2022年2月27日日曜日

サタンの使い

サタンの使い
2022年2月27日、吉祥寺福音集会
岡本雅文

第二コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

最近、ある集会の兄弟姉妹がたとともに、指導者たちの生活の結末ということについて、ヘブル書の13章の7節に沿って考えました。短いところですので読んでみます。

ヘブル
13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

その日、その集会では、この御言葉通り、よく見たことは、私たちが心から信頼する指導者、パウロの生活の結末でした。彼の生活の結末とは、人生の最後に、何をしたかと言うことではないと思います。

パウロが、キリスト者を捕らえにダマスコに向かう途上でイエス・キリストに出会ったその時以来、彼は、イエス様を愛し続け、憧れ続けました。そのパウロの変えられた人生そのものが、彼の生活の結末であったと思わされるのです。

聖書では、パウロの歩みは、囚われの身として、ローマに送られ、裁判の日を待ちながら満二年のあいだ、神の国の福音を伝えたところで終わっています。聖書以外の伝承では、使徒の働き、28章の後、パウロは釈放され、さらに福音伝道を続け、再び捕らえられて、ローマで殉教したとも言われているようですけれども、聖書には、一切、その後のパウロの情報は、記録されていません。

このような聖書の無言のメッセージは、人間の働きに焦点があてられているのではなく、すなわち、パウロに焦点が当てられているのではなく、主なる神のご計画、主のみこころが、どのように成就して行くか、神ご自身に着目されていると思われます。本日も、この同じ御言葉から始めて、パウロの生活の結末を、さらにさらによく見て、彼の信仰に習いたいと思っています。

そのある集いでも、私たちは、パウロの全生活を支配して導いてくださった、大切な大切な主の御心として、ローマ書、8章の28節のみ言葉を取り上げて考えました。多くの兄弟姉妹がたが暗唱しておられる箇所だと思います。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

パウロも、私たちも、イエス様に出会う前には、このような言葉は、見たことも聞いたこともないものでした。パウロは、改心後の実際の生活の中で、このイエス様に、幾度も幾度も出会いました。そして、ますますイエス様を信頼するように導かれたのです。

パウロが、目標を目指して――イエス様を目指して――、走り続けることができた力の源は、すべてのことを働かせて、益としてくださった、すなわち、彼が信じたお方に出会い続けたことではなかったかと思います。

パウロは、このローマ書の8章の28節の御言葉を見て、また、聞いて、知るだけでなく、本当の意味で神を知る、すなわち、受け入れる恵みを与えられました。パウロは、どのようにして、この恵みにあずかることができたかということについて、聖書は、別の箇所、へブル書の4章の1節、2節で説明しています。約束の安息の地であるカナンに入れなかった、モーセに率いられてエジプトを出た人々を例にして、へブル書の著者は告げています。少し長いところですけども、お読みします。

へブル
4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

ここで、福音を説き聞かされていることは、彼ら、すなわち、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの人々の全部と、私たちも同じであると警告されています。これは、聖書は、福音を聞くだけでは十分ではない。聞いて知るだけでは、モーセに率いられてエジプトを出た人々には、益にならなかったからだと告げています。

別の表現をすれば、聞いた御言葉が私たちに益となるためには、御言葉が信仰によって結びつけられる必要がある、注意を払うようにと、告げておられるようであります。

へブル書の著者の認識は、私たちの指導者、パウロ――パウロ一人ではなく、パウロたち――は、モーセに率いられてエジプトを出たイスラエル人たちとは、違っていました。神が全てのことを働かせて、益としてくださるという、この御言葉を聞いて、ただ知っただけではありませんでした。信仰によって結びつけられたと、聖書は、パウロやペテロやヨハネを紹介しています。この御言葉が、信仰によって結びつけられるという御言葉、この御言葉を、私たちは、パウロからどのようにならえば良いのでありましょう。私たちの指導者であるひとり、パウロから、どのように、習えばよいのでしょうか?

パウロは、自分に与えられた恵みが、エペソの兄弟姉妹たちにも与えられるようにと、手紙を書きました。

エペソ
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

この手紙によって、イエス様が最後の晩餐で、弟子たちに約束された御霊ご自身を、御言葉として知っていただけでなく、また、信じるという抽象的な概念でもなく、神を知るためのまことの知恵と啓示の御霊として、パウロは、信仰によって結びつけられたのではないでしょうか?

