2015年12月23日水曜日

クリスマスの意味

クリスマスの意味
2015年12月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ゼカリヤ
2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。――主の御告げ。――

このことばは同時に、クリスマスのメッセージなのではないでしょうか。三つの事柄について考えたいと思います。

まず、第一に、どのような状況に置かれても、そうたやすくすることができないようなこと、すなわち、喜び歌い、楽しむということに対する提案ではなくて、命令がなされているということです。


二番目、このみことばの中で、上に述べた命令はどうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかに示されているということです。すなわち、「見よ。わたし、わたしは来る。」結局、わたしを見なさい。

三番目に、主の御旨(みむね)を知ることがそれに他ならない。「わたしは、あなたのただ中に住みたい」とあります。主が喜び歌い、楽しめと命じておられ、かつ、そのような勧めがなされているということは、誰でも理解することができます。誤解することはまずない。主なる神の言われることは、すなわち主の思いであり、主が望んでおられることです。悲しみ、落胆、敗北観は禁じられています。主は、我々が喜び歌うべきであると、強く言っておられます。

このような主の命令に対して、不従順な態度をとることは罪です。確かに多くの人は言うでしょう。そういうことは言うのは簡単ですけど、実際にその通り喜ぶことができない。無理だよ。

確かに、私たちは自分自身の状態、また、状況を見ると、本当に喜ぶことができないような場合が数多くあるのではないでしょうか。パウロは、主の恵みによって、救われた後で言ったのです。

「私は、何というみじめな人間なのだろうか。」これは決して、喜びの叫びではない。私たちが自分自身の内側を見る時、そこには喜ぶべき根拠が何ひとつないことを認めざるを得ません。

ところが、その当時、主はザカリヤを通して、イスラエルの民に、『喜び歌え、楽しめ!』と命じ言われましたが、今日も主は、我々一人ひとりに向かって、全く同じように命令しておられるのではないでしょうか。現代人にとって、私たちにとって、もっとも大切なのは静まることです。

主の愛を新しく、体験することです。私たちは色々なことについて考えたり、心配したりします。また、どうしてもしなければならないことがあまりにも多いので、どうしたらいいのか、さっぱりわりません。けれども、大切なのは、今、話したように静まることです。主によって愛されていると、つかむこと、新しく知ることこそ大切です。主に愛されているとは、確かに理性で掴めない事実です。けれども、もっともすばらしい奇跡です。

旧約聖書のイザヤ書から・・・・クリスマスのときによく引用される箇所です。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

パウロはこのすばらしい事実について言ったのであります。

第二コリント
9:15 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

礼拝のないクリスマスは、本当はあり得ない。

ルカ
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

期待された救いの神であるメサイヤです。

ルカ
2:12 「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

パウロも、この想像できない事実について書いたのです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

また、パウロは、愛弟子であるテモテにも書いたのです。

第一テモテ
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

パウロは、まとめて喜んで書いたのです。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様ご自身が、もっともすばらしい贈り物であり、主なる神の愛の表れそのものです。この救いの神を経験した人の証しとは、次のようなものです。ダビデは、告白したのであります。

詩篇
118:14 主は私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

イザヤは言っています。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

マリヤの告白もすばらしい告白です。

ルカ
1:45 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

主は来られた。犠牲になるため、自分自身を無にするため。

何年前だったか、ちょっと忘れましたけど、ある奥さんは、この世で生きるのはいや、おもしろくない、もう死にたい。大きなビルの十一階から、飛び降りてしまったけど、死ぬことができなかった。奇跡的に助かった。けれども、結果として、彼女も母親もイエス様を信じるようになった。生きていて良かった。死ぬことができなかったのは良かったと言うようになったのです。イエス様が死んだから良かった。そうでないと、もうおしまいだから。

イエス様は、悲しみの人となった。その前には、宇宙の創造主であり、何でも知っておられ、何でもおできになったお方です。けれども、イエス様は人となった。このイエス様の人生は、苦しみの人生でした。パウロは、また、書いたのです。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

イエス様を通して富む者となった者は、喜ぶことができます。ですから、主なる神は、私たちがどうであるか、どのような状態であるかにはおかまいなく、喜び歌い、楽しめと命じ、要求しておられます。このことを示す御言葉を、もう一箇所読みます。よく引用される箇所です。すばらしい告白です。

ハバクク
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

もう全部、嫌になった・・・・のではない。

ハバクク
3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

意思の問題です。気持ちの問題ではない。喜ぶ気持ちは、全然なかったよ。全部、無駄のように見えたのです。けど、『私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。』

ハバクク
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

たとえ、私たちが何の実も見なくても、また、それが一見、空しいように思われる時でさえも、喜び歌え、楽しめと主は言っておられます。「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」これは、当時の預言者であるハバククの断固たる決断でした。自分の魂を失うことが、どうしても必要であるということを、ここでも明らかに知ることができるのではないでしょうか。

もちろん、この預言者は、自分の感情、自分の思い、自分の意思によって支配されていたなら、決して喜ぶことができなかったのです。なぜならば、その時の状況は、一つの実を結ぶようにもならず、人間的にはすべてが空しいように見えたからです。初代教会の人々も同じようなことを経験したようです。

使徒行伝
5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを(・・・・泣きながらではなくて・・・・)喜びながら、議会から出て行った。

