2011年12月13日火曜日

クリスマスは私たちに何を語られるのか?(一)

クリスマスは私たちに何を語られるのか?(一)
2011年12月13日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

ルカ
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカ
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

今日の題名は、『クリスマスは、私たちに何を語っているのか』ということです。三つの側面から見てみたいと思います。

第一番目、主は、語っておられるお方です。語っただけではなく、今日も、語っておられるお方です。もちろん、人によって違いますし、いろいろな方法で語ってくださるのです。博士たちに、主は、星を通して語ったし、羊飼いたちには、天使を通して語られたのです。そして、シメオンという老人に、聖霊を通して、主は語りました。主は、生きておられるお方です。語ってくださるお方です。

答えとして、二番目、真理は真剣に求められなければなりません。博士たちは真剣でした。犠牲を費やしたのであり、羊飼いたちは、大切なものを捨てたのであり、そして、シメオンは、信仰を持って、待ち望んだ男でした。

そして、三番目、求められた結果として、主は、礼拝されるようになります。博士たちは、どういうふうに礼拝したかと言いますと、大切なもの、黄金、乳香、没薬を持って捧げました。羊飼いたちは、喜ぶようになり、証しするようになり、本当に、心から崇拝するようになったのです。そして、求めた結果として、彼らはやっぱり、嬉しくなって、心配から解放され、心から主を拝んだのです。この三つの点について、ちょっとだけ、一緒に考えてみたいと思います。

まず第一番目、主なる神は、生きておられるから、語ってくださるお方です。博士たちに対しては、主はひとつの星を通して、ご自分の約束を示されました。この博士たちは、どういう学者たちか解からないけど、間違いなく天文学者たちでしょう。祭司でもあったかもしれないし、学者であったことは間違いなく、けど詳しいことを聖書は言っていませんから解かりません。けど、この博士たちは、少なくとも真理を知りたい、真理を熱心に求めた人々だったに違いない。彼らは、主なる神に対して、心を開いておりましたから、主は彼らに対して働くことができ、語ることができたのです。つまり、彼らは、生けるまことの神、偽者ではなくて、本物を慕い求めたのです。詩篇の作者、ダビデと同じ気持ちを持っていたのではないでしょうか。詩篇42編2節に、『私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています』と言ったのであります。

イエス様がお生まれになるだいたい二百年前に、旧約聖書は初めて、ヘブライ語からギリシャ語へと翻訳されました。この聖書、七十人訳聖書と言いますが、この博士たちは、間違いなくこの聖書を読むようになったでしょう。結果として、主なる神の救い主についての約束を知るようになったのです。民数記の二十四章、十七節にひとつの約束が書きしるされています。

民数記
24:17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

博士たちが、約束の星が天に上がるのを見た時、彼らは、『行こうよ!』イスラエルへと向かいました。どうしてかと言いますと、聖書の中で、救いはイスラエルから出るということが、約束されたからです。彼らは、救い主は、ユダヤ人として生まれるということを知っていたので、この救い主を『ユダヤの王』と名づけました。彼らは、イエス様がお生まれになる、もちろん、何ヶ月か前に、この約束の星を見、それから、イスラエルへ向かって、旅立ったのです。そして、イエス様がお生まれになった時、エルサレムに着きました。

メサイヤがお生まれになったという約束を、彼らは知っていました。真理を切に求めていましたから、主は、聖書を通して、また、星を通して、その御心を語られたのです。主は、語るお方です。当時、博士たちは、星を通して導かれました。そして、博士たちに語っただけでなく、羊飼いたちに対しても、主は語っておられたのです。

主は、御使いを通して語りました。主なる神は、天使をヘロデ王のもとに送ったのではない。あまり知られていない、名も無い羊飼いたちのもとに送りました。天が彼らに、『あなたがたのため、救い主がお生まれになった。あなたがたのために、王がお生まれになった。あなたがたのために、主がお生まれになった』と、語られました。これは、すばらしい喜びの知らせでした。天の軍勢も共に現れて、主を賛美したとあります。

ルカ
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

イエス様によって、主なる神との間に断絶していた平和が、継ぎ合わされたのであります。イエス様なしには、人は誰でも、神と敵対する関係にあります。けど、イエス様によって、この敵対関係が克服されました。父なる神が、この地上に送ってくださった賜物であるイエス様を、自分自身の心で受け入れる人々は、もはや、神に対して敵対する関係にあるのではなく、主の御心にかなう者となります。主なる神の御心にかなう者となろうと思わない人は、言うまでもなく、そうなることは不可能です。けれども、それを求める人は、主によって、本当の平和を得、主の御心にかなう者であるという確信を持つことができるのです。

