2023年3月19日日曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】19.神とメシヤに対する竜の戦い

19.神とメシヤに対する竜の戦い

黙示録第11章1節から1章6節

1.「女」とは誰か
2.「男の子」とは誰か
3.「竜」とは誰か

私たちはこれに先立つ黙示録11章15節から18節までの個所で、神の最終的な勝利の告知と、神への礼拝の言葉を見てきました。しかし地上の歴史においては、なお多くの苦しみがあり戦いは続きます。黙示録12章からはこの大きな患難の時代のことが記されています。

これまで学んできた黙示録の中には「開かれた天」のことが何度か出てきましたが、それはいつも何か新しいことの始まりを意味していました。最初は第4章にありました。

その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」(黙示4・1)

ここでは、教会が天に引き上げられ、七つの封印された巻物が開かれて、さばきの時代が始まることが記されていました。このさばきの時代は七年間続きます。
·
二番目に「開かれた天」のことが出てくるのが、ここ12章の始まる直前11章の最後の節です。

それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。(黙示11・19)

天にある神殿とその中にある「契約の箱」は、イスラエルの民のことを即座に思い浮かべさせます。これは、これから先、イスラエルを中心としたさばきがはじまることを示しているのです。

旧約聖書では「契約の箱」はイスラエルの民にとって最も重要なもので、至聖所に置かれていました。至聖所には、大祭司が一年に一度、民の罪を贖うために入り、そして、そこを出て民を祝福したのです。「契約の箱」は神の「ご臨在」の象徴でした。

彼らが宿営を出て進むとき、昼間は主の雲が彼らの上にあった。契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」(民数10・34、33)

主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。ペリシテ人は、その歓声を聞いて、「ヘブル人の陣営の、あの大歓声は何だろう。」と言った。そして、主の箱が陣営に着いたと知ったとき、ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。そして言った。「ああ、困ったことだ。今まで、こんなことはなかった。」(第一サムエル4・5~7)

「契約の箱」は神の御座であり、そこに神がご臨在になりました。

そこで民はシロに人を送った。彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱をかついで来た。(第一サムエル4・4)

ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。(第二列王19・15)

ですから、イスラエルの民にとって「契約の箱」を見ることは喜びであり、慰めでした。

ベテ・シェメシュの人々は、谷間で小麦の刈り入れをしていたが、目を上げたとき、神の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。(第一サムエル6・13)

ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。(第二サムエル6・15)

イスラエルの民は、「契約の箱」が彼らの間に置かれている時、全能なる神も彼らのただ中におられることを信じました。そして、全能なる神が共におられるとき、彼らは守られ、敵は何もすることができないということを知っていました。

黙示録のこの個所に再び「契約の箱」が登場してきます。この箱は神の忠実さ、つまり民に対する「神の約束」を表わすものです。神はイスラエルの民になさった約束を、決して忘れずに完全に果たされます。この先大変な患難が特にイスラエルの民の上に襲いかかってきます。これは聖書の他の個所に「ヤコブにも苦難のときだ」と記されているとおりです。

ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(エレミヤ30・7)

そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24・21)

しかし、苦しみの時代にあっても、「契約の箱」を見ることによってイスラエルの民はその信仰を強められるのです。神はさばきを通して、民を聖めようとしておられるのであって、滅ぼそうとしておられるわけではありません。「稲妻」、「声」、「雷鳴」、「地震」などはこれから来ようとしているさばきを表わすしるしですが、しかし主は、イスラエルの民を忘れず、患難の中でも彼らが喜んで主に栄光を帰することができるようにしてくださるのです。

「契約の箱」が明らかに示されたということは、ここでの神の「ご臨在」を表わしています。「契約の箱」は神の御座を象徴するものであり、イスラエルのあらゆる敵に対する「力の象徴」でもあります。従って「契約の箱」は主イエス様を示すものでもあります。そして「契約の箱」はイスラエル民族に対する神の「保証」です。神は大きな患難の中で、イスラエルの民を導き続けていかれるのです。

