2011年3月8日火曜日

聖なる神の宮である教会(一)息子である立場への道

聖なる神の宮である教会(一)
息子である立場への道
2011年3月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ローマ
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。


このあいだ、言いましたように、最近のメッセージは、古いものです。五十六年前に、準備したメッセージですけど、使わなかった。けども、聖書の真理は、もちろん、変わらないから、ありがたい。その昔、五十六年前に出会った方も、今日、みえています。ついさっき・・・ヒサヨ姉妹。結局、こういう昔々の人が現れてくると、本当にありがたい。

今日のテーマは、「聖なる神の宮である教会」というテーマをもって、一緒に学びたいと思います。今、話したように、最近、準備したメッセージではなく、五十六年前に準備したものであります。

もし、ある人が、とても立派なうちを建てると、けど、子供がなければ、周りの人々は、「変だなあ」と、言うかもしれない。なぜなら、あの人がすぐ死ぬと、どなたのために働いたのか、家を建てたのかという疑問が起こるでしょう。前に何回も言いましたが、霊なる神の住まいが問題です。主なる神の霊的な宮が、いかに大切であるかと、解かるようになれば、やっぱり見方が変わります。生ける真の神は、ただひとつの興味と目的を持っておられます。すなわち、御子、主イエス様であり、イエス様と結びついている救われた人々です。主イエス様ご自身と救われた兄弟姉妹が、主イエス様の豊富さなのです。この主イエス様こそが、主なる神の御心です。

今も読んでもらいました、エペソ書一章二十三節のことばは、本当に大切ですね。結局、『教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのものの内に満たしている方が、満ち満ちている』ものに他ならないとあります。霊なる神の住まいは、御子、主イエス様であり、成熟した兄弟姉妹たち、成人した息子たち、娘たちなのです。だから、今日の題名は、「息子の立場への道」であります。

新約聖書は、このことについて、何と言っているのでしょうか。

息子の身分、息子の立場は、いったい何を意味しているのでしょうか。ローマ書と、ガラテヤ書と、ヘブル書を読むと、新約聖書の時代、ギリシャでは、子供が生まれると、その子は文字通り、子供であって、しもべと共に生活し、また、父の跡継ぎとしての資格を持っていません。成人して初めて、息子として父の跡継ぎとなる資格が与えられるのです。この子供は、初めは、子供だったんですけど、成長し、成人となり、初めて、息子となったのです。

これと同じように、真(まこと)の新生を経験した人は、確かに神の子供です。この新生した子は、聖化、変化、成長によって、息子となることができるのです。これに関する二、三の聖句を読んでみましょうか。

ヨハネ(口語訳)
1:12 彼を(・・・イエス様を・・・)受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

この聖句は、まことの新生を経験した人は、神の子であるということを、言っているのです。

いかにして、神の家に入ることができるのでしょう。いかにして、神の家族の一員になることができるのでしょうか。いかにして、神の子になることができるのでしょうか。その答えは、新生によって、新しく生まれることによってです。けど、ギリシャ語の聖書では、『子』と『息子』の区別があります。すなわち、子供と成人した息子の区別を、はっきりつけています。というのは、子供は自分の努力なしに誕生します。しかし、成人した息子となり、主なる神の名誉と責任をとるには、一定の必要条件を満たさなければなりません。その必要条件が満たされなければ、私たちは、決して、主の名誉と責任をとることができません。

この区別を解かるため、聖書を、ちょっと見てみましょうか。残念ながら、日本の訳は、この点について、誤ったところがあるのです。ドイツの訳もそうなんです。エペソ書、一章五節に、『神の子たる身分を授けるように・・・(口語訳)』と、ありますが、この『子』は、ギリシャ語では、『息子』となっています。子ではない。ですから、子たる身分は、ギリシャ語では、息子たる身分、息子たる立場といっているのです。息子の立場と、成人した息子に、法的な立場と地位を与えることを言います。同じく、主イエス様は、成人した息子たちを栄光に導こうとしておられます。

