2026年1月17日土曜日

イエス様の再臨1(4回シリーズ)

イエス様の再臨1(4回シリーズ)
2016年1月17日、吉祥寺福音集会
ゴットホルド・ベック兄

第1テサロニケ
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

このテサロニケへの手紙は、パウロのおそらく初めて書いた手紙です。書いたところはコリントという町でした。テーマはイエス様の再臨です。3つの安息日でパウロは福音を述べ伝えた、すなわち、イエス様を紹介しました。

結果は素晴らしかった、一つの群れ、イエス様を信じる群れができたのです。彼らはただ信じただけではなく、主をよりよく知りたい、主に用いてもらいたいと切に望むものになったのです。彼らの心からの信仰と、彼らの真の愛こそが、パウロの感謝のもとだったのです。

このテサロニケの手紙のためにひとつの題をつけようと思えば、生けるまことの神に仕えるため、主に立ち返り、イエス様が天から下ってこられるのを待つことと、考えることが適しているのではないでしょうか。救われただけではなく、待つために救われた。待つために回心する恵みに与かるようになったとありますね。3つのことをちょっと一緒に考えてみたいと思います。

第1番目は、手紙についての一般的な事柄とはどういうものでしょうか?第2番目は、この手紙の言わんとしていることとはいったいなんなのでしょうか?そして、第3番目は、このテサロニケにおける教会の発生についてです。

ここで、テサロニケと呼ばれている都市は、かつてサロニケと呼ばれていた町でした。サロニケという村は、昔からあったものでしたが、紀元前315年に、アレキサンダー大王の後継者の一人であるカサントス、すなわち、マケドニアのカサントスが、新たに拡張して造り替えたものです。そして、テサロニケと呼ばれるようになったのです。

テサロニケという名前の由来は、アレキサンダー大王の妹、すなわち、カサンドラの妻の名前にちなんでつけられたと言われています。それがパウロの時代には、10万人の住民を擁する大都市に発展していたのです。テサロニケには、ユダヤ人も少なからずおり、会堂を持っているユダヤ人もいたのです。また、そこは港でもあり、大きな商取引が行なわれる場所でもありました。

この手紙の作者はパウロ、パウロよりも、パウロを通して聖霊の伝えたものではないでしょうか?パウロといっしょにシルワノとテモテと言う二人の兄弟もいました。シルワノは、アンテオケからパウロと一緒になり、テモテはルステラから一緒になりました。彼らは途中で導かれるようになりました。

手紙を受け取った受取人は、言うまでもなく、テサロニケの教会、テサロニケにいる主の恵みに預かるようになった兄弟姉妹でした。西暦52年、パウロは2回目の伝道旅行をしましたが、その時テサロニケにやってまいりました。彼は、ピリピからやって来ました。ピリピに滞在していた時のパウロの生活は、人間的に見るならば、失敗のように見えますけど、そこから小さな集会が発生した事実は、非常に重要な意味を持っています。

確かに人間的に見るならば、パウロが捕らえられたことは、失敗のように思われますが、実際はその反対で、パウロは大喜びで、力強くテサロニケへ行ったのです。テサロニケにおける伝道活動を続けたのです。彼は、3つの安息日に結局、大成功を治め、福音を宣べ伝えたのです。それを通して、ユダヤ人も異邦人も、また、少なからず貴婦人たちもイエス様に出会って素直に信じ、受け入れたのです。

それはパウロにとって、もっとも体力と気力を消耗した時でありました。というのはパウロは、他人の世話になることを好まなかったのです。他人から悪口を言われることを好まなかったから、自分で働いて生活しなければならなかったのです。パウロは、このようにして、悪口を言われないようにがんばったんですけど、それにもかかわらず、大きな反対が持ち上がったため、信じる者のことを考えて、テサロニケを離れたのです。その後、パウロはテサロニケから出た二人の同労者、アリスタルコとセクンドを与えられたのです。

