2016年6月7日火曜日

からし種のたとえ(ニ)

からし種のたとえ(二)
2016年6月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

今まで私たちは、二つの点について考えました。第一番目、神の国とは、いったい何でしょうか。二番目、神の国は、現在、どのような現れを示しているかについてです。今日は、第三番目の点について、すなわち、神の国は将来、どのように実現されるのかについて、一緒に考えてみたいと思います。

始めに蒔かれた種は、確かにわずかでした。けれども、五旬節の日に、三千人がいっぺんに救われ、それから、まもなく五百人以上の人々が導かれ救われました。

イエス様が迫害され、信者が迫害されている時、教会は、正常な、また、堅実な成長を示しました。けれども、その後、いわゆるキリスト教が、政治的に公認されることによって、異常な成長を遂げるようになりました。人々は、社会的な地位を得たいがために、いわゆるキリスト教に改宗しました。信者の数から見れば、キリスト教は、大きな成長を遂げました。けれども、霊的な力は、全く失ってしまったのです。

いわゆるキリスト教は、人々が本当の救いに導かれるための、大きなつまづきの石になっています。この悲しむべきキリスト教の発展の原因は、神の国は、人間の力によって建設されるという、間違った考え方によります。神の国は、この地上に、やがては必ず実現しますけど、それは、人間によって建設されるのではない。イエス様が再び、この地上に来られることによって、もたらされるものです。

神の国の特長は何でしょうか。すなわち、正義と平和の支配です。神の国の特長とは、そういうものであるけど、その前に、神の裁きが行われます。この裁きの象徴は、昔のネブカデネザルという王であり、それは、ダニエル書の中で、次の言葉で書き記されています。

ダニエル
4:11 その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。
4:12 葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。

主なる神は、このネブカデネザル王の高慢をご存知であり、王をお裁きになりました。ちょうどこのように、主は、宗教としてのキリスト教を、将来、お裁きになることでしょう。裁きをお下しになるまで、キリスト教はさらに、どんどんと成長していくことでしょう。しかし、この発展は悪魔の業です。この世的な権力を持った教会は、黙示録の中で大淫婦となぞられています。

黙示録
17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。
17:2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。
17:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。
17:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。
17:6 そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。
17:7 すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。

しかし、裁きの後には、神の国は、この地上で、現実に実現されるのです。十字架上で死なれ、復活して、昇天されたイエス様は、再びこの地上にやって来られ、エルサレムにご自身の都をお造りになります。

この時、主なる神に敵対する者は、何一つとして存在せず、不自然な成長を遂げるものもありません。その時、ユダヤ民族は、ちょうど一粒のからし種のように、世界の民族の中心になります。今日に至るまでユダヤ人は、少数民族であり、多くの人々から忌み嫌われて、さげすまれておりますけれども、このユダヤ人がすべての民族を祝福するようになると、聖書に書かれています。

エゼキエル
17:22 神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。
17:23 わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。
17:24 このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」

もう一箇所、似ている箇所ですけど、同じ内容でしょう。

ゼカリヤ
8:20 万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。
8:21 一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう。』と言う。
8:22 多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」
8:23 万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」

ヨハネ
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

やがて世界の中心は、ユダヤ人になり、そのユダヤ人をイエス様が支配するようになります。そして、イエス様とともに、ユダヤ人は全世界を支配するようになります。イエス様は、多くの人々からさげすまれています。イエス様を信じるまことの信者たちもそうです。しかし、イエス様はまもなく、再び、この地上に権威と御力を持って来られ、まことの信者たちも、イエス様とともに支配する者になります。

それではなぜイエス様は、当時、たとえでお話になったのでしょうか。それは、そうしなければ、彼らは、イエス様のお話に耳を傾けようとはしなかったからです。もし、イエス様が、ご自分の御目的を、はっきりと、あからさまにお語りになり、「わたしは良い種であり、わたしは人々のために命を捨て、それによって救いの道を開く」と語られ、「わたしは、あなた方を、道ばたのように踏み固められた土であると見ており、そして、信心深そうな顔をしておりながら、本当にわたしの神を知らないものであり、裁きの時には、一人として神から報いを受けることができないであろう」などと、はっきりとお語りになったとしたら、彼らは、一言も、もう耳を傾けようとしなかったことでしょう。彼らは、怒り狂ってイエス様を亡き者にしようとしたに違いない。

こうしてイエス様は、人々が恵みに預かる道を備えてくださり、悔い改める機会をお与えになってくださったのです。人々は、真理に耳をかすことを望みませんでしたから、イエス様は、彼らにたとえ話でお語りになりました。

けれども、イエス様は弟子たちに対しては、すべてを明らかにお語りになったのです。なぜなら、彼らは、真理に対して心を開いており、悔い改める心の用意があったからです。今日の世の中では、主なる神が本当に臨んでおられる真の教会を人々は望んでおらず、神の臨んでおられない、この地上における、いわゆるパラダイスを、人々は、望んでいるのではないでしょうか。まことの教会は、いつの世にあっても、目立たない小さな群れです。

