2025年1月25日土曜日

ベタニヤのマリアの信仰

ベタニヤのマリアの信仰
2025年1月26日、秋田福音集会
翻訳虫

マルコ
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。

新約聖書にはマリヤという名前の人が三人、出てきます。一人は、イエスさまのお母さんであるマリヤです。その他に、イエス様の復活を見届けたマグダラのマリヤがおり、もう一人、ベタニヤのマリヤという人がいます。

ベタニヤのマリヤは、有名なラザロの復活の場面などに登場しています。本日は、このベタニヤのマリアに焦点を当てて、この女性の信仰について考えてみたいと思います。

ベタニヤのマリアについて

まず、ベタニヤのマリアがどのような人だったかをふり返ってみたいと思います。

マリアは兄弟であるラザロ、姉であるマルタと三人で、エルサレムから三キロほど離れたベタニヤという小さな村に住んでいました。イエス様は、昼はエルサレムで教え、夜になるとベタニヤのマリアの家を訪れ、友人たちと静かに過ごすことを好まれたのではないかと思います。

ベタニヤのマリアは三回、聖書に登場しています。

ひとつ目は、ルカ伝の10章です。イエス様がベタニヤの家を訪れたとき、マルタはもてなしの用意に忙しく働き、マリアはイエスの足元に座って話を聞いていました。

ふたつ目はヨハネの福音書の11章に出てくるラザロの復活の場面であります。ラザロが病に倒れ、マリアとマルタは彼の死を嘆きますが、イエス様が墓に入っていたラザロをよみがえらせました。

そして、最後の出来事は、ヨハネ伝とマルコ伝に記録されています。イエス様が、最後にベタニヤを訪れたとき、マリアは高価な香油をイエス様の頭に注ぎました。

いずれも非常に有名な場面であります。この三つの場面でマリアが取る行動を見てみますと、それぞれにおいて、主が信仰者に求める心の姿勢が模範として示されていると考えることができます。

これから、三つの場面でのマリアの言動を追いながら、それぞれの場面で象徴的に現れたマリアの性質、私たちの模範となる霊的な態度について考えてみたいと思います。

[1]傾聴

ひとつ目の場面から見てみます。イエス様と弟子たちが旅の途中、ベタニヤの村につき、マルタたちが一行をよろこんで家に迎え入れます。

ルカ
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

二人の姉妹のうち、マルタはもてなしの用意に忙しく働いていたのに、マリアは手伝おうとしません。マルタは、マリアが手伝ってくれないことにいら立ち、イエス様に不満をぶつけました。

ルカ
10:40 ・・・・「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

しかし、イエス様は、マリアの方を擁護されました。

ルカ
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

この場面で、マリアの行いから私たちが学ぶべき点は、非常にはっきりしております。マリアがイエス様の足元に座ることを選んだのは、現実的な奉仕よりも、霊的な知識の追求を優先するべきであることを教えています。

信仰生活には、気をそらそうとするものがたくさんあり、マルタのように、誰もが簡単に生活に忙殺されてしまいます。マリアの存在は、イエス様の足もとに座り、イエス様との親密さをはぐくむことが、真実の霊的な強さの源となることをおしえてくれるのではないかと思います。

[2]受容

次にマリアが登場にするのは、有名なラザロの復活の場面であります。マリアとマルタの兄弟であるラザロが重い病気にかかり、二人は遠く離れた町にいたイエス様に使いを送ります。

ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

イエス様は、この知らせを聞いても、直ちにベタニアに向かおうとされず、その間にラザロの病状は悪化してゆきます。イエス様がベタニアに到着したときには、ラザロはすでに死んで埋葬されていました。

イエス様を迎え入れた場面で、マルタは次のように言いました。

ヨハネ
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。・・・・」

次にマリアが、家から出てイエス様のもとに駆け寄ります。

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

マルタと同じ言葉を繰り返しているようですが、ここで、ひとつ大きな違いがあります。マリアは、主の『足もとにひれ伏して言った』とあります。

ここに、ベタニアのマリアの模範とすべき二つ目の性質が現れているのではないかと思います。

人間は、どのようなときに、主の足もとにひれ伏すだろうかと考えてみますと、何か必死の願いをするとき、たとえば、病気の苦しみを癒してほしい、家族のいのちを救って欲しいときには、誰もが、主の足もとにひれ伏して真摯に祈ります。あるいは、主に願ったことがかなえられたときにも、自然に主に足もとにひれ伏して感謝したくなるのではないかと思います。

しかし、ここでマリアが示した態度はそのどちらとも違います。マリアは、ラザロが死んだことを主に伝えながら、主の足もとにひれ伏したとあります。

旧約聖書で、ダニエルの友人たちは、自分たちのいのちを脅かした王にこう告げています。

ダニエル
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

『もしそうでなくても』、すなわち、自分たちのいのちを神がこの場で救ってくれなくても、自分たちはただ一人の神だけを信じると宣言しています。

マリアも同じように、主が『ラザロを死から救い出してくれなくても』、主への信仰を失うことなく、言葉だけではなく、地にひれ伏して主をお迎えしました。

マリアの行いは、礼拝とは心の姿勢であることを教えています。すなわち、真の礼拝とは、たとえ、自分が願ったとおりの結果にならなくても、祈った結果として主がなされたことを受け入れることであるという真実を、マリアは私たちに示してくれます。

