2014年7月30日水曜日

イエス様のなさった事の大切さ、すばらしさ

イエス様のなさった事の大切さ、すばらしさ
2014年7月30日、御代田家庭集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。『先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。』
11:9 イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。』
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。』
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』

11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

今日は『イエスさまのなさったこと』の必要性、大切さ、すばらしさについて、ちょっとだけいっしょに考えてみたいと思います。イエス様の教えたことじゃなくて。イエス様の教えたことはもちろん最高です。けど、問題なのは、イエス様の教えたことを守ろうと思っても、できません。イエス様が働いてくださらなければ、人間は壁にぶつかります。ですから、イエス様が教えてくれたことよりも大切なのは、『イエスさまのなさったこと』です。最後に読みました45-46節をもう一回、読みましょうか。

ヨハネ
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

45節、私たちは『イエスがなさったこと』ということばを読むことができ、また46節でも、『イエスのなさったこと』というみことばがでてきます。私たちはイエス様が、主の地上の生活を送っていたとき、なさったことを知りたいと思えば、言うまでもなく、四つの福音書を読まなければならないでしょう。

ルカは彼の書いた福音書の中で、『イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書いた』と述べています。そして、マタイ、マルコ、ヨハネもみな、同じ事を行いました。それですから、私たちは四つの福音書の中に、我々の主のすばらしい姿を見ることができます。

確かに福音書はそれぞれお互いに矛盾し合っている、という考えを持っている人もいます。けど、決してそうではありません。われわれの主イエス様はただ、一つ一つの福音書の中で、いろいろな違った側面から考察されています。すなわち、マタイにおいては、イエス様は王、偉大なる『王さま』として我々の目の前に紹介されています。次のマルコにおいては、イエス様は父なる神に使わされた『仕えるもの』として、『しもべ』として紹介されています。ルカにおいては、イエス様は人間、完全なる人間として紹介されています。そして最後に、ヨハネにおいては、イエス様は初めのない、終わりのない永遠なる神であり、約束された救い主として、主の神性が私たちによく分かるように紹介されています。

それですから、私たちは四つの福音書を一緒に合わせてみると、一方においてイエス様の偉大さ、他方においてイエス様のご奉仕の本質を見ることができます。すなわち、イエス様の人格とイエス様のみわざが、我々に明らかにされます。

けれども、今日、私たちが読む聖書の箇所においては、私たちの主イエス様がラザロの復活との関連においてなさったこと、この関係だけが取り出されます。イエス様は何を行ったでしょうかね。この質問に十分に答えるためには、本当はヨハネ伝11章全体を読まなければなりません。もし、私たちが聖書を知らなくても、このヨハネ伝11章だけを持っていればすごいと思いますよ。11章を通して、私たちは、イエス様の愛、イエス様の力、イエス様の恵み、ならびに、イエス様ご自身を知ることができます。それですから私たちはここで、次の質問について一緒に考えたいと思います。

すなわち、イエス様は何をした、何をなさったのでしょうか。手短に考えれば、イエス様は助けを求められましたけど、意識して遅れて行きました。けど、その遅すぎて行くということは、言うまでもなく最善の時でした。二番目、イエス様はマルタ、マリヤの苦しみをともにしたということです。

第一に、イエス様は緊急に救助に来るように求められましたけど、イエス様はさっそく赴く代わりに、意識して遅らせ、瞬間に助けようとしなかった。その状態を想像してみましょうか。

イエス様には、この三人のまったく特別な友だち、すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロをもっていました。これら三人の友だちとイエス様は再三にわたって泊まったり、交わったりしたのです。ラザロは病気になりましたが、その状態は早く悪化しましたので、彼の姉妹たち、マリヤ、マルタは救助を求め、遣わしました。

ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』

意味は、私たちは本当に困っています。イエス様はこの知らせを聞いたとき、何をなさったのでしょうか。『よし、行こう』と言う気持ちがあってもそうしなかったのです。すぐ友だちを助けるために出かけようとしなかったんです。そうすることを私たちは期待するかもしれまない。そのことは、マルタとマリヤ、ラザロも期待していたにちがいない。それは当然のことであるからです。しかし、イエス様は全く理解できないようなことをなさいました。すぐには出発しようとしなかったのです。

