2012年8月28日火曜日

捕らえられた者として走りましょう

捕らえられた者として走りましょう
2012年8月28日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
16:11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

16:13 安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
16:15 そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。
16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
16:18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

使徒行伝という本は、結局、いわゆる歴史の本です。当時、主が、信じる者を、いかにして導いてくださったか、用いてくださったかについてのものであります。そして、捕らえられた者として走りましょう。こういう呼びかけなのではないでしょうか。新約聖書の手紙とは、もちろん、伝道するためというよりも、もう既に救われた人々の成長のために、書かれたのです。読むと解かる。すなわち、パウロは、確かに未信者のために悩みました。祈り続けました。戦いました。けども、もっと大いなる重荷とは、救われた人々のための重荷だったのではないでしょうか。

パウロは、よく、「私は涙を持って祈っている」という表現を使いました。ですから、新約聖書の手紙とは、結局、もうすでに、救われた人々を励ますためのものなのではないでしょうか。

実例として、一箇所、読みます。ピリピ人への手紙。このピリピへの手紙とは、刑務所の中で書かれたものです。もし、パウロが刑務所に入らなかったならば、我々は多くの手紙を持っていないでしょう。刑務所に入ると、ちょっと、暇人になってしまう。手紙を書く暇があるからです。そして、刑務所の中で、もちろん、彼は、『皆さん、私のことを忘れないでよ。おもしろくないよ、刑務所の中は。早く追い出されるように祈って、云々』と、書かないよ。自分のことは、きれいに忘れた。なぜならば、全部イエス様のせいにしたんです。入ったのはイエス様が許してしまったから。そして、主は完全であり、主の導きも完全ですから、不平不満を言うことによって、何も得られない。彼は、暇人としてのローマの刑務所の中で、ピリピへの手紙を書いたのです。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

主ははっきりとした目的を持っておられる。『そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。』自分で決心した・・・云々なのではない。主が、私を捕らえた。

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために(・・・救われるためではない、神の栄冠を得るために・・・)、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々が(・・・すなわち、一度、主を信じ、受け入れた人々の多くが・・・)キリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

『キリストの敵』としてではない。けれど、キリストの十字架の敵として歩んでいる。

ピリピ
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

ここでパウロは、はっきり、信者と未信者を比較しているのではないでしょうか。『彼ら』と『私たち』・・・彼らの思いは地上のことです。けど、私たちの国籍は天国です。こういうふうに、聖書の中で、信者と未信者は区別されている。けども、聖書の他の箇所を見ると、未信者と信者よりも、主と信者の間が区別されています。例えば、イザヤ書五十五書、皆、暗記していることばだと思います。『わたしの思いは、あなたがた』・・・あなたがたとは、もちろん、主を信じ、受け入れた人々です。

イザヤ
55:8 わたしの思いは、あなたがた(・・・信じるもの・・・)の思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがた(・・・信じるもの・・・)の道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い

前に読んでもらいました箇所を見てもわかる。パウロたちは、これはいいのではないか、御心ではないかと思ったのですけど、二、三回、主の導きは違ったんです。信者と未信者は違う。けど、もっと違うのは、主と信じる者なのではないでしょうか。だから、ヘブル書の十二章の呼びかけとは、非。・常に考えられないほど大切です。信じる者にとって一番、大切でしょう。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって(・・・『走ろう』ではなくて・・・)走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

したがって、もっとも大切なのは、「イエスから目を離さないこと」です。

フィンランドのヘルシンキで、何十年か前、オリンピックが開かれていました。そのとき、一人の女性が、馬術で金メダルを取り、優勝したのです。けど、その婦人は、体の不自由な人でした。小さいときから、小児麻痺で、手足も思うようにならなかったんです。しかし、自分の体を打ちたたいて、服従させ、馬術を習ったんです。そして、オリンピックのときも、自分で馬に乗ることができなかったんです。人に乗せてもらいました。けど、見事に優勝しました。ちょっと、考えられないほど、すばらしいことではないでしょうか。もちろん、金メダルだって、長い目で見ると、大したものではない。少なくても、永遠の世界に入れば、金メダルを見せても、誰も見向きもしないでしょう。

私たちは、永遠の冠を目指し、この婦人のように目標を目指して、力を尽くして、戦っているのでしょうか。新約聖書の手紙の励ましとは、結局、戦い続けましょう、走り続けましょうということです。

闘技をする者は、あらゆることについて自制すると書いてあります。彼らは、朽ちる冠、金メダルのようなものを受けるためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

パウロは、ピリピにいる兄弟姉妹に対して、書き送ったのです。

ピリピ
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ここで、ちょっと今、パウロが話かけているピリピの教会は、どのようにしてできたのか見てみたいと思います。パウロの第二伝道旅行は、シラスという同労者といっしょでした。途中で、パウロとシラスに、テモテという若者が加えられました。三人は、行く先々で、『イエス様はすべての者の主である』ということを宣べ伝えました。もし、「イエス様は救い主だよ」と言ったならば、別に、大きな問題にならなかったのです。当時のローマ帝国の中で、宗教は、完全に自由でした。イエス様を、救い主として宣べ伝えるならばオーケー。『主』として宣べ伝えたら、危ない。拝むべき主とは、ローマの皇帝、当時のネロだったのです。このネロとは、何万人の主を信じる者を殺したのかわからない。ひどい男でした。けども、殉教の死を遂げた人々とは、『たいへんだ!たいへんだ』とは、思わなかったようです。『もうちょっとで、イエス様といっしょになる。永久的に、我々の救い主と過ごすことができる。主の栄光を見るようになる』と、確信したから、安心して、前向きに生活することができた人々です。