ヘブル(口語訳)
2:10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。

ここでも、残念ながら、子らと書いてありますが、ギリシャ語の聖書には、『多くの息子たちを栄光に導く』と、書いてあります。もう一つの聖句を見てみます。

ローマ(口語訳)
8:23 御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること・・・を待ち望んでいる。

この聖句の『子なる身分』という句を考えるならば、誰か知らない人が来て、一人の子をもらって、育て、その子に財産を与えた・・・私たちもこういうふうに考えるかもしれないけど、ギリシャ語では決して、そのようなことを意味していません。もちろん、ローマ人への手紙は、救われた人々、信者に対して書かれたものです。ですから、ローマ人たちは、イエス様を受け入れて、神の子となっていました。

この、もうすでに神の子となった人々に、パウロは神の子たる身分を授けられると語っているのです。したがって、パウロの言っている『子たる身分の子』とは、成熟したキリスト者を意味しているのです。そして、神の一番、大切な目的は、成人した息子を通して、ご自身のご栄光を現されるということです。

主なる神のご目的は、成熟した息子たちを通して、ご自身の栄光を現されることです。私たち、信者は、本当に新生を経験し、聖霊の働きによって、イエス様を宿し、永遠のいのちを持っています。けど、これは、決して終わりではありません。私たちは成長し、成人した神の息子、娘とならなければいけません。それは、私たちが神のご栄光を現す、主なる神の同労者として、主に対する働きと責任を持つようになるためです。

ひとつのことが明らかです。すなわち、私たちは、成人した神の息子、娘までに、まだ、前進しなかったのです。どうでしょうか。改心から、栄光から、栄光へと前進したのでしょうか。それとも、私たちの霊的な生活は、止められたのではないでしょうか。パウロの時代の兄弟姉妹たちは、同じ危険に直面したわけです。だから、パウロは、ローマ書、ガラテヤ書、おそらく、ヘブル書を書いたのです。この信者は、イエス様の偉大なる自由を自分のものとしました。しかし、ユダヤ教の習慣的な組織によって、彼らの霊的な生活は、進歩しなかったのです。

我々の場合、同じではないでしょうか。正直に言えば、そうです。私たちは、喜びに満ちた者ではない。イエス様の平安を持っていない。『導きなしに生活する者だ』と多くの人々は、言わざるをえないのではないでしょうか。だから、ローマ書、ガラテヤ書、ヘブル書のメッセージは、我々にあてはまります。だから、『どうか、耳のある者は、御霊があなた方に言うことを聞くがよい』と、よく書かれています。

ひとつのことが明らかです。というのは、悪魔は、今日(こんにち)のメッセージを大嫌いです。なぜなら、もし、私たちが、キリストにあって、小さな赤ちゃんではなく、キリストにあって、息子、娘になると悪魔は逃げざるをえなくなるからです。したがって、私たちは今日、ひとつのメッセージを聞くためではなくて、悪魔を攻撃するために、ここに集まったのです。息子の立場への道に前進することは、悪魔を攻撃することを意味しているのです。

ローマ(口語訳)
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

原語では、『神の息子である』となっています。また、新しく生まれ変わった人は、皆、もちろん、神の子供です。けれども、信者、全部が御霊に導かれている者ではない。だから、信者、全部が、神の息子ではない。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の息子であるとあります。わたしたちは、神の子供として、主なる神の財産を相続すべきですけど、そのために、成熟が絶対に必要です。

けれども、いったい、いかにして、我々は息子の立場に至るのでしょうか。赤ん坊がいのちを持っているのと同様に、新しく生まれ変わった信者も、永遠のいのちを持っています。小さい子供は、まだ、報いをもらいません。父の遺産を、まだ、もらっていません。成熟した息子だけが、父の遺産を受け継ぎ、父の名誉と責任を取ることができるのです。同じく成熟した兄弟姉妹だけが、イエス様とともに遺産を受け継ぎ、冠(かんむり)をいただき、イエス様の座につくことができ、豊かな報いを受けます。清められた生活を送っている兄弟姉妹だけが、主とともに遺産を受け継ぎます。実を結ぶ兄弟姉妹だけが、冠を授けられます。イエス様のために苦しみを受けた者だけが、イエス様とともに、御座につきます。良い行いを行う兄弟姉妹だけが、豊かな報いを受けます。