さて、第三番目の「開かれた天」が出てくるのは、黙示録13章5節で、そこには「その後、また私は見た。天にあるあかしの幕屋の聖所が開いた。」とあります。この箇所は七つの鉢を持つ七人の御使いと関連しているところです。これらの御使いたちは開かれた聖所から出てきます。これは神がイスラエルの民を聖め、守ることを表わしています。

第四番目の「開かれた天」は黙示録19章に出てきます。

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示19・11)

七つの鉢のさばきのあと、イエス様が姿を現わして「ハルマゲドンの戦い」に赴かれます。その後で千年王国がやってきます。

このように、「開かれた天」が記される時には、いつも何か新しいことが始まるのです。

私たちがこれから見ようとしている黙示録11章19節からは、「イスラエルを中心とした最後のさばき」が始まります。その中には、七種類の者、つまり「男の子」、「女」、「巨大な龍」、「御使いのミカエル」、「イスラエルの残りの者たち」、「海からの獣」、「地からの獣」のことが記されています。これ以降のテーマは「竜とその戦い」で、12章は「神とメシヤに対する戦い」、「ミカエルに対する戦い」、「女に対する戦い」という三つの部分に分かれています。そして「竜の戦い」では「獣」がその道具とされることが黙示録12章18節から13章18節に語られています。

ではこれから学ぶ黙示録11章19節から12章6節までの聖書の箇所見てみましょう。

(19)それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなづま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
(1)また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。(2)この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。(3)また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。(4)その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。(5)女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。(6)女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。(黙示11・1~12・6)

1.神とメシヤに対する竜の戦い

12章1節から6節までには、竜が神とメシヤに対して起こす戦いのことが語られています。ここを読むときに三つの疑問が起こってきます。一つは、ここに出てくる「女」は誰かということです。結論を先に言いますと、「女」とは「イスラエルの民」です。「男の子」とは「キリスト」です。「竜」は「サタン」です。次にこれらについて一つずつ考えてみましょう。

1.「女」とは誰か


この「女」は、カソリック教会では「マリアである」と教えられています。また他の多くの人々は「自分の属している教派である」とも言っています。また「教会を意味している」と言う人々もいます。しかし、これらの考えはすべて誤りだと言わなければなりません。

黙示録11章19節ですでに見たように、さばきの中心は「イスラエルの民」ですから、ここに出てくる「女」が「イスラエルの民」を意味することは間違いありません。聖書はしばしばイスラエルのことを「めとられた女性」として描いています。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。(イザヤ54・1)

神はイスラエルの民とシナイ山で契約を結ばれました。このイスラエルの民は、神に属し、他の諸国、民族に対して神を証しする神の道具となるべき人々でした。しかし、イスラエルの民はしばしば神を離れ、偶像に仕え、神に逆らい、罪をおかして不忠実な女となっていったのです。この様子はエレミヤ書3章1節から25節、ホセア書2章1節から2節などに見ることができます。

彼らは彼ら自身に遣わされたメシヤを拒んだときに、不貞の女の性質をはっきりと表わしたのです。しかし、大いなる苦しみの時を経てイスラエルの民は栄光へと導かれます。このことはイスラエルの民が神との交わりをもつことを通して実現されます。

この女、つまりイスラエルについて三つのことが記されています。この女は「太陽を着ている」のです。イスラエル自身が太陽なのではなく、太陽である主を着ているのです。

まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。(詩篇84・11)

太陽を着せられているということは、イスラエルの民が将来「世の光とされる」ことを意味しています。イスラエルから地上に光と救いがもたらされるのです。過去の時代に、イスラエル人の中からこのような「世の光」となる人々が次から次へと生み出されました(ヘブル人への手紙11章)。しかし、将来にはイスラエルの民全体がパウロのように「世の光」となる時がくるのです。

今はまだ「教会の時代」です。「世の光」となるように、すべての信者たちが召し出されている時代です。

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5・14)

「わたしは、この民と異邦人の中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信ずる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒26・17、18)

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ2・15、16)

そして教会の時代のあとで、イスラエルは「世の光」となるための備えを「苦難を通して」与えられるのです。

また、この女は「月を足の下に踏」んでいます。月は夜の象徴です。今の時代まで、イスラエルは闇の中にいます。イスラエルの民は多くの国々から憎まれていますが、間もなくそれと逆のことが起こるでしょう。どの国もイスラエルを憎むことがなくなり、反対に彼らを求めるようになるでしょう。

