2023年3月22日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】20.悪魔に対するミカエルの戦い

20.悪魔に対するミカエルの戦い

黙示録12章7節から12節まで

1.戦い
[1]戦いの場所
[2]戦いの時
[3]戦いの目的
2.戦う者
[1]ミカエルとその使いたち
[2]竜とその使いたち
3.武器
[1]小羊の血
[2]証しの言葉

私たちはこれまで、「イエス様に対する悪魔の戦い」について学んできました。次に、「悪魔に対するミカエルの戦い」について見ていきましょう。

(7)さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、(8)勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。(9)こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。(10)そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。(11)兄弟たちは、子羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(12)それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12・7~12)

黙示録13章7節から12節までに記されていることを要約すると、次のようになります。

「天における大きな戦い」、「サタンの天からの堕落」、「見えない世界における悪魔の敗北」、「試みる者と訴える者の敗北」、「悪魔に対するミカエルのさばき」、「悪魔の敗北に対する、天における喜び」、「悪魔に対する、さばきの第一の段階」。

これらを、「戦い」、「戦う者」、「武器」という三つの部分に分けて考えていきましょう。ここには、恐ろしい戦いのことが記されています。

1.戦い


「悪魔に対するミカエルの戦い」がどのような戦いであるかを、黙示録1章7節から学んでいきましょう。まず、「戦い」には「場所」と「時」、そして「目的」があります。

[1]戦いの「場所」


まず、この戦いの「場所」がどこであるかを考えてみましょう。

今日、世界には、いかなる平和も存在しません。人類の堕落以来、この地上から平和が取り去られてしまったのです。聖書は、「神を離れている者には平安がない」と言っています。

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。(創世記3・15)

この時以来、神と悪魔、光とやみとの間には、絶え間ない争いが起こっています。悪魔は「神に等しくなろう」としました。このような「高ぶり」が神に対する反逆となったのです。この結果、悪魔は天の御国から追放されてしまいました。

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。(イザヤ14・12)

悪魔の罪は、「高慢」でした。

高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。(第一テモテ3・6)

ルカの福音書の中でイエス様が弟子たちと語られた時、イエス様は、この悪魔の追放のことを思い浮かべておられました。

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10・17~20)

その時以来、悪魔の住みかは天に置かれていますが、もはや神の「御座近く」ではなくなったのです。悪魔の住みかは、今では「空中」に置かれています。次のみことばは、「空中の権威を持つ支配者」としての悪魔を示しています。

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2・2)

また、「空中」とは、私たちの「戦いの場所」でもあります。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)

私たちの戦いは、イスラエルの民のように「人間」に対するものではなく、また「地上」のものに対するものでもなく、「空中において権力をもつ、悪魔の霊」に対する戦いなのです。

黙示録12章に記されている、「戦いの場所」も、「地上」ではなく「天上」でのことです。この戦いの結果、悪魔は地上に投げ落とされるのです。しかし黙示録を読み進むと、この戦いがその先も続いていることがわかります。

また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。(黙示19・19)

この戦いは、さらに悪魔が、地上から「底知れぬところ」へと投げ落とされることによって本当に終わるのです。

また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印をして、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。(黙示20・1~3)

この戦いは連続した一つの大きな戦いですが、戦いの「場所」によって、三つの段階に分けられます。悪魔はまず、第一段階として「天上から、空中へ」落とされ、第二段階として「空中から、地上へ」落とされ、最終段階として「地上から、底知れぬところへ」と落とされるのです。私たちは、主が罪の成熟する時を待っておられ、罪が成熟する時にその罪をさばかれる、ということを見てきました。罪の成熟と、これに対するさばきと判決とは、激しい「戦い」を意味しているのです。

[2]戦いの「時」


次は、戦いの「時」です。戦いは、昼も夜も絶え間なく続けられています。すべての信者は、常に激しい戦いの中に立たされているのです。

この戦いには、二つの段階があります。その第一段階は、はるか以前に起こり、悪魔は、天上から空中へと投げ落とされました。そして、戦いの第二段階が、黙示録12章7節から12節に記されています。その期間は、千二百六十日、つまり三年半であることが、みことばによってわかります。黙示録12章6節と14節には、次のように記されています。