今までに述べた事柄によって、次のことをお解かりになったのではないかと思います。すなわち、成熟は、個人個人の問題です。あなたがた、一人ひとりが、成人した息子、娘とならなければならない。この成長は、共同的な問題です。そして、いつも覚えるべきなのは、主の御心は、聖化、成熟ばかりでなく、からだなる教会です。主の御心は、多数の生き生きとした意思ではなく、主にある聖なる宮、また、霊なる神の住まいは問題です。主なる神の御心は、聖徒たちの群衆ではなく、息子、すなわち、イエス様のために、許婚(いいなずけ)がほしいのです。

したがって、あなたがた一人一人が、教会の秘密を、啓示によって見なければ、成人することができないのです。からだなる教会は、悪魔の奴隷から引き抜かれた団体です。団体というよりも、有機体です。からだなる教会の統一は、生物学的であり、有機的であります。したがって、一人の信者の信仰生活が制限されたら、教会全部が、それを感じるのです。二人の信者だけでも統一を持っていなかったら、からだなる教会全部が前進しません。

悪魔はいったいどうして、からだなる教会の統一が、そんなに大嫌いでしょうか。どうして、悪魔は、あらゆる時代においても、教会の統一を破壊しようと努力したのでしょうか。なぜなら、悪魔は、信者たちみんなが、イエス様の満たしを受け入れなければいけないということを知っているから。イエス様の満たしと偉大さは、そんなに大きいのですから、兄弟姉妹、みなが必要です。だから、悪魔は、あらゆる成熟は、大嫌いですから、一生懸命、信者の目をからだなる教会の秘密に対して、惑わそうと努めています。こういうふうに悪魔は、勝利を得ます。なぜなら、教会と成熟は、二つの離されないことなんです。

私たち一人ひとりが、からだなる教会の秘密を、光によって、上からの啓示によって見なければ、成人することができません。パウロは、新約聖書、全部を書くことができませんでした。けど、私たちは、新約聖書全部を必要とします。同じように、真(まこと)の教会は、主なる神のからだであって、すべてのものをすべてのものの内に、満たしている方が、満ち満ちているものに他ならないと、前に読んだ箇所を見ると解かります。

あなた一人は、キリストのからだであって、すべてのものをすべてのものの内に満たしている方が、満ち満ちているものに他ならないなんて、そんなことはない。イエス様の満たしのために、教会全体が必要なんです。だから、教会を見ることは、絶対に必要です。聖霊が、我々の心の目を開いて、教会の意味について、教会のすばらしさについて、教会の統一について知らせることができたら、本当に幸いです。そしたら、初めて、息子、娘の立場への成熟が可能です。けれども、これこそが、悪魔は大嫌いです。

成人した息子たちによって、主のご栄光が現れる時、悪魔は、自分の名誉、立場、王国を失ってしまいます。だから悪魔は、私たちが霊なる神の住まいは何であるかという事実を見ないように努力します。ですから、パウロは、ひざまづいて、エペソにいる兄弟姉妹に、『どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか・・・を、あなたがたが知るに至るように、と祈っている(エペソ一章十七~十九節)』と、パウロはエペソ書(口語訳)に書いたのです。

この悪魔の暗くすることに対して、切なる祈りが絶対に必要です。今日の状態を見ると、なんと、わずかな兄弟姉妹は、主のからだなる教会の秘密を見たでしょう。イエス様のからだに対する啓示を受け取った人々は、少ないのではないでしょうか。これは、悪魔の仕事です。まことの教会であるイエス様のからだという真理は、単なる拘束されていない随意(ずいい)の真理ではないのです。決してそうではありません。もし、私たちが、主なる神の目的を達したいと、悪魔の力を滅ぼそうと思うと、私たちは何とかして、この教会に対する啓示が必要です。ローマ書、八章をご覧くださいますと、これがよく解かります。