主のされることの全てを受容することによって、イエス様のご栄光が現されることが、この場面で示されているのではないかと思います。

[3]忍従

さて、マリアが現れる最後の場面は、イエス様が十字架に付けられる数日前の出来事であります。イエス様はエルサレムを出て、ベタニヤで弟子たちの一行とともに食事の席に着かれました。

ヨハネ
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。・・・・
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

この席でマリアは唐突に、香料を取り出して、イエス様の足元に注ぎ始めます。

ヨハネ
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

これを見たユダは、このマリアの行動に異議を唱えました。

12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

ユダは、そのお金で貧しい人たちの生活を助ける方が意味があるという、一見すると、もっともらしい理屈でマリアを避難します。しかし、主は、次のように言って、マリアの行動を正当化されました。

12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」

非常に有名な場面であります。


これまで、二つの場面で、マリアが取った行動を通して、それが現代の信仰者に教えてくれることを考えてきました。

この最後のナルドの香油の場面でのマリアの行いは、私たちにどのような模範となるでしょうか。このことを念頭において、マリアの行動をもう一度、見てみます。

まず、マリアは、非常に高価な香油を買ってきてイエス様の体に注ぎました。

ベックさんによると三百デナリというのは、当時の普通の人の一年分の給料に当たる金額だったそうです。マリアにとっても、全財産に相当するようなたいへんな犠牲であったことは確かです。

とはいえ、聖書には、マリアのほかにも、自分が持てる全て、自分のいのちさえ、主に捧げた人が数多く出てきます。マリアがこの香油を惜しむことなく主に注いだことは、非常に崇高な行為ではありますが、これは、マリアだけの特徴と言えるものではありません。

次に、マリアは主が十字架で死ぬ時が近づいていることをはっきりと認めていました。

イエス様は、少し前から弟子たちに向かって、自分が十字架にかけられて死ぬことを、繰り返し伝えていました。

マルコ
9:31 イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

マリアは、主の差し迫った死を感じ取り、イエス様への感謝の気持ちを、行動で表現したただ一人の人物でした。

しかしながら、私たちは、イエス様は、十字架にかかって、人間を罪から救うために地上に降りてこられたことを知っております。このことを、ベタニアのマリアの行動から教えてもらう必要はないわけであります。


では、このナルドの香油の場面におけるマリアの行いから、私たちが学ぶべきこと、模範とすべきマリアの性質とは、何だと思われるでしょうか?

私は個人的に、マリアの沈黙に大きな意味があるのではないかと思います。マリアが、ここで、批判されたことに対して反論したり、自分の行動を説明をしようとせず、静かに油を注ぎ続けたということ自体が、大きなメッセージを伝えているのではないかということです。

イエスへの献身的な奉仕をする中で、マリアは、イスカリオテのユダから鋭い非難を受けました。これに対して、マリアは、批判の言葉に対して批判で返したり、自分の行動を正当化しようとはしていません。

ここに、マリアのもっと注目すべき性質が現れているように、私には思えます。マリアには、自分のしていることの意味を、主がご存じなので、他の人たちに対して、自分を弁護する必要すらないという確信があったのであります。

私たちも、生活の中で、信仰のことで、人から批判されたり、嘲笑を受けることがあると思います。また、人に御言葉を伝えようとしても、全く受け付けてもらえず、拒絶や反発の言葉だけが返ってくるという経験をされた方も多いのではないかと思います。

そのようなとき、マリアのように、自分は主の御心を行っていることを信じ続けていれば、批判のことばに惑わされたり、自分も鋭い言葉で返すことなく、静かな気持ちで信仰を守ることができるのではないかと思います。

私たちの場合、イエス様が目の前で弁護してくれることはありません。しかし、私たちの手元には主のみ言葉である聖書があり、確信にもって信仰の人生を送るための力となってくれます。


はじめに考えたベタニヤの家でも、マリアは家事をしないことで、姉妹のマルタからも非難を受けました。しかし、マリアの決意は変わず、主の足元に座り続けました。マリアは、家族から批判されても、イエス様と向かい合う静かな時間を守ったのであります。

私たちも、神の意志と信じた道を追求する中で、家族から誤解されたり、避難を受けることもあると思います。

自分の行動を、家族であるマルタや、信仰上の仲間であったユダから避難されても、マリアは動揺することもなく、また、相手に言葉で反撃したり、挑発的な態度をとることもなく、心静まって、主が望んでいると信じた行いを続けました。

旧約聖書にも、同じ励ましを与えてくれるみ言葉があります。

伝道者の書
5:2 神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。

イザヤ
51:7 義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。

私たちは、自分の行いを言葉で正当化する必要はないのではないかと思います。行いが御心にかなうものであれば、今は受け入れられなくても、主ご自身が私たちの側に立ってくれます。

マリアの強さは、人のことばに屈することなく、静かに信仰の道を生きるように、私たちに勇気を与えてくれるものであります。

ベタニヤのマリアから学ぶこと

以上、マリアが三つの場面で示した行いを見てきました。いずれも主を信じる私たちが、霊的な礼拝の生活を送るための、時代を超えた模範となってくれるものであると思います。

弟子ですらなかったマリアが、新約聖書に三回も登場しているというこの事実は、それ自体、信者に対して、マリアの霊的な態度を自分のものとするように、主が呼びかけていることの表れと言えるのではないでしょうか。

信仰生活を送るうえでも、この世のさまざまな事柄に気を取られることが多い私たちに対して、ベタニヤのマリアは静かにイエス様の足元に座り、生活の場面場面でもっともよいものを選ぶように呼びかけているのではないかと思います。

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