罪によって、確かに、人間は悪魔の奴隷となりました。このことを、主は心から悲しんでおられます。けれども、イエス様は、父の御心にかなうひとり子です。父なる神は、何度も、イエス様に向かって、『これはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』と、語っておられます。イエス様を受け入れる人は、もちろん、義と認められ、イエス様のゆえに、神の御心にかなう者となります。

主は、今、話したように星を通して、博士たちに語ったのです。そして、天使を通して、羊飼いたちに語っておられました。

シメオンに向かって、主は、どういうふうに語ったかと言いますと、ルカ伝で書かれているように、聖霊を通して、彼は導かれたのです。シメオンという名前の意味は、なかなか良い意味です。『聞きとどけられる。』主は、聞いてくださるだけではなく、聞きとどけてくださる、約束を守るお方であるということです。

主は、シメオンの願いを聞きとどけられました。彼は、主が自分自身に語られたこと、また、主の御力を自ら体験することができた人です。シメオンについて、聖書は何と言っているかといいますと、『この人は正しい人であった』と、語ってます。言うまでもなく、生まれつき正しい人は、一人もいません。自分の罪を認め、告白し、罪から離れ、イエス様を受け入れる者は誰でも、聖なる神の前に、正しい者とされます。こうして、イエス様の正しさが、その人の内に宿ります。シメオンは、自分自身の罪を認め、自分自身を神に明け渡しました。また、聖書は、彼について何と言っているかといいますと、彼は、神を恐れる人だったのです。主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。

昔の茨城県の水海道(みつかいどう)だったんですね。一人の兄弟、忠実に主に仕える兄弟だったのですけど、彼はね、人を大切にしようとしない男でした。人を絶対に求めなかった兄弟でした。彼は、人を褒めようと思ったならば、いつも言ったんです。向こうの兄弟を見て。あの姉妹を見て。彼らは主を恐れている。考えられないほど大切です。シメオンは、主を恐れた男でした。

私たちは、日々の生活の中で、義理人情に縛られ、行動しているのでしょうか。あるいは、主のみを恐れて、歩んでいるのでしょうか。罪を赦され、義とされることは、我々の生涯において、もっとも大切な事柄です。また、そのことを体験していない方が、もしありましたら、そのことを今日でもご自分のものとすることがおできになります。イエス様のすばらしい呼びかけは変わらない。時代遅れにならない。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。・・・休ませてあげます。

イエス様は、『わたしのもとに来なさい』と、呼び続けておられる方です。このように、我々に対して語っておられ、我々を招いておられるお方とは、この主イエス様です。イエス様は、我々の助け主であり、救い主であられ、罪を赦す力をお持ちであり、全く新しい人生を我々にお与えになることができる愛の救い主です。誰が招かれているかと言いますと、もちろん、疲れた人々だけ。いろいろなことで悩んでいる人々だけ。他の人々はどうせ来ようとしない。助けを求めようとしないからです。

イエス様が招待してくださる根拠とは、いったい何なのでしょうか?それは、我々の側にあるのではなく、主が、私たちのような者を愛してくださっているからです。主は、私たちを罪のなわめから解き放ち、私たちがしもべとして仕え、主のご栄光にあずかる者となることを、心から望んでおられます。いつ、その招待にあずかることができるのでしょうか。聖書で言っていることは、確かにすばらしいものです。よく引用されるコリント第二の手紙、六章二節です。『今は恵みの時、今は救いの日です。』ヘブル書の著者も書いたのです。『今日、もし御声を聞くなら心をかたくなにしてはならない。』ヘブル書三章の七節ですね。

イエス様の御許に行くとは、罪を告白し、意識して主を受け入れ、イエス様に従って行きたい、従っていこうという決意を意味しています。シメオンは、救い主がお生まれになることによって、人々はひとつの決断を迫られるということを知っていました。つまり、ある人々はイエス様を受け入れて、救いにあずかるような人々であり、そうでない人々は、イエス様を拒否することによって、倒れ、滅びるということを、シメオンは知っていたのです。