そして、この御霊が、あらゆる御言葉を、信仰によって、パウロのうちに結び付けてくださったのではないかと、思わされるのであります。ですから、私たちに内住しておられる御霊によって、キリストも、私たちのうちにおられる、これは、コロサイ書に、同じパウロが、手紙に書きました。

コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

キリストが私たちの中におられると、パウロは書きました。また、同様に、御霊によって、父なる神も、キリストも、三位一体の神として、私たちの中におられます。これは、ヨハネが――指導者であるヨハネが――、第一ヨハネに次のように書いています。

第一ヨハネ
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって(・・・・御霊を与えてくださったことによって・・・・)、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

キリストだけではなく、三位一体の神が、御霊によって、私たちのうちにおられると、ヨハネは書いたのではないでしょうか?

この御霊が、彼の内に――パウロのうちに――おられるというこの一事(いちじ)が、パウロにとって、また、もうひとりの指導者、ヨハネにとっても、いかに大きなことであったかが伝わってまいります。パウロは、自分に与えられた計り知れない恵みの御霊を、全ての兄弟姉妹たちに与えてくださるように、先程お読みしたエペソ書の1章の17節のように、パウロは、主なる神に願いつつ、手紙を書きました。

私たちは、パウロやヨハネのように、この御霊の働きを心から、本当に、伝えられたように信じているのでありましょうか?イエス様は、去って行かれました。弟子たちを集め、共に最後の晩餐をお食べになり、そして、『わたしは去って行く』と言われました。しかし、今や天で、ひとつに結びついておられる父なる神と、御子イエス・キリストの中におられる神の霊である御霊が、地上の私たちともかたく結びついておられます。

三位一体の神は、天と地を挟んで、ひとつとなって、御霊にあって、私たちのうちにおられる。どのように表現していいのか分かりませんけれども、パウルもヨハネも、この神が、私たちのうちにおられる。そして、御霊が、それのとりなしを、取り持ちをしてくださっている――このようにパウロは、この御霊によって、彼の一生涯、導かれたのであります。

こういうわけで、信頼する指導者であるパウロの生活の結末にならって、神が御霊によって、すべてのことを働かせて、益としてくださるというみことばを、信仰によって結びつけられるように、心から願うなら、パウロと同じように、イエス様に、全く同じ言葉をかけてもらえるのではないでしょうか?『よくやった』という言葉です。

それを阻んでいるのは、このような弱い私に、パウロのような力が与えられるはずがないという私たちの思い込みではないでしょうか。それこそ、サタンの策略でありましょう。パウロに与えた恵みを、あなたにも、私たちにも与えたい。これが、聖書の伝える御心、そのものではないでしょうか?

本日、短く聖書に耳を傾けたいと思うことは、次のことであります。

ここまで見てきたパウロの生活の結末は、すべてのことを働かせて益としてくださる、そのような神を知るということで終わりではありませんでした。そして、御言葉が信仰によって結びつけられるという御霊の働きそのものが、どのようなことなのかについては、まだ、パウロはふれていませんでした。

そのことについて、御霊の働きがどのようなものであったのか、次のように問い直して、ご一緒に考えてみたいと思います。ローマの8章の28節のみ言葉のとおりに、御霊が、すべてのことを働かせてくださっているという、その時に、パウロの内側に何が起こっていたのか、すなわち、その時、私たちのうちで、どのようなことが起こされるのかという問いであります。

御言葉どうりに、御霊が働いておられる時に、パウロは、また、私たちは、その内側で何が起こっているのかということを考えてみたいと思います。御言葉どおり、御霊がすべてのことを働かせてくださっているそのときに、パウロのうちに何が起こっていたのかということについては、冒頭で兄弟に読んでいただいた第二コリントの12章の7節から10節を見ると、垣間見れるのではないかと思います。

ここも、先ほども読んでいただきました長いところですけれども、読んでみます。少し補足しながら。

第二コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 ・・・・主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである(・・・・すなわち、この弱さの内に、サタンの使いとの戦いがあり、その結果、主に希望を持つ者に勝利がある・・・・)。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの(・・・・すなわち、父なる神にあって弱いキリストの・・・・)力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ(・・・・主イエスの父なる神にある弱さにあって・・・・)、私は強いからです。

