2014年7月1日火曜日

リバイバルの必要性(四)

リバイバルの必要性(四)
2014年7月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

このあいだに引き続いて、いわゆる、リバイバルの必要性、大切さ、また、可能性について、一緒に考えてみたいと思います。リバイバルという言葉は、確かに日本語ではないようですね。英語の言葉です。意味は、霊的覚醒、あるいは、信仰の復興、信仰の復活を意味します。眠ってしまった信者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。すなわち、イエス様との生き生きとした交わりによって新しくされ、新しく生かされることが必要です。


私たちは、リバイバルがどうしても必要であるということを、深く感じ取っているのでしょうか。我々の側に、何か重大な欠陥のあることを、感じているのでしょうか。多くの信者のリバイバルに対する考え方とは、ちょっとおかしい。間違っているのではないかと思います。すなわち、『祈りでも、リバイバルのために祈っても、主の時が来なければ、待たなくてもよい、意味のないことです。』けれども、これは、全くおかしい。

イエス様は、信じる者の渇ききったような、また、みじめな様を見て喜ばれるのでしょうか。もし、私たちがリバイバルのために、主の備えられた条件を満たすならば、その瞬間、リバイバルが起こり、広がるようになります。リバイバルとは、新しく目覚めさせられた命を言います。ここで大切なのは、新しく目覚めさせることのできる新しい命を持っているのは、真の信者だけです。ですから、未信者の人々にリバイバルはあり得ない。未信者の人々は、まず、新たに生まれなければならないからです。

今、読みました二つの箇所は、主の御心にかなうダビデの心からの祈りでした。

詩篇
26:2 主よ。私を調べ(・・・・他の人ではない・・・・)、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

あなたが試してくださらなければ解かりません。どうしたらいいのか、全く解からない。

どうしたらリバイバルが起こるのでしょうか。今、話したように、ダビデのような態度を取る結果です。

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

ダビデは、こういうふうに思ったから、心から祈りました。

何十年か前に、フィリピンのある島の聖書学校で、リバイバルが起きたと伝えられています。このリバイバルは、「イエス様よ、あなたの教会を聖めてください」という熱心な祈りへの答えでした。リバイバルが起きるや、人々は罪を悔い改め、それを主の前に告白したということです。この集まりは、二、三時間だけではなくて、十三時間、続きました。それから続く十日間のうちに、千人以上の人々が導かれ、救われたのです。

信じる者が悔い改めると、未信者も悔い改めに導かれます。このようなリバイバルを、私たちも必要としているのではないでしょうか。もし、リバイバルがなければ、当然、我々の祈りによって救われるべき人々が、滅びに行ってしまわなければならないでしょう。

創世記
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
18:28 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
18:29 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

今、読んだ箇所の二十二節は、本当に大切です。

創世記
18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

すなわち、祈った。祈り続けたのです。目に見える現実に動かされないで、主の前に祈り続ければ、祝福される――心配や重荷から解放されると、アブラハムは確信したのです。

アブラハムは、主からソドムとゴモラの町が滅ぼされるという知らせを受けました。そのとき、彼は、『そうか』と、無関心ではなかったのです。主の前にとりなし、祈り続けました。それにもかかわらず、ソドムとゴモラの町は滅んでいってしまいました。いったい、どうしてでしょう?もし、十人の正しい者、すなわち、主を恐れる信者、主だけを大切にする信者がいるならば、ソドム、ゴモラの町は滅びないと、主は言われ、約束してくださいました。

ソドム、ゴモラの町に住む人々が、非常に罪深かったことが、町を滅ぼす原因になったばかりではない。そこに住む妥協する、主を第一にしない、主を恐れない信者が、やはり、この町を滅ぼす原因になったということがよく解かります。

私たちは、滅びゆく自分の知っている多くの人々を考えると、実に真剣な気持ちになります。この知るようになった人々のために責任を覚える時、主の前に祈らざるを得ません。これらの人々を考え、私たちは無関心でいることができるのでしょうか。隣の家が火事を出して燃えているのに、それを知りながら助けなければ、もちろん、罪です。友だちの家に泥棒が入ることを知りながら、友だちに注意してあげなければ、これもまた、罪です。

