2023年11月11日土曜日

イエス様と二人の金持ち

イエス様と二人の金持ち
2023年11月12日、秋田福音集会
翻訳虫

ルカ
18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」。

はじめに

ルカ伝の18章と19章この二つの箇所には、イエス様と出会った二人の男の話が描かれております。その一人は、名前はわかりませんが、『ある役人』と呼ばれる人物であり、もう一人は取税人、ザアカイです。

どちらも、非常に有名な箇所であり、これまでも多くの兄弟がメッセージの中で取り上げてきました。しかし、聖書を学ぶ中で、二つの対照的な出来事とか、対照的な人物に着目することで、何か新しい真実が見えてくることがあるのではないかと思います。ここでは、ルカの福音書に並んで記録されているこの二人の人物の経験から、主が人間たちに求めているものは何かを考えてみたいと思います。

まずは簡単に、この二人とイエス様の出会いがどのようなものであったかを振り返ってみます。

金持ちの役人

一人目は、ルカ伝で役人として登場する男であります。同じ出来事がマルコ伝、マタイ伝にも記録されています。マタイ伝では、『この青年』とあります。彼がイエス様と出会う場面を、ルカ伝から見てみます。

ルカ
18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

マルコ伝では、『御前にひざまずいて尋ねた』とあり、この役人は、イエス様が真理を知る教師であることを認めていたことがうかがえます。この問いに主は答えられます。

ルカ
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

彼は、戒めを守っていると自負していますが、永遠のいのちを受けるために、それだけでは十分ではないかもしれないと、自分でも感じていたのではないでしょうか?そして、この役人は、イエス様に直接、そのことを確かめる機会を得たのであります。

18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

イエス様は彼に財産を放棄したうえで、自分の十字架を背負って、ついてくるように言われました。

18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

この役人は、真の弟子になるためのこの代価を払うことを望まなかったので、悲しんで去っていったとあります。

ザアカイ

一方で、ザアカイは取税人でした。

ルカ
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

取税人ときくと、税務署員のような仕事かと思うかもしれませんが、実際はそのようなものではありません。支配者であったローマ帝国の手先となって、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てることで生計を立てていた人たちであり、そのため、罪深い人間として忌み嫌われていました。

この仕事をしていたザアカイは、金銭的には豊かでも、人生に何か大切なものが欠けていると感じていたのではないかと思われます。

ルカ
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

ザアカイは、真理そのものであると聞いたイエス様を見るために木にのぼりました。そのザアカイに、主は目をとめられました。

ルカ
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

ザアカイは、大喜びでイエス様を迎え入れ、あの役人ができなかったことを、自分から行いました。

ルカ
19:8 ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

ザアカイは自分行ってきたことを悔い改める証しとして、財産を投げ出すことを宣言し、これを聞いて主は、『きょう、救いがこの家に来ました』と言われたのであります。

二人の金持ちの違い

さて、こうして見てきたようにイエス様は、二人の人生に同じように現れました。彼らは、二人とも裕福であり、また、どちらも、神の真理を真摯に求めていました。しかし、主イエス様と出会った後、一人は主のもとを去り、ひとりは主の祝福を受けました。二人のあいだには、どうしてこのような違いが生まれたのでしょうか?大きく三つの違いがあったと思います

(一)主との出会い

この二人は、おそらく同じころ、主との出会いを体験しましたが、実際に主に接した時の態度には違いがありました。

金持ちの役人は、主の前に自分が持っていた大きな疑問をぶつけました。

マルコ
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

この問いかけに、既に彼の尊大さが現れています。自信に満ちていた役人は、何か良いことをすれば永遠のいのちを得ることができると決めつけています。実際には、永遠のいのちは、ただ主の恵みによって与えられるものであって、何かをした報奨として受けるものではないことに、彼の思いは及ばなかったのであります。

一方で、ザアカイが木に上ったのは、何かを問いかけるためではなく、ただイエス様を一目、見たいという気持ちからでした。

ルカ
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

ここには、ザアカイが、自分には主と語り合う資格はなくても、主の姿だけでも見たいと言うへりくだった気持ちを持っていたことが表れているのではないでしょうか。

(二)主の問いかけ

次の違いとして、へりくだった心を持っていたこのザアカイに対して、役人は自分の高ぶりに気づいていなかったということができます。

主に、戒めを守るように求められたときの役人の答えを、今度はマタイ伝から見てみます。

マタイ
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

役人は、戒めを守っている義を誇り、他に何か必要なものがあるのか、主を問い詰めるような言い方すらしています。

一方で、罪にまみれた人間であると自覚していたザアカイは、木に隠れていましたが、すべてをご存じである主の『あなたの家に泊まることにしてある』ということばにただ感激し、主を迎え入れました。

