2022年5月8日日曜日

絶えず祈れ[10]主に愛されているひとびとへの祈り

絶えず祈れ[10]
ゴットホルド・ベック著
主に愛されているひとびとへの祈り

このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(ヨハネ11・2~4)

この章のテーマは、「主に愛されているひとびとへの祈り」です。

ラザロはうたがいもなく、自分の姉妹たちによって愛されていました。しかしこの聖句には、「主イエス様がかれを愛された」ことが明確に語られています。

「主よ。ごらんください。あなたが愛しておられる者が病気です」。いいかえれば、

「主よ。ごらんください。あなたが、いままでずっと愛してくださった者が、いま病気です」

「あなたの愛しておられる者のために、私たちは祈っています」と。

この章のテーマはまた、「苦しむひとのための祈り」、「家族の一員のための祈り」と言いかえることもできます。

ラザロの姉妹たちは、イエス様のところに使いをおくって、ラザロの病気をイエス様に知らせました。これこそが「祈り」です。主イエス様に悩みをつたえ、たすけを願い求めることこそが「祈り」です。

私たちはみな、マリヤとマルタとおなじような苦しみや悲しみをすでに経験したでしょうし、またこれからも経験することでしょう。私たちの愛するひとが病気になり、苦しむことがあるでしょう。こういうとき、私たちはまず祈らなければならない、ということははっきりしています。しかしそのとき、私たちはふたつの問いに直面します。

Ⅰ.私たちは、どのように祈ればよいか
Ⅱ.私たちは、どのようなお答えをいただくか

このふたつの問いについて、これからごいっしょに考えてみましょう。

Ⅰ.私たちは、どのように祈ればよいか


まず、「どのように祈ればよいか」については、五つにわけることができます。

1.深い苦しみのなかから
2.こころをひとつにあわせて
3.主をあおぎ見ながら
4.極度に緊急で
5.こころから服従しながら

1.深い苦しみのなかから


マリヤとマルタは、自分の兄弟ラザロのために、どのように祈ったのでしょうか。彼女たちは「深い苦しみのなかから」祈りました。彼女たちはたいへんこまった状態におかれ、どうしたらいいのかわかりませんでした。彼女たちはなにをしたらよかったのでしょうか。彼女たちはたったひとつ、ただしいことをしました。彼女たちはイエス様に使いをおくったのです。彼女たちは、イエス様だけはまだ助けてくださることを、またそれがおできになることを知っていました。このことをまず、イエス様につたえなければなりません。

祈ることができること、どんな困難だろうがそれをもってイエス様のみもとに行けることは、ほんとうに大きな特権です。「絶えず祈れ」。これが主のご命令です。私たちが苦しんでいるときや、逃げ道がみつからないときだけでなく、すべてがうまくいっているとき、悩みや苦しみがないときにも祈らなければなりません。

私たちは祈ることによって、主との深い交わりを求めなければなりません。主はたびたび、私たちがもっと主のみもとに近づくために、悩みや苦しみをおあたえになります。私たちは主のみもとに行くことができるだけではなく、主のみもとに行かなければなりません。これ以上にたいせつなことはありません。

マリヤとマルタは深い苦しみのなかから祈りました。私たちもまた、愛するひとびとが苦しみのなかにいることを知っています。そのひとびとのために、私たちは真剣に主に祈っているでしょうか。

2.こころをひとつにあわせて


マリヤとマルタは、自分の兄弟ラザロのためにどのように祈ったのでしょうか。彼女たちは「こころをひとつにあわせて」祈りました。彼女たちは、ただ深い苦しみのなかで祈っただけでなく、「こころをひとつにあわせて」祈ったのです。さきほどの聖句のなかにつぎのように書かれています。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いをおくって、言った」と。マリヤだけではなく、またマルタだけでもなく、「ふたり」がイエス様のみもとに使いをおくったのです。それは「こころをひとつにあわせた願いであり祈り」だったのです。このような「こころをひとつにあわせた祈り」にたいしてイエス様は、特別の約束をしてくださっておられます。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18・19)

マリヤとマルタがしたのは、まさにこのとおりだったのです。彼女たちはこころをあわせて主にお願いすることに決め、それを実行しました。ふたり、あるいはそれ以上のひとびとがこころをあわせて主に願い求めると、その祈りには特別な力があることが約束されています。そして、マリヤとマルタの祈りは、やがて大きくこたえられたのです。

