2011年12月20日火曜日

クリスマスは私たちに何を語られるのか(二)

クリスマスは私たちに何を語られるのか(二)
2011年12月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
1:56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。

生けるまことの神が人間になられた。これこそが、クリスマスです。

ちょうど十二年前に、スナカワ・ナオミという奥さんは、非常に悩むようになっただけではなく、死んだほうがいいと思って、十一階の建物から飛び降りてしまいました。死ぬことができなかったのです。奇跡的に助かった。飛んできた医者は、死ななくてもやっぱり、車椅子の生活でさえも全く不可能と、判断してしまったのですけども、幸いに嘘でした。自分の足でまた、歩くようになったんです。もちろん、夫婦のあいだに問題があったから、何の希望もなかったし、もう絶望的でした。けれども、二人の姉妹たち、当時のオオイ・ケイコ姉妹とオカネヤ・リエ姉妹が、重病人のために心配して、見舞いに行ったし、イエス様のことを紹介しました。すぐ後で、クリスマスだったんです。その時、病院のコーヒーショップに入って、小さなクリスマス会をもつようになりました。その時、ナオミは、何と言ったかといいますと、『死ななかったから良かった。イエス様は来られたから良かった。イエス様が代わりに罰せられ、死なれたから良かった。イエス様は近いうちに、また、再び来られる。嬉しい』と、言ったのです。

ヘブル
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

パウロは喜んで証ししました。『言葉に言いあらわせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。』これこそが、クリスマスなのではないでしょうか。もちろん、クリスマスの本当の意味を解かるために、人間の観察、すなわち、罪人(つみびと)を観察すべきなのではないかと思うのです。なぜなら、イエス様は、罪人のために来られたから。罪人を招くために、失われた人々を訪ね出して救うために、来られたからです。

マタイ
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

主なる神の言い尽くせない賜物(たまもの)のお名前は、「インマヌエル」という名前です。「インマヌエル」とは、『神、我らと共にいる』ということを意味します。けども、人間は、主なる神との交わりを、少しも持っていません。これこそが、恐ろしい事実です。生きておられる唯一の主なる神は、人間をご自分の代表者として、自分の利益を代表するものとして、お造りになりました。この人間は、言うまでもなく、完全でした。この人間の環境も完全でした。それだけではなく、この人間は、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。

造られた目的とは何でしょうか?造られた目的とは、父なる神の性質にあずかるため、また、父なる神の愛に応えるため。それから、父なる神のいのち、すなわち、永遠のいのちを宿すために造られたのです。

けれども、創世記を見ると解かります。人間は、この大きな恵みの提供を受け入れなかったのです。退け、悪魔の誘惑に、負けてしまったのです。悪魔の誘惑によって、災いとなった選択をしてしまいました。その結果とは、いったい、どういうものだったでしょうか。人間と主なる神との交わりは、断ち切られました。人間といのちの泉である主の結びつきが、断ち切られました。以前は、信仰と愛の交わりがあったけど、今は、恐怖と恥辱の交わりになってしまいました。人間のわがままによって、悪魔との結びつきが生まれました。人間は、悪魔の権力の下に入れられました。

悪魔は、今や、人間を合法的に支配するに至りました。悪魔の気持ちを解かるでしょう。『勝った!神の御心はダメになった。人間は自分のもの、自分の奴隷になった』と、喜んでいたでしょう。自分勝手な行動によって、人間は、主なる神から離れ、暗やみに入りました。人間の精神は、主なる神に対してメクラとなり、死んだものとなったのです。もちろん、体は死にませんでした。気持ちも、意思も、死ななかったのです。アダムは霊的に死にました。けれども、霊的な死とはいったいどういうものでしょうかね。人間のわがままによって、人間の霊と、主なる神の霊が分かれたのです。ですから、人間の霊は、主なる神の導きに、もはや応じようとしなくなってしまいました。人間の霊は、主なる神に対して、死んだものとなりました。この事実について、パウロも、エペソにいる兄弟姉妹に、次のように書いたのであります。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

創造主から離れるということは、霊的な死を意味しています。人間の断罪の一番、大きな結果は、霊的な死です。なぜならば、もし、新しく生まれ変わらなければ、永遠に滅んで、死んでしまうことですから。

