2003年4月13日日曜日

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。
ディーター・シェーファー兄(通訳ベック兄)
御代田喜びの集い、2003年4月13日

イザヤ
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4  すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5  このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
40:6  「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
40:7  主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
40:8  草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9  シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
40:10  見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。

愛する日本にある兄弟姉妹。メッセージをする前に、ドイツにある多くの兄弟姉妹よりよろしくと伝えます。

とくに3年前に、御代田に来られた兄弟姉妹からもよろしく。もちろん、アイドリンゲンからもよろしく。そして、ドイツで多くの家庭集会、祈り会で、あなたがたのことを覚えている兄弟姉妹からもよろしくとのことです。

私たちに主に属する者として、外国に行くと、もっともすばらしいものは何なのでしょうか?どこへ行っても、私たちは「家に帰る」ような気持ちです。だからこそ、私たちはあなたがたと交わることができるのがうれしくて仕方がないのです。

確かに私たちは、もう十何時間、飛行機に乗って家に帰った気持ちです。いつ「家に帰る」という表現が使われますでしょうか。待ち望まれた時ではないでしょうか。期待された時。成田の飛行場で3人の姉妹たち、それから、御代田に来て、みんなに会えたのは感謝なことです。ほんとうにあなたがたに愛されていることに感謝せざるを得ません。

今から少し、聖書を開いて、聞く耳を持ちましょう。もっともすばらしい、良きおとずれを伝えることができるのは、私の喜びです。今の時代は争いの時代であり、戦争の時であり、苦しみの時代です。みことばとは生きる希望を与えるメッセージそのものです。

1942年、ドイツで多くの信者たちが、イザヤ書を学ぶようになったのです。確かにイザヤ書とは、イエス様が来られる700年前に書かれた本なんですけど、しかし、イザヤ書の中にこそ、新約聖書の全部のメッセージが含まれています。だから、四つの福音書がありますけど、イザヤ書こそが五番目の福音書と呼ばれています。

いったいどうして1942年、多くの人がイザヤ書に慰めを求めたのでしょうか。1942年は、ヒトラーと将軍たちが、いろいろなことについて相談したのです。そのとき相談した内容は、ユダヤ人をみんな殺しましょう。すなわち、イスラエルという国が存在するようになってはいけないし、エルサレムもみな忘れてもらいたい。

結局、ユダヤ人が一人残らずいなくなれば、問題はなくなると当時の人は思ったのです。ヒトラーは、主によって選ばれたイスラエルを攻撃することによって、何を得たのでしょうか。そのときまでドイツは、どこの戦線でも勝利を得ていましたが、ユダヤ人を殺そうと思った瞬間から、戦線は全部おかしくなたのです。モスクワより東のスターリングラードで、数えられないくらいのドイツ兵が餓死してしまったのです。

それから、結果はドイツの敗北だけでなく、イスラエルという国ができるようになったのです。ユダヤ人は、考えられないほど苦しんだのです。しかし、それは、全ての全てではなかったのです。そのとき、六百万人のユダヤ人、1/3がヒトラーによって殺されてしまったのです。

しかし、多くの人が苦しんだのではなく、今の時代も数えられないくらい多くのひとが苦しんでいます。たとえば、ドイツで、多くの学校の卒業生が必死になって働こうとしても、働く場がない、ということも悲劇的です。おそらく、大部分の大学を出た人がドイツで勤め先がない。もちろん、日本でも多くの人が仕事を捜し求め見つからないのではないでしょうか。

それから、教会の状態について考えたら、望みがあるのでしょうか?教会はいったいどこへ行くのでしょうか?一般的に言えば、ドイツのキリスト教の教会は、メッセージのないものになった。結果として命のない教会から離れて、カリスマ的な教会に行ってしまう人々も多いです。でも、そこで望んでいるのは、みことばだけでなく感情的な高揚です。

われわれの信仰の土台はなんでしょうか?イザヤ書を見てましょう。イザヤ書の中で主なる神の義について、主によってよしとされることの大切さについて多くのことが書かれています。

ドイツの宗教改革者、マルチン・ルターは、ローマ人への手紙を通して、開かれた心の目を持つようになったのです。けど、イザヤはずっとその前に上から示されたのです。イザヤ書こそが旧約聖書の中心になるものなのではないでしょうか。

