2014年7月8日火曜日

リバイバルの必要性(五)

リバイバルの必要性(五)
2014年7月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

今、読んできてくださった箇所は、ダビデの祈りです。いろいろなことで悩んでいる人々に、よくお勧めします。詩篇を読んで、祈ってください。祈りながら、詩篇を読みなさい。いいですよ。

ダビデとは、もちろん、完全ではなかった。どうして御心にかなう人と呼ばれたか。祈ったからです。今、読んでもらいました二箇所も、彼の心からの叫びでした。『主よ、私を調べ、・・・・他の人々ではない。』


詩篇
26:2 ・・・・私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

結局、何を考えるべきかわからない。どうしたらよいか、わからない。けれども、主よ、お任せいたします。百三十九篇もすばらしい祈りでしょう。我々も毎日、祈るべき言葉ではないの?

詩篇
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

知ってください。導いてください。こういう願いを持つ人々こそが、祝福されます。ダビデとは、結局、こういう気持ちを持っていたから、主をより良く知ることができたのです。

このあいだに続いて、いわゆるリバイバルの必要性について、一緒に考えてみたいと思います。このあいだ、言いましたように、リバイバルという言葉は、確かに日本語ではなくて英語の言葉です。日本語に直すと、霊的覚醒、あるいは、信仰の復興、信仰の復活を意味するものです。すなわち、未信者ではなくて、眠ってしまった信者は、リバイバル、信仰の復興を必要とします。すなわち、主との生き生きとした交わりによって、新しくされ、新しく生かされることを必要とします。

ダビデのように祈る人は、絶対に後悔しない。主は聞く耳を持つお方であり、祈ったとおりに恵んでくださいます。

信じる者とは、救われている者であり、それだけではなくて、聖霊の宮、聖霊の住まいと呼ばれています。けれども、聖霊の宮であるべき我々の心は、しばしば強盗の巣となってしまうのではないでしょうか。これを信じ、認めている人々は、確かに少ない。救われた兄弟姉妹がこのような状態になってしまうのは、コリント第二の手紙の五章のみことばを誤って解釈するところから、くるのではないでしょうか。

第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ここで、『その人は』とあります。これは、ちょっと間違っているのです。原語を見ると、『その人は』ではなくて、『そこには新しい創造がある』となっています。新しく生まれ変わる前には、傲慢とか不純、地のことばかりを思う罪で心が汚れているが、いったん、新しく生まれ変わると、これらのものは、すっかりなくなってしまうと考える人が多い。

けれども、これは誤った考えです。みことばを読むと、「キリストにある者は、新たに造られた」と書かれていますが、原語をみると、「その人が新しくなったのではなく、その人の内に住んでおられるイエス様が、新しいものなのである」と、言っていることがわかります。

人の持つ古い性質は、生涯、その人につきまといます。けれども、新たに生まれた人の生かされた霊には、イエス様が住んでくださいます。私たちは日々、また、自分の内に、古き人が生きていることを認めないわけには行きません。けども、古い性質を認めながら、このままで仕方が無いのだと、あきらめていたなら、大変なことになります。

私たちは、主に仕えるために救われました。けれども、しばしば、私たちの内の古い人、我々の生まれながらの性質が我々を支配し、指導してきたのではないでしょうか。我々の心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。

私たちは、イエス様を見上げ、イエス様にご自分の形を内に形作っていただく。我々の思いは、清められているのでしょうか。パウロは、次のように告白することができました。「御霊によって、私たちが、神と共に働く者である。」これこそ、すごい告白です。

けれども、私たちは、本当に御用にかなう者でしょうか。イエス様は、ご自分の思うとおりに、我々を用いることができるのでしょうか。それとも、私たちは、自分の思うことばかりを、やっているのでしょうか。コリントにいる兄弟姉妹は、霊的に非常に弱くて、なかなか用いられない者でした。

第一コリント
6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イエス様が、我々を、値を払って買い取ってくださいました。ですから、私たちは、主のからだの肢体となることができた。からだは頭(かしら)に従わなければなりません。私たちは、何とイエス様に不従順なことでしょう。また、何と高ぶる者でしょう。私たちは、イエス様の肢体として用いられる器ではなく、遊女の肢体となってしまったのではないでしょうか。主の御前に、自分の本当の姿を知っている者は、あの取税人のように、「私は強盗であり、姦淫を犯した者であり、御前に全く駄目な者です」と言うでしょう。

どうしたら、リバイバルが起きるでしょう。主のあふれるばかりの祝福を、自分のものにすることができるのでしょうか。初めに、自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え渇くことが必要です。多くの人は、自分にではなく、他の人々に不満を投げかけています。

他の人々に対する愛を持たないばかりか、批判したり、裁いたりしています。他の人々に、このように、どんなに不満を持っても、リバイバルは起こりません。喜んでいるのは、もちろん悪魔だけです。リバイバルが起きるために、他の人を不満に思うのではなく、まず、自分自身を物足りなく思わなければならないのではないでしょうか。