初代教会は祈る教会でした。ですから、初代教会のひとびとは、こころをあわせていっしょに祈ることによって、おどろくべき主のお答え、主のたすけを数多く経験したのです。ちょっと別のところを見てみましょう。

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。(使徒12・5)

この熱心な祈りにたいする主のお答えはどのようなものだったでしょうか。ペテロをつないでいたくさりが落ち、牢の番兵たちはなにも気がつかず、鉄の門がひとりでに開いたのでした。

私たちの愛するひとびとのなかには、悪魔に束縛され、罪の深みに沈みこみ、自分のことだけを考え、そのために不幸せになっているひとはいないでしょうか。

「こころをひとつにあわせて」祈れば、主からの大きなたすけがいただけます。あなたはそのために、だれかとこころをひとつにあわせて祈りたいと思わないでしょうか。

3.主をあおぎ見ながら


マリヤとマルタはどのように祈ったのでしょうか。「主をあおぎ見ながら」祈りました。彼女たちは、イエス様のみもとに使いをおくり、つぎのように言わせました。

「主よ!」この祈りは、「主に向けられている祈り」でした。

あなたは、祈りはすべて主に向けられていて当然だと思われるかもしれません。そのとおりです。しかしよくある祈りは、まず「自分でたすけをつくりだそう」という祈りです。

病気のとき医者のところに行って薬のたすけを求めることはまちがってはいません。主は、医者も薬ももちいることがおできになります。しかし困ったときにまず人間のたすけを期待したり、主にすべてをあけわたさないことはまちがっています。ほんとうの祈りとは「あなたの悩みをもって主のみもとに行き、主のまえにこころをそそぎだし、すべてを意識して主の御手にゆだねる」ことです。主は全能の神です。主はラザロのよみがえりをとおして、ご自身の全能を証明なさいました。主はまた、すべてをごぞんじであるおかたです。このこともおなじヨハネの11章であきらかにされています。イエス様は、ラザロが死のやまいにあることをこぞんじでした。

あなたの愛するひとびとのなかに、苦しんでいるひと、悩んでいるひと、将来に失望しているひとはいないでしょうか。主をあおぎ見ることはあなたの義務です。主はあなたの叫びを待っておられます。自分自身のことにあまりにも忙しすぎて、隣人の苦しみ、愛するひとびとの苦しみを見ることができず、そのまま見すごしてしまうひとはわざわいです。

ここですこし、いままでごいっしょに学んできたことを整理しましょう。マリヤとマルタの祈りはまず「深い苦しみのなかから」でてくる祈りであり、「こころをひとつにあわせた」祈りであり、「主をあおぎ見ながら」の祈りでした。ではつぎに四つめの項目に進みましょう。

4.極度に緊急で


マリヤとマルタは、ラザロのためにどのように祈ったのでしょうか。彼女たちの祈りは「極度に緊急を要する」祈りでした。彼女たちは主イエス様のみもとにいそいで使いをおくりました。

「主よ。あなたの愛しておられる者が病気です」。

「主よ。かれは死のうとしています」。

「主よ。いそいでください」。

主は、このようなたすけを求められたことを、きっとおよろこびになったはずです。それは彼女たちが主にしっかりとむすびついていることのしるし、信頼のしるしです。そしてそれは同時に、自分の無力さの告白でもあります。

「主よ。私たちはもうおしまいです。人間的に見るならまったく絶望です。しかし、あなたはなんでもおできになり、私たちはあなたのたすけを待ち望みます。私たちはあなたに信頼し、あなたは決して私たちを失望させるようなことはなさいません」。

私たちもまたこのような態度で、主のみもとにかけつけることができます。

「主よ。あなた様は私の苦しみをよくこぞんじです。不信仰な夫のこともよくこぞんじです。まだ救われていない私の子どものこともよくこぞんじです。あなたは私自身をごぞんじであり、いままであなた様にすべてをうちあけ、たよってきた私をもよくこぞんじです。主よ。いそいでください。私は信頼しております。どうかみこころを現わして、あなたの全能をおしめしください」。

