2014年7月6日日曜日

この人は誰?

この人は誰?
2014年7月6日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

英語でよく言われます。『It is not important what you know, but whom you know.』あなたが何と何と何を知っているかは、別にどうでもいい。だれを知っているかが問題である。すなわち、主イエス様を知らなければ、もうおしまい。本当の意味で前向きに生活することができません。

ルカ
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

この人は、いったい誰だろう?『この人』、『この人』、云々という表現はよく出てきます。

マルコ
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

いちばんひどい、赦され得ない罪は不信仰でしょう。イエス様は彼らの不信仰に驚かれたとあります。

この人はいったい誰でしょう?イエス様とは、いったいどなたなのでしょうか?いうまでもなく、『キリスト教』という宗教を作ったお方ではない。イエス様とは宗教とはまったく関係のないお方です。

シモンは、パリサイ人であり、聖書の研究者であり、疑いもなく、多くの人々に尊敬され、敬われた男でした。けど、あらゆる宗教性において、彼にとっては、特定の律法や戒めを守ることが大切だったのです。全ての宗教はこのことを強要しています。中心に立つのは、これやあれを行うことを要求する人間です。

ですから、人間が中心となれば、おのずから人間の努力が大切にされます。その根底にあるのは、人間の中にある良い性質である。したがって人間が中心となれば、おのずから人間の努力が大切にされます。その根底にあるものは、人間の中にある良い性質であり、したがって、人間は自分でよいことをすることができ、自分の努力によって救いを得ることができるという考え、それゆえに、あらゆる宗教の救いは人間の努力の結果です。

これに対して、主なる神の提供しておられる救いは、決して、人間の手柄はいらない。受けるに値しない主なる神の贈り物。すばらしいプレゼントです。

この点で、イエス様とパリサイ人は衝突してしました。イエス様は、罪人として私のところに来ないものは、永遠の滅びに至ると強調してくださったのです。わたしは、道であり、誰も、わたしよらなければ神のみもとに来ることはできませんと、イエス様ははっきり言われました。これに対して、聖書学者は自分たちこそ、救いを持っている者であると思ったのです。というのは、彼らは、神の言葉に精通しており、モーセの律法を堅く守り、断食をし、祈り、道徳的に高尚な生活を送っていたのです。

先ほどお読みした聖書の箇所には、パリサイ人、シモンがイエス様を食事に招待したことが述べられています。どうして、イエス様を招待したのでしょうか。まったく分かりません。けども、イエス様はその招きに応じました。もちろん、父なる神に聞いてから。本当は行きたくない。けど、本当は行くべきですか?うん、行きなさい。イエス様は、いつもこの態度をお取りになりました。

確かに、ここに出てくるこの女性は、許可を得ることなしに、ずかずかと入って来てしまったのでしょう。けども、それは彼女にとって、そんなに簡単なことではなかったと思います。それにもかかわらず、彼女は心の奥底にたいへんな悩みを持っており、もはや、とても我慢できなかったので、恥ずかしさを乗り越えて、イエス様のみもとにやって来たのです。

ルカ
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、・・・・御足に口づけして、香油を塗った。

この婦人が高価な香油で、イエス様の足を濡らした時、その部屋は、良い香りでいっぱいになったでしょう。皆の目はイエス様とその婦人の上に向けられました。シモンは、すべてを自分の目で見て、次のようなことを思ったのです。

ルカ
7:39 この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。

もちろん、イエス様はこの婦人について、すべてのことをご存知でした。イエス様は、彼女が犯した罪について、彼女が自分の身の上に招いた債務についてご存じでした。そして、また、イエス様は彼女の本当の状態、すなわち、良心の呵責、心のむなしさ、満たされない状態、恐ろしいほどの孤独をも、イエス様はご存じでした。また、イエス様は、シモンについても、もちろん、全てのことをご存じでした。イエス様はこのパリサイ人の傲慢さをご存じであり、心の中で何を考えていたかも、ご存じでした。ですから、イエス様は、ひとつの喩えを話され、実践的応用をなさったのです。この適用を通して、シモンは実際問題として承伏せざるを得ませんでした。

