2013年3月19日火曜日

もっとも大切な三つの点

もっとも大切な三つの点
2013年3月19日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 「これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

エゼキエル
44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――
44:16 彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。

44:28 これが彼らの相続地となる。わたしが彼らの相続地である。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有地である。

今まで読んでもらった箇所の中で、何回も、「レビ人」ということばが出てきました。聖書の中で、何回も出て来るから、やはり、大切なのではないでしょうか。有名なイザヤ書、四十三章の一節にも、似ていることばが書かれています。


イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

この言葉は、レビ人についてだけではなく、へりくだったすべての人のために書かれたものです。あなたはわたしのもの。そうすると、もう心配しなくてもいいし、思い煩わなくてもいいし、安心して、将来に向かうことができるのです。もう一箇所、読みます。コリント第一の手紙、六章、内容的には、全く同じことばです。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

今朝、我々の生活における主の目的について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。主なる神が考えておられる事は、一人でも多くの人々が救われることですが、そればかりではありません。その救われた人々を通して、主イエスのご臨在が外に現れていくことも、主は願い求めておられます。

我々の内に宿りたもう主イエス様、内住の主こそ、私たちが生まれ変わった証拠です。人々は、我々の内にイエス様が住んでおられることに気づくはずです。そのように身を持って、イエス様を証しして、始めて、主の証し人と言えると思います。

初めに読んだ聖書の箇所では、会見の幕屋で働き、契約の箱を担う勤めをしたレビ人について書いてあります。十六節を見ると、レビ人は、全く神に捧げられていたことがわかります。

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

一つ残らず、全てを主にお捧げしたのがレビ人でした。全てを主に捧げ尽くしたこのレビ人こそ、主のご栄光を現すことのできる模範の人々といわなければなりません。ですから、ここでしばらく、このレビ人について、考えてみたいと思います。

レビ人たちは、イスラエルの民が、荒野を通って旅をした時、主の臨在を現す契約の箱を担って歩いた人々でした。イスラエル人たちは、臨在の雲の柱が上った時、今まで留まっていたところから出発し、雲に導かれ、雲が再び留まったところで民たちは留まりました。

レビ人たちは、主の臨在の雲が留まったときには、素直に、そこに留まりました。「なんのため、どうして、なぜ?」とは、考えようとしなかったのです。そこがどんなに居にくい場所であっても、また、見る目に良くない場所であっても、導きのままに留まりました。

我々の場合はどうでしょうか。自分の考えのおもむくままに、良い環境を選んで、そこへ行くのでしょうか。または、主の導きのままに歩んでいるのでしょうか。実際のところ、私たちが生きているこの世は、どこへ行っても、荒野のようなものではないでしょうか。

見た目に居心地の良さそうなところでも、実際に住んでいれば、しばらく経つと、そこも、荒野であったことがわかります。私たちは、レビ人と同じように、主の御手にあるところ、主の臨在が現されていくのですから、導きのままに歩みたいものなのではないでしょうか。レビ人たちには、三つの特徴がありました。

第一番目、主に対して礼拝し、二番目、人に仕え、三番目、悪の霊に対して戦う。この三つの特徴を持っていました。この三つのことは、そのまま、我々の日々の生活に、主が求めておられることです。

まず、主に対する礼拝について、ちょっと考えたいと思います。礼拝について考えると、おそらく誰でも、ヨハネ伝、四章二十三節、二十四節を思いだすでしょう。

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

礼拝とは、いったいどういうことなのでしょうか。

父なる神に、御子であるイエス様の偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを、心から言い表すのが礼拝です。心の目で、自らの神から離れ去って、役に立たなくなっており、罪深いダメな状態を見、それとともに、あわれみ深い主イエス様の御救いを、心の目で見るとき、礼拝をせざるを得なくなります。

主なる神のご愛、偉大さを知らないイエス様に属さない人々は、本当の意味で礼拝することができません。また、主イエス様を信じない人々だけではなく、もうすでに救いにあずかっている信者も、主の価値を完全に知ることはできません。イエス様の偉大さを全く知るには、永遠の時を必要とすることでしょう。

もっともっと心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく偉大なお方であるか、見させていただきたいものではないでしょうか。主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとって、本当に必要なことです。主の偉大さがわかれば、わかるほど、本当の礼拝に導かれるようになります。

イエス様の偉大さがわかれば、わかるほど、本当の礼拝ができ、礼拝すれば、するほど、主の偉大さが見えてきます。礼拝する人は、主の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人々は、主の御前にひれ伏し、拝まざるを得ません。高く引き上げられ、天の御位(みくらい)を定めたもう主のご支配が、我々の内にも現実となるとき、心からなる礼拝を捧げることができます。

私たちの場合、現実にどうでしょうか。私たちの生活の真ん中に、主なる神に対するまことの礼拝が成されているのでしょうか。礼拝が、第一の場所を占めているのでしょうか。時々、仕事が第一の場所を占め、その他のいろいろなことが礼拝に代わる時間を取り、礼拝はどこへか、影を潜めてしまうというのが、現実なのではないでしょうか。

私たちは、なるほど、恵みとあわれみによって救われた者として、この世に生活していますが、礼拝する者として毎日、生きているのでしょうか。主なる神は、あまねく全地を見まわし、心を全うし、礼拝する人々を探し求めておられます。主なる神に対する礼拝が、我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければならないのです。

レビ人のひとつの特徴は、今、話したように、主に対する礼拝でした。そして、第二番目に、人に仕えることであり、奉仕だったのです。ご奉仕とは、いったい何なのでしょうか。ヨハネ伝の中で、答えとして、次のように書かれています。