主なる神は、死んでおられるお方ではなく、オシでもない。かつて、主は、星を通して、天使を通して、また、聖霊を通して語られました。今日、主は、もちろん、おもに聖書を通して、家族の中の救われた人を通して、あるいは、病気を通して、苦難を通して、死を通して、地震や公害の問題などを通して、主は語っておられるのです。偶然はありません。主は、他ならぬ人間一人ひとりに対して語り、私たちの心に何事かをお語りになりたく思っておられます。だから、『今日、御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない』とあります。

クリスマスは、私たちに何を語るか、すなわち、主は語ってくださるのです。いろいろな方法を通して。

二番目、答えとして、我々、人間は求めなければならない。適当ではなく、真剣に、求めなければならない。博士たちも、羊飼いたちも、シメオンも真剣に求めました。生けるまことの神は、ただ一人しかおられません。また、救いに至る道もただひとつであり、真理も、もちろん、ただひとつです。生けるまことの神は、イエス様を通して、ご自身をお現しになり、救いに至る道は、イエス様によってのみ開かれ、真理とは、何かの事柄ではなくイエス様です。主イエス様ご自身です。

生けるまことの神を求める者は、主に出会うことができ、まことの救いを求める者は、それを体験し、真理を求める者は、それを自分のものにすることができるのです。私たちは、博士たち、羊飼いたち、シメオン、この三つの場合を通して、どのように彼らが真理を求めたかを、聖書を通して、はっきり知ることができるのです。たとえば、博士たちは、遠い東の地からやって来た。隣の町からではない。隣の国からではない。遠い国からやって来ました。結局、犠牲を払い、時間を費やして、イスラエルという国にやって来たのです。彼らは、暇をもてあまして、退屈であったから、暇つぶしのために旅に出たのではない。彼らは、生けるまことの神を求めたから、まことの救いを求めたから、真理を知りたかったから、長い困難な旅に出発したのです。

今日(こんにち)の我々の取っている態度はどうでしょうか?集会に集うのは、何か自分に問題がある時、あるいは、他に何も仕事がない時に、集ってはいないでしょうか。自分の問題を解決されたなら、もはや、集会に集わなくてもいいと思う人々もいます。彼らにとっては、もはや、まことの真理よりも、イエス様によるよりも、自分自身の日常生活の方が大切なものとなります。これらの人々の思いは、目に見えるもの、時とともに過ぎ去るものに対してのみ、向けられている。まことの神、真理そのものであるイエス様に対して、向けられていない。これらの人々は、真剣な求め方をしていない人々ではないでしょうか。けども、これは危険なことでしょう。パウロは、ガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹に、次のように忠告したのであります。

ガラテヤ
6:7 神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

主を、主なる神のみを、真剣に求めようと願っていない人は、結局、主から裁きを受けることになると、聖書は言っています。

今日、多くの人々が抱えている最大の問題、つまり、神が我々の上にくだしておられる裁きは、第一の問題が第一とされないこと、つまり、もっとも大切なことが大切にされないことです。博士たちは、遠路はるばると旅をしてきました。それは、彼らが、人間にとって、もっとも大切な事柄を求めていたからです。真剣に求められるところには、必ず幼子のような信仰が伴います。羊飼いたちもまた、真理を真剣に求めたのです。それゆえ、彼らは、自分たちの羊の群れをそのままにして、ベツレヘムへ行きました。このことは、一見、軽はずみな行動なのではないでしょうか。狼がやって来て、羊を引き裂くかもしれないし、あるいは、盗人がやって来て、羊を盗んでいってしまうかもしれない。離れることはちょっと。けれども、彼らは、もっとも大切なことを求めるために、大切なことを大切にしなくなったのです。また、もっとも必要なことを得るために、必要なことを捨てました。真剣に真理を求める者は、みな、このようでなければならないのではないでしょうか。彼らは、羊飼いという自分たちの職業があったにもかかわらず、また、昼間の疲れで、疲れていたにもかかわらず、真夜中に、ベツレヘムへ向かいました。

ヨハネ伝、三章の中で、一人の真剣に求めた学者、ニコデモについて書かれています。彼も、真理を求めて、真夜中にイエス様のもとに行きました。

前に読みましたマタイ伝、二章九節には、博士たちの前に星が、彼らを先導したと書いてあります。星は、夜にしか見えません。だから、博士たちもまた、真夜中に、イエス様のお生まれになったところへ、行ったことが解かります。私たちは、一人ひとり、職場において、学校において、家庭において、自分に課せられた使命を持っていますけど、そのことのゆえに、もっとも大切なものを、おざなりにすることは、残念なのではないでしょうか。会社や仕事が偶像になっている場合がありうることです。私たちが、生けるまことの神に仕えるために、妨げとなっているものがあるとしたら、大変です。

