、主の救いは私たちが生きる日常の中にある、でもそれを見つけたら、ためらうことなく、この真理を受け入れなさいとこの例えは語っております。

私たちはどう応えるべきか――商人

次の真珠を探す商人のたとえを見てみます。

マタイ
13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

このたとえが実際の私たちの生き方とどう結びつくかというと、これは本当に価値あるものを求めて生きるかということではないかと思います。この商人は良い真珠を捜している人であり、本当に価値あるものを求めて生きていました。それまでの人生で、多くの真珠を見てきたはずですが、最終的に、すばらしい値うちの真珠をひとつ見つけることができました。

世界にはまがい物の教えがあふれています。お金でご利益を約束する宗教があり、また、自己啓発とか、なんとなく耳に心地よい人間的な助けによって心の平安を得ようと多くの人が試みています。しかし、私たちが求める真理とはただひとつ、地上に降りてこられ、ご自身を人間の救いのために捧げられたイエス・キリストであります。このイエス様は、自分が十字架につき、屈辱の死を味わうことをご存じの上で、この宝を私たちのために備えてくださったのであります。

畑の宝を見つけた人も、真珠を見つけた商人も大よろこびして、即座に持ち物を全部、売り払ってしまいます。これは、非常に極端な行動のように思えます。この二人は、これだけがただひとつ、主の救いという間違いのない真理であると信じられるものを見つけたのであります。そのとき、二人は、自分がそれまで依存してきた価値観、人生観とか人間関係といったものは、もはや必要はなくなったことを悟りました。

財産をすべてを売り払うというのは、救いの大きさに較べて、この世で手に入れたものは全く意味を持たないものになってしまうという、価値観の転換を象徴しているのではないでしょうか。

私たちはどう応えるべきか――地引き網

最後の地引き網のたとえを考えます。

マタイ
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

ベックさんは、救いを受けたことは終点ではなく、そこから主に全てを捧げる生活が始まる出発点であるとよく言われていました。

宝としての救いを受けた私たちは、御国という網の中に集められました。しかし、これは出発点です。すなわち、私たちは網に入った時点で完成したのではなく、最終的な選別はこれから起こるのであります。私たちはみな、本来であれば自分ではとても贖いきれないほどの罪を背負って生まれてきました。そして、網の中に捕らえらている現在、すなわち、この世にいるあいだは、私たちにとっていわば執行猶予中の時間であるとも言えます。

第二コリント
6:1 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

網の中に入ったから安心してよいのではなく、この世に生きている私たちにとって、今は悔い改めて、主が用意された道を進んで行くための方向転換の時間であります。それができなければ、悪いものとして捨てられる可能性もあります。

私自身も仕事をしていて、毎日のように、人のことばに腹を立てたり、苛立つことがあります。小さな権威を笠に着て、何かにつけて相手を見下した言い方ばかりする人に会うと、自分の方もトゲのあることばで言い返してやりたくなることもありますが、そんなときも、数秒でも立ち止まって、主がよろこばれる言動はどういうものだろうと考えることで、落ち着いて平安にその場を乗り切ることができます。

私たちは、日々の生活の中で小さな選択をするたびに、これが主のよろこばれることであるか、主を知らない人が自分を見て、イエス様のすばらしさに気づいてくれるような態度であるかということを覚えるべきではないかと思います。その積み重ねが私たちをよい魚として取り上げられるものにしてくれるのではないでしょうか。このたとえはこう続きます。

マタイ
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

最後には神のさばきと公正が働き、主を心から信じる者が選択されます。この世の不公平と向かい合っても、怒りや不安に支配されることなく、主が与えてくれる平安を保ちながら日々を過ごすことができることは何よりも大きな恵みであります。

この三つの天の御国のたとえを心に覚えることで、毎日の祈りの中で、神の導きや祝福を思い返す時間を持ち、日常の小さなことにも神の御手が働いていることに感謝しながら生きることにつながるのではないかと思います。

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