ローマ(口語訳)
8:20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

そして、二十九節に、目的を達するために選ばれた器について書いてあります。

ローマ(口語訳)
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。

教会は、主なる神の御心です。もし、私たちが、上からの光によって、すなわち、啓示によって、この主のからだである教会を見なければ、息子の立場まで前進しません。イエス様の遺産、イエス様の王国が問題です。そのために、教育は絶対に必要です。だから、主の訓練を軽んじてはいけないと、聖書は忠告しています。主は、愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭(むち)打たれるのであると書いてありますが、この鞭打たれるという意味は、決して、刑罰を受けるというようなことではなく、子供教育を意味しています。

主なる神は、ご自分の子供に天罰を与えません。けれども、大きな考えられない愛を持って教育されます。兄弟姉妹の病気、兄弟姉妹の苦しみは刑罰ではない。子供教育なのです。けど、悪魔はいつも、刑罰する、罰すると曲解させます。教育されるために、私たちは、いろいろな真理を経験しなければならないのです。

ヘブル(口語訳)
5:8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学(んだ。)

私たちも、この心理を経験しなければならない。苦しみと困難なしに、私たちは、決して前進しません。ヘブル書、五章十二節には、『あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはず(口語訳)』ですと、書いてあります。どうでしょうか。主の目から見ると、私たちは、教師でしょうか。もうひとつの真理は、ヘブル書に書いてあります。

ヘブル(口語訳)
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。

原語では、『すべて乳を飲んでいる者は、幼子、未成年の者なのだから、義のことばをあじわう、すなわち、経験することができない。』乳を飲んでいる者は、無経験な者、未熟な者です。

ヘブル(口語訳)
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。

いかにして、成人するのか、感覚を実際に働かせて、訓練することによってだけ、可能です。子供と息子との実際的な区別は、いったい何でしょうか。子供は、何も自分でできません。他の人はいつも、子供、赤ちゃんのために努力しなければいけません。子供は、自分の経験なんて、持っていないんです。いつも、他の人の経験によって、生活しています。赤ちゃんですから、何も、自分のためにできないのです。食べ物を全部、あげなければならないでしょう。風呂をたてて、自分で沐浴(もくよく)することができません。けど、子供は成人して、自分で食べることができ、自分の生活のために働くことができるのです。成人した息子は、独立して、他の人の言うことや、行いによらなくてもいいわけです。

成熟した兄弟姉妹は、『私は、主の御心を知っている。私は、主を新しく見た。主の御声を聞いた。私は、新しい啓示を受けた』と、言うことができるのです。このヘブル書、五章十四節のことばは、とても大切です。『感覚を訓練される』とあります。私たちは、神の子供として、霊的な感覚を持っています。すなわち、聖書は、主を見ることについて、語っています。たとえば、有名な山上の垂訓ですか。

マタイ(口語訳)
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

もちろん、これは、身体上の見ることではない。霊的な『見えること』です。しかし、生まれながらの人は、神を見ることができない。同じように、生まれながらの人は、神の声を聞けない。聞こえない。けど、新しく生まれ変わった人は、主に聞くことができるのです。もちろん、これも、身体上の『聞くこと』ではありません。

詩篇(口語訳)
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。

この『味わうこと』も、身体上の問題ではなく、生まれ変わった人の能力なんです。私たちは、実に、神の子供として、霊的な感覚を持っています。そして、神のご目的とは、私たちが、この霊的な感覚を使うことです。使うことによって、経験が来るのです。主のものになった者の生活において、経験は、何と言う大切な価値があることでしょう。毎日の生活においても、経験は、とても大切です。学校ばかり卒業した医者は、頭の知識ばかり、持っているのです。けれども、三十年の経験を持っている医者は、頭の知識ばかりではなく、三十年の奉仕によって、経験を持っているのです。すなわち学校で習ったことは、自分のものとなったわけです。使うことによって、経験はやってきます。