女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。・・・・しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。(黙示12・6、14)

これらが起こる「時」は、教会の携挙のあと、つまり、反キリストの時代の中頃です。テサロニケ人への手紙第2の中で、パウロは、教会と聖霊とが地上を去った後にこの「時」が来ることを示しています。

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止めるものがあって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(第二テサロニケ2・3~7)

このみことばで、不法の人、滅びの子の出現を引き止めているものは、6節では「教会」を意味し、7節では「聖霊」を意味します。教会は聖霊の宮です。ですから、教会が引き上げられる時には、聖霊も共に引き上げられるのです。

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22・17)

教会と聖霊とが地上から引き上げられる時、悪魔は妨げられることなく活動することができるようになります。

そして、「戦いの最終段階」は、千年王国の後にやってきます。この戦いは、悪魔が火の池に投げ込まれることをもって終わります。

しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・7~10)

[3]戦いの「目的」


この戦いには、二つの目的があります。一つめは「悪魔に対する神の判決」であり、二つめは「天にある遺産の信者たちによる相続」です。

この戦いで、誰が勝利を得るかということは、問題ではありません。なぜなら、勝利はすでにイエス様の十字架の死によって勝ち取られているからです。イエス様は十字架で、サタンに完全に打ち勝たれました。しかし、その判決は、段階的に宣告されるのです。

主が悪魔をさばかれた時、天上から直ちに火の池へと打ち落とすこともできました。しかし、主は、まず悪が成熟することを望まれたのです。最初に悪魔の敗北が明らかにされなければなりません。そしてその後で、悪魔は火の池へと投げ込まれなければならないのです。

悪魔が天上から追放されたとき、「贖われた者たち」が、悪魔が追われた場所を受け継ぐことになったのです。私たちは現在、相続権を持つ者です。

2.戦う者


次に、「戦う者たち」について考えてみましょう。一つめは、「ミカエルとその使いたち」であり、二つめは、「竜とその使いたち」です。ここで大切なのは、それらが「象徴」ではなく、「現実」そのものである、ということです。

ですから、「戦う者」としてここに現われるのは、主やイエス様ご自身ではなく、「御使いのかしら」であるミカエルなのです。これに対して悪魔は、自分も同じように使いの者を遣わすということはせず、自分自身が使いの者たちを引き連れて対抗するのです。

[1]ミカエルとその使いたち


ミカエルという名前は、「誰が神のようでありえようか」という意味です。

これに対し悪魔は、「神のようになろう」としたのです。そして、その高ぶりのために天使長の座を追放されました。この悪魔はまた、エデンの園でエバとアダムを誘惑し、「あなたがたは神のようになれる」と言いました。

この悪魔に対し、天使ミカエルが、「誰が神のようでありえようか」という明らかな名前をもって対抗したのです。ミカエルは、神の義のために、栄光のために、主が唯一のお方であることを示すために、立ち上がったのです。

これに対して悪魔は、自己の正しさ、名誉、偉大さを見せようとします。

私たちはダニエル書の中に、この戦いの前兆を見ることができます。

ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」(ダニエル10・10~14)

主はダニエルに対し、諸国民の歴史やさばきを通して現わされる主の勝利を示されました。しかし、ダニエルはその幻を理解することができず、新たな光を求めて祈ったのです。このときに、主は御使いを遣わされ、幻の解き明かしを与えられました。しかし、この御使いが地上に向かう途中で、悪霊のかしらである御使いと出会いました。悪魔はペルシヤの王に力を与え、ダニエルに遣わされた御使いがダニエルのもとに着かないようにと試みたのです。しかし、人間に過ぎないペルシアの王は、天から遣わされた御使いを妨げる力を持ってはいませんでした。

私たちはまた、一晩のうちに十八万五千人のアッシリヤ人を滅ぼした、主の使いについての記録を読むことができます。

その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。(第二列王記19・35)

私たちは、悪魔がこの地上に対して支配権を持っているだけではなく、「実際に」この地上を支配していることを見るのです。

ミカエルについては、ダニエル書の中に、次のように記されています。

しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(ダニエル10・21)

その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。(ダニエル12・1)