けれども、そこにはイエス様を個人的に知っており、救いの確信を握っている人々がおります。イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と、約束してくださいました。今日でもなお、これが主のご目的です。すなわち、イエス様は、人々を悔い改めに導き、信仰を与え、従順に導きに従うことを望んでおられます。

この目的をわきまえない者は、悪魔に奉仕しているのです。多くの人々は、この主のご目的を望まずに、地上のパラダイスを築くことを望んでいます。多くの政治家や革命家、思想家たち、また、宗教としてのキリスト教を信じているような人々は、このパラダイスを目指しています。

ドイツのアドルフ・ヒトラーは、彼の第三帝国は千年間、続くと語ったのですが、実際には、十二年間で終わってしまった。このような目的を持っている者は、主なる神に対して敵対する者であり、悪魔の手下として働く者です。

主なる神のご目的は、まことの教会をこの地上に建設することです。新しく御霊とみことばによって生まれた者は、誰でもまことの教会に属しています。イエス様が再び来られるまでに、悪は、ますます悪に進み、善は、ますます善に進むようになります。こうして、善と悪が成熟した時に、イエス様は再び来られます。

悪の成熟とは、外側のこと、権力、名誉、財産などであり、善の成熟とは、信者がイエス様に、よりいっそう近い者と変えられて行くことによって達成されます。その結果は、栄光の教会であると書かれています。悪から自分を聖別することは大切です。

聖書は、異端の教えをもった宗教家に対して、信者が交わりを持ってはいけない。彼らから離れよ。彼らに挨拶をしてはいけないと語っています。いわゆる、集会のグループは、このようにして出来ました。信者は、聖書に書かれていること――いわゆる教会の教えとの違い――に気づくようになりました。彼らは、聖書の語っている事柄を、実際に生活したいと思いましたから、教会を出ざるを得なかったのです。

今日、世界中、どこの国でもこのような集会があります。聖書は、集会の人々のただ一つの原典です。また、この集会の人々は、牧師制度を否定して、会員制度も否定しており、教会同士の組織的な関係を否定しています。

このような態度を取ったまことのキリスト者たちは、使徒行伝の時代から、今日に至るまで、常に存在していました。また、このような態度を取ったキリスト者たちは、いつの時代にも、激しく迫害されました。彼らはいつでも、組織されたキリスト教、また、いわゆる既成教会から迫害されたのです。

五旬節から、信者が天に引き上げられた携挙の時までが、空中再臨までは、いわゆる聖霊の時代であり、主イエス様のみからだなる教会が建て上げられる時代です。聖霊が人々の心の中に住んでくださることによって、それらの人々の集いが集会になります。そして、主イエス様のみからだなる集会が引上げられる時、言うまでもなく、聖霊もともに引上げられます。聖霊が天に引き上げられることによって、この世には、悪霊が思うままに自分の力を働かせることになります。この時代は、とくにユダヤ民族にとって、過酷な試練の時になります。この時、地上のにせ預言者とにせキリストが支配します。けれども、この時代は、長くは続かないで、その期間は七年間であります。

イエス様はこの期間が終わって、再びこの地上に来られる時、ユダヤ民族を迫害してきた他の民族は、ことごとく裁かれます。それから、神の国が始まります。この神の国は千年間、続き、平和と調和が支配します。この神の国には、もはや戦争のための武器はありません。

イザヤ
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

また、この神の国の特長は、義と平和と喜びです。ローマ人への手紙の中で、パウロは次のように書いたのです。

ローマ
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

この節から、神の国は、将来のことばかりではなく、今日すでに、このように、もたらされているということを、学ぶことができます。イエス様を受け入れた人々は、そこに、神の国を体験しています。新しく生まれ変わった人々の交わりの中に、神の国はすでに実現されています。すなわち、新しく生まれ変わった人々は、義と平和と本当の喜びを持っています。

ルカ
17:20 「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

聖霊によって、神の国が信者の心の中に住んでくださいます。

ルカ
12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

こう約束されています。ここで、「小さな群れ」という表現が使われています。小さな群れとは、聖霊によって生まれ変わったまことの信者の群れを示しています。ここには、神の国がすでに実現されています。エペソの信じる者たちも、これらのことを体験していました。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

コロサイ
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

ところが、私たちはこれらのことを実際に、自分自身で体験したのでしょうか。私たちは、みことばのように、暗闇の圧制から救いだされて、御子のご支配の中に移されているのでしょうか。人間は、悪魔の支配にあるか、イエス様の支配にあるかのどちらかです。自分自身の罪を認め、イエス様を自分の救い主として受け入れ、イエス様に従って行こうと心の用意ができている人々は、今日すでに、神の国を体験しているのです。

まもなくイエス様は、ご自分に属する者を引き上げるために来られます。この地上で、もっとも熾烈な苦難の時が行われる時、天では小羊なるイエス様と花嫁なる信者たちとの婚礼が行われるのです。

イエス様は、確信をお持ちでない方々に、今日、救いの確信をお与えになりたいと思っておられます。イエス様は、ご自分のもとに来る者を、『わたしは、決して捨てない』と言ってくださいました。この約束された真理に与かるために、イエス様の御許に来ようとはしないのでしょうか。

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