2017年10月1日日曜日

あなたが神の子なら

あなたが神の子なら
2017年10月1日、吉祥寺福音集会
古田 公人

マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

今、兄弟が読んでくださったところの最初に、『悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて』とあります。ですから、これは偶然の出来事ではありませんでしたし、悪魔が出てきたのも、偶然の出来事ではありませんでした。イエス様は、私たちのために悪魔の試みを受けてくださいました。悪魔がどのように私たちを攻撃するか、また、悪魔の攻撃にどのように対処すべきかを、このことを通して明らかにしてくださっています。


悪魔は、あなたが神の子ならと、二度、繰り返しました。これこそが悪魔の攻撃の常套句です。ただし、悪魔は私たちに向かっては決して、『あなたが神の子なら』などとは言いません。そんなことは、言わなくても当たり前のことであります。そうではなくて、イエス様が神の子なら、聖書が神の言葉なら・・・・と、私に言ってまいります。そして、その言葉を私たちに刷り込みます。それこそが、悪魔の攻撃であります。

悪魔の策略に乗せられて、色々な人たちが、イエス様に『あなたが神の子なら』と言っています。

マタイ
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

こういった人たちは、イエス様が神の子なら、十字架に付けられるはずはないと、思っていたのでしょう。これは嘲りの言葉であります。

マルコ
14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。」

大祭司は、イエス様が神の子であるかどうかを知りたかったのではありません。イエス様に敵意を抱いていて、死刑にする口実が、単に欲しかっただけであります。

ルカ
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

犯罪人は、イエス様がキリストであると、もちろん、信じていたわけではありませんでした。単に、イエス様を愚弄しただけであります。

同じような言葉は、私も聞いたことがあります。かつての同僚ですけど、神様がいるなら、なぜ世界に戦争があるのか、なぜ世界中には悲惨なことがこんなにあるのか、なぜ食べるものにも困る人たちが、何のために生まれてきたのか分からないような人たちがあんなにたくさんいるのかと、言われたことがあります。でも、その人は世界に戦争があること、貧しいこと、また、そういう人たちのことを真剣に考えて、言ったわけではありませんでした。単に、神様はいないということを主張しようと思って、そういうことを言ったにすぎません。

いろいろな人たちが、イエス様が神の子なら、あるいは、神様がおられるなら、あるいは、聖書が神の言葉なら・・・・と言います。そのように言う人は、本当に知りたくてそう言うのではありません。悪魔に吹き込まれたことを言っているに過ぎないと、御言葉を通して私たちは知ることができます。

なぜ悪魔は、では、聖書が神の言葉なら、イエス様が神の子供なら、神がおられるなら・・・・というようなことを、私たちに刷り込もうとするのでしょうか。疑いの心を持って考えさせるためではないでしょうか。疑いの心を持って考えるということは、研究者がよくやることですけれども、これは意識しないうちに、神様よりも、また、御言葉よりも、自分を高いところに置いていることであります。

上からの目線で、聖書やイエス様について考えさせる、これこそが悪魔の目的だということができるのではないかと思います。人は、砕かれた心を持って見上げるのでなければ、決して、イエス様との交わりを持つことはできません。御言葉を見てみたいと思います。

詩篇
33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

それから、よく知られているヤコブ、四章六節です。

ヤコブ
4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

神学者は、研究のために聖書を読みます。ですから、聖書に関する研究結果を発表しますし、また、イエス様についての本を書くこともできます。しかし、上からの目線に止まっている限り、イエス様を個人的に知ることはありませんし、イエス様との交わりに入れられることは、決してありません。あなたが神の子なら、神がおられるなら、聖書が神の言葉なら・・・・と言ったことばは、知恵の言葉のように見えますけれども、本当は、人を暗闇に閉じ込める悪魔の魔法の言葉だということを、心に留めたいと思うのであります。

もう一度、マタイ四章に戻りたいと思います。

マタイ
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。・・・・』
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