パウロは、テサロニケにわずか4週間しか滞在しませんでしたが、豊かに祝福されました。パウロはテサロニケを離れて、ベレヤと言う町に行き、そこで伝道活動を続けましたが、結果は同じように、陰謀のために、そこをも離れざるを得なくなり、そのようにしてアテネへと向かったのです。

そして、アテネでは、非常に豊かな実を結ぶことができたのです。今日は暇がないけど、使徒行伝17章16節からずっと、18章1節までを見ると分かります。けど、テサロニケのことをおもんぱかり、パウロはシルワノとテモテとをアテネから帰したのであります。パウロは、次にコリントへとやってまいりました。このコリントでパウロは再び、シルワノとテモテに出会い、二人からテサロニケで見聞きしたことを、つぶさに聞いたのです。テサロニケの主の体なる集会は、ユダヤ人から大きな攻撃を受けたにもかかわらず、模範的な集会に成長したのです。そして、その二人の報告を聞いた後、西暦53年に、パウロはコリントでこの手紙を書いて、テサロニケに出したのです。この手紙は、パウロが一番最初に書いた手紙です。

パウロが、この手紙を書いた目的は、信者にとって、一番大切な目標を差し示すことでした。新約聖書の中にある手紙はすべて、もちろん、信者のために書かれたものであり、信者の信仰がますます成長し、いっそう、イエス様により頼むようにと記されているのです。

次に、この手紙の言わんとしていることとは、いったい何なのでしょうか。おもな内容は、イエス様がご自分を待つ者のために必ず来られるということです。

すなわち、イエス様の再臨、ならびにそれが持つ信者の体験との関係が、いかなるものであるかを説明することが示されています。イエス様の再臨は、いかにひとつの教義であるのみならず、信じる者の信仰生活において、いきいきとした力を現す秘訣にもなっているのです。どの章を見ても、その終わりには必ず、イエス様は再臨されるというみことばで結ばれています。ちょっと見てみましょうか?

第1テサロニケ
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

次の章、一番良く知られている箇所ですね。

第1テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。

主の再臨は、いったいいかなる影響を及ぼすか。各章ごとに、ひとつのテーマを取り上げて考えてみることができます。全部で5章ありますから、パウロは5つの答えを出していることになります、

第1章において、主の再臨が、神に立ち返ることに対して、いかなる影響を及ぼすかを考えてみましょう。これに対してパウロは、新しく生まれ変わった信者には、主の再臨が、いきいきとした望みを与えると答えています。

2章においては、主の再臨が、信者の奉仕に対して、いかなる影響を及ぼすかという問いが出されます。この問いに対しては、忠実な主のしもべに対して、主の再臨は、力づけ、勇気づける望みを与えると答えられています。

第3章においては、主の再臨が、私たちの心の状態に対して、いかなる影響を及ぼすかという問いが考えられます。それに対して、主の再臨は、信者に清めの望みを与えると答えられています。

第4章の後半においては、主の再臨が、信じる者の死に対して、いかなる影響を及ぼすかと問われています。これに対して、主の再臨は、残された者に対して、慰めを与える望みを約束していると答えられます。

そして、第5章においては、主の再臨が、信者の目を覚ましている状態に対して、いかなる影響を及ぼすかを考えています。主の再臨は、まどろんでいる信者を呼びさまし、完全な献身へと導いてくれます。

したがって、このようなことからも解かるように、この手紙全体の中心点は、まさにイエス様の再臨であるといえるわけです。そして、主の再臨こそ、我々の全生涯を根本的に造り変えるべきでありす。主の再臨がなければ、私たちには何の望みもありません。主の再臨がなければ、なんら力づけ、勇気づける力は存在しないことになります。

ただ、主の再臨を待ち望む者だけが、ますます清められ、ますます、高められるのです。主の再臨がなければ、私たちが、前に死んだ信者と再会する望みもなく、何の慰めもないことになります。

もしも、主が再臨なさらなければ、献身の生活も価値がなくなります。けれど、イエス様は必ず再臨なさいます。これこそ、パウロが力強く言わんとしたことでした。信者は、正しい道を歩もうとする限り、絶えず主の再臨に心の目を向けなければなりません。我々の人生を決定しているものは、何でしょうか。目の前にあるいろいろな出来事でしょうか、それとも、主の再臨でしょうか?