何という多くのキリスト者は、いつも、霊的な子供です。決して、卒業しないで、成人した息子の立場まで前進しません。いったい、どうしてでしょうか。なぜなら、主は、我々を強制しません。強制されて成人した息子は、主の御心ではないのです。私たちは、責任を持っています。前に読んだ聖句を、もう一度、見ましょうか。

第1コリント(口語訳)
3:1 ・・・わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ・・・、幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。・・・

ヘブル書の中で、内容的に同じことが書いています。

ヘブル(口語訳)
5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。

私たちは、偉大なる責任を持っているのです。これは厳しい警告です。イスラエルの民を見ると解かります。イスラエルの民は皆、エジプトから出る時、ほふられた小羊の血を受けました。新約聖書で言えば、これは、イスラエルの民、全部が、信じる者であったことを意味しています。また、イスラエルの民、全部が、カナンの地へ入りたかったんですけど、二人だけ、カナンの地へ入っただけで、残りの人々は全部、荒野で滅んでしまいました。イスラエルの民は皆、救いを持っていました。けど、彼らは、霊的な生活において成人しなかったのです。彼らは、霊的な感覚を持っていましたが、しかし、これらを使いませんでした。罪と不信仰と無関心さによって、イスラエルの民は成人しませんでした。

私たちの持っている責任を軽んじてはいけない。みことばは言っています。『今日、御声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心をかたくなにしてはいけない』と。

【参考】ヘブル(口語訳)
3:7 だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」

普通の伝道集会の時、このみことばを、よく使われているかもしれない。その時、集まった未信者に、『きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない』と、言うかもしれない。

けれども、パウロは、または、他の人たちもそうなんです。このことばを、決して、未信者のために使わなかったんです。新約聖書の手紙は、ご存知のように、もうすでにイエス様を受け入れた者のために書いた書物です。したがって、このヘブル書、三章十五節も未信者に対してではなく、救われた人々に対する厳しい警告であります。きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心をかたくなにしてはいけない』とあります。

ひとつの質問が出てきます。すなわち、いかにして、私たちは、息子の立場に至るのかということであります。というのは、私たちは、はっきりとした目的を持たなければならない。

ヘブル(口語訳)
6:1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。

どうでしょうか。我々の生活の際立っている特徴は、はっきりと掴んでいる目的なのでしょうか。それとも、私たちは、目的なしに、さまようのでしょうか。

目的を持っていない信者は、何も、自分でできない。他の人がいつも努力しなければならない。この信者は、自分の経験などは持っていません。いつも、他の人の経験によって、生活しています。すなわち、自分の霊的な感覚を使っていないのですから、経験がやって来ないのです。

けれども、この信者たちは、わりあいに楽な生活をするでしょう。けれども、もし、我々の生活の際立っている特徴が、はっきりと掴んでいる目的であったら、困難と苦しみが来るのです。けれども、困難と苦しみこそ、成人のために、絶対、必要です。「彼は、御子であられたにもかかわらず、さまざまな苦しみによって、従順を学んだ」と、あります。

いかにして、成人になるか。感覚を実際に働かせて、訓練することによってだけ可能です。どうして、あの姉妹は病気になったのでしょうか。なぜ、あの兄弟のお父さんは亡くなったのでしょうか。あなたは、どうして、あまり良い働き場を見つけないのでしょうか・・・云々と。このような困難は、あなたの知恵、あなたの力より、まさる力が必要です。我々は、逃れ道が見えません。けど、これこそが主のせいです。主の導きです。これは、刑罰ではなく、かえって、主は大きな愛を持って、教育されます。このような困難によって、私たちは、自分の霊的な感覚を使わなければならない。そしたら、初めて、霊的な真理、すなわち、聖書の事実を経験することができるのです。