大きな患難の時代は、想像を絶するものとなります。しかし、この時に神はご自身の民と共におられて、彼らを勝利へと導かれることでしょう。これが、「月を足の下に置く」という意味であり、それは常に勝利者となるということを表わしています。

ところで、私たちもまた「月を足の下に踏」んでいるでしょうか。闇と暗黒とを土台にしていないでしょうか。私たちは真の勝利者となっているでしょうか。それとも自我という偶像、あるいは流行という偶像、文化あるいは科学という偶像に仕えているのではないでしょうか。これらはそれ自体は悪いものではありませんが、いのちとの結びつきが失われているときには、すべてのものが闇であり、暗黒となるのです。

将来においては、光であり勝利者となったイスラエルが、世界に対して指導的な力を持たされるようになるのです。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れてくる。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(イザヤ2・2、3)

わたしの名を恐れるあなた方には、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。(マラキ4・2)

またこの女は、「十二の星の冠」をかぶっています。かつて神は地を治めるためにアダムを召されました。イスラエルはこれと同じように、世界を治める支配権を与えられるようになるでしょう。イスラエルは世界を支配するように神に召されているのです。冠についている十二の星はイスラエルの十二部族を示しています。ヨセフの夢の中にすでに次のような表現が出てきます。

ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星がわたしを伏し拝んでいるのです。」と言った。(創世記3・9)

「契約の箱」が開かれた天の神殿にあるのが見えたことから、12章のできごとはイスラエルを巡ってのものであることが明らかです。この女はイスラエルの民を示しており、十二の星はイスラエルの十二部族を示しています。そして特にこの女によって男の子が生み出されたことが、この女がイスラエルであることの証明です。5節に「この子は、鉄の杖を持って、すべての国々を牧するはずである。」と記されています。この個所は詩篇2篇からの引用です。ユダヤ人は、「約束されたメシヤ」について詩篇2篇に述べられていることを知っていました。

「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。」(詩篇2・8、9)

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父からの支配の権威を受けているのと同じである。」(黙示2・26、27)

「約束されたメシヤ」は肉としてはイスラエルから生まれるはずでした。

彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。(ローマ9・4、5)

「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」(ヨハネ4・22)

また、イザヤ書9章6節にある「約束されたメシヤ」も、ユダヤ人について述べられています。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9・6)

繰り返して言いますが、この「女」は「教会」を指しているのではありません。なぜなら、教会からはメシヤは出ないからです。逆に、教会がメシヤであるキリストから生まれたのです。アダムは眠り、そのわき腹からエバが生まれました。それと同じように、イエス様が十字架上で死なれたその死によって、教会が生み出されたのです。

2.「男の子」とは誰か


この答えはすでに見てきたように、「約束されたメシヤ」です。その意味については、「頭なるキリスト」、「体なる教会」、「残されたイスラエル人」、の三つに分けることができます。

男の子について、5節に四つのことが示されています。この「子」の「誕生」(ルカの福音書2章1節から20節参照)、「目的」(詩篇2篇9節参照)、「召天」(ルカの福音書24章50、51節参照)、「地位」(黙示録3章21節参照)についてです。そして男の子は「鉄の杖をもって、すべての国々の民をするはずである。」と「約束されたメシヤ」であることが語られています。

ここで私たちは黙示録2章2節から2節にある「約束」について考えてみたいと思います。

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。」(黙示2・26~28)

この「約束」は26節にあるとおり、「教会において勝利者となる者」に与えられています。つまり、主イエス様はお一人で支配することを望んでおられるのではなく、勝利者とともに支配をしようと願っておられるのです。

この男の子は明らかに「ナザレのイエス」を指していますが、同時に「頭なるキリスト」と「体なる教会」の二つをも指しています。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。(第一コリント12・12)

これまで述べてきたように、この12章の「女」は決して「教会」を意味するものではありません。多くの注解書はこの「女」が教会を指し、教会の勝利者だけが大きな患難の起こる前に天に引き上げられて、その他の勝利者になれなかった人々は苦難を通して聖められるというようなことを言っていますが、私は違う考えをとっています。