それから、イエス様は罪深い女に向かって、結局、みんなのお客様のいるところで二つのことを言いましたね。48節、『あなたの罪は赦された。』50節、『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい』と、おっしゃいました。別の言葉を使うならば、イエス様は次のように言われました。『あなたの信仰と、あなたの信頼によって、あなたは救われた。あなたの罪は赦されている。あなたは、恵みとまことの平和を手に入れた』と。

ルカ
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

この人は、いったい誰だろう?これは私たちがじっくりと考えてみたいと思う大切な質問なのではないでしょうか。

当時、この絶望的な女の罪の赦しを約束なさったお方は、いったい誰だったのでしょうか?私たちは、この方について、いったい何を言うことができるのでしょうか?イエス様は昨日も、今日も、とこしえにも変わらないお方です。

簡単に三つのことについて考えましょうか。第一番目、イエス様は、我々を徹底的に知り抜いておられるただ一人のお方です。二番目、イエス様は、ただおひとり、罪を赦すことができ、救いの確信をお与えになることができる唯一のお方です。そして、三番目、イエス様は信じる者を救い、ご自分の平和を与えてくださるただ一人のお方です。

第一番目、イエス様は、我々を徹底的に知り抜いておられるただ一人のお方です。このことは、変わることのない事実です。信じられないことですが、本当なのです。イエス様は文字通り、どんなことでもすべてをご存知です。イエス様の前に、隠しおおせるものはなにひとつありません。

へブル
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

私たちは、すべてのことを正確にご存知であられ、それに対して私たちが最後の責任を問われ、債務を負っているのですが、この主と私たちが関わりを持っていると言うことを考えるべき、覚えるべきです。私たちは宗教とか、道徳とか、その他、これに類したもののと関わりを持っているのではなく、生ける唯一のまことの神とかかわりを持っているのです。

このまことの神は、人間がごまかすことのできないお方です。このまことの神は、軽視することのできないお方です。このまことの神は、全てのことを厳密に取り扱われるお方です。この神は、いかなる罪をも見逃すことができません。ソロモンは書いたのです。

箴言
15:3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。

昔のハガルという女性は次のように叫びました。

創世記
16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

あなたは私をご覧になる神であるとハガルという女性は言いました。いけるまことの神の前には何ひとつ、隠れおおせるものはありません。主なる神は、心の思いや考えをご存知です。ですからへブル書の著者は、次のように言ったのです。

ヘブル
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ルカ
7:39 この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。

けども、イエス様は、この女について全部、詳しくご存じでした。しかも、イエス様はシモンについても全部、知っておられたのです。シモンはただ心の中で思っただけで、何一つ、おおやけに言わなかったにもかかわらず、イエス様は、彼の心を見抜いて、すぐ、お答えになられたと聖書は言っていますね。

40節。すると、イエスは彼に向かって、『シモン、あなたは私の愛の対象です。ただ、あなたが耳を開き、心を開いてくれさえすれば・・・・。』イエス様は、この聖書学者であり、パリサイ人、シモンの心の奥底にある思いと動機をご覧になり、また、イエス様は罪の女の心にある思いと動機も、もちろんご存じでした。

両者の間には、なんという、越えがたいほどの対立が存在したでしょうか。一方においては、自分を正しいと見なし、誇りに満ちた傲慢なパリサイ人がいたのであり、それから、他方には、罪を意識した、心が砕かれた罪の女、しかも、埃の中に横たわっている罪の女がいます。この両者を、少し比較してみましょうか。

社会的には、両者はお互いにひとつになることはできません。パリサイ人は、確実に、少し郊外の高級住宅街に住んでおり、広々として、豪勢な生活をしていたことでしょうが、それは、最高級の人たちだけが行うことのできた生活でした。他方、罪の女は、罪が行われる隠れ場のようなところで生活していました。道徳的にも、両者はひとつになることができませんでした。パリサイ人は郊外で立派な生活をしていましたが、罪の女は姦淫の女、売春婦でした。

金銭的にも、両者はお互いに比較することができない関係でした。パリサイ人は高級生活者であり、何の心配もありませんでした。けど、罪の女は、あまりにも貧しいので、収入を得るために、自分の体、自分の純血を犠牲にしていたのです。

