Sermons and Articles by Brother Gotthold Beck and his Co-workers. ゴッホルド・ベックさんと同労者である兄弟たちのメッセージ集
2025年11月2日日曜日
2025年10月12日日曜日
自分を誇る人間から神を誇る人間へ
2025年10月12日、吉祥寺福音集会
重田 定義
詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
今日は、今、読んでいただきましたこの詩編の御言葉からですね、人間には、二通りの人間、すなわち、自分を誇る人間と、神を誇る人間があること、そして、次に、自分を誇る人間から、神を誇る人間へと変えられること、そして、それにはいったい何が必要かということについて、ご一緒に考えたいと思います。
まず、自分を誇る人間というのは、どういう人間なのでありましょうか。
2025年10月6日月曜日
偶像を警戒しなさい
2025年10月5日、町田福音集会
重田 定義兄
ヨハネの手紙第一
5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
それでは、これから少し時間をいただいて、ご一緒に聖書から学んでみたいと思います。
広辞苑という辞書には、偶像とは、『木や石や土や金属などで神、神仏に形取り、作った像』とあります。また、大きな権力や能力を持った生きた人間も偶像になります。これは、現在も、政治や宗教の分野などで、少なからず見られます。問題なのは、人間が偶像を礼拝したり、崇拝したり、仕えたりすることであります。
2025年10月5日日曜日
キリストにあって弱いもの
2025年10月5日、名古屋よろこびの集い
井上浩一兄
第二コリント
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。
今日は、『キリストにあって弱いもの』について、言い換えれば、弱さのうちに働かれる主について、ご一緒に聖書から考えられたらと思います。
先週の日曜日なんですけど、吉祥寺の中高生会で、踏み絵の話が出ました。皆さんご存知の通り、江戸時代、徳川幕府はキリシタン禁令を出し、イエス・キリストを信じる者たちを迫害しました。
2025年10月4日土曜日
苦しみ悲しみがあるのはどうしてか
2025年10月4日、名古屋よろこびの集い
黒田禮吉兄
第二コリント
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
今日は、最初にこういう質問から、お話をさせていただきたいと思います。本当に神様がいるなら、今、本当に困っている人たちを、神様はなぜ助けないのか?よく聞かれる問いであります。私たち、信じる者は、このような問いに、どのように答えるべきでしょうか。
2025年10月3日金曜日
もっとも大切なこと
2025年10月4日、名古屋よろこびの集い
田中順治兄
第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
皆様こんにちは。本日は、イエス様のことをご存知のない方々を念頭において、お話をさせていただきたいと思います。
2025年8月2日土曜日
弟子たちの足を洗われたイエス様
2025年8月3日、秋田福音集会
翻訳虫
ヨハネ
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」
弟子たちとの晩餐が始まろうとするとき、イエス様は立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰に付けました。これは、イエス様が十字架にかけられる前日の出来事であります。弟子たちは、何をされるのかと不思議に思ったでしょう。イエス様はたらいに水をくみ、おもむろに弟子たちの足を洗い始めました。
2025年7月6日日曜日
自分を誇る人間と神を誇る人間
2025年7月6日、町田福音集会
重田定義
詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
今日は今、読んでいただいたこの詩篇の御言葉から、人間には自分を誇る人間と、神を誇る人間の二通りの人間があるということにつきまして、ご一緒に考えたいと思います。
まず、自分を誇る人間というのはどういう人間でしょうか。
2025年6月2日月曜日
主イエス・キリストを着なさい
2025年6月1日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉兄
マタイ
22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
2025年6月1日日曜日
年老いた私を背負ってまでして、御業を見せてくれる主
2025年6月1日、吉祥寺福音集会
重田定義兄
イザヤ
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
聖書には主なる神様、主なるイエス様が人を選び、その者を導き、その者に御業を見せることによって、ご自分が生きて働かれる神であることをお示しになった例が数多く記されています。そして、主は、今も同じように生きて働いておられるのです。そのことは、集会の兄弟がたによって語られるメッセージや、多くの兄弟姉妹の証しなどからも知ることができます。
2025年4月27日日曜日
慰めの子であるバルナバ
2025年4月27日、秋田福音集会
翻訳虫
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
新約聖書に出てくるバルナバという人のことをお話ししたいと思います。バルナバは、初代教会の時代に活躍した使徒であり、主の教えを広めることに生涯を捧げた方であります。
以前のメッセージでパウロのことをお話ししましたが、バルナバさんはパウロとも深いかかわりのあるかたです。教会を迫害してきたサウロが、使徒たちの仲間として受け入れられるために、このバルナバさんが大きな役割を果たしています。私は、このことから興味をもって、バルナバとはどんな人だったのか、いろいろと調べてみました。
2025年4月6日日曜日
主によって強くされる
2025年4月6日、町田福音集会
重田定義兄
ピリピ
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
今日は、今、読んでいただいたみ言葉、すなわち、これは、パウロが、ピリピの教会の信者に宛てた手紙の中で、言っておりますが、この御言葉の意味を、ご一緒に考えたいと思います。したがって今日のメッセージは、どちらかといえば、信者向きと言ってもいいと思います。
人間、誰でも自分が強くなりたいということを考えている。そう思って、願望しているのではないでしょうか。それはスポーツに限らず、この世を生きていく上で、何ごとにおいても弱いよりも強い方が有利だからであります。強者は弱者に勝つのが、この世の常識だからであります。ですから、どうすれば自分が強くなれるか、人間はあらゆる知恵を絞って、また努力を尽くしてがんばります。
2025年3月16日日曜日
もしそうでなくても
2025年3月16日、市川福音集会
井上浩一兄
ダニエル
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。
今、お読みいただいたこのみ言葉は、皆さん、何度も聞いて、よくご存知だと思います。大帝国バビロニアのネブカデネザル王は、自らの巨大な権威と力を示すため、高さはおよそ27メートル、幅は2.7メートルの巨大な金の像を作らせました。そのお披露目の儀式の時に、王はその場に召された全員に、ひれ伏してこの金の像を拝めと命じます。そして、拝まない者がいたら、燃える火の炉に投げ込むとさえ命じました。
2025年1月25日土曜日
ベタニヤのマリアの信仰
2025年1月26日、秋田福音集会
翻訳虫
マルコ
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。
新約聖書にはマリヤという名前の人が三人、出てきます。一人は、イエスさまのお母さんであるマリヤです。その他に、イエス様の復活を見届けたマグダラのマリヤがおり、もう一人、ベタニヤのマリヤという人がいます。
2025年1月5日日曜日
しらがになってもわたしを背負ってくださる主の恵み
2025年1月5日、町田福音集会
重田定義兄
イザヤ
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
それではこれから、しばらくのあいだ、聴いていただきたいと思います。あらためて、新しい年をともに迎えました。今年もよろしくお願いいたします。
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