三人が伝道していくうちに、彼らは突然、主からこれ以上伝道の手を広げないようにとのお告げを受けました。

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊が(・・・結局、聖霊が・・・)それをお許しにならなかった。

彼らは、聞く耳を持っていた。だから、主は導くことができたのです。

三人は、それまで、ビテニヤの地方に伝道の手を伸ばし、小アジア全体に福音を広めようと計画をしていました。そして、この計画を祝福してくださいと、心から、主に願いました。祈り続けました。このような三人に対して、主は、「わたしの心は違う」と、お知らせになりました。エレミヤ記の中でも、主の考えと信じる者の考えとは、ちょっと違うだけではなく、全く違うとあります。

エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

どういう悲しいことを聞いても、どういう不幸を経験しても、このことばを読むべきなのではないでしょうか。主の御業は、決して、後ろへ退いて行きません。主は、いつも積極的な道を開いてくださいます。ひとつの道が塞がれれば、さらに良い祝福の道を備えてくださるのです。パウロとシラス、テモテの三人は、自分の計画が御心でないことを教えられた時、主の御前に静まり、主は、もちろん、結果として、新しい道を示しました。

使徒行伝
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

主の示された場所は、今までのアジアと違ってヨーロッパでした。そればかりではない。主の示されたその場所は、後に、非常な祝福を受けた場所になりました。そこで救われた最初の人々は、まず、紫布の商人であるユダヤ人のルデヤという婦人でした。それから、占いをする女奴隷、これはギリシャ人でした。その後で、監獄の獄吏とその家族が皆、救われました。この獄吏は、もちろん、ローマ人でした。

ヨーロッパで打ち立てられた最初の教会とは、どういうものでしょうか。最初の兄弟姉妹は、ユダヤ人とギリシャ人とローマ人から成り立っていたわけです。主のからだなる教会は、世界的であり、そこでは、国民の間の差別が全くありません。主のからだなる教会は、天的であり、地的ではありません。主のからだなる教会は、御霊によって、支配されているべきであり、人間の組織によって、支配されていてよいものではありません。

パウロの手によって打ちたてられていた数多くの教会の中で、このピリピの信じる者たちの群れは、一番、いい教会だったようです。パウロの喜びでした。

ピリピ
1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべて(・・・この、『すべて』にアンダーラインすべきです・・・)のために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。

パウロは、後になってみて、あの小アジア全体に福音を宣べ伝える自分の計画を捨てて、御霊の声に聞き従ったことを、どんなに喜び、主に感謝していたか、わかりません。もし、パウロが、自分の計画に従っていたなら、彼は、どんなに大きな損失を招いていたか知りません。

私たちの中で、自分で思っている計画に対して、道が閉ざされてしまっているような状態にある方々もいるかもしれない。イエス様は、そのような人々に、ご自分の道を示そうと望んでおられます。ピリピ書を読んでいきますと、パウロのピリピ人に対する愛が、にじみ出ています。パウロは、ピリピ人と、深い心の交わりを持っていました。

パウロが自分の胸の全部を、ピリピの兄弟姉妹に打ち明けることができたんです。パウロに愛されるピリピの信じる者の群れに、パウロの手紙が届きました。ピリピの兄弟姉妹は、一緒にこの手紙を開いて読みますと、パウロの決心のことが三章に書かれていますね。

ピリピ
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

これを読んだピリピの信じる者も、パウロと同じ決意を、もう一度、新たに固めたに違いない。パウロは、驚くほど霊的に高い人でした。それにもかかわらず、パウロは、前のものに向かって進み、目標を目指して一心に走っていると言いました。ピリピにある兄弟姉妹も、パウロの目からみて模範的な信者でした。けど、パウロは、なお、それに満足しないで、「私にならう者となってほしい」と、書きとめたのです。

パウロは、霊的な人であり、ピリピの兄弟姉妹も、模範的な人々でした。それにもかかわらず、なお、前のものを求めよというのですから、私たちも、これに深く、心をとどめる必要があります。

前のものとは、結局、目標です。そして、我々の目標とは、もちろん、いつまでも主とひとつになることです。

主の目的とは、イエス様は、祈りの中で告白しました。「主よ、彼らにわたしの永遠の昔から持っていた栄光を示してください。」イエス様の願いは、もちろん、聞きとどけられるようになります。主は、支配しておられます。主は、完全であり、主の導きも、もちろん、完全です。これだけを考えると、やはり安心して、すべてを主の御手に任すことができ、将来に向かうことができるから、本当にありがたい。

おわり

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