このイザヤ書を通してこそ、まことの慰め、力づけが与えられているのです。この本とは誰が書き、誰に書かれ、そして内容とはどういうものなのでしょうか?この手紙を書いたのは誰でしょう?旧訳聖書の中で多くの人物が出てきますが、この本を書いたのは、ひとりの主によって遣わされた預言者でした。預言者たちの勤めとは、約束された救い主であるイエス様を中心にすることでした。パウロは、エペソ人への手紙の中で次のように書いたのです。

エペソ
2:20  あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

ヘブル
1:1  神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2  この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

預言者たちの主な使命は、主イエス様の栄光を現すことでした。預言者たちとは魔術者でもないし、自分の考えてることを発表したひとでもなく、上から示されたことを、人間として述べ伝えた人にしか過ぎなかったのです。預言者なる者は主イエス様を示すものです。預言者とはこのすばらしい使命に召された者であります。

たとえば、学校を卒業する学生は、卒業したら何をやりたいか、だいたい考えるのではないでしょうか。しかし、しばらくすると、やはりその時、思ったことは良くなかったと思うようになるかもしれません。そしたら、別の仕事を探すようになるかもしれません。ドイツで定年になった人でさえも、まだ何かしようと考えています。言いたいのは、預言者になろうと思ってもなれるものではない。職業ではないからです。

主によって特別に選ばれた人たちです。イザヤ書40章の6節からの箇所は、次のような意味を持つものでしょう。ここで預言者は何を伝えるべきかと書かれています。

イザヤ
40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

語れ。呼ばわれ。すなわちこれは命令であり、この命令に従うことが要求されています。預言者たちは、主に召された時、もうどうしましょう、言葉がなかったのです。

イザヤは祭壇の前で主に出会ったのです。アモスという百姓の場合は、いっぺん召されたのです。エゼキエルも、ヨナも一度、逃げようと思ったのですけど、主によって捕まえられたのです。彼らはみな主によって召し出された僕(しもべ)たちなのです。この主によって召しだされた人たちは、自分の言ってることは正しいことかどうかと疑問を持ったことがありません。どうして彼らは、預言者として主に仕え続けたかというと、主が憐れんでくださったからです。

もうひとつ、預言者たちは選ばれただけでなく、彼らは召し出された者であります。主よ、私はここにいます。私を遣わしてくださいと。もちろん、預言者たちは、良く通る管のようなものであり、用いられる器です。

彼らの述べ伝えたのは、自分の考えたことではなく、主から聞いたことだけでした。言うまでもなく、預言者たちはひとりひとりまったく違う。似ている人はひとりもいない。すなわち、主は、人間ひとりひとりを人形として遣わそうとはしなかったのです。みんな、やはりまったく個人的に用いられました。預言者ひとりひとりについて考えるとわかります。イザヤは王様のようなものでした。アモスとは、非常に頑固で意志の強い男でした。エレミヤは悲しみの人でした。エゼキエルはほんとうに勇気ある預言者でした。すなわち、預言者たちは、皆、一人一人まったく違いましたが、それぞれに、皆、主に用いられたのです。

もちろん、今日の兄弟姉妹のことを考えてもわかるでしょう。皆ひとりひとり全く違う。けども関係なし。主はひとりひとりを用いようとされています。預言者たちとは、主にイスラエルの民のために遣わされたものであり、その後、異邦人たちのためにも遣わされたのです。結局、主ご自身が支配しておられ、背後に導いておられるのです。主は、人間のひとりひとりのことを考えて、福音を宣べ伝えるように命令しておられます。

確かに聖書の中で、主なる神はアブハムの神であり、ヤコブの神であり、イサクの神であられますが、それだけではなくて、アブラハムとハガルとイシュマエルについても多く書かれています。ユダヤ人にも、パレスチナ人にとっても、大切なことではないでしょうか。預言者たちは、両方の人のために遣わされました。彼らは今、言ったように主によって召しだされたし、そして、主によって遣わされたし、そして、自分の思いや考えではなく、主の御心、みことばでした。