ここで「誰が勝利者なのか」を考えてみたいと思います。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。(第一ヨハネ5・5、6)

勝利者とは、イエス様との交わりをもち、イエス様の体の一部とされている人です。新しく生まれ変わったすべての人々は、その頭であるキリストによって勝利を得るのです。あるいは、勝利者でない人は、新しく生まれ変わっていないのです。

新しく生まれ変わった人々はすべて、天に引き上げられます。イエス様はご自身の体、つまり新しく生まれ変わった人々と一体であり、この体をご自身のもとへと引き上げられるのです。

次に、2節と5節を比較しながらもっと詳しく考えてみましょう。実は、歴史的には5節のほうが2節より早く起こります。そのことは、2節の内容とイザヤ書66章7、8節、ミカ書5章2節から4節までと比べてみるとわかります。イザヤ書にはこうあります。

彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。誰がこのような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で生み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。(イザヤ66・7、8)

ここでの産婦は、産みの苦しみをする前に、男の子であるキリストを産みだしたのです。イエス・キリストの生まれるそのときには、イスラエルの民は産みの苦しみをしなかったのです。キリストは産みの苦しみを与えることなく生まれてきたのです。つまり、大きな患難がない時代にキリストは生まれたのです。

しかし、黙示録12章2節に出てくる「女」は苦しんでいます。

この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。(黙示12・2)

産みの苦しみをしている女は、大きな患難にあうときのイスラエルを表わしているのです。

まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(エレミヤ30・5~7)

主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。(イザヤ26・15~18)

大きな患難の時に、キリストはイスラエルの「残りの者」たちの心の内にお生まれになるのです。その時には、彼らはエジプトでヨセフに再会した兄弟たちのように、悔い改めをするでしょう。そして兄弟たちが、ヨセフがその身分を明らかにした時に、ヨセフの前で喜びの涙を流したのと同じことが、イスラエルの民の間にも起こることでしょう。

苦しみの炉の中で、イスラエルの民は鍛えられ、千年王国で奉仕することができるように備えられるのです。

ミカ書には、ベツレヘムから支配者が生まれるだろうと預言されています。

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。それゆえ、産婦が子を産む時まで、彼らはそのままにしておかれる。彼の兄弟のほかの者はイスラエルの子らのもとに帰るようになる。彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。(ミカ5・2~4)

この支配者をイスラエルは捨てたのです。そのために支配者からいったん捨てられることになりました。そして、無用なものとされてしまったのです。しかし、いつまでも捨てておかれることはありません。イスラエルが捨てておかれるのは「産婦が子を産むときまで」です。これはイスラエルの信仰のある人々について約束されていることです。イスラエルの民はやがてパレスチナに帰還し、支配者がオリーブ山に立たれるのを見るのです。

ミカはこのメシヤの誕生と、メシヤが天に引き上げられるのを見ていました。そして、大きな患難の時を迎えるまで、このメシヤはイスラエルの民の目からは隠されています。しかし、大きな苦しみのとき、つまり女の産みの苦しみのときに、多くのユダヤ人の目がメシヤに対して開かれるのです。そしてその時、彼らはキリストと共に諸国民を支配するのです。私たちはすでに、黙示録11章でこのような信仰をもつ人々、「イスラエルの残りの者たち」について見てきました。すべてのユダヤ人が信仰に至らなくとも、なお、救われた残りのイスラエル人たちが存在するのです。この「残りの者たち」はイエス様に認められて、見守られるのです。

3.「竜」とは誰か


最後に「竜」が誰のことを指しているかを見ましょう。「竜」とはサタンです。創世記3章にある古い「狡猾な蛇」のことです。また兄弟を訴える者、神に敵対する者のことです。ここで「竜の起源」、「竜の本質」、「竜の目的」の三つについて考えてみましょう。

この竜は、以前は神に仕え、神をほめたたえる天使の頭でした。しかし、この天使の頭は与えられた自由をわがものとし、ごう慢な心に捕らわれた時に、神に逆らったのです。そして天使の頭は「悪魔」となったのです。4節に、竜はその尾で「星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」とありますが、これは竜に従って竜と共に堕落した天使が、天使の中の三分の一に及んだことを示しています。これらの天使たちから「悪霊」が生まれたのです。