我々は家族、親戚、また、友だちのために何をしているのでしょうか。どこかで火事が起こると、人々は、小高いところに上がり、『どこが火事だろう、誰か知っている人の家が火事ではないか』と心配して、走ります。我々の家族、知り合いの人々、友だちの多くは、まだ悪魔の手の中にあり、地獄への道を歩き続けています。これを見ながら、私たちは、このまま、無関心でいることができるのでしょうか。

ローマ
13:11 あなたがたが(・・・・もちろん、ローマに住んでいる信者たちが・・・・)眠りからさめるべき時刻がもう来ています。

もう一箇所、イザヤ書の44章から。すばらしい主の呼びかけであり、約束です。

イザヤ
44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

こういうみことばでもって、主は我々にリバイバルの約束、大いなる祝福を新たに生かされることを与えていてくださいます。私たちは、主によって新しくされ、新しく生かされることを心から願っているのでしょうか。私たちは、この世のあらゆるものよりも、主との交わりを得たいと願っているのでしょうか。私たちは真剣にリバイバルのため、主の新たなる祝福のために祈り求めているのでしょうか。

私たちは健康であっても、そうでなくても、また、人から認められる立場にあってもなくても、我々の心は、ひたすらにリバイバルを認めて、イエス様お一人だけが高められるように、心から求めているのでしょうか。聖書そのものが祈りであるべきです。

詩篇109篇、4節の後半に、ちょっと不思議なダビデの告白が書き記されています。

詩篇
109:4 私は祈るばかりです。

結局、それしかできない。そうしなければ、もう落ち込みます。どうしようもない者になりますと、ダビデは正直に言ったのです。

ルカ
6:12 (イエスは)神に祈りながら夜を明かされた。

疲れていたのに、夜じゅう、祈り続けたとあります。これに関係して、我々を動かす動機、自分の心の状態について考えるべきなのではないでしょうか。我々を動かす動機について考えると、パウロのことも考えます。パウロは、彼の生きていた時代の伝道者たち、結局、福音を宣べ伝えた兄弟姉妹たちについて、ちょっと、大変なことを書いたのです。

ピリピ
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

未信者について、そう書いてあれば当然です。けれども、信じる者について、ちょっと大問題なのではないでしょうか。これは、我々にも当てはまる言葉ではないでしょうか。人は四つの大きな願いを持っていると言われています。これによって人は、自分のことを思っているかどうか、解かるのではないでしょうか。

第一に、身の安全を人は願います。すべての人が、あらゆる面で安全でありたいと願っています。人々は、お金を銀行に預金し、将来、子供の教育費を与えようとしますし、また、老後のことを考えて、生命保険に入ったりします。これは、もちろん、別に悪くないけど、自らの安全を図る策かもしれない。

イエス様は、何と言ったかと言いますと、「地に宝を積むな。思い煩ってはならない。まず、神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、すべて与えられるのです」と、約束していてくださいました。もちろん、お金だけでなく、教育のことを考えても、人々は、そこに安全を求めていることが解かります。

福音を宣べ伝える場合、まず、神学校を出て、始めて一人前になり、人の前で話すことができるのだと考える人もいます。これも一つの身の安全を考えている、心の態度に他ならないのではないでしょうか。パウロの証しは、考えられないほど大切です。

第一コリント
2:2 私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した・・・・。

もし、私たちが、自分の身をイエス様に任せ、イエス様に委ねきるなら、私たちは、まことに不安定な者になるはずです。パウロも、人々に語った時、弱く不安であったことを聖書は教えています。パウロは危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思った時があったことも、聖書は教えています。パウロはまた、「私たちは、圧迫されている。私たちには逃れ道がない。迫害され、地に倒れ、倒された者のようになっている」と、告白しました。これは、安全とおおよそ、かけ離れた状態ではないでしょうか。

二番目に、人々が願っていることとは安楽です。人の心に深く願っていることは、安楽な生活を送りたい、この身をいたわって生きたいという願いです。これをイエス様は、全然、願わなかったのです。イエス様について書かれています。これは、イエス様の告白です。

マタイ
20:28 人の子が(・・・・結局、わたしが・・・・)来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