博士たちや羊飼いたちも真剣な求め方をしましたが、シメオンという老人もまた、真剣に求めた。真理を求めた人です。聖書は彼について、前に話したように、正しい人であっただけではなくて、神を恐れる男でした。さらに、イスラエルの慰められることを待ち望んだと、聖書は言っているのです。待ち望みということは、現在の状態に、何かが欠けていることを知っているということです。シメオンは、人間が主なる神から遠く離れていることを悩んでいましたから、救い主の到来を待ち焦がれていました。彼は、信仰を持って、待ち望む男でした。この待ち望みの根拠は、もちろん、神のみことば、主の約束でした。言われているから、約束されているから、彼は素直に信じました。ルカ伝の二章、二十九節から三十五節までのシメオンの言葉の大部分は、イザヤ書からの引用です。

だから、言えることとは、彼は、熱心に聖書を紐解きました。今日もまた、真理を真剣に求める者は、シメオンのように、熱心に聖書に親しまなければなりませんし、そのための時間を作ることは大切です。シメオンは、熱心に求めましたから、主は、聖霊をもって、このシメオンに語りました。つまり、彼は、死ぬ前に、必ず救い主を見るという約束を受けていましたが、そのことが成就したのです。イエス様がヨセフとマリヤに連れられて、エルサレムの神殿に行かれた時、シメオンはそこにいたんですけど、聖霊は彼がいたから、彼に言うことができたでしょう、『この幼子こそ、救い主だよ』と。シメオンは、聖霊の語る事柄に対して、心かたくなにしなかった。だから、彼は、道であり、真理であり、いのちである主イエス様を知るようになりました。

今日、御声を聞くならば、心をかたくなにしてはいけません。目に見えるこの世の事柄に目を留める者は、信仰を持つことができないのではないでしょうか。ローマ書の十四章、二十三節、一文章だけですけど、たいへんな言葉です。

ローマ
14:23 信仰から出ていないことは、みな罪です。

博士たちや、羊飼いたちや、シメオンに見られるものは、幼子のような信仰です。彼らは、『あなたがたのために、救い主がお生まれになった』というみことばを聞いた時に、疑いを差し挟むことなく、ただちに、主のもとに向かいました。

幼子のような信仰は、必ず、主によって報いを受けます。彼らは、初めは真理を求める者、耳を傾ける者でしたが、見いだしたもの、また、目で見るものとなり、さらには、その事柄を人々に対して証しする者、また、主を賛美する者に変えられたのです。真理は、私たちが真剣に求めなければならないものです。博士たちは、遠くからやって来ましたが、それは今、話したように、退屈を紛らわすための旅行でもなければ、ピクニックをするためでも、見物するためでもなかった。彼らは、真理を心から、求めたからです。羊飼いたちも、自分の群れを捨てたのは、真夜中に遊びに行くためではなく、イエス様に出会いたいという切なる願いがあったからです。シメオンが宮に入ったのも、他にすることがなかったからではなくて、救い主に会いたいという切なる願いがあったからです。

彼らはみな、多くの犠牲を払い、大切なものを捨て、自分自身を捨てた人々でした。彼らは、自分の満足や楽しみや快楽を求めることをやめ、みことばに聞き従いました。彼らはみな、解かったんです。すなわち、イエス様のないところ、自分の願いも満たされることはなく、イエス様なしに、罪の重荷から解放されることもなく、イエス様なしに、確信を持って人生を送ることもなく、苦しみの時、慰めを与えられることも力を与えることも、死を前にして光も希望も見いだすことはできないのだということを、私たちも知るべきだけでなく、この事実を、回りの人々にも伝えるべきです。

主なる神はオシではない。語っておられるお方です。主は、我々の答えを求めておられます。そして、私たちが、真剣に求めることを、主は、切に望んでおられます。結果として、もちろん、本物を見いだすようになり、礼拝せざるを得なくなる。博士たちは、ただ単に求めただけではなくて、求めて見いだし、幼子を礼拝したと聖書は言っています。彼らは、金、没薬、乳香を携えてきました。金は、もっとも高価な貴金属です。それゆえ、これを捧げたということは、彼らは、心からの感謝を現したことを示しています。乳香は、本当の礼拝を現しています。また、没薬とは、まことの愛を指しています。ヨセフとマリヤは、あまり金を持っていなかった。貧しかったんです。普通は、一歳の羊を捧げることになっていましたが、マリヤとヨセフは、その金がなかったんです。ハトを捧げただけと聖書は言っているのです。黄金は大変高価なものです。それらは、ヨセフとマリヤが、幼子を連れて、エジプトに逃れる時、かけがえのない財産となったのです。