宗教的に見ても、両者は同じように正反対でした。パリサイ人は、自分は宗教のために生きており、罪の女は、宗教とは、何の関わりも持つこともできず、また、関係を持ちたいと思いませんでした。

感情的にも、両者は比較することができないほどだったでしょう。パリサイ人は冷たく、計算高く、厳しい者でした。罪の女は、暖かい心の持ち主で、そのような心の持ち主だったので、大勢の人々のいるところでも泣くことが恥ずかしがらず、イエス様の御足に口づけすることをためらいませんでした。

このように両者は、全く違っていましたが、ひとつの点においては、全く同じだった。すなわち、二人とも、債務を負った罪人だったのです。

40節で、イエスは、彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と、おっしゃいました。それから、イエス様は彼に向かってひとつの例えを話されました。それを通して、シモンは神の光に置かれたのです。

ルカ
7:41 ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。

疑いもなく、その時、イエス様は話しを続けながら、シモンの目をご覧になったにちがいない。二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するようになるでしょうか。この比喩のなかで、イエス様は次のようにおっしゃったのです。シモン、あなたも罪人であり、あなたもまた、自分の身の上に債務を負っているのです。確かに、罪の女は、五百デナリの罪人であり、あなたは五十デナリの罪人に過ぎない。けど、私の目で見れば、少しも区別は存在しません。

パウロは、ローマ書の中でいろいろな詩篇からの箇所を引用して書いたのです。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ(ない。)

ここで、大部分とは書いていない、『すべて。』

ヤコブ
2:10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

主なる神の目から見るならば、シモンは、罪深い女と全く同じように罪深かったのです。

多くの人にとって、立派で、宗教的で、道徳的にすぐれた生活をしている人間が、姦淫の女や人殺しと同じように救われなければならないと言うことを理解することは非常に困難なことでしょう。疑いもなく、その女は非常に罪深い女でした。イエス様はこのことをもちろん、ご存知であり、そのことを少しも否定しませんでした。

彼女の人生は憎むべきほどであり、汚らしく、恐ろしいほどのものでした。彼女は贖われ、救われる必要があったのです。イエス様がいかなる罪人をも救うことができると言うことは、大いに感謝すべきです。

イエス様が赦すことがおできにならないほどひどい罪は存在しません。けど、イエス様が、シモンのような人々をもお救いくださると言うことは、いかに主に感謝すべきでしょうか。とくに、何ひとつ負債をもたらすようなこともせず、立派な生活を送り、なにひとつ悪口を言われることのないような人でさえ、主の目から見れば、罪人に過ぎません。

多くの人々の生活は、シモンの生活のようなものでしょう。立派で模範的で、正直と思われるでしょう。けど、私たちが必要としていることは、生けるまことの神が、私たちをご覧になるその見方です。私たちが自分をそのように見るならば、自分が罪深いだけではなく、失われている者であり、救われなければならないということを知るでしょう。

イエス様はシモンについて、また、罪深い女について、すべてのことをご存じでしたけど、それにもかかわらず、イエス様は彼らを愛し、まことの満足を、与えたいと心から思われました。イエス様は自分の過去がどのようなものであろうとも、我々を愛していてくださるお方です。

世界の造られる以前に、イエス様は私たち一人一人の債務と罪をご存じでした。イエス様は私たちが、どれほど主なる神の救いを必要としているか、知っておられたのです。それですから、イエス様は父なる神によって定められたときに、天からこの地上に来てくださり、我々のためにご自身のいのちを、贖いの代価として捧げてくださったのです。けれども、イエス様はよみがえってくださり、主の御霊を通して今も働いておられ、私たちを恵んでくださり、我々の罪の債務を許すことを、待っておられます。イエス様は我々に主の愛の全てを感じさせたいと思っておられ、御心にかなった人間にしようと願っておられます。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

この方はいったいだれだろう?イエス様は、我々を徹底的にご存知になっておられる、ただ一人のお方です。そして、限りない愛でもって、私たち愛していてくださるただ一人のお方です。

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