イエス様は、この地上に、ひとつの持ち物も持たれず、また、この世に故郷を持っておられなかったのです。本当の意味でのホームレスだったんです。

イエス様は、辱められて黙り、誤解されて自らを弁護せず、黙々として、歩まれたお方です。イエス様について書いています。「わたしは、虫であって人ではない。」詩篇22篇6節の作者の言葉が、イエス様について、ぴったり当てはまるのではないでしょうか。人間は、自らを弁護することができますが、虫はそのようなことはできません。

【参考】詩篇
22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

蛇と虫の違いは、大きさと力が違うだけではない。蛇は身の危険を感じると、鎌首をもたげて向かってきますけど、虫はなにもしないというところに違いがあります。私たちは、我々の自我は、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても、逆らうことをしません。ただ成すがままにされています。

イエス様は、「わたしは、虫である」と言えたのです。イエス様は辱められ、殺されました。イエス様は、我々のために、虫となってくださいました。このイエス様は、「父がわたしを遣わしてくださったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。

イエス様は、我々の自我が打ち砕かれ、ヤコブが主なる神と相撲をとって、自我が砕かれたように、私たちも、己に死んで主に仕えることを望んでおられます。私たちは、簡単な安楽な生活を願わず、ただイエス様のなされた生活を願い、それを行なうなら本当に幸いです。

けれども、その前にまず、私たちは、自分自身の心の状態を考えることが必要でしょう。私たちは、例外なく、自らをいたわり、また、打たれた時は、逆らっていく蛇のような性質を持っています。今まで話したように、人は皆、身の安全を願い、人は皆、安楽な生活を得たいし、そして、人が願っているのは、三番目ですけど、楽しみです。

私たちが疲れると、休むと言いますが、この休みがみことばを学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことを止めることを意味しているなら、それは、霊的ないのちを殺してしまうことを意味します。臨在の主イエス様は、我々の心の状態をよく知り、私たちが自分の時、自分の富、自分の計画、自分の魂を持っているかどうか、または、「イエス様、私の持っているものは、みな、あなたのものです。あなたの御心だけをなさせてください」と、願っているかどうか、すべてご存知です。

イエス様は、「わたしは、自分のいのちを与えるために来た。わたしは仕えるために来た」と言われ、「わたしは、自分の願いを持ちません」と、祈ったのです。「自分の立場をとりません。どうか、わたしに思いではなく、父よ、あなたの御心をなさせてください」という態度をイエス様は取り続けました。

四番目に、人の心に深く根ざしている願いは、人に認められたいという願いです。人々は、何とかして自分の人気を集め、人々に自分の力を及ぼしたいという願いを、心の中に潜ませています。大切にされ、誉(ほま)れを得、自分を忘れてもらいたくないという願いを持っています。人に認められたいと願う人は、惨めな人と言わなければなりません。救われた者たちの世界にも、この人から誉れを得たいという願いが、伝染病のように入ってきて、このために、多くの人々は主に捨てられ、御用にかなわない者となってしまっています。

イエス様は、私たちに、人よりの人気を求めず、上のものを求めよと、言っておられます。地を這う虫のように、地のことばかりを考えず、ただ上のものを求める者になりたいものです。

今、挙げたこれらの四つ、安全を願う心、それから、安楽を願う心、楽しみを求める心、そして、人気を得たいと願う心は、どこから来るかと言いますと、傲慢なパリサイ的な心から来ています。パウロはガラテヤ地方に住んでいた、もちろん、救われ、イエス様を信じるようになった人々に書いたのです。信じる者に書かれたことばです。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

これらの肉の働きは、みな我々の誇り高ぶる心から出てくるのです。

マルコ
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

なぜまだ、人々に向かってゆく、滅んでしまう、地獄へ行く多くの人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま、歩み続けているのでしょうか。これは、みな信じる者の罪のゆえです。自分のことを考えているからです。いったいどうして、イエス様のからだである我々の兄弟姉妹は、こんなに弱く、力なく、悪の霊に戦うために弱いのでしょうか。それは、私たちが、自分のことを考えているからです。なぜ、多くの兄弟姉妹は、生ぬるく、不熱心で、自己満足しているのでしょうか。それは、自分のことばかりを考えているからです。

けれども、へりくだれば、主はあわれんでくださり、恵んでくださるに違いない。

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