我々は、『のんきね、このイエス様は』。けれども、イエス様は、自分勝手に考えて行動しことがない。一回も。まず祈ってから。『お父様、彼らは今困っている、行きたい。行ってもいいの?』、『いや、ちょっと待ってて』、『分かった。』終わり。祈ってから、確信を持ったからこそイエス様は動いたのですね。

ヨハネ
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』

11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

2時間じゃない、二日。身の毛もよだつような、全く理解できない態度ではないでしょうか。あまりにもひどい、と考えることもできます。けど、このイエス様はこのことを全く意識的になさったのです。主は何をなさるかをもちろんご存じでした。

ヨハネ
11:7 その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。

人間に頼まれたとき、動かなかった。けど、急に行こうよと言ったんです。天のお父様の言われたとおりに動いたからです。私たちはこうしたイエス様の考え、行いを考えたり、イエス様が何もなさらなかったことを考えると、ひとつの謎の前に立たされるのではないでしょうか?けど、私たちは既に、同じようなことを何回も経験したのではないでしょうか?私たちは助けを叫び求めました。

主が手を貸してくださるように、主に切に祈り求めましたけど、私たちの祈りは聞かれなかった。少なくとも、私たちが期待したようにならなかった。家族の誰かが死んでも、主は働こう、助けようとなさいませんでした。ちょうど同じことが千九百数十年前に、ベタニヤと言う町ででマルタとマリヤが経験したことでした。当時のイエス様は何をなさったのでしょうか。

関与なさいませんでした。耳を持っていたけど、聞く耳を持っていなかった。一見したところイエス様はつんぼの耳を持っていたわけです。イエス様は彼らを助けるために急ぐことをしないで、全く意識的に遅れてやって来ました。そして、まさしくそのことは今日でも、私たちになさることではないでしょうか。我々の願ったとおりにならない。どうして?最善ではないからです。私たちはみな、『なぜ主はそうなさったのか』と問わざるを得ない。けど、私たちがここで述べられているいくつかの事がらに注目することが、その質問に答える一つの助けになるんじゃないでしょうか?

第1番目、イエス様は愛してくださいました。

ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

言うまでもなく主なる神の愛は、人間の愛とはまったく違った性質をもっているのです。主なる神の愛は理解したり、把握したりできませんが、経験することができます。マルタもマリヤも、その愛を経験し、体験し、認識しました。そして、彼女たちの生活はそれによって非常に豊かにされました。

2番目、イエス様は大変な苦しみをご存じでした。マルタとマリヤは、イエス様のみもとに使者を遣わしました。どうして使者を遣わしたか。死にそうなラザロから、離れられなかったからです。したがって、イエス様はその情報をもちろん、知らされていました。イエス様は、助けを求める叫びを聞き取りました。

イエス様は、絶望的に重大な状態を御存知でした。イエス様に知られていない事がらは何一つありません。私たちはしばしば、主が我々に対して無関心であられると思いがちです。私たちは『イエス様によって愛されている』ということを、主はよくご存じであるということを忘れてしまいがちです。

3番目、イエス様はラザロの死を予防しようとなさいませんでした。

ヨハネ
11:32 主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

いのちそのものであられるイエス様にとって、死を予防することは大したことではなかったでしょう。ラザロが癒されるためには、別に行かなくても良い。遠くからイエス様が一言おっしゃってくだされば、十分だったでしょう。

4番目、イエス様は、ご自分の友であるラザロの死を望んだんです。

ヨハネ
11:37 しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。

すなわち、イエス様は、ラザロを死なせないでおきたいとは欲っしていなかった。目先だけを見ればひどい、ひどい友だちだ、と言う傾向を持っている。あるいは、それが愛なのでしょうか、他の人々を助けられたイエス様が今まで、長い間、親しい交わりを持ち、その住まいにしばしば招待された友ラザロを、なぜ、助けなかったのでしょう?