また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。(第一テモテ3・6)

神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(第二ペテロ2・4)
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また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ6)

この天使の頭である「悪魔」の堕落については、聖書の次の個所に詳しく記されています。

暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14・12~14)

「人の子よ。ツロの王について哀歌を唱えて、彼に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。(エゼキエル28・12~15)

「天から払い落とされた星」というのは、堕落して悪霊となった天使たちを表わしています。ある人々は終わりの時代には、教会の三分の一が高ぶりや淫乱や拝金主義によって誘惑されて駄目になってしまうと考えています。

では、「竜の本質」について考えてみましょう。竜というのは大変危険な「敵」です。竜と同じように、悪魔はその周囲のものすべてを滅ぼしてしまいます。カインの時代から悪魔はその「人殺しとしての本質」を現わしていました。ですから竜は3節にあるとおり赤い色をしているのです。「赤い色」は、殺人と反乱と戦争とを象徴しています。

またこの竜は、3節では「七つの頭と十本の角とを持って」います。「七つの頭」があるということは竜が完全な自制力と知恵をもっているということを示しています。この竜の知恵に勝るものは神の知恵以外にはありません。恐るべき知恵をこの竜は持っているのです。

さらに「十」という数字は全世界に対する支配権を象徴しています。その時にはすべてのものが竜に服従するのです。「十本の角」は完全な政治的な支配権を表わしています。聖書はこの竜を「この世の君」と表現しています。

「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。」(ヨハネ14・30)

今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。(ヨハネ12・31)

さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16・11)

そして竜は「その頭には七つの冠をかぶっていた」と3節にあります。「七つの冠」は専制的な支配権のしるしです。この竜の支配権は権力に基づくものです。竜はイエス様のもっておられる支配権をなきものにしようとしているのです。イエス様もまたその頭に冠をかぶっておられます。

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。(黙示19・12)

さて、この「竜の目的」について考えてみましょう。竜の目的は「女」と「子」とを滅ぼすことです。つまり、イスラエル人と、イエス・キリストとその体である教会が攻撃の的とされるのです。悪魔の目的はいつも、神から人を引き離し、神に対して人が逆らうようにさせることです。常に神から人間を独立した者とすることです。エデンの園で悪魔はアダムによってこの目的を実現しました。それ以来、悪魔は神のご計画に対して戦いを挑んでいるのです。悪魔が神の目的を知っていることは次の個所からも明らかです。

私はおまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3・15)

そこには人類を救うものが「女」から生まれることが預言されています。そこで悪魔はそのような救い主が生まれることを妨害しようとしたのです。

4節では「竜は子を産もうとしている女の前に立って」いました。これは子を産もうとしている「女」が逃れ道のない状態に置かれていることを示しています。女の前に立ちはだかる竜は、「女」に力を尽くして向かおうとしています。悪魔の憎しみは、生まれてくる「子」に向けられています。竜は4節の終わり、「その子を食い尽くす」ために「女」の前に立っているのです。

イスラエルの歴史は苦難の歴史です。悪魔はイスラエルに攻撃を加え、イスラエルからダビデの末が生まれることを妨げようとしました。それはダビデの末がメシヤとなるからでした。

悪魔は力と偽りとたくらみとをもって、何も知らない人間を誘惑し、滅ぼそうとしました。悪魔と諸国の民はなぜユダヤ人を憎むのでしょうか。なぜなら悪魔は、神がアブラハムとダビデにその末が世界を支配すると神が約束されたのを知っているからです。悪魔は自分が世界を支配したいがために、諸国の民の心を動かし、ユダヤ人たちを憎むように仕向けているのです。悪魔はユダヤ人を攻撃するだけでなく、イエス様にも攻撃を加えたのです。悪魔は人間に対しては勝利を得ることができましたが、イエス様に対しては勝つことができませんでした。

