2011年7月12日火曜日

世界の選ばれた者の解放と生活に対する奉仕

世界の選ばれた者の解放と生活に対する奉仕
2011年7月12日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第1ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

エゼキエル
44:15 しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。――神である主の御告げ。――
44:16 彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。
44:17 彼らは内庭の門にはいるときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織り物を身に着けてはならない。
44:18 頭には亜麻布のかぶり物をかぶり、腰には亜麻布のももひきをはかなければならない。汗の出るような物を身に着けてはならない。

今日のメッセージは、最近、準備したものではない。多分、54年前じゃないかなと思います。別に、時代遅れになったのではない。けども、その時いた2人の姉妹たちも今日、みえてます。那珂湊時代の二人、カズエ姉妹とヒサヨ姉妹です。今、どこにいるのかな?下ですか。いるなら、ちょっと立ってみて。いないかな?まあ、どうでもいいけど。


結局、祈りの目的とは、やっぱり、主イエス様は、自分のからだなる教会を通して、働くことができることです。ですから、その時の題名は、『聖なる神の宮である教会』だったのです。

ヘブル
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

教会、主なるからだ、神の霊的な宮は、いろいろな方面を持っています。一番、大切なのは、言うまでもなく、昇天された、高く引き上げられたイエス様です。初代教会の人々は当然、イエス様の死について、復活について、多くを話されたでしょうけど、一番、話されたのは、使徒行伝を見ると解かります、高く引き上げられたイエス様でした。『父なる神に、教会により、また、主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。そして、主なる神は、聖なる神の宮である私たち、信じる者によって、栄光をお受けになるように』ということこそが、初代教会の兄弟姉妹の切なる願い、また、祈りでした。

今日は、世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕について、少し一緒に考えてみたいと思います。5つの点に分けて考えましょうか。第1番目、神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的であります。2番目、父なる神の御子、主イエス様の偉大さについて。3番目、衝突の成り行きについて。そして、4番目、教会への任命について。そして、5番目、教会と御座の力についてです。

第1番目、神の霊的な宮の存在は、もちろん悪魔の攻撃の的です。

霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。選ばれた者というのは、天地の創られる前から、主イエス様にあって選ばれたのであり、父なる神の選ばれた教会です。そして、この霊なる神の住まいである教会の目的は、この選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。これは、主を信じる者の大きな使命なのではないでしょうか。

初代教会が建て始められた時、地獄全体がこの選ばれた者を滅ぼそうと努めました。主の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の目標でした。悪魔の働き、方法は、一方は、詭弁的な内面的な働きであり、他方では、暴動、暴行によってなのです。

初代教会に対する悪魔の始めの攻撃とは、アナニヤとサッピラによってでした。悪魔は、秘密な、詭弁的な、内面的な働きによって、教会を妨害しようと努力していました。しかし、使徒ペテロはすぐ、これは悪魔の攻撃だと解かりました。彼は、何と言ったかといいますと、『アナニヤよ、どうして自分の心をサタンに奪われたのか』と、言ったのです。

すぐ後で悪魔は、暴行、行動によって教会を滅ぼそうと努めました。悪魔と教会は、一緒に進むことができないのです。教会の存在は、悪魔の敵対のしるしです。今日の国々の出来事とは、ただ一時的、また、時間的なものではなく、この出来事は、霊的な本質を持っていることがよく解かるのです。これは悪魔の働きです。

悪魔の最後の目的は、非キリスト、反キリストによる世界の支配です。これを考えると私たちは、今の時代の厳しさを感じるのではないでしょうか。人々の多くは、聖書の教えを受け入れたとしても、その人たちが悪魔の攻撃を感じません。また、たとえ、人が教会に来て、集会に出席しても、悪魔の敵対に気がつかない。けど、人がいったんよみがえりのいのち、すなわち、イエス様の永遠なるいのちを経験すると、悪魔の絶望的な攻撃と敵対を認めるのです。