博士たちは、幼子の足元にひれ伏しました。この時に、カソリック教会がしているように、マリヤに対して礼拝が捧げられたのではなく、イエス様のみが礼拝されたのです。その時のイエス様、赤ちゃんとしてのイエス様は、解からなかった。けれども、マリヤが礼拝されれば、もちろん、マリヤは解かる。けども、彼女は、礼拝されてもらいたい気持ちだったでしょう。生まれた子供は結局、自分の所有物ではない。世の造り主である、世の救い主であると確信したからです。

没薬が砕かれると、良い香りがします。自分自身を無にして、イエス様に対する愛のゆえに仕えていこうとする態度は、イエス様にとって、ちょうど、この没薬の立ち上る香りのように喜ばれることです。博士たちは、主を礼拝しました。私たちが礼拝しているものは、いったい何なのでしょうか。我々の感謝は、誰に捧げられ、我々の愛は、誰に捧げられているのでしょうか。

羊飼いたちも、また、本当の礼拝者でした。彼らは、求めましたから、主のみことばを聞くことができたんです。彼らは、みことばを聞き、それが、事実であることを自分の目で確かめることができました。彼らは、自分自身の目で世の救い主を見ました。

ルカ
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

羊飼いたちは、ユダヤの全地にわたって、預言者ミカによって告げられたみことばが成就したことを証しして、まわりました。羊飼いたちの心は、大きな喜びに満たされたのです。主の使いは、ルカ伝、二章十四節に書いてあるように、「いと高き所に、栄光が神にあるように」と、賛美しました。羊飼いたちは、同じように主を崇め、賛美したと、ルカ伝、二章二十節に書きしるされています。彼らは、真剣に真理を求めましたから、救い主に出会うことができた。救い主に出会った人々は、その結果、三つの態度をとります。すなわち、第一番目、その心は喜びに満たされます。二番目、他の人々に対して、自分の証しを告げざるを得なくなります。三番目、主を崇め、賛美するようになります。

最後に、シメオンについて、ちょっと考えたいと思います。彼は、礼拝者になりました。

ルカ
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。

ソロモン王は、昔、次のように書いたのです。箴言、十章の二十八節、「正しい者の望みは喜びである」と書いてあります。これは、正しい者は、待ち望みの信仰を持ち、さらに、それは、喜びに変えられるという意味です。このことをシメオンは、身をもって、体験することができました。『私の目があなたの御救いを見た。』これが、彼の証しでした。シメオンの願いは成就し、彼の心に平安が与えられました。待ち望む者は、それを得るようになりました。シメオンは、主を褒め称えたと、聖書は簡潔に述べています。彼の心を表現する言葉はありませんでしたから、聖書は、ただ、彼の心に起こった事実だけ、このように述べたのです。シメオンは、もはや、死に対して、恐れをいだくことがないばかりか、喜びと安らぎのうちに、死に臨むことができたのです。シメオンは、この世の救い主に出会うことができたから、安らかに、死を迎えることができました。彼は、主なる神のまことの礼拝者となりました。

我々のテーマは、『クリスマスは我々に対して何を語っているのか。』答えは、主なる神は、いろいろな方法を通して語ってくださいます。今日もなお、我々に対して、もちろん、語っておられるお方です。主は、他ならぬ人間一人ひとりに対して、語っておられるお方です。主の御声を聞きたいと願う者は、御声を聞くことができます。そして、その人は、真理を真剣に求めるようになります。真理を求める者は、その努力が空しく終わることがない。また、その人は、真理を見いだすことによって、主のまことの礼拝者となります。