5.こころから服従しながら


マリヤとマルタは、主に「こころから服従しながら」祈ったのでした。彼女たちは「私たちの兄弟のラザロをどうしてもいやしてください」という願いをもって、イエス様のみもとに使いをおくったのではありませんでした。もちろん彼女たちは、イエス様にはそれがおできになるだろうと期待していました。しかし彼女たちは、つぎのように言っただけでした。

「主よ。ごらんください。あなたが愛しておられる者が病気です」と。

ここでは「主よ」ということばがたいせつです。このことばによって、彼女たちの主への「服従」が証しされています。

マリヤとマルタは兄弟のラザロをいやすことを、主に命令したりはしませんでした。彼女たちは、どのような代価をはらってもラザロがいやされてほしいとは望まなかったのです。彼女たちは次のように言いました。

「主よ。あなたが愛しておられる者が、いま病気です。私たちはかれをあなたの御手にゆだねます。あなたのお好きなように、みこころのとおりになさってください」と。

これとまったくおなじことを、私たちもまた、しなければなりません。私たちが重荷を負い、配慮している愛するひとびとを、イエス様の御手にゆだねなければなりません。イエス様の御手にゆだねられたひとの悩みは、すべて解決されます。私たちが主にすべてをゆだねたとき、ほんとうの安心と平安をいただくことができます。

主は行動してくださいます。私たちは愛するひとびとについていろいろとこころをくばりますが、それ以上に、主ご自身がかれらのために最善をつくして配慮してくださいます。

私たちは主に、私たちの悩みをうちあけます。それから私たちは、すべてを主におゆだねします。これこそ、マリヤとマルタの態度だったのです。それは信仰と信頼のたいど、「こころから服従した」たいどでした。彼女たちは主がラザロをいやすことがおできになることを知っていました。聖書のすこしあとの部分で、彼女たちはつぎのように言っています。

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・21)

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11・32)

マルタとマリヤは、まったくおなじことを祈ったのです。「主よ。あなたにはすべてがおできになります」。彼女たちは、イエス様がラザロを愛しておられることを確信していましたから、「主は、どんなまちがいもなさらない」ことをもよく知っていたのでした。私たちもまた、このような信頼をもっていなければなりません。

私たちは、私たちの祈りにたいして「主がなにをなすべきか、どのように行動すべきか、また、どのようにこたえるべきか」を、主に命令する権利をもっていません。私たちの主は生きておられるおかたですから、主はかならず私たちの祈りにこたえてくださいます。これはうたがいのない事実です。しかし私たちは、あまりにもちかくしか見えず、視野もせまく、頑迷で頑固です。ですから私たちは、主がなにを予定しておられるか、どのように働こうとなさっておられるか、まったくわからないのです。ですから私たちは、理解できようができまいが、すべてをみこころとして単純に受け入れなければなりません。主がなさることは、いつも私たちに最善のことであり、それをとおして主の御名があがめられます。ですから私たちは主にたいして「まったく服従しながら」祈るという態度をとらなければなりません。

私の友人のひとりは、いつも次のように言っています。

「主は、私がほしいものではなく、私が必要とするものをくださいます」。

つまり私たちは、いつでも必要なものは必ずあたえられるのです。「たしかに私は、必要なものをあたえられている」ということを、しずかに考えてみてください。

私たちはみな多くの苦しみ、重荷を必要とします。さもなければ私たちは夢の世界に生きるようになり、決して「祈る」ことをしなくなるでしょう。そして私たちは、祈らなければ主との交わりをもつことができず、主のたすけも、救いも、解放も経験することができません。

マリヤとマルタは、ほんとうに困っていました。彼女たちはどうしたらいいのかわかりませんでしたが、ただひとつ正しいことをしました。彼女たちは、イエス様に使いをおくったのです。イエス様は彼女たちがこまっていることを聞かれました。そしてイエス様がそのことを聞いてくださった以上、それは解決されたのとおなじことでした。イエス様はそれを解決することがおできになるおかたです。あなたに苦しみや困難がせまりあなたを圧迫したとき、どうかイエス様のところへ行き、イエス様に祈ってください。

私たちは、どのように祈ればよいのでしょうか。その答えをもういちど整理しておきましょう。
1.深い苦しみのなかから
2.こころをひとつにあわせて
3.主をあおぎ見ながら
4.極度に緊急で
5.こころから服従しながら