創世記
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

主は、こう注意したのであります。ご存知ですけども、最初から見ると、解かります。人間は禁じられた実を取って、食べました。主は、取って食べると死ぬと、言ったんです。けども、アダムとエバは、食べた後でも、もちろん、肉体的には生きていました。元気でした。風邪をひいたと書いてないのです。ガンになったとは、書いてないのです。生きていました。欲しいこともあり、志すこともできたんです。ですから、人間の魂も、また、あいかわらず生きていたのです。けども霊的に、死んでしまいました。

ところが、この霊的死とは、どんなことを言うのでしょうか。人間の目は、目の前にあるものを見るために備えられていますけど、目の視神経を断ち切るならば、もちろん、いっぺんに目があっても見えなくなります。天気が良く、景色がすばらしくても、それらを見ることができません。目は死んだものになったからです。ツンボの耳も同じでしょう。人がしゃべっても、鳥が美しい声でさえずっても、また、すばらしいオーケストラの演奏を聴いても、ムダであります。ツンボの耳は、あらゆる音に対して死んでいるから。

人間は、主なる神に頼らないで行動した時、霊的に死んでしまいました。人間は、霊によって主なる神を認め、主との交わりを持っていましたけれど、霊的に死にました。結局、主なる神に対して、応えなくなってしまいました。人間はなおも、霊は持ち続けましたけど、主なる神の霊、いのちの泉から離れてしまいましたから、その人間の霊は、いのちを持っていません。メクラは目を持っていますけど、その目は見えません。

同様に、死んだ人間の霊は、神を認めることができません。それは、霊的な死です。人間の霊は、主なる神から離れると死んでしまいます。これが、霊的な死です。もし、私たちは、聖書の事実について、主なる神のすばらしい賜物(たまもの)であるイエス様について、生まれながらの人と話すと、もちろん、ピンとこないし、彼らは、私たちをにらんで、少しも解からない。多分その人は、とてもいい教育を受けて、信心深い人であるかもしれないけど、聖書の話なんて彼らにとって、馬鹿げたことです。

屍(しかばね)に一生懸命はなしても、もちろん、応えられません。同じように生まれながらの人は、主なる神の御霊の賜物を受け入れられないと、聖書は言っています。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に、この事実について、次のように書いたのです。

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

主なる神は、ご自分の御子であるイエス様を遣わすことによって、救いの道を開いてくださいました。イエス様の人間となることは、もちろん、何千年前から預言されたのです。イエス様は、天地創造の前に、神の小羊として死ぬと承諾されました。聖なる神の人間のわがままに対する答えは、イエス様の犠牲の死でした。けど、死ぬために、イエス様は、まず人間にならなければならなかったのです。イエス様が人間となることは、創世記の三章十五節に、初めて、預言されています。

創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

こういうふうに、主は、蛇、すなわち、悪魔に言ったのです。この女から生まれる人は、とくに力強い方であり、そして、この方は女の末であることも、はっきりと書いてあります。これは、注意すべきことなのではないでしょうか。普通、子供が生まれた時、いつも、男の末から生まれると言います。けれども、御子イエス様の場合、ご自分の誕生のために、人間的なお父さんは必要ありませんでした。だから、『女のすえ』と聖書は言ってます。女のすえは、悪魔のかしらを砕くと預言されました。この超人は、悪魔に打ち勝つとも約束されたのです。この創世記、三章十五節には、『救い主が女から来る、救い主は悪魔に打ち勝つ、救いの代価は苦しみであろう』ということが、はっきりと預言されたのです。イエス様は、処女から生まれました。そして、十字架で悪魔に打ち勝ちました。救いの代価は、救い主のいのちでした。

イエス様の人間となることは、次のように預言されたのです。来るべき救い主に対する預言のことばです。イザヤ書は、旧約聖書の福音書と呼ばれているものですけど、七章の十四節をお読みいたします。来るべき救い主に対する預言の言葉です。

イザヤ
7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

『インマヌエル』とは、『救いの神は、我らと共にいる』ということを意味しています。ここで一人の人、すなわち、イエス様のうちに二種類のいのちがあります。主なる神、我ら、すなわち、人間と共にいます。主なる神は、人間的な外見をとるようになると、預言されたのです。次の次の九章ですね。次のように、約束され、また、預言されています。

イザヤ
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

もし、イエス様が普通の人間だったら、決して、このような名前を持っていなかったはずです。もちろん、この約束された救い主は、どこに生まれるのか、もちろん、何百年前からも、預言されました。

ミカ
5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

イエス様の生まれる場所について、こういうふうに、はっきり、預言されたのです。この預言から、今、話したようにイエス様は、人間的な外見をとった、父なる神のひとり子であったことがよく解かるはずです。堕落した人類を救うために、イエス様は、人間となりました。自由意志を持って、イエス様は、どうしようもない人間を救うために、この地上に来られたのです。ご自分が人間になることは、考えられない犠牲でした。

