2016年6月5日日曜日

ナルドの香り(2016年)

ナルドの香り(2016年)
2016年6月5日、新潟福音集会
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

話す前に、私はいつも、変な祈りを捧げます。『イエス様、今からの私のしゃべることを誰も聞かないで、あなたの言わんとしていることを聞かせてください。』そういう心がまえがあれば、主は必ず、憐れんでいてくださいます。

四つの福音書では大切なのは、イエス様との出会い、そのものです。どうして、当時の多くの人々は、イエス様のところに行ったのでしょう?もちろん、時間をつぶすためではない。やはり、病気のため、孤独になったから、結局、絶望してしまったから、当時の人々は、イエス様のところへいったのです。

彼らは皆、結局、イエス様から何かを得ようと期待していたのです。わがままなんですけど、イエス様だったら何とかなる――あきらめる必要はない。もちろん、イエス様のところ行ったけど、むだでしたと言う人は、一人もいなかった。『行ったのはよかった!』と、みんな、感謝の気持ちでいっぱいです。

イエスの呼びかけとは、皆さん、ご存知です。マタイ伝、11 章、28節、『すべて、疲れた人・・・・。』多くの人々は、あいさつの代わりに、『こんにちわ』とは言わないで、『疲れた』といいます。そういうものだよ。思うとおりに行かないから疲れます。あまり、おもしろくない。けれども、イエス様は、『わたしのところに来なさい。休ませてあげます』と、約束してくださったのです。

今、読まれましたルカ伝、19章のザアカイの話を見てもわかります。あの男は、結局、現代人の多くと似ています。お金、お金、お金・・・・。金持ちになれば、幸せ。心配しなくてもいい。彼は、金持ちになったけど、心は満たされていなかった。つらかったに違いない。

けども、イエス様は、彼の家に行くようになったんです。何と何と何を話されたか、もちろん、わかりません。天国に行ったら聞いちゃいましょう。

結局、今まで、お金、お金、お金としか考えなかった男が、全財産の半分を悩んでいる人にあげたい、間違ったやり方で取った金は四倍にして返します。そうすれば、もう残るお金はあまりなかった。けれど、金なんて別にどうでもいいと、ザアカイは、はっきり分かったのです。

今、話したように、イエス様はいかに忙しかったのか、想像できません。結局、皆、うわさを聞いたんです。イエス様のところに行くと、決して、むだではないよ。絶対に後悔しない。

けれども、当時の人々は、現代人と非常に似ていますけど、イエス様から、何かを得ようと考えた人々は非常に多かったんです。イエス様に何かを捧げようと願った人は、当時、あまりいなかったし、今日も、そうではないでしょうか。

その少ない人々の中でいわゆる、ベタニアのマリヤという女性がいます。イエス様によって大いに褒められた。他かの人は、彼女のように褒められた人は、一人もいなかった。いったい、どういう方だったのでしょうか?マルコ伝から、二、三か所、お読みいたします。

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」

もったいない!

14:5 「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

ちょっと、気の毒だったね。まったく誤解されてしまったのです。けれども、きびしく責められた方のために、今度は、イエス様が入ったんですね。

14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです・・・・

最高の褒め言葉です。イエス様がそう言われたとき、うれしかったに違いない。

14:8 ・・・・この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

今日は、彼女の記念会だね!彼女のことについて考えると、恥ずかしくなるよ。

14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

どうして人々のあいだに、成長の違いが出てくるのでしょうか?イエス様を信じる人々とは、もちろん、皆、救われています。すなわち、イエス様の愛を体験的に知るようになりました。

私たちは、しばしば、自分がイエス様に対して、どのような関係にあるかということよりも、自分が何を成すべきかということを、大切にする者なのではないでしょうか。私たちが、『通り良き管』になるためには、イエス様との密接な交わりが、どうしても必要です。主との愛の交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなり、祈りをしたくなくなり、余裕を失い、神経質になります。

今、読みましたマリヤという姉妹は、高価なナルドの香油を主イエス様に注ぎ出したのです。この行ないは、心からの愛の表れでした。すべてをイエス様に捧げたい!というのが、彼女の心からの願いでした。そして、今、話したように、彼女ほど、イエス様に褒められた人は、一人もいなかった。『この女は、できる限りのことをしたのだ。』イエス様の判断でした。