イエス様にある永遠のいのちは、悪魔の戦いの信号です。教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすだけではなく、父なる神に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくあるように、これが教会、我々の使命です。世界の選ばれた者の解放、すべての聖徒たちの生活に対する奉仕こそが大切です。

ちょっとだけ、5つの点に分けて考えましょうか。『神の霊的な宮の存在は、悪魔の攻撃の的であります』と、今、話しました。

2番目、父なる神の御子の偉大さについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

父なる神の目的は、何なのでしょうか。御子が宇宙の座に引き上げられることと、教会がこの目的を達する道具として用いられることです。これは、悪魔の力を滅ぼすことを意味しています。なぜなら、高く引き上げられた主イエス様は、悪魔の敗北を意味していますから。イエス様が高く引き上げられたことは、霊的な力によって実行される事実です。ですから、私たちは、生ける石となって霊の家に築き上げられました。

我々、信じる者は、イエス様のいのちを持っています。この教会にある、主イエス様のいのちの完全な啓示によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。選ばれた者は、あらゆる死の力に対する勝利を得なければならない。そうしたら初めて、イエス様は、全宇宙の支配者となるのです。教会の勝利によって、イエス様は栄光をお受けになるのです。悪魔の力を滅ぼすことが問題であり、父なる神の御子である主イエス様の偉大さを表すことが問題です。聖書を読むと、これがよく解かります。

出エジプト記
3:9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。

けども、聖書を見ると解かります。パロは、心をかたくなにして、イスラエルの人々を去らせなかった。10回、同じことばが書いてあります。すなわち、主はモーセに言われた、『あなたはパロのところへ行きなさい。主はこう仰せられる。わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい』と、主は言われました。けど、この主の命令に対する答えは、『パロは心をかたくなにして、イスラエルの人たちを去らせなかった』と、書いてあります。

ひとつの疑問が起こります。主なる神はいったいどうして、最初に、一撃のもとに悪魔を殺してしまわなかったのか。

出エジプト記
9:16 それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。

パロが心の内に持っている悪い思い、すなわち、「私はイスラエルの民を去らせたくない」という悪い思いが実現しなければ、神はパロに対して、判決を下すことができなかったからです。悪い思いが実現されて、その次に、主の判決が下されます。パロは10回、主の命令に反抗して、自分の心をかたくなにしました。

パロの主に対する敵対が、完全に表れた時、初めて主の判決が下されました。悪魔の力を滅ぼすことが問題であり、父なる神の御子である主イエス様の偉大さを現すことが問題です。一つのことが明らかです。パロたち、または、他の独裁者の問題のみならず、問題なのは悪魔の力です。私たちの戦いは、結局、悪魔の軍勢に対する戦いです。あなたが改心した時、両親、または、友達が敵対心のある立場をとって、あなたを妨げようと努力したかもしれない。けど、これは両親、または、友達のみならず、この後ろに悪魔の力が働いたのです。

教会の戦いは、悪魔に対する戦いです。そして、教会の使命は、悪魔の力を滅ぼすことです。それによって、父なる神に、教会により、また、主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるように。イエス様を受け入れた兄弟姉妹の内にある永遠のいのちは、悪魔の戦いの目標であり、信号です。私たち信じる者の戦いは、目に見える世界、もちろん、人間に対するものではない。悪魔に対する戦いです。

聖なる神の宮である教会の使命は、主の道具として、器として、御子イエス様の偉大さを現すことです。ですから、『私たち教会によって、悪魔の完全な力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように。』これが、我々の使命なのではないでしょうか。御子イエス様は、父なる神と同じように、ご自分のうちに生命を持っています。この生命によってイエス様は、死に打ち勝ちました。我々の内に永遠のいのちは、死より強いということを、啓示しなければなりません。すなわち、明らかにならなければならないのです。