主に従う者は、それが犠牲を払わなければならないようなとき、使徒と同じように信仰のために甘んじて迫害を受けるということは、それほど簡単なことではない。それはただ、目に見えるものから目を離し、ただ主を見上げることによってのみ可能です。

パウロとシラスの経験は、結局、同じようなものでした。

使徒行伝
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

パウロとシラスは、無実の罪で牢獄に入れられたのです。そこで彼らは、鞭で打たれたり、棒で殴られたり、色々な拷問を受けました。それによって彼らは、肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかった。それにもかかわらず、真夜中ごろ、すなわち、真っ暗で逃れ道もなく、何の希望もないように思われるとき、二人は神に祈りつつ、賛美の歌を歌ったとあります。パウロもコリント第二の手紙に書いたのです。

第二コリント
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

私たちは、色々な悲しみや苦しみなどを経験することがあるかもしれないけど、それにもかかわらず、いつも喜ぶことができる。これこそまさに、多くの苦しみを受けたパウロの証しでした。

へブル
10:34 あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

私たちは、色々な思い煩いや誤解、あるいは、迫害を受けるとき、心から喜ぶことは、決して簡単ではない。それにもかかわらず、これは主の命令です。そしてまさに、ハバククという預言者、使徒たち、また、パウロ、シラスは、そのように、いつも喜ぶことができたのです。

「喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」どのような状況に置かれても、そうたやすくすることができないようなこと、すなわち、喜び歌い、楽しむということに対する命令がなされています。それから、このみことばの中で、上に述べた命令は、どうすれば従順に従い得るかという奥義が明らかにされていますね。

すなわち、「見よ。わたし。わたしは来る。」主が何故、私たちがいつも喜ぶことができるかという理由を説明しておられます。それは、『見よ。わたし』ということです。結局、わたしを見なさい。すなわち、自分自身を見たり、他人を見たり、周囲の状況を見たりしないで、ただ主のみを見なさいということです。

主の命令は、同時に主がその力を授けてくださることです。主は、決して決して、不可能なことをお命じになりません。「見よ。わたしを」と言われるお方は、もちろん、万物の創造主であり、何でもできるお方です。

父なる神の本質の完全な現れ、そのものであり、主なる神の右の座に座しておられ、すべての力を与えられた大能の主である、将来の裁きをも委ねられているお方です。目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは、考えられないほど大切です。我々の喜びの源は、ただただ、主の中にのみあります。

本当の喜びの源は、決して、理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではありません。ただ、イエス様の中にだけあります。この事実をはっきりさせるために、ザカリヤは、「見よ。わたしは・・・・」と言ったのです。同じようなことばを、クリスマスの夜、天の御使いが言いましたね。

ルカ
2:10 ・・・・恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ、喜びの源です。イエス様は、天の栄光を捨て、人間となられ、悪魔の奴隷、どうしようもない人間と一緒に生活するようになりました。そして、ご自分の命を捨てる備えをしていたのです。父なる神は、イエス様を通して、この世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。

「わたしは、あなたのただ中に住みたい」とありますね。昔から主なる神のご目的は、人と共に住むことでした。旧約聖書において、主なる神が民を顧みてくださった期間は、ある程度、制限されていたのです。主の御栄光が現れたところとして、まず第一にいわゆる幕屋、会見の幕屋でした。

出エジプト記
40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

後で、ソロモンの宮の上にも同じような現象が起こったのです。

第一列王記
8:11 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

同じような体験をベツレヘムの羊飼いたちもしました。

ルカ
2:9 ・・・・主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

この野原の上で、主は限られた期間、イスラエルの民を顧みられたのではなく、人と共に住むために来られたのです。これこそ、御使いのお告げでした。弟子たちも、この栄光を共に体験することが許されました。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖書の中で私たちは、「わたしは、ただ中に住む」とか、「わたしは、捨てない」といったようなことばを非常に多く見出すことができます。「わたしは、あなたと共にいる」、「わたしは、あなたの中に」ということこそ、主の願いです。私たちが召し出されているのは、私たちが主の宮、主の住まいとなるためです。

主なる神の宮、主の住まいとしてのみ、私たちは本当の証し人、また、僕(しもべ)となることができます。「わたしは、来る。そして、あなたと共に住むことを望む。」このことばは、我々、一人ひとりに対して向けられていることばです。私たち、一人ひとりを通して、大いなる奇跡を現さんと、主は切に願っておられます。

私たち、一人ひとりを通して、主は、御自身の御栄光をお現しになりたい。けれども、遠い将来にではなく、まさに今日、それを成さんと主は願っておられます。「わたしは、来る。そして、あなたと共に住むことを望む」と。考えられないほど、すばらしい約束なのではないでしょうか。イエス様は来られた。イエス様は生きておられる。

聖書の中で、イエス様は、よく『救い主』と呼ばれました。数えてみると二十六回。イエス様は唯一の救い主であるとあります。けれども、イエス様は、『救い主』ではなく、『主』とも呼ばれたのです。何回かと言いますと、六百七十回。もう比べられない。

私たちはただ単に、イエス様がこの世にお出でになったことを振り返ることだけではなく、すべてのことの支配者として、イエス様はまた、お出でになるということ、すなわち、イエス様が近いうちに、再びお出でになることを、深く思わなければならないのではないでしょうか。

イエス様が来られます。今日かもしれない。毎日、待ち望むことこそが、主の切なる願い、そのものであります。

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