ヨハネ
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

『神のわざである』と書いてありますが、すなわち、主に対するご奉仕です。これは、本当に不思議なご奉仕の定義なのではないでしょうか。まことの奉仕は、信仰の現れです。たとえ、私たちが全生涯を捧げ、持っている物を全部捧げたとしても、信仰がなければ、そこには奉仕もあり得ません。ヘブル書の十一章に、信仰とは何であるか、信じた人々とは、どういう態度を取ったかについて、多くのことが書かれています。

ヘブル
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

信仰なくして、主に近づくことは無意味なことです。同じように、信仰なくして、ご奉仕することも、全く無意味なことです。しかし、主を信じるとは、いったい何を意味しているのでしょうか。主なる神にご奉仕するということは、信仰の働きです。

もし、これが神の御心であると確信するなら、惑わず、ためらわず、前進することができます。このように、主にゆだね、任せきること、これが信仰です。

何かことを始めるに至り、初めは不安です。自分に何の力もないこと、自分の無能力さを良く知っているからです。しかし、やっているうちに効果が現れてきます。結果が希望的に見えてきます。その内に、自分はできると思い込んでしまいます。これは、たいへんに危険です。私たちのご奉仕は、瞬間、瞬間、主を、主だけを見上げ、主により頼み進んでいくご奉仕でなければだめです。

旧約聖書を読んでいきますと、レビ人は、驚くほどたくさんのご奉仕を成したことがわかりますが、このレビ人は、そのご奉仕に、自分の力、能力により頼まず、ただ、主の力により頼んで、したことがわかります。我々の奉仕も信仰の現れでなければなりません。もし、そうするなら、どんな小さなことも、まことのご奉仕になるはずです。

コロサイ
3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。』人間のためにやれば、がっかり、喜ぶ人もいるし、批判する人もいるからです。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

神の栄光を現すためにしなさい。それが何であれ、信仰を持って、御栄(みさかえ)のためにやるなら、まことのご奉仕です。自分の考え、伝統にとらわれず、ひたすら、ただ主により頼み、すがって、歩みたいものなのではないでしょうか。我々の生活が、全く主のご支配のもとに入っていることを証しするために、我々の全生活を主に捧げたいものなのではないでしょうか。

今、話したレビ人の特徴とは何だったでしょう。第一番目、主に対する礼拝。二番目、人に仕えることであり、そして、最後に三番目、悪の霊に対して戦う。この三つの特徴を持っていました。

この三つのことは、そのまま、我々の日々の生活に、主が求めておられることです。戦いについて考えると、おそらく誰でも、エペソ書、六章を考えるのではないでしょうか。

エペソ
6:12 私たちの格闘は血肉(・・・・すなわち人間・・・・)に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

私たちの格闘は、悪霊に対するものであると、パウロは、エペソにいる信者たちに書いたのです。悪魔は、主に用いられ、主の御業のために、心を尽くして奉仕しようと心がける者の上に、集中的に攻撃します。

主の臨在を持ち運ぶ、まことのご奉仕にかなう人々は、間違いなく、地獄の憎しみを経験します。悪魔の攻撃の目標に置かれているからです。もし、悪魔の目的の中心に立たされていないなら、我々の礼拝、また、我々の奉仕は、根本から誤っていると言わなければならない。この戦いとは、もちろん、厳しい現実です。

この激しい戦いの中にある時もなお、私たちは、主が成し遂げてくださる、主は完全なる勝利をお取りになったお方である、悪魔は打ち負かされて敗北者です。これを固く信じなければなりません。目に見える現実はどうであれ、主は生きておられ、支配者として導いてくださるのです。不安、いろいろな思い煩い、また、行く末を考えておられること、これらは無益なことです。父なる神の右に座したもう主イエス様から目をそらす信仰に、私たちは、証し人としての力を無くしてしまいます。普通の世人と全く同じような状態になってしまいます。

イスラエルの民を取り巻く敵たちは、会見の幕屋を見た時、その上に留まる主の臨在を見ました。主を知らない人々が、我々の真ん中に来るとき、我々の内に光輝く主を見るのでしょうか。または、失望して元気のない惨めな人々を見るのでしょうか。どうでしょう?

我々の戦いは、勝利から始まります。イエス様は、完全な勝利者となられましたから、私たちはもう、勝利者となることはできませんし、また、する必要もありません。どんなに悪魔の力が強く、攻撃が激しくなっても、私たちは、イエス様が我々のために成してくださる、勝利の内に堅く立っていなければなりません。

イエス様の勝利の真ん中に立っているのでしょうか。聖書は、なるほど、主の勝利を告げています。また、私たちは、過去に勝利を治めたかもしれませんが、今、勝利の真ん中にいるのでしょうか。臨在の雲は、我々の上に留まっているのでしょうか。私たちは、主に喜ばれる者となっているのでしょうか。

私たちの目は、主の偉大さに開かれ、私たちは、まことの礼拝する者となっているのでしょうか。私たちは、全身全霊をあげて、主を喜んでいるのでしょうか。それとも、我々のご奉仕は、肉の力で成されているのでしょうか。あらゆる問題の中に、イエス様の勝利がもたらされ、私たちは、それを喜ぶことができたのでしょうか。

私たちは、レビ人たちのように、主に礼拝し、人に仕え、悪霊に戦う者となりたいものです。そして、主のご臨在を現していきたいものです。

もう一箇所、読んで終わります。コリント第一の手紙、六章。コリントに住んでいた人々とは、決して、模範的なキリスト者ではなかったのです。一度、救われていたのですけど、主の栄光を現す者ではなかったんです。パウロは、だから彼らに書いたのです。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

おわり

0 件のコメント:

コメントを投稿