あなたの愛するひとびとを、主のところにつれて行ってください。

そのひとびとを主の御手にゆだねましょう。

主は最善をなしてくださいます。主はこ栄光を現わしてくださいます。

Ⅱ.私たちは、どのようなお答えをいただくか


ではつぎに、祈ることによって「私たちは、どのようなお答えをいただくか」を考えてみましょう。主は生きておられ、そして「私たちの祈りの聞き手」です。マリヤとマルタは、兄弟のラザロのために祈りました。彼女たちは、主にとりなしの祈りをささげました。その結果、彼女たちはなにを経験したのでしょうか。それをつぎの五つにわけて見てみましょう。

1.イエス様は、聞いてくださる
2.イエス様は、こたえてくださる
3.イエス様は、あがめられる
4.イエス様は、特別な祝福をあたえてくださる
5.イエス様は、かぎりない恵みをあたえてくださる

1.イエス様は、聞いてくださる


この章の最初に見た聖句のなかほどに「イエスはこれを聞いて、言われた」とあります。イエス様は真剣に聞いてくださいます。イエス様は決して私たちに無関心ではありません。イエス様は私たちが考えている以上に私たちのことを心配してくださいます。イエス様は私たちの悩みや願いを知ってくださるだけでなく、それらの問題をご自分の御手のなかにいれてくださるのです。

聖書はいたるところで、私たちが「すべての重荷を主にうちあけるように」とはげまし、またなんども私たちが「すべての重荷をもって主のみもとに行くように」と命令しています。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4・6)

私たちが「祈りと願いによって、私たちの願いごとを神に知っていただこう」とするとき、主は真剣に耳をかたむけてくださいます。イエス様はマリヤとマルタの願いを真剣に聞いてくださったのでした。

2.イエス様は、こたえてくださる


イエス様は、マリヤとマルタの願いを「聞いてくださり」、知ってくださり、それからすべてを忘れてしまわれた、というのではなく、ちゃんと「こたえてくださった」のです。

しかしイエス様のお答えについては、つぎのことをよく注意しなければなりません。

彼女たちのこころからの祈りにたいして、イエス様は彼女たちが望み、期待したようにはこたえてくださいませんでした。イエス様はラザロの死をとめるようなことをなさらず、ラザロが死ぬことをゆるされました。イエス様にとって、ラザロの死をとめることはいとも簡単だったにもかかわらずです。これはたいせつな点です。

いそいでイエス様に使いがおくられ、ラザロが重い病気であることが告げられたあと、イエス様は決してことをいそいで行なおうとはなさいませんでした。イエス様は、父なる神のさだめられたときをお待ちになりました。イエス様は、なにをすればよいか、父なる神がさだめられたときがいつなのかが確信できるまで、時間を必要となさいました。

そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。(ヨハネ11・6)

イエス様がすぐに行動なさらなかったことは、私たちの頭ではまったく理解できません。なかには、愛がなく、無責任で、ひどい、と言うひとがいるかもしれません。しかし私たちの主は、なにを、いつ、しなければならないかをよくごぞんじです。「主もときにはまちがいをする不完全なものだ」という悪魔のささやきを、決して信じてはなりません。

そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」(ヨハネ11・14、15)

イエス様は、マリヤとマルタの祈りを聞きとどけてくださいました。しかしそれは、彼女たちが期待したものとはちがっていました。イエス様のお答えは、いつも私たちが考えるよりもはるかによいものです。私たちのイエス様はかならずこたえてくださいます。イエス様はそうせざるをえないのです。なぜならイエス様は、多くのおやくそくによってそうすることを義務づけられているからです。

3.イエス様は、あがめられる


ラザロのやまいという知らせがつたえられたとき、イエス様はすぐにこうおっしゃいました。

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。」(ヨハネ11・4)

現在も私たちの主は、そのころとまったくおなじように働いておられます。私たちは、苦しみや悩みをあたえられるかもしれません。それによって、私たちはいっそう主の御顔を求め、祈るのです。

私たちの祈りは、私たちが望んだのとはまったくちがったかたちでこたえられます。私たちの苦しみがとりのぞかれず、問題が解決されないまま、それでも主を信頼しきって主にあってよろこぶことができるなら、それは人間の力ではできないことであり、それこそ主からのはかりしれないおくりものです。そしてそれこそが私たちの祈りの聞きとどけなのです。私たちの祈りは、主イエス様があがめられるために、主イエス様があがめられるかたちでこたえられるのです。