ある人々はね、なんですか、ついてる関係によって影響を受けてるといわれます。もしかすると、御代田の人間と、東京の人間は全く違うかもしれない。はっきりわからないけど。もちろん、人は家族によっても影響を受けています。どなたか現れると、「ああ、あの家族の人か。」そしたら、だいたいどういう人かわかります。あるいは、人間は、自分の職業によっても影響を受けているでしょう。私は先生、校長先生ですが、ドイツでなにかあれば、「ああ、先生か」とよく言われます。

預言者たちの影響されたものとは、主の言葉でした。たとえば、選ばれた祭司たちは、祭壇のところで奉仕しました。預言者たちは、祭司たちとちょっと違う使命を持っていたのです。「見よ、主の栄光が現れる。主が、王として来られる。」、これが預言者たちのメッセージでした。主は来られるお方です。すなわち、預言者の宣べ伝えたメッセージとはそれでした。主は来ますよ。主は来ておられるから、悔い改めよ。ふるさとに帰りましょうよと、宣べ伝えたのです。回心する必要性について、心のふるさとに帰る必要性について宣べ伝えたのです。

もうひとつとは、彼らは、主を恐れる恐れを持っていた人たちでした。そして、彼らはただひとつの目的を持って走るものでした。彼らは、来られる主を心の目で見た人たちでした。預言者たちの特徴は、主が来られます。この朝、来られるかもしれませんと。主が来られることによって、全てが変わると確信しました。

預言者たちとは、永遠な世界について考えたし、永遠の世界から来る主について喜んで証ししたのです。預言者たちとは結局、主を仰ぎ見ながら主の前に立つ人々であります。
預言者たちとは結局、われわれの近くにあり、預言者の言葉、主の言葉はわれわれのためにも与えられているのです。預言者たちこそが主の現れを慕う者でした。わたしたちも預言者たちと同じように、主を待ち望むべきではないでしょうか。

この言葉を書いたのはイザヤという預言者でした。イザヤはどうしてこの言葉を書いたかといいますと、当時のイスラエルの民は非常に悩んで苦しんでいたからです。そのとき、イスラエルの民は、もうすでに60年間、バビロンという外国で住むようになっていたのです。すなわち、主によって選ばれた民は、異邦の支配のもとで苦しむようになったのです。彼らは、自由に集まることも、いっしょになって主を礼拝することもできなかったのです。詩篇によると、彼らはバビロンで泣いた。泣きながら過ごしたとあります。何の希望もないのが、彼らの状態でした。どうすれが良いかわからないし、結局、完全に失望してしまったのです。失望して目的のない人生を送るようになたのです。

もうひとつ、その預言者たちの宣べ伝えた内容とはなんなのでしょうか。

イザヤ
40:1 慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。

いったいどうして、二回も、『慰めよ、慰めよ』と、書かれているのでしょうか。主はどういう目的を持っているかと思うと、主は慰めたい、慰めたい、慰めたいと望んでおられるからです。主は、同情したいとは思っていない。

普通の母親は、必ず、ときどき慰めないといけないのではないでしょうか。もう、子供は走って転んで大声で泣きます。でも、母親に抱かれて慰められます。こういうふうに人間は子供を慰めることができるのです。大人になると、やはりアルコールこそが唯一の慰めと思う人もいる。また、ある人はきれいな言葉で慰めようと思うでしょう。けど、主なる神の慰めはそういうものではありません。主は、本当の慰めを与えようと望んでおられるからです。

もちろん、主は一時的な問題だけを解決しようとは思っていないのです。主は、軽い気持ちで慰めたいとも思っていないのです。主は、慰めてくださり、本当の意味で励ましてくださり、暗い穴から引き上げてくださるのです。主は、主にみことばでもって、私たちを力づけたいと望んでおられます。

イザヤ
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」

『エルサレムに優しく語りかけよ』とあります。意味は、イスラエルの民の心に語り掛けなさい。単なる知識を与えられることで人間は慰められません。民の心に語れと。主は本当の慰めを与えたいと、心から望んでおられます。もちろん、エルサレム、イスラエルの民、主に属する人々は、みな慰められるべきです。やさしく兄弟姉妹に語り掛けなさい。兄弟姉妹は、本当慰められ、力づけられ元気になるように。