私たちは、聖霊の宮であり、主のものです。けども、強盗の巣になる可能性があると、手紙を書いた人たちは、みな書いたのです。もし、私たちが自らの状態を深く認めたなら、聖められなければならないという願いも起きるはずです。

二千五~六年前に、ヒゼキヤ王様の時代に、リバイバルが起きたのです。このリバイバルについて、ちょっと考えましょうか。

第二歴代誌
29:1 ヒゼキヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビヤといい、ゼカリヤの娘であった。
29:2 彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。
29:3 彼はその治世の第一年の第一の月に主の宮の戸を開き、これらを修理した。
29:4 さらに、彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、
29:5 彼らに言った。「レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。
29:6 というのも、私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行ない、この方を捨て去って、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたからです。
29:7 また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。
29:8 そこで、主の怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らを人々のおののき、恐怖、あざけりとされました。
29:9 見なさい。私たちの父たちは剣に倒れ、そのため、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、とりこになっています。
29:10 今、私の願いは、イスラエルの神、主と契約を結ぶことです。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。
29:11 子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、ご自分のために、仕える者、香をたく者とされたからです。」
29:12 そこで、レビ人は立ち上がった。ケハテ族からはアマサイの子マハテとアザルヤの子ヨエル、メラリ族からはアブディの子キシュとエハレルエルの子アザルヤ、ゲルション族からはジマの子ヨアフとヨアフの子エデン、
29:13 エリツァファン族からはシムリとエイエル、アサフ族からはゼカリヤとマタヌヤ、
29:14 ヘマン族からはエヒエルとシムイ、エドトン族からはシェマヤとウジエルであった。
29:15 こうして、彼らは自分の兄弟たちを集め、身を聖別して、主のことばによる王の命令のとおりに、主の宮をきよめに来た。
29:16 祭司たちが主の宮の中にはいって、これをきよめ、主の本堂にあった汚れたものをみな、主の宮の庭に出すと、レビ人が受け取って外に持ち出し、キデロン川へ持って行った。
29:17 彼らは第一の月の一日に聖別し始めた。その月の八日に主の玄関にはいり、八日間にわたって主の宮を聖別した。第一の月の十六日に終わった。

29:22 彼らが牛をほふり、祭司たちがその血を受け取って、祭壇に注ぎかけた。ついで雄羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。ついで子羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。
29:23 それから、彼らは王および集団の前に、罪のためのいけにえとする雄やぎを引いて来て、それらの上に自分たちの手を置いた。
29:24 それから、祭司たちはこれらをほふり、その血を祭壇にささげて、罪のためのいけにえとし、全イスラエルのために贖いをした。全焼のいけにえと罪のためのいけにえを、王が全イスラエルのために命じたからである。

29:28 全集団は伏し拝み、歌うたいは歌い、ラッパ手はラッパを吹き鳴らした。これらはみな、全焼のいけにえが終わるまで、続いた。

29:31 そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」そこで集団は感謝のいけにえを携えて来た。心から進んでささげる者がみな、全焼のいけにえを携えて来た。

29:36 ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために整えてくださったことを喜んだ。このことが即座に行なわれたからである。

ちょっとだけ、三つの点に分けて考えましょうか。

第一番目、リバイバルの必要性、すなわち、当時の民の状態。二番目、リバイバルのための聖め。三番目、リバイバルの結果。この三つに分けて考えたいと思います。

まず、その当時の民の霊的状態は、想像できないほどダメになっていました。神の宮が荒れているか、整頓されているかを見ると、その当時の民の霊的状態が、よく解かります。今日の教会にも、同じことが言えるのではないでしょうか。主のからだをわきまえないで過ごす者が多いために、弱い者や病人がおおぜいおり、眠った者も少なくない・・・・といった有り様です。パウロはコリント第一の手紙に書いたのであります。

第一コリント
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

旧約時代の神の宮、新約時代の主なる神、イエス様のからだなる教会は、主の臨在の場所であり、それを通して、主がこの世を支配なさろうとしておられる場所です。主の全き御支配を認め、受け入れることは、あらゆる祝福の源です。

当時の宮と主なる神の民の状態は、恐るべきものがありました。この歴代誌、下の二十九章五節を見ると、聖所の中に忌まわしいもの、汚れがあったことがわかる。六節、『主を捨て、主の住まいに顔をそむけた』とありますし、七節、『主なる神に香をたかず』とありますが、民は祈りの生活を送っていなかったことがわかります。

そうすれば、祝福がないはずです。九節を見ると、『ある者は剣に倒れ、ある者は捕虜となった』とありますが、これはみな、この世との妥協から生まれたものです。今日(こんにち)の信じる者の群れの様と、全くよく似ているのではないでしょうか。主の宮に汚れがありました。これが、民がみじめになったいちばんの原因です。

主なる神の臨在の場所である宮は、主の御支配が去り、ただ汚れるにまかせられていたのです。以前には、共に集い、主を賛美し、御臨在を味わった兄弟姉妹が、今は主から離れ、主の用いられるところが悪魔の虜になっている・・・・これが当時のイスラエルの経験しなければならない事でした。イスラエルの民が虜になったように、喜びを失う、礼拝の精神を失くし、あわれなさまになっている人々もいるのではないでしょうか。