ダニエル書によると、ミカエルはイスラエルの民と密接なつながりをもっている御使いです。ミカエルはイスラエルの民を守り、イスラエルの民のために戦う御使いなのです。ダニエル書の中でしばしば、「あなたの民」という表現に出会います。これは、イスラエルの民を意味しています。ミカエルはイスラエルを守り、イスラエルを保護する者です。

ユダの手紙9節で、ミカエルは「御使いのかしら」として記されています。

御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。(ユダ9)

ここでも、ミカエルとイスラエルの民とのつながりが見られます。すなわち、モーセというイスラエル人のからだについて論じています。イエス様が教会の携挙のために再臨される時、ミカエルもともにいるのです。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・16~17)

[2]竜とその使いたち


次に私たちは、「竜とその使いたち」について考えてみましょう。

竜である悪魔は、激しくミカエルに逆います。悪魔は神に敵対する者ですが、もちろん神とは比べものにならない者です。しかし、ミカエルとは比べられるのです。なぜなら、悪魔もミカエルも、ともに神よって創られたものであり、ともに御使いのかしらだからです。「神に等しくなりたい」というごう慢な思いのために、神は、この御使いのかしら、今の悪魔を、天上から追放されました。神は、いかなる被造物も近づくことのない「光の中」に住んでおられるのです。

ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。(第一テモテ6・16)

しかし、すでに述べたように、悪魔はまだ天上にとどまっているのですから、神の御前に現われる可能性があります。

ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」(ヨプ1・6~9)

ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには、皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」(ヨプ2・1~6)

主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」(ゼカリヤ3・1~2)

主は、かつて「光の天使」だった悪魔に地上の支配権を与えようとなさったのですが、悪魔はその高ぶりによって、主の御座近くにはべる特権を失っただけでなく、その支配権をも失いました。神が人間を創造され、この地上の支配権を人間にゆだねられたからです。そこで悪魔は人間を誘惑し、自己の支配下に置いたのです。こうして、地上は悪魔の支配下におかれるようになったのです。

主は、悪魔が逆らったすぐ後で、悪魔を滅ぼされることができたでしょう。しかし主は、悪魔に対しても公平だったのです。それは、悪魔が世の終わりに、「私なら、神よりもさらにすばらしい世界を創造することができただろうに。しかし神は、私にその時と機会を与えなかったのだ。」と言わせないためでした。

悪魔は世界の支配権を求めています。しかしその支配権は、イエス様の手の中に置かれています。イエス様は、悪魔を十字架で滅ぼされました。そして、その証拠として復活され、昇天されたのです。イエス様は、御座に「支配者」としてついておられるのです。

主の判決は、悪魔に対して段階的に定められます。つまり、悪魔は裸にされ、打ち負かされ、天から投げ捨てられるのです。

また、聖書の中で、悪魔には「竜」、「古い蛇」そして「悪魔」という異なった三つの名前が与えられています。その名前の意味するものとは何でしょうか。

まず「竜」は、敵対的な力を表わしています。竜は恐ろしく、また残虐な生き物です。次に「古い蛇」は創世記にあるとおりエデンの園に現われました。蛇はずる賢く、また残虐な生き物です。そして「悪魔」は神の敵対者という意味です。悪魔は、アダムとエバに神の悪口を言い、神の前でヨブの悪口を言いました。また悪魔は、大祭司ヨシュアの悪口をも言いました。悪口は、悪魔の最も有効な武器です。悪魔は、信仰をもつ者同志が互いの悪口を言いあう時に、たいへん喜びます。悪魔は神に敵対するだけでなく、すべての信仰者にも敵対するものです。

ミカエルは、神の正義と神の栄光のために戦い、同時にイスラエルの民を守り、保護します。これに対して悪魔は、イスラエルを守りもせず、保護することもしません。

悪魔は誘惑し、そして訴えます。イエス様は、悪魔こそが偽りの父であり、人殺しの初めであると言っておられます。人々は殺人、盗み、姦淫などの行為そのものが「悪」であると考えがちですが、それらのものは「悪の結果」に過ぎないのです。「悪」の実体とは、天上にいる悪魔自身なのです。この悪魔が、「神に等しくなりたい」という思いを抱かせようとして、人間の心を誘惑しているのです。