主の霊的な宮の存在は、悪魔の敵対の信号である。この霊なる神の住まいにある永遠のいのち、すなわち、イエス様のいのちは、悪魔の攻撃の的です。目的です。そして、教会の使命は、主の器として、悪魔の力を滅ぼすことです。けど、それは恐るべき戦いです。教会でさえも、悪魔の大きな力を経験しなければなりません。悪魔の激怒を感ずるでしょう。けど、悪魔の大きな力、また、恐るべき激怒は、終わりを意味していません。終わりは、御子、すなわち、主イエス様の偉大さを現すことです。

今日のテーマは、今話したように、「世界の選ばれた者の解放、すべての信じる者の生活に対する奉仕」であります。第1番目、主なる神の霊的な宮の存在こそ、悪魔の攻撃の的。2番目、父なる神の御子の偉大さ。

そして今から、3番目、衝突の成り行きについて、ちょっと一緒に考えましょうか。

第1ヨハネ
3:12 カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。

ルツ記を読むと、ハマンという男が出てきます。このハマンという男が、ユダヤ人を全部、殺そうと努めました。悪魔は、どんな時代でも、悪魔のような模倣者を持っていて、主なる神の民を滅ぼそうと、努力しました。けど、主なる神は、献身した、心を全うした模倣者を持っておられました。そして、彼らの一人ひとりの証によって、悪魔は自分の力はダメだと、自分の敗北を認めなければならなかったのであります。アベルは、悪魔の力に対する勝利を得ました。なぜならば、殺されても証しているからです。

ヘブル
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

これらの神のみことばを全うした人々、みんなが、悪魔と死の力に対する勝利を得たのです。彼らは、見るものによらないで、信仰によって、歩いている人々でした。こういうふうに、彼らの信仰によって、父なる神は栄光をお受けになったのです。

今日(こんにち)の世界の国々の出来事を見ると、悪魔は何と大きな力を持っていると認めざるを得ない。悪魔は、実に言い表すことのできないほどの大きな力と、また、自由を持っています。けど、主なる神は悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っています。悪魔の力は、主なる神の支配のもとにあるのです。悪魔が、心の内に持っている悪い思い、「私は霊なる神の住まいにいるイエス・キリストのいのちを滅ぼそう」という悪い思いが実現しなければ、神は悪魔に対し、判決を下すことができません。まず、悪い思いが実現されて、その次に神の判決が下されます。

創世記
15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。

どうして悪魔は、言い表すことのできない大きな力と知恵を持っているのでしょうか。悪魔の悪が、まだ満ちないからです。悪魔の悪が満ちると、主なる神の恐ろしい判決が下されます。主なる神が悪魔の力を許しているがゆえに、(悪魔は)力を持っていますけど、悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを、絶えず、覚えるべきなのではないでしょうか。

前に、私たちは、子供と成人した息子の区別について考えました。今日、もう一度、他の方面からちょっと見たいと思います。聖書を読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは、(幼いうちは)子供であって、僕(しもべ)とともに生活し、また、父の跡継ぎとしての資格を持っていませんでした。成人して初めて、息子として、父の跡継ぎとなる資格が与えられるのです。この子は、始めは子供だったんですが、成長し、成人となり始めて、息子となったのです。

これと同じように、まことの新生を経験した人は、神の子です。この新生した子は、聖化、変化、成長によって、息子となることができるのです。成長したキリスト者だけが、すなわち、イエス様を主として受け入れた者だけが、キリストとともに遺産を受け継ぎ、冠をいただき、主の座に着くことができ、豊かな報いを受けます。成熟した者だけが、霊なる神の住まいとして、ご自分の最高の権威と栄光を現すことができるのです。けども、成熟した息子、娘は、主なる神の目的だけではなく、悪魔の標的でもあります。マタイ伝の23章、イエス様の当時の聖書学者たちに対する厳しいことばです。