5番目、イエス様は出発する前、二日間同じところに泊まっておられましたと書いてありますね。

ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

もちろん、これはイエス様にとって、なんの驚きでもなかった。イエス様は、そのことをご存知でした。父なる神から知らされていたからです。イエス様をすぐに行かせなかったのは、父にとって、それは最善の時ではなかったからです。

6番目、その時イエス様は関与なさいました。

ヨハネ
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』

イエス様は大声で叫ばれました。イエス様が叫ぶと、死者もそれを聞きます。主が命令すると、何かが起こります。すると不可能なことが可能になります。すると、そのとき存在していないものが、存在するようになります。そのとき、死も力の無さを認めざるを得なかったので、死んでいたラザロがよみがえったのです。

もうひとつ、7番目。マルタとマリヤがイエス様から受け取ったことは、『彼女たちが祈り求めたことよりもよいもの』でした。

ヨハネ
11:40 イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』

彼女たちは、単に病気の癒しを経験しただけではなく、神の栄光を見たのです。これこそ最高です。今まで考えた七つの真理は、我々全ての者にも当てはまるのではないでしょうか。もう一回紹介しましょうか。

第1番目、イエス様はラザロ、また、マリアを愛しただけではない。イエス様は私たち一人一人を愛しておられます。しかも一人一人を、また全く個人的に愛しておられます。イエス様は誰に対しても決して無関心ではありません。イエス様は人間一人一人のことを心にかけておられます。

2番目、イエス様は、我々の状態を最も正確にご存じです。主は背後の動機をご存じです。全てのことにおいて、主は一定の目標を目指しておられます。イエス様にとって知られていないことは何もありません。

3番目、イエス様は我々の悩みを変えることが完全にお出来になります。イエス様は、我々の助けの叫びを聞いておられます。イエス様は聞くことと、聞き届けてくださることを約束してくださいます。

4番目、イエス様は、我々が考えるような具合には必ずしも答えてはくれません。意識的にイエス様は私たちが、苦しみを通して、悩むことを通して、吟味されることを省略なさいません。私たちは誘惑され、困難なことを味わうでしょう。

5番目、イエス様は我々の時に、ご自身の時に答えてくださる。そして『主の時』は言うまでもなく、『最善のとき』です。人間的に見れば、遅過ぎました。というのは、ある人が4日間も墓の中に置かれれば、もうお手上げだからです。

6番目、イエス様はその当時、助けてくださいました。主は、今日も助けてくださるお方です。主は『主の時』が来たならば、関与なさいます。悪魔によって惑わされないようにしましょう。何があってもあきらめる必要はない。落ち込まなくてもいい。

7番目、主の答えは、私たちが期待するものよりも常に、はるかに良いものです。それですから、期待をもって主を見上げ、主の偉大なることを期待しましょう。

なぜイエス様は、マルタ、マリヤ、ラザロに対して、そのような行動をなさったのでしょうか?なぜ我々も、こんなに多くの困難なこと、理解できないことを味わわなければならないのでしょうか。

二つの理由を挙げることができるんじゃないかな、と思います。

第1に、イエス様は理解できないことをたくさん許しておられます。私はそれによって苦しみに陥ります。私たちは『どうしてか?』という疑問を持つようになり、わけがわからなくなってしまうことがあります。それはおもしろくないとき、厳しい試練のときです。けど、まさにそれを通して、主のご栄光が明らかにされるようになります。

ヨハネ
11:4 この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。

私たちが苦しみに苦しみを加えるためでもなければ、あきらめたり、全てを投げ出したりするためでもなく、主のご栄光が現われるために、私たちは理解しがたいことをいろいろと経験させられます。

旧約聖書を見ると、イスラエルの民も荒野を通らなければならなかったのです。4日間ではない、4ヶ月、4年間でもない。40年も。その時、喉は渇き、助けも遠く、太陽は照りつけ、敵にもさらされたのです。けど、主は助け手として天のパン、マナを与え、水を与えてくださいました。また、雲の柱と火の柱によってイスラエルの民は導かれました。イスラエルの経験したことは、苦しみと悩みを通して主の栄光を見たということです。