第3番目、テサロニケにおける教会の発生について、ちょっと考えて見ましょうか。パウロがテサロニケに送った手紙は、非常に平易に、解かりやすく書かれているため、誰が読んでも、だいたい分かるのではないでしょうか?そして、ローマ人への手紙のように教義の手紙でもありません。また、ガラテヤ人への手紙のように、いろいろな対立の問題を含んだ手紙でもありません。この手紙は、まさにパウロが、テサロニケにいる信者一人ひとりに対して、真心をこめて書いた手紙です。

それですから、私たちはテサロニケの集会を、より良く知りたいものではないでしょうか?使徒行伝2、3節、読みましょうか。

使徒行伝
17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
17:3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。
17:5 ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。
17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。
17:7 それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」
17:8 こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。
17:9 彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
17:10 兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

すでにご存知のように、ヨーロッパで最初に発生した集会は、ピリピの集会です。パウロとシラスはピリピで捕らえられ、ひどく取り扱われました。けども、彼らは決して、周囲の人間を見ることなく、絶えず復活なさったイエス様を見上げていたから、刑務所においても絶えず、喜び、感謝することができたのです。彼らは、囚われの身から解放された後、テサロニケに行き、そこでも同じように、喜びと感謝を持って、イエス様を宣べ伝えたのです。

ここで3つのことを考えましょうか。まず、パウロはテサロニケでいかなる働きをしたか。2番目、福音はテサロニケでどのような影響を及ぼしたか。3番目、テサロニケにおける迫害の原因はいったいなんだったのでしょうか?

使徒行伝の17章1節を見ると、パウロの一行がテサロニケにあるユダヤ人の会堂に行ったことがわかります。パウロはそこで旧約聖書に基づいて、彼らユダヤ人と論じ合いました。旧約聖書は、パウロにとって最高の権威でした。パウロはイエス様によって捕らえられたものとして、人間が聖書についてどう思うか、じゃなくて、反対に、聖書が人間になんと言っているかということが非常に大切であることを強調しました。

聖書が絶対の権威を持っていると信じないものは、もちろん、聖書について話す権利を持っていない。パウロは福音の中心となる一番、大切なこと、すなわち、イエス様が苦難を受け、死人の中からよみがえった事実を説明しました。そのときパウロは自分が復活したイエス様を見、御声を聞いたことをつぶさに、話して聞かせたのです。そして、イエス様の復活は、イエス様がメシアであり、約束された救い主であることを証明した事実に他ならないことをも、論証したのです。

しかし、社会問題や政治の問題に立ち入ることはせず、ただ、十字架につけられ、復活なさったイエス様だけを語ったんです。また、イエス様こそ、聖書で約束され、イスラエルの民が長い間、待っていた救い主であり、すべての主であることを説明したのであります。従って、福音の中心というものは決して、倫理、道徳の教義ではなく、イエス様がなされた御業と、それが今日、持っている意義にほかならない。

次に、この福音がテサロニケにおいていかなる影響を及ぼしたか。使徒行伝17章の4節を見ると、その中には信心深いギリシャ人が多数あり、信者になった貴婦人たちも少なくなかったことが分かります。また、単にユダヤ人のみならず、異邦人もイエス様を信じたのです。しかし、5節を見るとそのために、迫害が、暴動が起こったことも分かります。

したがって福音は二重の、あるいは、二面的な効果を持った影響を及ぼしたと言うことができます。その一方においてはイエス様を信じ、受け入れた者があり、他方において、それを拒み、迫害や暴動を起こす結果を招いたのです。

すなわち、一方においては、主のことばを聞いて、それを信じ、全く新しい者に造り変えられることが起こるわけです。そのときまで、主に対して目くらであった罪人たちが、みことばを信じ、イエス様を受け入れることによって、イエス様に従う新たな決意を持つように導かれたのです。