マタイ
23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

この最後のゲヘナの子、すなわち、地獄の子というのは、ギリシャ語では、『地獄の息子』となっています。といいますのは、地獄の成熟した息子を意味しています。何という、恐ろしいことでしょう。主の恐るべき判決の前に、悪魔に属している奴隷は、地獄の成熟した息子にならなければならないのです。

悪魔の悪が満ちると、判決が下されるということを覚えるべきです。主なる神は、悪魔の力を許しているがゆえに、力を持っているということも、絶えず考えるべきなのではないでしょうか。悪魔の悪が満ちると、主なる神は、この悪魔の言い表すことのできない大きな力に対して、教会を立ち向かわせます。悪魔が教会によって、自分の力は疲れ果てて、自分の敗北を認めなければならないように。これは私たちの使命です。そうしたら初めて、父なる神に、教会により、また、主イエス様によって、栄光が世々限りなくあるようにとなります。

世界の選ばれた者の解放、すべての信じる者の生活に対する奉仕について考えました。第1番目、主なる神の霊的な宮の存在こそ、悪魔の攻撃の的であり、2番目、父なる神の御子、すなわち、主イエス様の偉大さ、そして、3番目、衝突の成り行きについて考えたのです。

今度は、4番目、教会への任命について考えましょうか。教会の任命とは、いったい何なのでしょうか。今まで述べたことと、教会の任命との関係はいったいどういうものでしょうか。

霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。すなわち、一言で言いますと、とりなしの奉仕です。信じるもの、当時の信じる者のためだけではなくて、現代の信じる者のための大切なことは、ペテロ第1の手紙2章9節です。

第1ペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

今日の悪魔の働く方法は、一方は、詭弁的と内面的な働きであり、他方は、暴行によってなのです。私たちは、この悪魔の攻撃に対して、はっきりとした態度を、立場を取らなければならない。すなわち、私たちは、とりなし人とならなければならない。だから、ヘブル書の著者は、当時の信じる者に勧めたのです。

ヘブル
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

祈ろう。主のところへ行こう。エペソ人への手紙、同じような表現が使われています。

エペソ
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

誰でも。私たちへの任命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕ですから、大胆に、主に近づきましょう。悪魔が、我々をとりなしの奉仕から、引き退けようと努力しています。この目的を達するのに訴えることによって、悪魔は教会の力を滅ぼそうと努めています。多くの信者は悪魔の訴えによって、そして、「自分はダメだ、あまり、役に立たない者だ、罪にまみれた存在だ」と、感ずることを覚えて、主との交わりは、必ず失われると思い込んでしまっています。

これは、悪魔の働きです。悪魔が、我々をとりなしの奉仕から、引き退けようと努力しています。私たちが、イエス様の血潮の最も尊い価値を、もっともっと、よく悟らなければなりません。そうしたら、初めて選ばれた者の解放と生活に対する奉仕をすることができるのです。けど、これこそが、悪魔の大嫌いなことです。したがって、悪魔は、私たちに『あなたがたは、もうダメだよ、役に立たない、あきらめたほうがいい、主との交わりは完全にダメになるよ』と訴えます。とりなしの奉仕から、引き退けようと努めているのです。けど、大胆に主に近づかないことは、弱さだけではなく、イエス様の尊い血潮を、否定することも含まれています。私たちの祈りの生活に対する悪魔の攻撃は、選ばれた者に対する力を持つことを意味しているのです。

こういうふうに悪魔は、教会の任命を滅ぼし、教会の力は失われてしまいます。ところで、霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と、生活に対する奉仕です。これこそが、教会の任命です。もし、悪魔の訴えに対する私たちの答えが、小羊の血であるならば、本当に幸いです。