そこで、蛇は女に言った。「あなた方は決して死にません。あなたがそれを食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3・4~5)

悪魔は、神から独立し、人間を神から引き離そうとします。悪魔は人間を試み、悪巧みをもって人を誘惑し、不従順の道へと引き入れます。そして、人がその罪に陥る時に、神の前でその人を訴えるのです。

悪は、時には善のように見えることがあります。ですから、悪魔も時には「光の天使」のように見えることがあります。イエス様が捨てられ、十字架にかけられた時も、まさにそのとおりでした。イエス様に逆らったのは不品行な人たちではなく、民の中の選ばれた人たち、つまり聖書学者、愛国心を持つ人々、律法学者、宗教的な指導者たちなどが、イエス様に逆らったのです。

しかし、そのことによって悪魔は、その本質を明らかにしました。油注がれた救い主に逆らう、というできごとをとおして、見えない世界に住む天使たちの前にも、悪魔の本質が明らかにされたのです。

信者たちの罪を神の前に訴える時、しばしば悪魔は物事の真理をついていることがあります。なぜなら、罪は必ずさばかれなければならないからです。しかし、イエス様を訴えることによって、悪魔は自らが偽り者だという本質を明らかにしたのです。

人間の目には悪く見えないことが、実は悪魔的であるということがよくあります。たとえば、信仰をもつ者が、自分の判断と自分の力によって行動することは、悪魔的です。聖書の真理性を疑うことも、悪魔的です。人間の智恵によって神のおきてを破ること、たとえば、「生まれ出ようとする子供の生命を勝手に奪うこと」も、悪魔的です。主への不従順と自己愛を抱きながら、何かのために努力することも、悪魔的です。

「光の天使」を装った悪魔は、主への従順、信頼、献身から人間を引き離そうと誘惑するのです。悪魔は、人間を「疑い」や「自分に拠り頼むこと」、そして「自己主張」へと誘おうとしているのです。

悪魔の行いはまた、次のように説明することもできます。

悪魔は主のみことばを小さくし、人が罪を犯すことを恐れないようにしむけます。創世記の3章に書いてあるように誘惑するのです。そして、誘惑され、悪魔に説き伏せられてしまった人々を、今も、天の法廷に訴えているのです。この時、悪魔は「罪を犯す者は、死ななければならない」という、神のおきてを持ち出すのです。

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(エゼキエル18・4)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)

悪魔は神のおきてに基づいてさばきを要求します。その時悪魔は、神の力をもって人を滅ぼすのです。神は、人を生きるように作られましたが、悪魔はこれを滅ぼそうとしています。

私たちの時代の特徴とは何でしょうか。至るところで人々は、嘘をつかれることをあらかじめ予想し、嘘の中で生活しています。イエス様は、「真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」。(ヨハネ8・44)と言われたのです。

(竜は)勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。(黙示12・8)

悪魔は、神とキリストに逆らうことによって、その本質が明らかにされ、神の前で完全に敗北しました。したがって、天には悪魔のいる場所がなくなったのです。黙示録12章において、悪魔は完全に天上から追放されました。この結果、悪魔はもはや人間を告発し、訴えることができなくなったのです。悪魔は、告発し、訴える「竜」としての存在だけでなく、告発し、訴える「場所」をもなくしたのです。

エゼキエル書27章には、海の中に沈んでいく豪華な船のことが記されています。この船が沈み、波に呑み込まれた時には、すべてのものが滅び、いかなる生き物も残されませんでした。

おまえのくずれ落ちる日に、おまえの水夫、船員、修繕工、おまえの商品を商う者、おまえの中にいるすべての戦士、おまえの中にいる全集団も、海の真中に沈んでしまう。だれかツロのように海の真中で滅ぼされたものがあろうか。・・・・おまえが海で打ち破られたとき、おまえの商品、全集団は、おまえとともに海の深みに沈んでしまった。・・・・とこしえになくなってしまう。(エゼキエル27・27、32、34、36)