主は、どうして慰めたいのでしょうか?それは、今の時期とは考えられないくらい、大切な時代であるからです。昨日、私たちが来た時に、雨が降っていたのですね。もう雨が止んで太陽が照ってきた。これも、ちょっとひとつの変化。この呼びかけとは、やはり、そういうものではないでしょうか。

主は、もう怒っているお方ではなくて、慰めたい気持ちでいっぱいです。確かに、イスラエルの民は裁かれるようになり、大いに悩むようになりましたが、それは終わりではなかったのです。主は裁くお方ではなく、憐れみ深いお方です。『慰めよ、慰めよ、わたしの民を。』それは、どうしてそんなに大切なのでしょうか?今のときこそが、考えられないくらい、大切な時であるからです。

主は、怒るお方であるよりも、恵み深いお方です。人間の債務は支払われたから、主は赦すお方です。囚われ人とは解放されるべきです。このすばらしい知らせとは、イスラエルに与えられたものであり、われわれのためにも与えられたものです。

私たちとは、もちろん、いろいろなことを経験します。若かった時は力持ちだったかもしれない。そのときも、大切な時でありましょう。もちろん、若者こそが考えるべきです。はっきりした目的を持たなければ、あなたの人生は的外れです。それから、だんだん年をとると、同じように大切な決断が要求されています。大した問題はないかもしれないし、問題があってもなんとなかなるという自信を持つようになるかもしれません。

たとえば昨日、結婚したおふたりは、うれしかったし、今から、ずっと同じだったら非常にありがたいのではないでしょうか。私たちはどういう状況におかれていても、大切なのは、はっきりした目的を持つことです。はっきりとした目的を持って走るべきです。夫婦として、あなたがたははっきりとした目的を持っているのでしょうか?ご存知のように、急に人は倒れて病気になります。眠れない時もあるし、どうしたらよいか困るときもある。しかし、主は必要のない悩みを与えにならない。主はいつも、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と、呼びかけています。

どうして慰めるべきなのでしょうか。主は今から自分の教会をたてようと望んでられるからです。

預言者たちには、「主のための道を備えよ」、という使命でした。昔はえらい人が来る前に、きれいな道が作られました。ある人は、私の人生について考えると、高速道路でも舗装道路でもないし、もうめっちゃくちゃですよと言うかもしれない。私の人生は荒地で、荒野といわれるかもしれない。どこを見ても何の希望も、平安も、喜びもないと。私たちはどういう状況でも、4節をみるべきです。なぜなら、本当の慰めが与えられるからです。

イザヤ
40:4    すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

あなたの前にある山とはどういうものか、ちょっとわからない。あるいは、どのような谷に落ちてしまったのかもわりません。けれどもこの4節は、私たちひとりひとりに書かれたのものです。すばらしい。主は、全てにまさって偉大なるお方です。主は来られます。だから、希望を持ちなさい。

慰めよ、慰めよ、わたしの民を。いったいどうしてでしょうか?主は来られるからです。慰めよ、慰めよ、わたしの民を。どうして慰められるべきでしょうか?主が来られることを、約束してくださったからです。

イザヤ
40:9    シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」

結局、どういう方法でもってか、ともかく、主が来られることを宣べ伝えなさいとあります。イエス様が来られることを伝えなさい。福音とは、誰でも聴くべきよい知らせです。あなたは、どういうことで悩んでるかわかないけど、主ははっきり言われます。「希望を持ちなさい。勇気を出せ。」

私たちは、日本へ来る前の日に友だちから電話をもらいました。前に何も話さなかったんですが、急に次のように言いました。彼は、「聞いて、聞いて、心配しないでください。恐れてはいかん」と言ったのです。あなたがたは、飛行機に乗っても心配しなくてもよい。主はなんでもできるお方であり、守ってくださる。それを考えると心配せずに、どこに行っても平気なのではないでしょうか。

しかし、この言葉とは、人間ひとりひとりのために記されているものです。主は、背後に支配しておられ、守ってくださるお方です。この確信こそが、まことの慰めの源です。

イザヤ
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。

アーメン。

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