黙示録
12:11 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

教会の権威、確信、信頼、力の源は、尊いイエス様の流された血潮です。私たちが、新しい権威、確信、信頼、力を求める時、尊い血潮のために感謝すべきです。イエス様にあって、私たちは、神に対する信仰によって、血潮に対する信仰によって、確信を持って、大胆に主に近づくことができるのです。もし、私たちが本当に生きておられる主の子供であるならば、私たちは、主にある聖なる宮の中で、生き生きとした石であり、主イエス様のからだである教会で、このからだの肢体なのです。したがって、私たちの使命は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。

パウロは、この事実を次のことばで言い表しました。書いたのです。これは、当時の信じる者のためのパウロの心からの祈りであり、叫びでした。

エペソ
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

我々の使命は、世界の信者たちの解放と生活に対する奉仕、すなわち、とりなしの奉仕です。

あなたは個性的な信者ではなく、あなたは主にある聖なる宮の部分です。これは、あなたはとりなし人とならなければならないことが含まれているだけではなく、これは悪魔に対する恐るべき戦いをも意味しています。これは本当に、覚えるべきなのではないでしょうか。あなたは信じる者になった時、あなたは、聖徒たちの家族の一員となりました。だから、あなたは今、個性的な信者ではなく、あなたは主にある聖なる宮の部分です。

コリント第1の手紙の12章を見ると、パウロは次のように書いたのです。教会について考えると、非常に大切な節です。

第1コリント
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

あなたは、イエス様のからだの一つの肢体です。私たちは、みんなが主イエス様のからだであり、一人ひとりはその肢体であると、聖書は、はっきり言っているのであります。からだの肢体の一つだけでも病気になったら、からだ全部が病気でしょう。一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感ずるでしょう。一人の信者が失敗したら、教会全部が前進しません。

ご存知のように、幾人かの兄弟姉妹が離れました。イエス様のからだから離れたのです。始めに言いましたように、これは54年前の話です。その時、結局、同じ問題があったんです。

離れた彼らは、まことの喜びを持っていないし、平和を持っていません。私たちは彼らに対して無関心ではないでしょうか。彼らのために、真剣に祈るのでしょうか。それとも、この兄弟姉妹に対して無関心でしょうか。私たちの無関心によって、悪魔は勝利を得ます。兄弟姉妹に対する無関心のために、私たちは恥ずかしくないでしょうか。孤独で個性的な信者というのは、あり得ないことです。ばかげたことです。

私たち全部は、イエス様のからだであり、一人ひとりはその肢体です。からだの肢体の一つだけでも病気だったら、もちろん、からだ全部が病気です。決して、前進しないのです。絶えず祈りと願いをし、どんな時でも、御霊によって祈り、そのために目を覚まして、倦むことがなく、すべての聖徒のために祈り続けなさいとあります。すべての兄弟姉妹のために祈り続けなさい。続けなさい。

そのように祈ることが、まだ、始まっていないのでしょうか。けど、いかにして、すべての聖徒のために祈ることができるのでしょうか。この質問に答えるためのパウロの祈りはすばらしい。

ピリピ
1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

どうして信じたか。目に見える現実を見ようとしなかったからです。主は、高く引き上げられたからです。「わたしはわたしの教会を建てる」と、約束してくださったからです。このパウロの確信は本当にすばらしい確信です。この確信こそが、すべての聖徒のための祈りの秘訣なのではないでしょうか。

ご存知のように、このピリピに住んでいる兄弟姉妹は、みな本当に模範的な信者ではなかった。ピリピ書を読むと解かります。争い、妬みなどがありましたけれど、パウロは、「あなたがたのうちに良い業(わざ)を始められた方は、キリストの日までにそれを完成させてくださるにちがいない」と、確信したのであります。

結局、目に見える現実はどうであれ、主は生きておられる、働いておられると、確信したからです。確かに、私たちは、幾人かの兄弟姉妹を思いますと悲しくなるでしょう。けど、『この兄弟姉妹の内に良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるにちがいない』と確信しているのでしょうか。どうでしょう。イエス様は、必ず完成されます。私たちみんなが、イエス様と似た者となります。