第2に主は、主に属する者の信仰を試し、増し加えるために、理解しがたいことをお許しになるのです。苦しみがなければ成長もありません。我々は苦しみに陥らなければ、真剣に主の方に向くことができません。助けを求めなければ、助け主を本当の意味で知ることができない。私たちの上に何の重荷もなければ、私たちは主の約束にしがみつくことをしないでしょう。

ヨハネ
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

これもまた、どうして主がすぐに関与しないで、我々をひとりぼっちにさせられるかの理由なのではないでしょうか。もちろん、私たちは、心が混乱して、出たらいいのか、入ったらいいのかわからなくなってしまいます。いくら考えても全くわからなくなってしまいます。けど、私たちは次のことを忘れてはならない。主なる神のご栄光が明らかにされます。そして私たちは、そのことによって主によりいっそう近き、信仰が強められるのです。大切なのは、結局それなのではないでしょうか。

もうひとつだけ述べて終わります。すなわち、イエス様はマルタ、マリヤとひとつになったんです。すなわち、イエス様はマルタとマリヤと苦しみをともにしました。しばしば私たちは次のように尋ねられます。家族の者が重病で、負傷したり、死ぬような時、主は何も面倒を見てくださらないのでしょうか。あるいは、配慮をしてくださるのでしょうか?我々の祈りは応えられずに、そのままの状態で過ぎてしまうように思われるようなことがあります。というのは、たとえ私たちが祈ったとしても、イエス様が簡単に防ぐことができたであろう死が生じます。

ひとつのことが明らかです。主は、あらゆる人のことを心にかけておられます。主が無関心な人間はいない、一人もいません。

ヨハネ
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』
11:35 イエスは涙を流された。

聖書の中で一番短い文章はこれなんです。『イエスは涙を流された。』イエス様は泣いた。後でラザロは聞いたでしょう。マルタとマリヤから、『イエス様は泣いちゃったよ。』二人が後で証したとき、イエス様は我々とともに泣いた、と必ず言ったでしょう。もう、忘れられないことです。イエス様は、ご自身に属する人々を心にかけておられます。イエス様はその人たちの苦しみや悩み、悲しみと一体となってくだいます。私たちは、誘惑や患難の中に、ひとりぼっちに捨てられることはありません。最後にもう一箇所読んで終わりましょう。

へブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

イエス様は我々のことを理解しておられます。『主』の地上生活のときに、イエス様も多くの悩みを経験なさいました。イエス様は、全く孤独であること、誰からも理解されないことが、何を意味しているかご存じです。イエス様は悩みと苦しみを経験されたのです。イエス様は肉体的な苦痛をご存じでした。イエス様は飢えと渇きにも苦しめられました。また疲れたこともありました。そして悪魔に抵抗することや、主のみことばだけに拠り頼むことが何を意味しているかをもちろんご存じでした。

我々の苦しみはなんでしょうか。それをイエス様を言いましょう。イエス様は、人間ひとりひとりのことを考えておられ、共に涙を流してくださるお方です。

第一テモテ
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

ここで主イエス様は、『人としてのキリスト』と呼ばれていますが、主は、神であり、人間であり、そしてまた、人間であり、神であるのです。その神性において、イエス様は主権者であり、全能者であり、栄光に満ちたお方です。主の人間性においては、主は恵み深く、理解してくださるお方であり、優しいお方です。もう一回読みましょうか?

イザヤ
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、…

私たちは苦しみや苦痛でもって、決してひとりぼっちにはさせられません。主にとって私たちは大切な存在です。主は、ただ我々の最善だけを考えておられます。まさにそれですから、主は私たちに困難なことを経験させるのです。しかし、イエス様は共に悩んでくださいます。私たちがあえて我々の全ての苦しみを主に申しあげことをするならば、主が共に苦しんでくださり、我々のことを心配してくださり、主の最善の時に恵みの奇跡をなしてくださるということを、私たちは経験するに違いない。


おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