さて、イエス様がベタニヤにはいられてのち、ラザロのよみがえりの直前につぎのようにマルタにおっしゃいました。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11・40)

さらにイエス様は父なる神につぎのように祈られたのです。

イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(ヨハネ11・41、42)

イエス様は父なる神に祈られたあと、大声で叫びました。「ラザロよ。でて来なさい」。すると死んでいたひとがでて来ました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(ヨハネ11・45)

祈りはこのように、「主イエス様があがめられる」ために、「主イエス様があがめられる」かたちでこたえられます。

4.イエス様は、特別な祝福をあたえてくださる


イエス様は特別なしかたで祝福してくださいます。

マリヤとマルタは言葉では言いあらわせないほど苦しみました。しかし彼女たちは主に祈り、主は彼女たちの祈りをむだにはなさいませんでした。主はこたえてくださったのです。死でさえも、獲物を手ばなさなければなりませんでした。

彼女たちは、もはやいぜんとちがってまったく変えられてしまいました。「主のみこころだけがつねに最善である」ということを、彼女たちに疑わせるような力は、もはやなにひとつ存在しなかったでしょう。

私たちが試練に会い、困難を経験し、どんなにけんめいに考えても多くのことがまったく理解できないとき、その悩みと苦しみをとおして「もっともっと主に近づいていく」ということがたいせつなのです。そしてこれこそが主の願いなのです。

あるクリスチャンは次のように祈りました。「主よ。わたしは病気です。しかし、あなたをもっとよく知るまでは、もっとあなたを愛するようになるまでは、どうかこの病気をなおさないでください」と。私たちは試練のとき、このような態度で祈ることができればさいわいです。私たちが主のまえにこのような態度をとるとき、考られないようなすばらしい祝福が、悩みと苦しみをとおしてながれでてくるのです。

主は私たちに、特別な祝福をあたえたいと思っておられるので、特別におもい重荷をおあたえになるのです。

5.イエス様は、かぎりない恵みをあたえてくださる


・・・私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に・・・栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(エペソ3・20、21)

この聖句を読むと、イエス様は「願うところ、思うところのすべてをこえてゆたかにほどこしたい」と願っておられることがよくわかります。

ラザロのよみがえりをとおして、主は無限の恵みをあたえてくださいました。

ラザロはほうむられました。なみだがつぎつぎとながされました。とつぜん起こったこの悲しみと苦しみは、耐えられないことのように思われました。しかし祈りにこたえて、主は働いてくださいました。イエス様の力あることばによって、死んでいた者が墓からでてきました。主はマリヤとマルタが考えたこととはちがったかたちでこたえてくださいました。私たちもまた主がこたえてくださること、それもかならずしも私たちが願ったとおりでなく、違ったかたちでこたえてくださることをたえず経験しています。

しかしイエス様のおこたえは、どれもみな「かぎりない恵み」なのです。主は、主に栄光が帰され、多くの未信者が主ご自身を知るようにと、つねに祈りにこたえてくださいます。

私たちが、主が愛しておられるひとのために祈るとき、主がもとどおりにしてくださり、なおしてくださり、祝福してくださることはすばらしいことかもしれません。しかし、ときには主があえてなおそうとはなさらず、恵みをもってそのひとを天に召し、主のみもとにつれて行かれることがあるかもしれません。ほんとうはそのほうがはるかにすばらしいことではないでしょうか。

・・・私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1・23)

主を信じる者が召されて主のみもとに行くとき、なみだが流されることでしょう。しかしそれは、召されたひとにふさわしいことではありません。というのは、イエス様とともにいるのは、この世にあるよりはるかにすばらしいことであり、うらやましがられてとうぜんのことだからです。たしかに私たちは、しばらくのあいだそのひとを見ることができなくなります。そのひとは私たちよりひと足さきに主のみもとに行ったのですが、やがて私たちも天でその召されたひとといっしょになり、ただ主だけをたたえ、主をあがめるようになります。主のみこころはつねに最善です。そして主は、ひとりひとりのために、最善だけを考えておられます。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」(ヨハネ11・40)

神の栄光の啓示、これこそが、いちばんたいせつなことなのです。

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