この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表しています。彼女は、イエス様だけが、真の幸福と本当の平安を与えられるお方であることを経験しました。ですから、彼女は、心からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げました。彼女の心は、感謝と愛でいっぱいだったのです。

聖書の中心は、十字架につけられた、罪滅ぼしのために犠牲になられた、主イエス様です。この十字架につけられたイエス様について、聖書は、次のように言っています。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

まことのよろこびの根拠、また、みなもとは、今、読みましたことですね。聖なる神は、我々のすべての咎を、十字架につけられたイエス様に負わせた。罪滅ぼしのために、イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられたんです。ひどい!としか、言えません。もっとひどいことは、ないのではないでしょうか。ばからしいと考えている人もいます。なぜならば、イエス様の捧げられた血潮は、イエス様の命だったのです。私たちのようなつまらない、どうしようもない者のために、このような代価を払うのは、ちょっと考えられません。

けれど、私たちの大部分は――イエス様に出会った人々は――皆、よろこんでいます。ありがたい!イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは裁きに会うことがない。もうすでに、死からいのちに移されていると確信できるのです。十字架につけられたイエス様から、目を離してはならない。これは、新約聖書の中のもっとも大切な命令です。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

『走る』こととは何ですかね?答えは、2節でしょうね。

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを(・・・・イエス様を・・・・)考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ルカ伝18章に、戻りましょうか。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子(・・・・であるわたし・・・・)について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子(・・・・であるわたし・・・・)は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子を(・・・・わたしを・・・・)むちで打ってから殺します。しかし、人の子(・・・・であるわたし・・・・)は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

けれども、この弟子たちとまったく違いまして、ベタニアのマリヤという女性は、イエス様の埋葬の用意にと、イエス様の身体に、前もって、油を塗ってくれたのです。このマリアの心は、感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただひとつのことを思ったでしょうね。いかにして、主イエス様に対する愛を表したらいいかな。いかにして、イエス様に対する感謝を表すことができるでしょうか・・・・と思ったに違いない。

けれども、その時、彼女は、このナルドの香油のことを思い出したのです。このナルドの香油は、非常に高価なもので、一人の人が一年間、働いて得る所得に等く、七千五百人分のパンを買うことができたほど、高価なものでした。それですから、彼女は、自分自身のためにですら、それを使うことができなかった。『もったいない』と、思ったのです。まして、他の人々のためにそれを使うことは、もちろん、できなかったのです。

けれども、突然、彼女は、イエス様ならば、その香油は、ちょうどふさわしいものと思い、それによって、自分の愛を表すことができると考えました。そして、イエス様は、このマリヤの行ないを、非常によろこばれました。全き愛が――全き愛だけが――イエス様を、十分に、よろこばせることができます。けれども、他の人々の反応はどうでしょうか?

マルコ
14:1 祭司長、律法学者たち(・・・・当時の聖書学者たち・・・・)は、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

考えられないことなのではないでしょうか?隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になってしまったのです。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺そうかと考えており、今、見てきたマリヤと言う女性は、いかにして、イエス様に対する自分の愛を示すべきかと考えていたのです。彼女は、自分のすべてを捧げざるを得なかったのです。

とくに、イエス様の一人の弟子、ユダという男は、結局、もう黙ることができなかった。文句を言ったのです。マリヤの行ないはばからしいことであり、無駄なことだと思ったのです。もっとうまい使い道があるのではないか。七千五百人の貧しい人たちに食事をさせる方がよいのではないか。もちろん、皆さんはご存知でしょう。例えばユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心で、そう言ったのではない。貪欲な守銭奴だったからです。

いかなる理由で人々は、それぞれ異なった態度を、イエス様に対して取るのでしょうか。今、話したように、当時の聖書学者たちは、彼ら自身の名誉を求めただけなのです。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるのではないかと心配しました。妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺すということになったのです。ユダは、金だけを欲しがり、もっともっと欲しい!と思ったのです。彼は、盗みをし、それから、偽善者そのものとなり、そして、裏切りをして、最後に自殺してしまったのです。