悪魔はイエス様がベツレヘムでお生まれになると直ちにイエス様を殺そうと図りました(マタイの福音書2章7~16節)。

後に悪魔はイエス様に地上のあらゆる権力を与えようと申し出ました(ルカの福音書4章5、6節)。これによって悪魔は父の御手からイエス様を奪いとり、イエス様が父から離れて独立した行動をとられるように誘惑したのです。イエス様は、所有欲、名誉欲、また支配欲の奴隷となるように誘われました。しかし悪魔は成功しませんでした。

また悪魔は、イエス様が五千人に食事をお与えになった後で、群衆を動かしてイエス様をこの世の王にするようにと誘惑したのです。

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6・14・15)

さらに悪魔は弟子たちを通してイエス様が十字架の道を歩まないようにさせようと試みたのです。

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せていさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16・21~23)

しかし、イエス様に対する悪魔の試みは、すべて失敗に終わりました。

イエス様は悪魔に滅ぼされることなく、十字架でわたしたちの罪を贖い、父なる神の御座へと昇天なさったのです。十字架の死は表面的には敗北を意味していますが、実際にはイエス様の悪魔に対する勝利を現わしているのです。

そしてイエス様はよみがえられ、世界を統べ治める地位、父なる神の右に着座されたのです。5節に「その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」とある中の「引き上げられた」という言葉は、教会の携挙のときに用いられる言葉と同じです。

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(第一テサロニケ4・17)

「竜」である悪魔は、イスラエルとイエス様に逆らうだけではなく、教会に対しても逆らうものです。悪魔はイエス様に対しては何もできないので、いまや「イエス様の体である教会」に対して攻撃を加えるのです。悪魔は、やがて教会がイエス様と共に世界を支配するようになることを知っているからです。かつて回心前のパウロは激しく教会を攻撃しました。それ以来、悪魔は教会を攻撃するためにさまざまな道具を用いています。

教会が引き上げられたあと、悪魔はその攻撃の目標を失うために、再びイスラエルの民を攻撃し始めます。「女」であるイスラエルに対して「竜」は再び攻撃を始めるのです。二人の証人とその他多くの証し人が、エルサレムにおいて殉教の死を遂げるでしょう。しかし、多くのユダヤ人たちはそこから逃れることができ、神によって保護されるのです。

「真の教会」はエノクと同じように破局の前に引き上げられることになっています。そして、「真のイスラエル」はノアと同じように破局のさなかにも守られるのです。

そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(マタイ24・16)

イスラエルの民が世界史の中心から外され、その後再び歴史の中心に戻されるまでの期間が黙示録12章5節と6節の間におかれています。

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。(黙示12・5、6)

これが「教会の時代」です。12章5節はキリストの昇天を記しています。続く6節はイスラエルの民が千年王国が始まる前の三年半の間反キリストに迫害を受けることを記しているのです。

イスラエルでまことの信仰をもった人々は、荒野に神によって備えられた場所を与えられ、そこで守られるのです。そのとき彼らは、正常な生活と他国との経済的なつながりからも切り離されることになるでしょう。しかしその時には、かつてモーセの時代に四十年間荒野でイスラエルの民が養われたように、彼らも神によって養われることになるのです。しかも主は彼らに「守りの場所」を与えられるだけではなく、その「期間」も定めておられるのです。それはダニエル書の7章にも記されているように、千二百六十日と決められています。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(ダニエル7・25)

悪魔は神の敵ですが、神の被造物であることに変わりはありません。ですから、神のお許しになる範囲でしか活動できません。悪魔は神のご計画を知っていて、そのご計画を空しいものにしようと試みているのです。

悪魔はすでに十字架によって完全に自分の力が滅ぼされたことを知っています。もしも、私たちが悪魔に対して勇気をもって立ち向かうならば、悪魔は逃れ去るでしょう。イエス様が勝利者ですから。

信仰をもっている私たちは、罪の債務からも、罪のさばきからも、罪の力からも解放されています。私たちはまた死の恐怖からも解放されています。

そこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2・14、15)

黙示録12章11節に書かれているように私たちも言われるならば、なんと幸いでしょうか。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(黙示12・11)

最後に詩篇のことばを見てこの章を終わりにしたいと思います。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの網を、解き捨てよう。」天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(詩篇2)

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