同じことが悪魔にも起こったのです。すなわち悪魔は、そのいるべき場所を完全に失ったのです。

ミカエルとその御使いたちとは、悪魔と悪霊に対するこの判決を言い渡すように、召し出された者たちです。戦いの結果、悪魔は地上へ追放されることになりました。この勝利のゆえに、天上では大きな賛美の声が上ったのです。

そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えているものが投げ落とされたからである。」(黙示12・10)

私たちは、悪魔が昼も夜も告発と訴えをつづけるその熱意を見てきました。しかし私たちは、イエス様の完全な勝利を知っています。私たちは次のように、パウロとともに喜ぶことができるのです。

神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・・高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・33~35、39)

イエス様は、私たちのために絶え間ないとりなしの祈りをしていてくださいます。私たちは、聖書全体を通して、イエス様が「偉大な弁護人」であることを知るのです。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32)

「ですから、わたしを人の前で認めるものはみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタイ10・32)

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8・34)

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。(ヘブル7・25)

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ14・13、14)

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。(第一ヨハネ2・1)

主は、私たちに対するすべての告発を退けられます。なぜなら、イエス様の血潮が、すべての告発に対して答え、守ってくださるからです。

悪魔は告発し、訴える者です。私たちも他の人々を告発し、訴える者なのでしょうか。あるいは、他の人々のために祈る者なのでしょうか。私たちは他の人々のために重荷を負う者でしょうか。あるいは告発し、訴える者なのでしょうか。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(ガラテヤ5・1)

兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。(第一テサロニケ5・14)

私たちは勝利を得る者でしょうか。あるいは敗北する者でしょうか。

さて、黙示録12章の7節から12節にもどりましょう。

ここには、悪魔に訴えられる人々の勝利について書かれています。彼らは何によって悪魔に打ち勝ったのでしょう。ミカエルによって打ち勝ったのでしょうか。そうではありません。では、彼らの武器は、いったい何だったのでしょう。

3.武器


彼らの武器は、まず「小羊の血」であり、そして彼らの「証しの言葉」です。

[1]小羊の血


小羊の血とは、イエス様の血です。イエス様は神の子羊です。

その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1・29)

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ1・18、19)
·
私たちがむなしい生き方から贖い出されたのは、イエス様の身代わりの死によってでした。私たちは、イエス様の十字架の死によって、悪魔に対する鎖から解き放たれ、主にしっかりとつながれたのです。

かつて、アベルの血はカインを告発し、訴えました。

さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。(ヘブル12・24)

しかし、イエス様の血は私たちを告発したり、訴えたりすることがなく、私たちのとりなしをしてくださるのです。

イエス様の血は、罪に対する完成されたさばきと罪の贖い、また赦しを語っているのです。イエス様の血が流されたことによって、私たちに神との平和が恵まれました。そしてイエス様の血は、私たちを悪魔の奴隷から贖い出してくださったのです。

かつてスポルジョンは、次のようなことを話しました。「ある男が、革命家たちに殺されそうになりました。その時、男の友人が出てきて、国旗をとり出し、男にまとわせたのです。そして革命家に言いました。「この国旗の国と問題を起こしていいのなら、今すぐこの男を撃て」。革命家たちは、国と問題を起こすことを恐れて男を撃てなかったので、この男は救わました。

この国旗のたとえと同じように、イエス様の血は私たちを包んでくださるのです。私たちの背後には、イエス様が立っておられます。私たちは贖われてイエス様のものとされました。だから、「悪魔は私たちに対して何もなしえない」。と言うことができるのです。

悪魔に対する勝利は、私たちの功によるのではありません。信者は自分の力で悪魔と戦うことはできません。また私たちは、「勝利のために戦う」のではありません。すでに勝ちとられたイエス様の勝利をもとにして、戦うのです。私たちの努力によるのではなく、イエス様の勝ちとられた権利によって、私たちは勝利を得るのです。イエス様の血が、私たちを守ってくださるのです。イエス様の血は、私たちの罪の赦しと、義とされることを証ししています。

そして、私たちが義とされて罪の赦しを受けているところでは、もはや悪魔は何の力も持ちえません。悪魔は、私たちが福音について語ったり、貧しい人を助けたり、正しい行いをしようとしたりする時には、あまり反対をしません。しかし、私たちがいったんイエス様の血潮について語ろうとすると、大変激しく反対をするのです。