今まで私たちは、リバイバルの必要性について考えました。今度は、リバイバルのための聖めについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。当時、イスラエルの民の祭司、レビ人たちは、自分の罪を認め、告白するために、生贄の動物を祭壇に持ち来たり、これを殺し、血を流して、主に悔い改めました。

レビ人たちは、民の責任を自らが背負っているのだという自覚を持っていました。主に仕える兄弟姉妹、一人ひとりは、この同じ責任を持っているのではないでしょうか。主の宮は、主の御臨在と主の支配を現す場所でした。

汚れが宮に満ちた場合、徹頭徹尾、聖められなければなりません。ヒゼキヤの時の汚れた宮は、十六日間かかって、聖められました。我々も心を探っていただき、どんな小さな罪も主の御前に告白し、聖めていただいたら本当に幸いと思います。我々の主のものとして与えられている使命は、いったい何でしょうか。主なる神の宮であることです。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

私たちが、自分が神の宮であると、はっきりと解かると、リバイバルが、霊的覚醒が起きるのです。主の備えられた豊かなる祝福を自分のものにすることができます。主の恵みによって救われた一人ひとりは、自分のものではなく、主のものです。もし、あなたが家を買って、その中をきれいに掃除して、移って行った時、そこに誰か他の人が住んでいたとしたら、あなたはどう思うでしょう。私たちの場合もこれと同じではないでしょうか。主はラオデキアのからだなる教会に対して、次のように言わなければならなかったんですね。有名な箇所です。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

イエス様は、ラオデキアの教会の頭(かしら)ではなく、単なる傍観者でもなく、お客様でもなく、外に追い出されたお方でした。救われた者は、主の血潮によって買い取られた者であり、主の家です。私たちは主の家を自分で閉めて、イエス様を外に追い出してよいものでしょうか。もし、この罪が明るみに出されたなら、リバイバルが起こり、大いなる祝福に与(あずか)るようになります。救われた者の心の中にも、悪意、不誠実、偽善、高ぶりが深く潜んでいます。これを、主の光に照らされて、告白する時、主は赦し、御自分の宮として、我々の内にお住みになってくださいます。

今まで一緒に考えたのは、リバイバルの必要性について、すなわち、当時の民の状態について、それから、リバイバルの民の聖めについて考えたのです。最後に、三番目ですけど、リバイバルの結果について、ちょっと考えてみたいと思います。

生贄の動物を殺し、血を流し、罪を赦されると、人々の心に喜びが湧いてきます。リバイバルは、一つのお祝いのようなものです。主を喜ぶ喜びが、何ものにも勝って、すべてを支配する喜びの時です。ヒゼキヤの時のリバイバルの祝いは一週間、続きました。新しくされたその感動が、あまりにも大きかったからです。今までになく、民は、多くを捧げ、あらゆる偶像礼拝はあとを絶ち、その祈りは、天にまで達したと伝えられています。

第二歴代誌
30:27 それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。

これこそが、リバイバルです。我々は、リバイバルを迎えるために、値を払う備えがあるのでしょうか。隠された罪を明るみに出し、人々にそれを払う備えがあるのでしょうか。

第二歴代誌
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これこそリバイバル、新たなる祝福を得る秘訣なのではないでしょうか。罪を告白することなしに、リバイバルはあり得ません。天からの流れは、我々の罪によってさえぎられます。私たちの罪は、イエス様の手を縛ってしまいます。ヤコブ書の中で、ヤコブは当時の信じる者に書いたのです。

ヤコブ
5:16 ですから、あなたがたは(・・・・結局、あなたがた救われた者は・・・・)、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

これは未信者ではなく、救われた兄弟姉妹のために書かれた勧めの言葉です。いわゆるリバイバルは、我々の努力によっては与えられません。救われた兄弟姉妹が、未信者を獲得するために、人間の力で努力したら、悪魔は別に逆らっていません。けども、もし、私たちがリバイバルのために、霊的覚醒のため、新たなる祝福を得るために心から祈ると、悪魔は立ち向かってくるでしょう。

ゼカリヤ
4:6 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

『人の力によらず、我が霊によるなり。』これが、主なる神の御業を成したもう方法です。ところで、霊の武器は祈りです。だからヤコブは、確かに厳しく書いたのです。

ヤコブ(口語訳)
4:2 ・・・・あなたがたは、求めないから得られないのだ。

昔、ディヴィッド・ブレイナード(David Brainerd)という宣教師の生活は、祈り、そのものであったと言われています。彼の祈りにより、多くのインディアンは、救いを求め、救いに与る者となりました。パウロは、牢獄の中でひざまづいて、主の御栄光が信者の内に現されるように祈りました。当時、パウロを通して、叫びたもうた御霊は、今日の我々にも、次のように呼びかけておられます。

ローマ
13:11 あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

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