2016年2月7日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック
ルカ
12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
ルカ
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。
第1コリント
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
テサロニケ第1の手紙はパウロの初めて書いた手紙です。多分、(西暦)50年だったのではないかと思われています。書いたところはコリントだったのです。どうして書いたのかと言いますと、時間をつぶすためではないでしょう。他の仕事がなかったからでもないでしょう。結局、祈りながらテサロニケにいる人々について考えたとき、『ああすべきだ、こうすべきだ』と思って、従っただけなんです。
パウロはテサロニケで、3つの安息日と書いているんですけど、安息日、土曜日だけじゃないでしょう、他の日も、おそらくイエス様を紹介したのではないかと思います。結果は、本当に良かった。いろいろな人々が導かれ、救われ、イエス様を述べ伝えたい、主に用いてもらいたいと、切に望むようになったのです。
彼らの心からの信仰、彼らのまことに愛こそが、パウロの感謝の元でした。行ったのはよかった。イエス様を紹介したのは良かったと、必ず、何回も思ったのではないでしょうか。
ルカ
21:36 あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。
絶えず、目を覚まして祈ってください。これこそがみ言葉の中のもっとも大切な呼びかけ、戒めなのではないでしょうか。絶えず目を覚まして祈っていなさい。目を覚ましているためには、どうしても祈ることが必要です。そして、祈るということは、主とひとつになる交わりを持つことです。したがってイエス様との出会いによって、罪を赦された者だけが主と交わりを持つことができます。
したがって、私たちがイエス様を体験的に知っているかどうかということが、決定的な問題です。私たちは、罪の中に死んでいるのでしょうか、それとも、目を覚ましているのでしょうか?私たちは、御霊によって新しく造られた者なのでしょうか。このテサロニケ第1の手紙の4章8節に、『聖霊をあなたがたの心に賜る神』云々とあります。
(参考)第1テサロニケ4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
それから、ローマ書、8章の9節を見ると、次のように書かれています。
ローマ
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
第1コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
第1コリント
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
パウロはこう彼らに書き記されたのであります。テサロニケへの手紙は清め、あるいは、聖化を呼び起こす手紙であり、また、希望を与える手紙です。もちろん、希望と清めとはお互いに密接な関係を持っています。イエス様が再び来られるという希望こそ、清め、あるいは、聖化を押し進める最も強い推進力であります。イエス様の出現を心から待ち望んでいる信者は、絶えず罪から清められたいという強い願いを持っています。
このテサロニケ第1の手紙4章ですね、1節から12節を見ると、テサロニケにいる信者たちの古い性質のことが記されています。
(参考)第1テサロニケ4:1~12 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたは、それを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
その当時、テサロニケは非常に豊かな商業都市でした。したがって、お金に対する欲望が渦を巻き、道徳的にもずいぶん堕落していました。このような悪い影響から免れることは、必ずしも簡単なことではありませんでした。このような理由から、パウロは、テサロニケにいる信者たちに厳しく警告し、『不品行を避け(3節)、そして、兄弟をだましてはならない(6節)、』と書かれています。
信者といえども、絶えず目を覚ましていないと、不品行に陥り、お金に対して貪欲になるとパウロは警告したのであります。肉の思いと欲にふけること、あるいは、お金に対して貪欲になることは、イエス様を心から待ち望むことと全く相容れないことです。この問題と関連して、いわゆる清め、あるいは、聖化と呼ばれる問題が現れてくるのです。それでは、聖書に書かれている清め、あるいは、聖化とはいったい、いかなるものなのでしょうか?7節、8節を見ると、この問いに対する答えを見いだすことができます。
(参考)第1テサロニケ4:7~8 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。
清めとは、自分の力によらず、御霊の働きによって、イエス様に似たものにかたち造られるため、信者の中に起こる新しい変化であります。いったい、清めとは、実際にはどのようなものなのでしょうか。どのように見えるものなのでしょか?9節を見ると、兄弟に対する態度、すなわち、兄弟愛について記されていますね。
(参考)第1テサロニケ4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。
そして11節と12節を見ると、外部の人々、すなわち、未信者に対する態度、すなわち、威厳を保ち、自分の仕事に身を入れることについて記されています。
(参考)第1テサロニケ4:11~12 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。
別のことばで言うならば、汚れた肉の欲ではなく、清い兄弟愛を持ち、貪欲な守銭奴ではなく、勤勉な働き人であるようにと勧められています。兄弟愛は、決して私たちの努力によるものではない。主の賜物です。もともと人間は、自分のことばかり考えて、他の人のことを考えない性質を皆持っています。
テサロニケを見ると、テサロニケの信者たちは、イエス様のからだなる教会、すなわち、組織ではなく、有機体としての教会を見、他の地方に住んでいる兄弟姉妹とも、心からなる一致を持っており、うるわしい兄弟愛を持っていたのです。