イエス様を信じる者の武器は、「小羊の血潮」と「証しの言葉」です。この二つの武器による戦いを通して、信じる人々の前に力強い証しをするのです。イエス様にある者の勝利は、このようにしてもたらされなければなりません。

[2]証しの言葉


証しで重要なのは、証しをする人ではありません。ゴルゴタで十字架につかれた、証しされるべきそのお方、イエス様こそが大切です。小羊イエス様についての知識や、信仰だけでは、証しとして十分ではありません。小羊イエス様の勝利を積極的に証しすることが大切です。私たちはしばしばそれについて語らず、沈黙をしてしまいがちです。しかし、小羊の勝利は、私たちの証しによって、明らかにされなければなりません。

私たちの武器は、「小羊の血」です。十字架のもとに静まることです。そして、「証しの言葉」です。勝利を全世界に向かって証しすることです。この二つの武器を通して私たちは、外からの敵に打ち勝つことだけでなく、内側の「自我」という敵に対しても打ち勝つことができるのです。しかし私たちは、どれほど自己を中心として生活することでしょうか。私たちは自己を中心とするか、あるいはイエス様により頼むかの、どちらかです。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ3・20)

「イエス様が栄え、私たちは衰えなければならない」。これがすべての殉教者の叫びです。「証し人」という言葉には「殉教者」という意味もあります。苦しみと死の覚悟が必要です。私たちが自我の生活を捨て去る時に、私たちは実を結ぶのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦(イエス様)がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12・24)

私たちは、十字架につけられて三日の後によみがえられたイエス様のみもとにひれ伏すことが必要です。その結果は、小羊イエス様への礼拝です。小羊イエス様の勝利を世界に宣べ伝えることこそが、私たちの使命です。それを通して私たちは、ほふり場へと引かれて行く小羊となり、また勝利者となるのです。

「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。(ローマ8・36)

イエス様を証しするということは、自分よりもイエス様を愛する、ということです。イエス様も、私たちが自我の生活を愛さなくなることを望んでおられます。

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16・25)

「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8・35)

「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9・24)

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12・25)

「生活」、あるいは、「いのち」という言葉は、ギリシヤ語では「たましい」という意味です。それは考えること、感ずること、そして欲することです。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10・11、15)

私たちは、自分自身を否定することが必要です。イエス様の勝利が生活の中で明らかにされるためには、自己否定、そしてイエス様のために苦しむことが必要です。

私たちは毎日、証しをし、苦しむか、またこの世に妥協してイエス様を否む態度をとるか、いずれかの選択の前に立たされています。私たちはどのような生活を送っているでしょうか。それは、自己愛と自己支配の生活でしょうか。あるいは、献身と、イエス様に忠実な生活でしょうか。

敵である悪魔は打ち滅ぼされました。私たちの武器のほうが優れていたのです。しかし、信者として私たちは、今もなお苦しい戦いの中にあります。悪魔は私たちをイエス様から引き離そうと試みています。悪魔は私たちに十字架を見上げることを妨げ、自分自身を見ようとさせるのです。このことによって悪魔は勝利を得るのです。

イエス様の流された血潮に感謝することを、毎日忘れないようにしましょう。このことによって、私たちは、もはや悪魔が何もなしえないイエス様の証人となることができるのです。

黙示録12章12節には、「天とその中に住む者たちには喜びが」、そして、「地と海とにはわざわいが来る」と記されています。喜びではなく、このようなわざわいがあなたに襲いかかってくるようであれば、あなたは悔い改めを必要としています。罪を悔い改めてイエス様の血潮に感謝をする者は、救いの確信を得るのです。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・7、9)

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける。(箴言2・13)

悪魔は地上を支配しようとしています。そして、大きな力をこの地上におよぼしています。しかし、地上に投げ落とされる時、悪魔は自分の時が短いことを知るのです。そして悪魔は、自分の時が短いことを私たちに知られたくないのです。しかし、悪魔が滅ぼされ、イエス様が再臨とともに勝利を明らかにされることは、ゆるぎない事実です。私たちは、心から、そのことを喜びましょう。

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