19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

ここには、主の前に自分の正しさを誇った役人と正反対の態度が見て取れるのではないかと思います。

(三)地上の富

この二人の資産家が見せたもっとも大切な違いは、富に対する態度であります。主にとって、弟子となったものが、富を捨てるとは、自分を否定することの象徴であります。それは、マタイ伝のこの言葉にも表れております

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

自分を捨てるとは、必ずしも家とか財産のような目に見えるものばかりではなく、自分の意志や考えを捨てて、神の国だけを求めることであります。金持ちの役人にイエス様が求めたのはこのことでした。

マタイ
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

しかし、役人は、天に宝を積むために、地上にある富を放棄することを望みませんでした。これとは対照的に、ザアカイは、地上でため込んだ富を投げ出すことを決意しました。

第二コリント
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

イエス様との出会いによって、ザアカイの心に光が当てられ、ザアカイは、『よろこんで与えることの価値を示したのではないかと思います。

金持ちの役人と私たち

このように主の前に、正反対の態度を示した二人でありますが、ここからは、悲しんで去った役人の方に焦点を当ててみたいと思います。

この二つの話をまとめると、二人の金持ちがイエス様と対話し、ザアカイは祝福を受けたが、役人の方は拒絶されたということになるかと思います。しかし、私には、主の前に全てを投げ出したザアカイよりも、この役人の方に共感し、あるいは自分を重ね合わせてしまうところがあります。

実際に、この役人の中には、私たちの姿が投影されているのではないかと思えるところがいくつかあります。

そのひとつ目として、すべての戒めを守ってきたこの役人は、自信たっぷりに自分の正しさを誇っています。

私たちは、そこまではいかなくても、自分はそんなに悪い人でもないと思っているのではないでしょうか。自分は、完璧に正しい人間とは言えなくても、不正をしたり、人の物を取ったことはない。そこそこ、神に愛される資格のある人間ではないだろうか?しかし、パウロの言葉に次のようにあります。

第一コリント
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

この世で見下されてきたものとして、イエス様の前にへりくだったザアカイの方が、主の祝福を受けました。一方で、役人の姿は、神の御前で自分を誇る気持ちを完全に捨てきることができない、私たちの罪を浮き上がらせるものとも言えます。

そして、二つ目の点として、この金持ちは、財産を売り払いなさいと言うイエス様のことばに従うことができず、立ち去っています。

私は、この話を読んだとき、この若い役人に大いに同情しました。金持ちでなくても、自分の財産をすべて、貧しい人々に施しなさいと言われて、その通りにできる人がどのくらいいるでしょうか?

私たちも、イエス様の弟子となって、御言葉に従って生きるという決意を示すためには、持っているものをすべて処分しなければいけないのでしょうか?このことを考えるために、イエス様と彼の対話を振り返ってみます。

主はこの男に、いろいろな戒めを守っているかを尋ねました。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』この中に、この戒めは入ってません。

出エジプト記
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

この役人の心が、神と同じように富にも向けられていることに主は気付かれたのではないでしょうか?

『あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。』このことばを聞いた役人は、自分が富と言う名の偶像を拝んでいることを認め、悔い改めるべきだったのですが、彼はそれをしませんでした。

第一テモテ
6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

たよりにならない富と言う名の偶像を拝むことをやめ、必要なすべての物を備えてくださる主に信頼しなさいという命令です。イエス様が、この役人にしようとしたことは、神以外のものにたよる心を消すことであり、主は今も、私たちにも同じように働きかけておられるのではないかと思います。

金持ちの役人の運命

この若い役人はしかし、主が示された救いへの道を受け入れることをせず、悲しみのうちに去ってゆきました。では、この金持ちの役人にとって、主と出会ったことは全く意味がなく、むだだったのでしょうか?

この箇所を読む限りは、そのようにしか、思えないかもしれません。しかし、私は、この役人は、イエス様のことばを直接、聞くことによって、心の中の暗闇に光が当てられたのではないかと思います。

この役人は、イエス様と出会うことがなければ、自分は戒めを守る立派な信仰者であると信じ続け、一方では、富という偶像に仕えていたことに気づかないまま、偽りの信仰に満ちた生涯を終えたかもしれません。このとき彼には、自分の中の偶像崇拝とじっくり向かい合い、悔い改めを始めるきっかけを与えられたと考えることもできます。

イエス様がこの若い金持ちを永遠に拒絶したのではなく、この人には、これからの人生のどこかで主の救いを受け取る希望が残されています。このことは、この会話の中のただひとつの言葉に表されております。

マルコ
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。・・・・」

イエス様は、この人を非難して言われたのでもなく、その尊大さに呆れかえったのでもありません。この人を、『いつくしんだ』とあります。主がこの青年をあきらめ、見捨てることはないという事実が、この『いつくしんで』ということばに示されています。

この青年も、いつか、この世の富を投げ出して、イエス様の真の弟子になることを選ぶ日が来るかもしれません。そのときこそ、彼は、望んでいた永遠のいのちを受けることになるのではないかと思います。

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