しかし、それと同時に彼らといえども、肉の欲に溺れる危険性に直面していたのです。汚れた欲の虜になるか、あるいは、清い兄弟愛を持つかのどちらかという二者択一の問題に直面したのです。
御霊が我々を満たし、導くことができるか否かという、非常に重大な問題が存在しているわけです。イエス様のからだなる教会には、怠け者が入る余地はないとはっきりパウロは言っているのです。信者が自分の仕事に身を入れ、一生懸命に働くべきであるということ、心からイエス様を証ししたいと切望することとは、切り離すことができない関係にあると、パウロは彼らに書いたのです。
パウロが書いているような新しい生活の力とは、いかなるものかといる問いが、これとの関連において別のこととして現れてきます。一言で要約すれば、清い生活をするため、聖いお方が必要であるということです。この聖い人格者は、ただ御霊によってのみ可能となるのです。
この世には、人間の力で清い心を持ち、清い生活をすることができると考えている人が、数えきれないほどいます。多かれ少なかれ、イエス様に出会っていない人々は誰でもそのように考えているのではないでしょうか。けど、彼らは自分自身の本当の姿に対しては、全くめくらです。
イエス様を体験的に知らなければ、人間は誰でも自分自身のエゴ、そして、悪魔の虜になっているのであります。この事実を知らないこと、また、知りたくないことこそ、最大の悲劇なのではないでしょうか。生まれつきの人間ができる事は、すべて罪を犯すことだけです。これこそ、神の判断によるものです。
清い生活は、ただ聖い御霊、すなわち、聖霊だけが導き、いとなみ得るのです。したがって、イエス様の再臨に対して聖霊を受け入れるか、否か、聖霊の導きに従うか、否かという事が、重大な問題となります。
私たちは、聖霊の働きに対して3つの異なった態度を取ることができます。
まず第1に、聖霊を全く無視することができます。信者ならば、だれでも聖霊が宿っていますけど、問題はそれが聖霊の宮であるか、あるいは聖霊の牢屋であるかということです。多くの信者は、御言葉に正しく向かい、聖霊の働きと導きに正しく従うことをしていない。すなわち、実際問題として自分が決定権を持ち、聖霊は全く無視されています。
第2番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れるということ、すなわち、言葉を変えて言うならば、聖霊が信者の全支配権を持つのではなく、部分的な支配権を持つということです。そのような場合には、聖霊は単なるお客様として、よそよそしく取り扱われるのです。おもに自分が支配し、自分が決定し、時々、御心は何かと尋ねるにすぎないような信者がいます。そのような生活の結果は、決して幸福な生活ではない。みじめな生活です。
聖霊を受け入れる第3の態度は、聖霊にすべてを明け渡し、聖霊がすべての支配権を持つという態度です。パウロが聖霊に対して取った態度は、まさにこの三番目の態度でした。その結果は、皆、よくご存知のように、『生きているのは、もはや私ではなく、イエス・キリストである、』と告白するようになりました。
聖書は、私たちが聖霊に満たされることを要求しています。けど、それはいかにして可能なのでしょうか?まず第1に、全く献身することによって。第2に、主が全く支配権を持ってくださる事に感謝することによって。第3に、主が導いてくださるご自分のご栄光を現してくださることを心から期待することによって、聖霊が我々を満たして、導くことが可能となることができるのです。
聖霊に満たされることは、もちろん、感情の問題ではない。意思の問題です。すべてを主に明け渡した時に初めて、私たちは聖霊に満たされます。したがって、聖霊に満たされるための前提条件は、まず、第1に献身、第2に、主が支配権を取ってくださったという確信に他ならない。そしてこれは、我々の決断にかかっているのです。私たちは聖霊に満たされるまで、待つ必要はない。私たちが心を開いて、すべてを主にゆだね、明け渡しさえすれば、満たすことを常に望んでいる聖霊は、ただちに私たちを満たしてくださるのです。
ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。
もし、聖霊だけが支配できるならば、御霊の実は啓示されるのです。これは決して、敬虔ぶった宗教家、あるいは、宗教的な人の努力の結果ではなく、まさに、御霊の実であります。御霊は、私たちが過去に犯した罪のみならず、罪そのものの本当の恐ろしさをも明らかに示してくれます。そして、罪は我々の内に宿っているのです。御霊は、イエス様による罪の贖い、あるいは、救いが我々にとってますます、本当のものとなり、ますます、深くなるようにと導き、助けてくれるのです。
テサロニケの兄弟姉妹は、イエス様は再び来られるという喜ばしい訪れを聞いて喜びました。それはただ単に、情報、あるいは、ニュースのみならず、再臨に対する用意ができているか否かという呼びかけでもありました。私たちにとって、イエス様が再臨なさるという真理は、まさに、清めに対する呼びかけなのではないでしょうか。ヨハネ第1の手紙の3章は、よく読まれる箇所です。
第1ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
私たちは、聖霊に対していかなる態度を取るのでしょうか?全く無視するのでしょうか。一部だけ支配権を明け渡すのでしょうか。それとも、全支配権を主に明け渡すのでしょうか。
『あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか』と、パウロは彼らに書き記したのです。我々にとって最も大切なのは、毎日、イエス様を待ち望むこと。『もうちょっと』と考えれば、嬉しくなります。いつまでも、イエス様と一緒になることとは想像できません。1年間だったらすごい。1億年間だったらもっとすごい。けど、『いつまでも。』制限はされていない。いつまでも、イエス様と一緒になるのだ。ちょっと、ピンと来ない。捨てられてもいいのに。けれども、イエス様は捨てようとしない。『私は決してあなたは離れず、あなたを捨てない。』一人一人に書かれている約束です。嬉しいな。

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