経験によってのみ、私たちは成人することができます。子供は、問題や質問を持ってたら、すぐにお父さんやお母さんのところに行って、尋ねるでしょう。新しく生まれたばかりの子は、疑問が起こると、すぐ、友だちや兄弟姉妹のところに行って質問するのです。そして、与えられた答えを持って、満足されるかもしれないけど、これは、本当に充分ではありません。なぜなら、成人するために、聖書の事実が、我々の内に現実とならなければいけないからです。答えは、自分の経験とならなければいけません。

実に、他の人は、我々を、苦しみと困難から救い出すことができません。兄弟姉妹に尋ねることによって、問題は解決しないでしょう。私たちに、何か話されたことではなくて、我々の内に何か成されたことが、問題じゃないでしょうか。霊的な問題は、知能的には、決して解決されない。もし、私たちが、霊的な問題を、知識的に解決しようと思うと、私たちは霊的な赤ちゃんです。知識的な解決は、問題ではなくて、新しい立場、すなわち、成人した息子の立場が問題です。あらゆる教えは、大切ではありません。

たとえば、聖化に対する教えが、たくさんあります。もちろん、それぞれの教えは、聖書的でしょう。けど、一番、良い教えでさえも、知識的な解決を意味しているでしょう。イエス様ご自身を経験することや、よりよく知ることが問題なのではないでしょうか。

息子の立場とは、霊的な立場です。そして、私たちは、この理性に、決して、知識的に哲学的に達することはできません。成熟は、知識的な哲学的な問題ではなく、徹頭徹尾、霊的なものです。私たちは、主の学生ではなく、主の子供です。主は、我々の霊の父です。だから、私たちの成長は、霊的な成長であるべきです。

自分の経験は、何という大切なことでしょう。霊なる神の住まいは、イエス様であり、また、成熟した兄弟姉妹、成人した息子、娘たちです。したがって、私たちは、何とかして、この霊なる神の住まいである教会を目的として、掴まなければなりません。けど、そうすると困難と苦しみがやって来ます。この起こった苦しみによって、我々は、他の人間と、彼らの答えや経験によらないで、主をもっとよく知らなければなりません。そうしなければ、私たちは、主の用いられる器になりません。

特別な会議、交わり、説明、薦め、忠告などは、我々の困難を解決しません。イエス様ご自身だけが、解決することができるのです。私たちは、主を新しく見ることによって、主の御声を新たに聞くことによって、私たちは、新しい経験を、自分のものとすることができるのです。私たちは、学生ではなく、主なる神の子供なのです。これを絶えず、覚えるべきなのではないでしょうか。

子供が大きくなったから、お父さんの助けになります。今からお父さんの手紙を書くことができ、お父さんの責任も、少しずつ持つことができます。そうすると、今までに、「あなたは子供だから、何も知らない。あなたの仕事はダメ」としか、聞かなかった子供は、嬉しくなるでしょう。けど、今、大きくなったから、責任を持つことができる。そうすると、子供は喜び、「お父さん、お母さんが喜ばれますように」と、努力するでしょう。同じように、主の取り扱いは、子供の教育です。

けど、もし、私たちが、いつまでも赤ちゃんであったら、主は喜ばないでしょう。聖書を見ると、はっきり解かります。イエス様の座が、問題なんです。この世の支配が問題なんです。だから、教育が絶対に必要です。

私たちは今、苦しみと困難の意味を解かったでしょうか。困難と苦しみに対する解決は、我々の経験とならなければいけないのです。私たちは、愛する者を子供教育をするのである。主はそう約束しておられます。

からだなる教会は、イエス様の王国の時、イエス様と共に支配するはずです。これは、教会の使命です。もちろん、世界の支配は、子供の遊びではないんです。これは、成人した息子、娘の任務、任命です。私たち一人ひとりが、この霊的な事実を、聖霊の啓示によって見ることができますように。そして、この霊的な事実が、我々の生活の原動力になりますように、祈るべきなのではないでしょうか。

おわり

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