けれども、マリヤは、いかにして自分の愛を、イエス様に示すことができるだろうかと、真剣に考えました。イエス様を愛することができるのは、イエス様に罪を赦された者だけです。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者だけです。このような態度を取らない者は、自分中心な生き方をし、自分のことだけを考えるのです。不幸への早道です。イエス様が、十分に考慮してくれない、あるいは、ちやほやしてくれなければ、すぐに自分の殻に引きこもる人、あるいは、離れる人・・・・当時、いましたし、今もそうなのではないでしょうか。

私たちは、次の問いについて考えるべきではないでしょうか。すなわち、私は、イエス様に対して、本当の愛を持っているでしょうか?私は、イエス様との交わりを持とうとして、イエス様の御許(みもと)に近づいていきたいと願っているのでしょうか?私の考えや感情の中心は、本当に、イエス様でしょうか?私は、義務感で主に仕えるのか、あるいは、愛によって、イエス様に従うのでしょうか?

今、一緒に考えてまいりましたマリヤという女性は、心からの愛をイエス様に捧げたから、イエス様は、彼女を非常によろこばれたのです。けど、私たちは、いかにして、イエス様をよろこばせることができるのでしょうか。マリヤは、イエス様の足もとに座って、イエス様のみことばを聞きたいと、切に望んだのです。ただ聞くだけではなく、みことばに服従する心がまえで聞いたのです。彼女は、忙しかったと思う。時間がなかったけど、みことばを聞く時間を作ったのです。

私たちは、聖書を読むだけではなく、聖書に聞かなければならない。聖書に聞く時間を作らない人は、イエス様を本当の意味で愛しているかどうかは疑問です。イエス様は、みことばに対して開かれている耳を期待されます。イエス様を愛することの第一歩は、イエス様のみことばを聞くことであり、祈りながら主に近づくことです。すべて、その他のことは、別にどうでもよい。大切なことではない。枝葉の問題です。

マリヤは、ただ単に、イエス様のみ言葉を聞いただけではなくて、イエス様に話しかけました。イエス様のところに行って、みことばを聞き、イエス様に話しかけることだけが、彼女の切なる願いでした。我々の場合には、私たちの祈りの中心は、自分の考え、自分の計画、自分の問題なのではないでしょうか。私たちは、イエス様ご自身よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか?そういうのは、決して、マリヤの持っていたような愛ではない。

マリヤは、まず初めに、主のみことばだけを聞きたいと願い、次に、イエス様だけに語りたいと願い、そして、最後に、主にすべてを与えたいと、心から願いました。彼女は、イエス様の足もとに座って、みことばに耳を貸したのです。彼女がしたように、イエス様の足もとに座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。

彼女は、イエス様が、自分を全く欠けたところなく愛しておられることを、よく知っていたので、マリアもイエス様を、少しも裏切るところなく愛していたのです。彼女は、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の頭に、惜しげもなく降り注いだのです。すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油を、イエス様に降り注ぐことにより、イエス様に対する愛を示したのです。

このナルドの匂い油の匂いが家全体を満ちたと、聖書は言っています。それと同じように、愛の雰囲気が我々の心、家、また、各集会を包んでいるのでしょうか?

黙示録の中で、非常にたいへんなことが書かれています。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

『初めの愛』とは、何でしょうか?イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成し得ないということです。もし、日々、主のみことばである聖書が、私たちの泉となり、私たちの慰めとなり、私たちの力となり、私たちの知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそ、私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。

当時のエペソの兄弟姉妹の心は、もはや、イエス様との親しい交わりの中にはなかったんです。主の足もとに静まることを忘れてしまったのです。その結果、イエス様は、もはや、『わたしはあなたと共にいる』と言うことができず、『わたしは、あなたに対して対立する』と言わざるを得ないことになったのです。

初めの愛とはなんでしょうか?二心(ふたごころ)の無いイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、そして、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、そして、兄弟姉妹に対して真心からの愛を持つことなのではないでしょうか。

主は何を望んでいるでしょうか?結局、聞く耳を持つことです。『主よ、お願い!語ってください。しもべは聞いております。』この心構えがあれば、主がよろこぶだけではなく、我々は、多くの人々にとって、祝福になるにちがいない。

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