9節の『わたしの力は弱さの内に完全にあらわれる』という御言葉が、霊の戦いの現場がどのようなものであるか、パウロは証言しています。

このようにパウロは、霊の戦いがこうであると告げているのではないでしょうか?しかし、パウロも真の弱さを身にまとうことができませんでした。高ぶりのかけらを取り去ることができなかったようであります。ですから、とげが与えられました。そのとげは、サタンの使いですと書かれています。サタンは、御霊の思いと全く反対の悪意をもって、パウロにとげを与えましたが、御霊はパウロに弱さをまとわせるために、サタンの使いのなすがままにされました。

エバとアダムのごとく、また、ヨブのごとく、また、ダビデのごとくです。このようなわけで、イエス様はパウロの願いを聞き入れませんでした。御心にかなう願いではなかったからです。三度も願ったのに、完全に、とことん願ったのに、聞き入れてもらえませんでした。このとげは、彼にとって、どうしても必要であったからでありましょう。それだけではありませんでした。

第二コリントの1章の8節から10節、また、11章の23節から29節で、パウロが長々と自分の体験を語っています。そこに書かれた数々の、多くの死を覚悟するほどの非常に激しい、そして、耐えられないほどの厳しい労苦や、さまざまな難が与えられました。この毎日毎日、襲いかかる現実の中で、パウロは自分の弱さが、キリストの強さであることを知りました。そして、キリストの弱さが、神の強さ、力であることを、学んだのではないでしょうか?

聞いて知っていただけの御言葉が、すべてのことを働かせて益としてくださったと言える事実として、パウロのうちに、ひとつ、また、ひとつと、積み重ねられていきました。それは、キリストに起こったことであり、キリストがそこに挑んでくださったことであり、そして、パウロにも、主なる神が与えてくださった、大きな恵みであると、導かれたのでははないかと思います。

ほとんどのことが、パウロの思い描いていたことと全く異なりました。しかし、彼の願いの本質は、ことごとく成就いたしました。そして、長いあいだ、訪問することを望んでいたローマへも、パウロが考えることさえできないほど、全く異なるルートが用意されました。

過去の三回の伝道旅行と異なり、百パーセント、神ご自身が計画された第四次伝道旅行として、いっさい神の御手の中で行われました。捕えられるという方法をもって、彼は、、ローマの兵隊に付き添われながら、第四回目の――最後の――伝道旅行に出かけるように導かれました。

そして、パウロの福音伝道をもっとも詳しく伝えている使徒の働きの28章。その最後の節で、聖書がいつもそうであるように、彼のこの世の歩みの終わりを開示することなく、使徒の働きは、開かれたままで終わっています。ただ、パウロと共に旅をしたルカの手による福音書の最終章の『あなたがたは、これらのことの証人です』というイエス様の御言葉が聞こえてくるようです。

本日も、礼拝の最後の祈りで、『私たちがどのように生きるために、何のために、この地上に与えられたか』と、祈ってくださいました。

今日、兄弟姉妹と、もっとも深く味わいたかった御言葉を、最後に少し、補足しながら、読んで終わりたいと思います。冒頭で兄弟に、二番目に読んでいただいた御言葉です。

第二コリント
13:4 確かに、弱さのゆえに(・・・・キリストは、イエス様は弱さのゆえに・・・・)十字架につけられましたが、神の力のゆえに(・・・・すなわち、自分では何ひとつできない、また、父の命令がなければ、何一つなされないという意味のそういう弱さのゆえに・・・・)生きておられます。私たちもキリストにあって弱い(・・・・すなわち、キリストの、イエス様の命令がなければ何ひとつできない・・・・)者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

イエス様こそ、父なる神の前に、全き弱きものでありました。何ひとつご自身の思いでなされることはありませんでした。父なる神のみこころのままに、一切を行われました。パウロはただ、この真の指導者の御言葉通り、私たちの指導者、パウロは、また、更にただ一人の指導者の御言葉通りに、御霊によって導かれました。イエス様が弱かったので、パウロも弱くなりました。しかし、イエス様の弱さは、父なる神の強さ、そのものでありました。

第三の天にまで引き上げられた、あの恵みを与えられたパウロは、そのための高ぶりから守られるために、一生涯、サタンの使いの攻撃を受け続けながら、それをはるかにまさる主の恵みの力を、弱さの中でのみ、そこでのみ、その現場でのみ、与えられ続けたことを心から感謝して、彼の人生を歩んだのではないでしょうか?

今日、パウロも、ただ一人の指導者、まことの指導者を仰ぎ見て、歩んだことに心から感謝して、今日の学びを終えさせていただきたいと思います。

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