私たちも、この大いなる主の力に徹頭徹尾、拠り頼み、信頼しようではないでしょうか。そうする者は大いなる主の奇蹟を体験することができます。テサロニケにおいては、このようにしてイエス様を信じたユダヤ人もギリシヤ人もイエス様にあって、ひとつのものとなったのです。けれども、ユダヤ人が異邦人といっしょになるなどということは、以前にはとっても考えられないことでした。

イエス様によって統一とひとつのからだなる教会が生まれたのです。ローマ書1章16節に書いてます。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、すなわち異邦人にも、全て信じる者に、救いを得させる神の力であると、パウロはユダヤ人として告白しました。

したがって福音は決して教えではなく、神の力です。救いを得させる神の力そのものです。この力をユダヤ人もギリシヤ人も、全て信じる者は共通に体験することができたのです。かつては憎み合い、軽蔑しあっていたユダヤ人と異邦人がイエス様を信じた今は、お互いにひとつになり、交わりを持つことができるようになったのです。

けれども、福音は全ての人に対する神の力じゃない。イエス様を信ずる者にとってのみ、神の力です。福音はユダヤ人の死んだ信仰を取り除き、異邦人をむなしい試みから解放したのです。イエスさまのみが、イエス様を信ずるユダヤ人と異邦人の目標と中心になったのです。組織と結びつくことではなく、聖霊によってひとつになることが実現されたのです。イエス様のいのちが、彼らの中に生き生きと、脈打っておりましたがゆえに、ひとつの生き生きとした体なる教会になることができたのです。

ところが、イエス様が啓示されるところではどこでも、必ず悪魔の攻撃が試みられます。悪魔の働きと攻撃とを感じなければ、自分の信仰は主の前にあまり役に立たないものなのではないでしょうか。

最後に、迫害の原因とは何だったのでしょうか。使徒行伝17章の6節、「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます、」とあります。これこそパウロに反対する要素のひとつの点だったようです。福音の宣べ伝えられているところでは、人の心が動かされるものです。罪の赦しを体験した者は、正しい望みを持つことができるようになるのです。イエス様を知っている者は、かつて、人生のむなしさを感じていた状態から解放され、はっきりとしたひとつの目的を持つことができるようにされたのです。

福音によって、ひとつの革命が引き起こされました。そして、この革命が、永遠の滅びから救われるためにはどうしても必要なものです。

告訴の第一の点は、パウロたちが、イエスという別の王がいるなどと言っていることでありました。しかしながら、この点こそ福音の中心です。すなわち、本当の王はローマの皇帝ではなく、イエス・キリストであるという、ことこそまさに福音の中心をなすものです。主イエス様は天においても、地においても、全ての権威がわたしに与えられていると言うことができたのです。

イエス様は今日でも全宇宙を支配しておられる方です。テサロニケにおいても、信者も未信者も、友も敵も、全ての人が、イエスが王であることを、知るようになりました。そして、この証しの事実こそ、テサロニケにおける小さな集会の存在にかかっていたのです。

異邦の地において神と敵対している者が大ぜいいる真ん中に、イエス様を愛し、忠実に従う兄弟姉妹が建てられ、そこからいのちと光とが出ていたのです。今日も私たちの周囲は、その当時、テサロニケにおいて見られたと同じような状態にあるのではないでしょうか。けれども、今日も神のみことばが、人の心を新しく造り変え、悪魔の奴隷から解放して、神の子供にしてくださる力を持っているのです。

神のことばは事実、神の力であり、奇蹟を行なう力です。私たちはこの神のことばに対して自分の心を開くのでしょうか。それとも閉じるのでしょうか。私たちが心の平安とまことの喜びを持つことができるか、それとも、望みなく、永遠の滅びに沈んでいくかということです。けれども、われわれ自身の心の態度にかかっている。ただイエス様だけが王であり、イエス様以外に王はいないと確信をもって、また、喜びをもって言うことができる者は本当に幸いなのではないでしょうか。

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