この偉大なる日を、大きな喜びを持って待ちましょう。その時、離れた兄弟姉妹は、イエス様の義の衣を着るのです。彼らは、小羊の血を崇め、感謝するにちがいない。その時、今、離れている兄弟姉妹は、自分たちの救い主を崇拝するのです。妨げているものは、その兄弟姉妹は主イエスをもっともっとよく知ることは、彼らのただの願いです。

この瞬間を想像して、大喜びで待ちましょう。その時、私たちはみな、イエス様を見ることができます。何という瞬間でしょう。その時、私たちは、他の人を見て判断すること、あるいは、妬みと傲慢は、全く知らなくなります。私たちみなが、イエス様だけを見て、主なる神を礼拝するのです。私たちは、永遠にわたり、小羊によって行われた救いを、褒め称えるのです。全国の兄弟姉妹の内に良い業を始められた方が、主イエスの日までに、それをまちがいなく完成してくださるにちがいない。確信できる者は、何という幸いでありましょうか。

これこそが、高価なとりなしへの道です。救霊者になりたいのでしょうか。そしたら、毎日、家族の一人ひとり、あるいは、友たちのために祈って、感謝してください。「イエス様、あなたが、私の家族の人々を救われましたことを感謝します、友達を救われましたことを感謝いたします」と、感謝したらどうでしょうか。イエス様はあなたを決して失望させません。これは厚かましいことではないのです。感謝することは決して、破廉恥(はれんち)ではないのです。信仰です。このような信仰だけが、奇跡を締結(経験?)することができます。主の全能を信じる信仰だけが主に喜ばれる信仰であります。

エペソ書を見ますと、パウロは当時の信じるものを励ますために書いたのでしょう。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

主の目的を達するために、これは、絶対に必要です。霊なる神の住まいと、生命のない死んだものではなく、生き生きとした能動的、霊的な宮なのです。したがって、あなたはどんな時でも、すべての聖徒のために、祈らなくてはいけません。

あなたが、これが好きかどうかが問題なのではなく、霊なる神の住まいの際立っている特徴はとりなしです。神の子の性質は、とりなしによって現れます。教会の際立った特徴は、霊的な祈りです。生命は自動的です。そして、とりなしの生命の部分です。したがって、聖霊が、我々の生命の支配を持てば、我々はとりなし人となるはずです。そしたら、祈りも自発的です。

イエス様にあって、「私たちは、神に対する信仰によって、確信を持って、大胆に主に近づくことができるのです」と、聖書は、はっきり言っています。だから、とりなし人となりましょう。悪魔の訴えと告訴に耳を貸さなくてもいい。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」とあります。

黙示録
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

私たちは御霊の声を聞きましょう。「兄弟たちよ。こういうわけで私たちはイエスキリストの血によって、はばかることなく、聖所に入ることができるのである」と、ヘブル書10章19節(口語訳)に書いてあります。

流されたイエス様の血は、救いのために必要なものだけではない。最後の勝利のために、とっても大切であると聖書は言っています。「兄弟たちは小羊の血によって、悪魔に打ち勝った」と、書いてあります。小羊の死によって、悪魔、兄弟らを訴える者は、投げ落とされたとあります。霊なる神の住まいである教会の目的は、選ばれた者の解放と生活に対する奉仕です。すなわち、とりなしの奉仕です。もし、私たちが、この目的を達しないと、悪魔は選ばれた者に対する、すなわち、世界の信者たちに対する力を持っています。

私たちは世界の信者たち、すなわち、すべての聖徒たちのために、責任を持っています。私たちは、この私たちの任命を認めなければ大変です。どうか、この事実について真剣に考えてもらいたい。今日(きょう)、今日(こんにち)、今、天上にある諸々の支配や権威が、教会を通して、とりなし人を通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、私たちの主にあって、実現された神の永遠の目的に沿うものです。


おわり

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