クリスマスの時、多くの人々は、イエス様の誕生について話しますけど、クリスマスは、イエス様の始まりではない。この地上に来られたことにすぎなかったのです。その前に、結局、この大宇宙が造られる前に、イエス様は、父なる神と共にあったと、聖書は言っています。ヨハネ伝の十七章、聖書の中で真珠のような書であります。イエス様の祈りです。この祈りの中でイエス様は、昔々のことを言われました。

ヨハネ
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

また、パウロは、コロサイ書、一章十六節に、世が造られる前に、万物よりも先に、イエス様は、父なる神の御そばで栄光をお持ちになったことを書いたのです。

コロサイ
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

イエス様によって、すべてが造られました。何と言うすばらしい主でありましょう。このすばらしい主イエス様は、自由意志を持って、堕落した人類を救うために、この地上に来られました。パウロは、この犠牲について書いたのです。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

何という主でしょう、私たちのイエス様は!私たちを救うために、天国のすべての栄光を捨てました。イエス様にとって、人間になることは、ものすごい犠牲でした。聖書は言っています。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

天国の栄光をお持ちになったイエス様は、人間と共に、すなわち、悪魔の奴隷と共に、生活しなければならなかったのです。だから、この人間から離れるのに、イエス様はよく、夜じゅう、山に登って、父なる神と話し合ったのです。もし、イエス様が十字架の上に亡くなられなくても、ご自分が人間になることとは考えられない犠牲でした。イエス様は、我々のために人間になりました。どうして人間になったかと言いますと、もちろん、死ぬことができるためです。神としてのイエス様は、死にません。永遠のいのち、そのものだからです。マタイ伝、二十章の二十八節を見ると、この事実について、はっきり書かれています。

マタイ
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

私たちの主イエス様は、人間になっただけでなく、奴隷の仕事をするようになったと聖書は言っています。

ヨハネ(口語訳)
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

お客様が来ると、お客様の足を洗うのは、もちろん、当時の習慣だったんです。けれども、これは、家の主人がやったことがない。奴隷でした。お客様の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。天国のすべての栄光をお持ちになったイエス様は、我々のために人間となり、奴隷の仕事をしてくださいました。マタイ伝の十五章を見ると――よく知られている箇所です――初めて読むと、いったいどういう話か、どうしてイエス様はこの態度をとったのかと思う人もいるでしょう。

マタイ
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て(・・・結局、イエス様に頼んだんです、祈ったんです・・・)、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。(・・・嬉しかったのでしょう・・・)「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

二十六節、『すると、イエスは答えて、子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』とあります。この女はユダヤ人ではなく、カナンの女でした。すなわち、異邦人でした。そして、イエス様の話によると、ユダヤ人は子供であり、異邦人は、犬のような汚れたものです。イスラエルの民は、主なる神によって選ばれた民であり、他の国々は異邦人であり、犬と同じようなものです。原語を見ると、もっと強い言葉が使われています。すなわち、『捨てられた犬、追い出した犬』です。もちろん、聖書は、イエス様が異邦人のためにも亡くなられた、すなわち、捨てられた、追い出された犬のような者のためにも、亡くなられたと書いてあります。追い出した、捨てられた犬は、誰にも属していない、自分の家を持っていません。

イエス様の生活とはそういうものだったでしょう。イエス様、ご自身で言われました。きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところもない。文字通り、イエス様は、ホームレスでした。殴られ、虐待され、最後に、十字架につけられました。我々ひとり一人のために、イエス様は十字架につけられたのです。

イエス様は、我々のために人間となって、奴隷の仕事をしてくださり、捨てられた犬のように取り扱われ、罪の塊とされたと、聖書は言っています。これも、もちろん、想像できないし、考えられません。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第二コリント
5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様は、はっきり、言われました。『わたしは、必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして、三日目によみがえる』と仰せられたのです。悪魔は、イエス様に、この世のすべての国々と、その栄光を提供したことがあります。イエス様は断ったんです。私たちのために死ぬことこそが、イエス様の心からの願いでした。

第一テモテ
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

パウロは喜んで、また、書いたのです。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様は、犠牲になられただけではなく、救いの代価を支払ってくださっただけではなく、このイエス様は、近いうちに、迎えてくださるお方です。結局、来られたお方が、また、来る。

おわり

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