悪魔は、『あなたが神の子なら』と言いましたけれども、イエス様は、その言葉は無視なさいました。ただ、御言葉は何を言っているのかということだけを、お語りになっています。ここに、私たちが悪魔の攻撃に対して、どのように対処すべきかが、明らかにされています。大切なことは、御言葉について考えるのではなくて、御言葉は何と言っているのかということなんです。、考えて分かろうとするのではなくて、受け止めることです。心に刻むことであり、従うことです。これが、恵みを受けるただひとつの道だということは明らかであります。

ヨハネ
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

イエス様の前に出ようと思う者には、ただこの態度だけが求められています。御言葉を信じるとは、恵みです。それは、主なる神が与えてくださる啓示を受け止めることであります。

そのようにして、十字架上のイエス様を、キリストとして受け止めた人たちがいました。不思議なことに、それは、イエス様と行動を共にしていた弟子たちではなくて、また、いろいろと聖書について勉強していた律法学者でもなくて、多分、聖書を読んだこともない人たちでした。

ルカ
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この犯罪人は、ひどい罪を犯したに違いありませんけど、自分がしたことをよく知っていました。そして、十字架にかけられて罰せられるだけではなくて、死後、さばきにあうことを恐れていたんです。ですから、真剣に救いを求めていました。どうして彼が、イエス様を救い主と知ったのかは分かりませんけど、明らかなことは、主が恵まれたということであります。

悔い改めて救いを求める心に、キリストを啓示してくださいました。この人にとって、十字架上のイエス様は、そのままで御言葉であり、福音書だったということを、私たちは知ることができるのであります。

もう一人、百人隊長です。

マルコ
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

この百人隊長は、異邦人でした。聖書を読んだはずはありません。しかし、十字架の刑の執行に携わる以上、ピラトは、『ユダヤ人の王』という罪状書きを書いていましたので、彼はその罪状書きを、必ず目にしていました。そして、『ユダヤ人の王』という言葉の意味と、イエス様のことをそれなりに聞いていたに違いありません。百人隊長は、怖れをもってもってイエス様を見つめていたと思われます。

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

『わたしは道であり、真理であり、いのちです』と仰いました。イエス様は、いつ、どこで、どのようにしておられても道であり、真理であり、いのちです。十字架の上におかかりになっていても、道であり、真理であり、いのちであります。主なる神は、この百人隊長に、そのことを啓示なさったのではなかったのでしょうか。この人にとって、十字架上のイエス様こそが、やはり御言葉であり、福音書であったと言えるのであります。

私たちに与えられているものと、かたちは違いますけれども、主からの啓示だ、主なる神からの啓示だ、救いに至る道だということにおいては、全く同じであったと言えるのではなかったかと思います。

多くのユダヤ人が、イエス様の十字架を目にしていました。ほとんどの人は、聖書は読んだことはなくても、御言葉は耳にしていたと思われます。救い主の到来を待ち望んでいた人も、少なくなかったようであります。でも、彼らは、イエス様が神の子であると、受け止めることはしませんでした。もし、このお方が神の子なら・・・・と彼らは考えてしまったのではないかと思います。大切なことは、悪魔の言葉に耳を貸さないことであります。

聖書は神の言葉であり、イエス様はキリストですと受け止めることであります。その姿勢をもって受け止めようとした人、また、受け止めた人を、二箇所ほど聖書から見て、終わりたいと思います。

マルコ
9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

もし、『おできになるものなら』、『あなたがキリストなら』、『聖書が神の言葉なら』、同じであります。彼は、そう口にしました。でも、イエス様の御言葉を受けて、何が問題かを彼はすぐに悟りました。『信じます。不信仰な私をお助けください。』彼の姿勢こそ、本当に私たちの習うべき姿勢ではないかと思います。

マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

このバルテマイは、私たち自身なのではないでしょうか。『もし、イエス様が神の子なら・・・・』とは、彼は考えませんでした。イエス様は神の子に違いない。聖書は神の言葉に違いないと、彼は信じました。ですから、声をかけていただいた時の彼の喜びの気持ちが、五十節に出ているのではないかと思います。

マルコ
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

イエス様は、私たちがそういう態度で、いつもイエス様の前に出ることを望んでおいでになります。最後に、エペソ書の六章から読んで終わります。

エペソ
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

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