最後に、主なる神が語られた時、人々は、どのような態度をとるか。このことを、三つの実例を通して、ちょっと見たいと思います。

第一番目、イエス様がお生まれになった時。二番目、カルメル山におけるエリヤの例によって。三番目、初代教会の信者たちについて、ちょっと、考えてみましょう。

第一番目、イエス様が、お生まれになった時にも、真剣に主を求めた人々がおりました。今日、学んだ博士たち、羊飼いたち、シメオンは、その例でしょう。エルサレムの住民たちや、聖書学者、宗教家たちは、心から救い主を求めたいという気持ちがなかったんです。彼らは、日々の生活に追われ、自分自身の事柄で、心がいっっぱいでした。そして、まことの神を求めようと気持ちがなかった。彼らは、自分の病気や悩みなどの一時的な問題を解決して欲しいという気持ちがあったんですけど、彼らの根本的な問題である罪の債務を解決して欲しいという気持ちは、なかったのです。聖書学者たちは、聖書についてよく知っていましたが、聖書の語っている生けるまことの神に対しては、全く、メクラでした。彼らの求めていることは、人から認められることであり、自分自身の力で道徳的に高い生活をすることでしたが、この世に来られた救い主に対しては、全く背を向けていました。当時の王であるヘロデ王は、意識的に、イエス様に対して、敵対しましたが、主イエス様を即座に殺そうとしました。彼の求めていたことは、自分の魂の救いではなくて、自分の名誉であり、自分の力であり、快楽でした。

二番目の例は、エリヤの時代です。このような三種類の人々は、このエリヤの時代に、カルメル山において存在しました。エリヤは、ちょうど、博士たち、羊飼いたち、また、シメオンのように、ただ、主なる救い主だけを求めたのです。イスラエルの民は、イエス様がお生まれになった時も、エリヤの時代のどっちつかずの立場によろめいていました。彼らは、生けるまことの主に仕えることも、偶像に仕えることも、決断することができなかったのです。エリヤの時代のイスラエルの王であるアハブは、ちょうど、ヘロデ王のように、神の事柄を拒否し、その結果、憎しみを駆り立てて、エリヤを殺そうとしました。

三番目は、初代教会の人々の中にも、私たちは、このような三種類の人々を、見いだすことができます。それは、熱い、生ぬるい、冷たいという言葉で表されています。エリヤも、博士たちも、羊飼いたちも、シメオンも、言うまでもなく、熱い人々に属しています。彼らの心は、主に対して、燃えていました。詩篇の作者であるアサフは、次のように書いたのです。

詩篇
73:25 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

すごい告白です。『地上では、あなたのほかに私はだれをも求めません。』パウロの心も、同じものだったでしょう。イエス様のゆえに刑務所に入れられた時、彼は書いたのです。

ピリピ
3:8 ・・・私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。』イスラエルの民は、イエス様がお生まれになった時も、エリヤの時代にも、熱くも冷たくもない、ぬるま湯のような状態でした。今日(こんにち)も同じようなことが言えます。聖書に対して反対する気持ちを持たない人々は、決して少なくないけど、聖書を真剣に求めて、読む、食べる人々は、僅かなのではないでしょうか。

言うまでもなく、ヘロデ王やアハブ王のように、自分自身の利益だけを求めて、主に対して心を全く、冷たく閉ざしている人もいるのではないでしょうか。けど、私たちは、いったい、この中のどのグループに属しているのでしょうか。

イエス様は、私たちを救うために、救い主として、この地上に来られました。このことは、主なる神が我々に対して、悔い改めと信仰を求めておられることを示しています。悔い改めと信仰は、我々の自分自身から出るものではありません。主なる神を切に求める人、主のみことばを聞きたいと思う人に、主から与えられます。イエス様は、王としてこの世に来られ、私たちに、従順と自分を無にして仕えることを求めておられます。けども、これも、私たちが自分の力によって行なえることではなく、恵みとして、主から与えられる生活態度です。これは、必ず主に従って行きたいと思う人に、間違いなく与えられます。

イエス様は、主としてこの世に来られ、私たちに、真実と愛とを求めておられるのです。けども、これも私たちの内から出るものではなく、ただ、主のみに栄光を帰したいと思う人々にのみ、主から与えられるものです。イエス様が、我々の心の内に住んでくださることは大切です。けど、それに留まらず、イエス様が我々の全生活の支配者となってくださらなければいけません。

多くの人々は、困った時、必要な時だけ、主に求めようとしますが、自分自身の支配権を主に明け渡すことは望んでいない。我々の生活のうち、ほんの僅かでも主に捧げられていない部分があるならば、それは、悪魔のつけ入る格好の口実となります。もし、イエス様が、我々を支配し、導き、満たすことができるならば、我々の生活は、本当に祝福され、実を結ぶ者となることができます。

おわり

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